陸軍軍医正(せい)の藤井氏と東京音楽学校助教授の環(たまき)女史との離婚が、新聞紙の上で趣味の相違から生じた離婚だとか、陸軍と芸術との衝突だとか大袈裟(おおげさ)に報道せられ、これについて諸先生方の御批評なども見えております。陸軍と芸術とがもし衝突致すものなら、只今(ただいま)の我国の有様ではとても筆や楽器は鉄砲に叶(かな)いませんから、素直に鉄砲に屈従して離婚沙汰(ざた)などには立至らずに納まりそうなものでしたが、どういうものでしょうか。
また趣味の相違が原因だと決(きめ)る前に、その趣味とはどんなものか、それを質(ただ)す必要があるかと存じます。湯屋の三助(さんすけ)や床屋の小僧でも今日盛んに使う「趣味」という語(ことば)と同じ意味の趣味ならば余りありがたくもないものであるし、音楽学校の先生であるからと申して一概に芸術の真の趣味が解っていると断じかねる場合もありましょう。新聞記者の目には水死の女が必ず皆美人に見えるという得(とく)な事もあるのですから、音楽学校の先生といえば皆芸術の趣味を理解せられたいわゆる「芸術家」と見えぬとも限りません。
また趣味の相違というと、双方に何らかの趣味があってそれが衝突したようにも聞えますが、今の陸軍の高い位地にいられる多数の方方(かたがた)に果して趣味――円満な教育を受けた文明人の理解する趣味と申すようなものがありましょうか。私は先ずそれを観察の鋭敏な新聞記者の皆様から承わりたいと存じます。藤井氏は陸軍軍医正、環(たまき)女史は音楽学校助教授、二氏の職業はかように明白ですが、二氏が趣味の人であるかどうかと申す事が明白でない以上、この離婚が趣味の衝突に起因したとは肯(うべなわ)れません。
私は陸軍と衝突するほどに我国の芸術が強い力を出すようになるならば面白かろうと存じて、そういう盛(さかん)な時節の到来せん事を祈っております。また社会に地位ある男女が趣味の相違から離婚するというような事が起るならば、それも文明国にして初めて見られる事柄であって、むしろ日本の家庭の進歩したために生ずる行き違いであると考えたいので御座います。しかし我国の今日の有様ではまだ容易に陸軍軍医正たる藤井氏の趣味が其処(そこ)まで進んでいるとは想像致しかねます。これは新聞記者たる方方のもっと深い観察を煩さねばなりません。
離婚という事を一概に罪悪のように考える人のあるのはどうでしょうか。離婚をして双方幸福の生涯に入った人も少(すくな)くないと存じます。そういう場合には社会はその人たちの離婚を賀しても宜(よろ)しいでしょう。また夫婦という者はあながち幸福ばかりを打算して一緒になっておられるものでなく、そういう打算や道徳や義理や、聖人の教や、乃至(ないし)神様の語(ことば)などを十分知り抜いてしかもそれを超越した処に、どうしても双方の気分が喰違(くいちが)って面白くないという場合もあるのですから、其処に至っては合議の上で離婚するのが正当の処置であろうと存じます。
私は気の毒に感じます事は、教育界の諸先生がこういう事件に出会(であわ)れる度(たび)に、心にもない世間受(うけ)の好(い)い事をいわれたり、また正直に自分の不明を告白せられたり致す事です。『朝日新聞』に出た諸先生の御説を拝見しますと、女子音楽学校長の山田源一郎(やまだげんいちろう)先生は「既に一個の家庭を持った以上はやはり夫唱婦和でなければ成立って行かぬであろう」と申されましたが、今の世の中に男も女も人形のような者でない以上、この夫唱婦和という子供の飯事(ままごと)みたいな手緩(てぬる)い生気のない家庭は作れまいかと存じます。
夫唱婦和などと申す事は男の方が自分の都合のいいように設けられた教で、根が女を対等に見ぬ未開野蛮のあさましい思想から出ております。片方(かたっぽう)の都合のいいように途中で設けられた道徳以上に、私どもは人の心が完全に発展して行けば必ず其処に達せねばならぬというものを土台にした道徳に由(よ)って安住致したい。もし夫唱婦和が人の本性(ほんしょう)に基いたものであるなら、諾冊二尊(だくさつにそん)が天(あめ)の御柱(みはしら)の廻り直しもなさらないでしょうし、また畏多(おそれおお)い事ながら教育勅語の中に「夫婦相和し」と夫婦の対等を御認めにもならなかったでしょう。山田氏などの教育家の御説が正しいものならば、教育勅語にも「夫唱婦和し」と仰せらるべきはずです。
昔には夫唱婦和で表面(うわべ)だけにせよ家庭が治(おさま)った御治世もありましたから当時の道徳としてはそれで好(よ)かったかも知れませんが、婦人の目が開(あ)き掛けて男と対等の地位を自覚しようとする今日に、まだそのような未開野蛮時代の道徳で婦人を圧(おさ)え附けようとする教育家諸先生の頭脳(あたま)の古風なのに驚かねばなりません。道徳は教育家ばかりの私するものでないのですから、その古風な頭脳のみで御判断なされずに、今の世の識者の意見を遍(あまね)く参照して、文明人が安心して実行する事の出来るもっと堅固な、もっと立派な道徳を教育家自身が先ず体得して、それを以って水が低きにつく如く無理のない自然な教育をなされてはどうでしょうか。私どもからかような事を申上げるのは教育家の頭脳がまだ十八世紀以前に固定しているからであって、諸先生のために甚だ惜まねばなりません。
婦人がかような正しい道理を教育家に対して申上るようになったのは、今の婦人が生意気なからでもなく、澆季(ぎょうき)の世になったのだといって御歎息なされる訳もありません。文明の結果教育の結果は必ず婦人の目が開(あ)いて此処(ここ)に到るべきものなのです。もしこれが悪いと致せば教育を普及せられた諸先生の方が悪いという事になりましょう。
常日頃(つねひごろ)私は今の女子教育がまだまだ真の文明教育の趣意に遠(とおざ)かっていると思っております。女子大学などと申す立派な名義の学校まで出来ながら、多数の生徒は何を習っているかといえば、良妻賢母主義の倫理と家政科と言う割烹(にたき)の御稽古(おけいこ)とが主になっております。教育家の考では自分が教育家となるために学問をして教育界の事の外には何も他の社会が解らず、使途(つかいみち)のない人間になって一生を送られる如くに、一切の女を良妻賢母ばかりに仕立上(あげ)る御積(おつもり)でしょうが、生憎(あいにく)な事には、女は妻となり母となる前に娘という華やかな若い時代があります。良妻賢母教育の前に先ず「令嬢教育」というものを何故(なぜ)施されないのか。女に早く年を寄らせようという主義の教育は無粋(ぶすい)というよりむしろ惨酷でしょう。令嬢教育即(すなわ)ち娘として世に立つ大切な年頃の教育を主として授けず、御門違(おかどちがい)な人の妻となり母となった後の教育を一足飛(いっそくとび)に授けて置いて、女学生の不品行問題などが起ると責任を女学生に帰せられるのは甚しい不道理です。近頃の問題に上(のぼ)った小林氏の令嬢などは私から見れば娘としての教育が不完全であったためだと存じます。もし今の教育家の立場から見れば、祖父の如き田中伯爵に嫁して進んで老伯爵のために良妻賢母となろうとするのはむしろこれを褒(ほ)めるのが当然でしょう。
家庭において、社交において、男女交際において、一人前の娘として恥しからぬ娘を仕立てる事は良妻賢母主義の教育に比べて遙(はるか)に優っており、かつまた急務だと存じます。一人の夫や両人の舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)や自分の生んだ子供に対する心掛などは、その場に臨めば大抵の女に自然会得が出来るものです。また割烹(にたき)の法とか育児法とか申す事位は、台所で母や下女(げじょ)と相談したり、出入の医者に聞いたり、一、二冊の簡便な書物を読んだりしても解る事です。かような事を倫理だとか学問だとか申して高等な学校で教えるのは馬鹿げていると私は常に考えております。
目が開(あ)きかけた今の若い婦人は、今の教育家の教などに屈従するほどに柔順(すなお)でありませんから、学校でこそ教師の前で良妻賢母主義に甘んじたような顔附を致しておりますけれど、教師が学校内にばかり閉籠(とじこも)っているのと違(ちが)い、若い婦人は学校の門を一足出れば直ぐに「娘」としての自由な天地に遊んで、自身で新代の令嬢教育を不完全ながら試みております。学校では賢母良妻主義だけの教育を授かっているにかかわらず、今の家庭になお多数の娘らしい娘を見受けるのは、学校外の社交の経験や、教科書以外に古今の文学書などを読んで自ら教育した結果に相違ありません。教育家が学校にばかり閉籠って世の中を見ずにいると、その教育はかように空疎な物になってしまいます。
仮に夫唱婦和が昔の道徳の保存として好(よ)い事であるとしても、今の多数の男子は夫として妻に対し何を唱えるでしょう。学校時代の教師の教にさえ内心では十分に服せぬ娘が、妻となりましたからといって夫の言葉を一一(いちいち)御無理御尤(ごもっとも)と和するほどに今の教育は女を愚に致してはないはずです。さすれば夫たる者の唱える所は妻を心服せしめるだけの準備が是非必要であると存じます。今の多数の男子は勿論婦人に比べて数倍の学問も智慧(ちえ)もありましょう。けれども完全なる「人」としての教養はどうでしょうか。私は良妻賢母主義に対して男子にも良夫賢父主義とでもいう教育を授けてはどうかと揶揄(やゆ)せられた或人の議論を一理あると考えます位に、多数の男子は今以(もっ)て妻に対する心掛が野蛮であると存じます。
それならば少数の男子――社会において人としての教養を最(もっとも)多く積んでいられるらしい男子の方はどうかと申すと、その例には女子教育家であって度度(たびたび)女子問題に御説を出(いだ)される三輪田元道(みわたもとみち)先生などを引くのが都合が宜しいと存じます。先生は今の教育家として御立派な方(かた)でしょうが、近年夫人が御亡(おなく)なりになって間もなく再婚を致された際の先生の御話を雑誌で拝見した時に私は厭(いや)な気持が致しました。先生の再婚の理由として「小供らの教育を托(たく)する人を得て冥途(めいど)の妻の心を喜ばすために後の妻を貰(もら)ったのである」という意味の事を述べられていましたが、教育家という諸先生はこうまで自分の心をも社会をも欺いて嘘を吐(つ)かれる者か。もしまたこれが嘘でなければ教育家ほど物の分別の附かれぬ者はないと私は少からず驚きました。こういう男子の相手としては如何にも益々(ますます)柔順なる良妻が必要かも知れませんが、その偽善や不道理を一一御尤と和している婦人は今後益(ますま)すなくなる事でしょう。
この三輪田先生が環(たまき)女史の離婚を評して「二人の職業から来る趣味の差別などは夫婦としての情愛に一毫(いちごう)も加うる所がないはずでなければならぬ」と申されましたが、夫婦の情愛というものが水の上の油のように別になって「人」のする百般の事柄と何の関係(かかわり)もないと考えていられるのは余(あまり)に浅浅(あさあさ)しくはありますまいか。男女の愛情がそう単純なものならば古来恋愛から起った悲劇があれほど沢山にないはずです。先生はまた女は或程度まで自己の職業より来る趣味は捨てても良人(おっと)のそれと迎合し同化するというようにせねば到底円滑には立行かぬといわれましたが、これはやはり「夫唱婦和」の間違った御考であって、良人の説に迎合せよなどと強(し)いるのは教育勅語の「夫婦相和し」の御趣旨が徹底しておらぬ証拠で御座います。こういう態度で男子が妻に臨みますから家庭はかえって円滑に治らないのだと存じます。もし妻が対等の位地からこれと同様な事を夫に強いて、今の教育は自分の趣味と合わぬから教育家たる事を止めて欲しいと申したならば、三輪田学士は直ぐに快く妻の心に迎合して教師生活を捨てられるでしょうか。夫婦が対等の位地で互に尊敬し自然に相和して行かれるような立派な道徳の上に家庭を作る事を教えないのは未開野蛮の遺風です。
この先生はまた趣味をば捨てられるもののように思っていられます。趣味というものが好(よ)く解っておらぬためでしょうが、これは辞表を出してしまえば倫理の先生が明日から帳場に坐(すわ)れるといったようなものではありません。学問でも芸術でも宗教でも恋愛でも、それが人格と同化してしまって、芸術が自分か、自分が芸術か分らぬほど面白くなれば、それらの各々(おのおの)の趣味が最も高い程度に達しているものだと私は心得ます。既に人格と全く一緒になっておる趣味がどうして捨て得られましょう。それから趣味が人格を形造(かたちづく)るほどに高くなれば、甲と乙と趣味の種類が違っていても双方互にその趣味を尊敬し合うようになってその間に調和が出来るものです。それが夫婦の場合ならば必ずその趣味に由(よっ)て相和して行かれるものだと、私は自分の経験から堅く信じております。もし世評のように環女史と藤井氏との離婚が趣味の相違に原因しておりますならば、両氏の趣味が其処まで高くなかったか、あるいは両氏のどちらかに趣味が欠けていたのであろうと想います。言換(いいかえ)れば両氏の人格の修養が不完全であったのでしょう。人格の相違は女を良人が屈従させ得た時代ならば知らぬ事、多少でも教育を受けた今日の男女間では離婚の結果に立ちいたるのが至当(あたりまえ)であろうと存じます。これはつまり結婚前の選択が粗漏であって双方の人格を尊重し合わなかったのが悪いので、それはまた今の教育が単に学校を卒業した男子と、時世遅れの良妻賢母主義に合う女子とを作る事にのみ急で、肝腎(かんじん)の「人格を完備した男女」を作る事を忘れ、人格を尊重し合うべき事を息子(むすこ)のため娘のために教えて置かぬ罪に帰せねばなりません。
この問題について男の教育家は揃(そろ)いも揃って「夫唱婦和」主義で環女史を批難していられるのに、東洋婦人会長の清藤秋子(きよふじあきこ)女史はなかなか面白い事をいわれました。「男の方(かた)に自由選択の権利ある現在の状態では夫婦になって始めてその妻に不満を抱(いだ)きこれを虐待するなどという事は、取(とり)も直さず自分を辱(はずか)しめるものではありませんか。」これは尤もな御説だと存じます。如何にも一般の家庭では男子の権利がまだ偏(かたよ)って強い今日、男が微弱な妻を圧服する事は容易でありそうなものですのに、妻に逃(にげ)を打たれるというのは男の敗北として恥ずべき一大事でしょう。藤井軍医正の場合は陸軍と音楽との衝突でなく、陸軍が女に負けたとも申すべきでありませんか。
秋子女史はまた「某実業家は常常子弟に向い、世に処して成功しようと思うには女房に惚(ほ)れなくては不可(いか)んと言われたそうですが、誠に味(あじわ)うべき言葉で、気に食わぬ点はなるべく寛大に見て、自分の妻以外世間に女はないというほどに取扱ってこそ家庭は円満に参るものだろうかと存じます」といわれました。これは反対に男を柔順にして妻に服従させようという意気込が見えて、女史の内心を包まず語られたのが気持の宜しい事です。しかし男子の非道に反抗してこういう逆襲の態度に出(い)でる事は暴を以て相酬(あいむく)いるので、本本(もともと)互に謙遜し、互に尊敬し協和して男女各自の天分を全くすべき真理に悖(もとっ)ておりますから、一方を服従させようというのでなく、服従するなら互に真理の前に服従し得(う)る立派な人格を養って後に結婚するのが大切でしょう。
離婚は悲しむべき事で或場合には罪悪と名(なづ)けても可(よ)いと考えますが、また或場合には罪悪から逃(のが)れる正当な手段と見る事も出来ますから、十分その真相を調べた上でなければ是非の判断は困(むずか)しい。現に藤井女史の離婚は新聞紙の報道や教育家諸先生の御意見だけを伺ったのでは何とも申しかねます。これは近頃専(もっぱ)ら事実を尊ばれる小説家の微妙な観察に由(よっ)て委(くわ)しく描写して戴(いただ)いたならば明白になるかも知れません。藤井氏の場合に限らず、離婚という面白からぬ事件はこの後追追(おいおい)殖(ふ)えて行くでしょう。学校教育と家庭とが全き人間を作る事を忘れて、畸形(かたわ)な賢母良妻主義や夫唱婦和説を固守している間はやむをえない現象だと存じます。
三輪田学士はまた「環女史の離婚は何か女史の方から進んで請求したように伝えられてあるが、果して然(しか)りとすれば飛(とん)でもない心得違である」といわれましたが、これは弘化(こうか)年度に生れて今まで存在(ながらえ)ている老人(としより)の言草(いいぐさ)のように聞えます。離婚は講和(こうわ)でなく戦争です。宣戦の布告を先に出すという事は双方の自由であって、先に出した方が勝利に帰する例も少くない如く、離婚の場合にも都合の好い事かも知れません。離婚は笑って出来る事でなく互に気拙(きまず)くなって致す事ですから、既に離婚せねばならぬ状態に立到った以上その場合にまで夫唱婦和を強いるのは実際の人情に通ぜぬ迂濶(うかつ)な御考です。昔の歴史を見ましても后(きさき)の方から御離別を申し出(い)でられた例(ためし)はしばしば御座いますけれど、それが御歴代の御聖徳に影響しているとは思われません。石之姫(いわのひめ)が筒木宮(つつきのみや)に怒(おこ)って籠(こも)られ、帝(みかど)をして手を合さんばかりに詫言(わびごと)を申さしめ給いし例などは随分烈(はげ)しい事ですが、それが仁徳(にんとく)帝の御徳を煩(わずらわ)しているでもなく、帝は現に今の教育家の倫理の御本尊になっておられます。かような手続の前後(あとさき)にまで目角(めかど)を立てられる教育家の不心得の方がよほど怪(け)しからん事かと存じます。枝葉の事を弥聒(やかま)しくいわれるよりは、忌(いま)わしい離婚沙汰などを出(いだ)さぬように今の教育を根本から改めて、自(おのずか)ら夫婦相和して行かれる完全な人格を作る事を心掛け、教育家自身の迂濶と怠慢とを鞭撻(べんたつ)せらるるように希望致します。
今の家庭や学校教育が頼みにならぬとすれば、若い女子自身が各々自分の「娘」時代を尊重して我手で立派な人格を修養せられる事が何より大切な急務だと思います。浅薄(あさはか)な表面(うわべ)の装飾や衒(てら)いでなく、全人格を挙げて立派に装飾し、それを女子の誇とするように力(つと)めねばなりません。美しい衣服を著るにも、読書をするにも、文学や美術を嗜(たしな)むにも、常に立派な娘に成る、完全な人間に成るという心掛が必要です。かような自尊自負の心ある女子が軽軽しく他の誘惑に陥る訳もなく、離婚沙汰を惹起(ひきおこ)すような結婚を致す訳もなく、社交や処世において不都合を仕出かす訳もなく、夫に対しては貞淑な妻、子に対しては賢明な母と成り得るに違いありません。『更級日記(さらしなにっき)』の著者は、東国の田舎(いなか)にいた娘の時代から文学書を読んで、どうか女に生れた上は『源氏物語』の夕顔(ゆうがお)や浮舟(うきふね)のような美しい女になって少時(しばらく)でも光源氏(ひかるげんじ)のような情(なさけ)ある男に思われたいと、専らその心掛で身を修め、終(つい)に都に上(のぼ)って『狭衣(さごろも)』の如き小説を書くに到りました。今の若い女子にこれ位の自負もないのは口惜しゅう御座います。光源氏の恋人になろうと申すのと、拙(つたな)い絵や音楽に騙(だまさ)れて、沢山の女学生や夫人までが輒(たやす)く電小僧(いなずまこぞう)の情婦になるのとは大変な相違です。
(『東京二六新聞』一九〇九年四月八―一一日)
底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年8月16日初版発行
1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「一隅より」金尾文淵堂
1911(明治44)年7月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
ファイル作成:野口英司
2002年1月10日公開
2003年5月18日修正
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