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婦人指導者への抗議(ふじんしどうしゃへのこうぎ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-22 10:45:47  点击:  切换到繁體中文


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 廃物利用奨励の愚挙であることはかつて別に述べましたが、贈答や送迎の廃止に熱中される婦人たちに対しても、その事の徒労であるのを私は気の毒に思います。贈答にはおのずから限度があります。昔から贈答に由って家を亡し産を破ったという例を聞きません。それが物質的理由で出来なくなれば、各自が気が附いて止めずに置かない性質のものです。飲酒の害と同一に言われないものです。私は酒さえも絶対に禁じることに反対しています。贈答の弊害や浪費を注意するのは好いに違いありませんが、贈答や送迎を単に金銭や時間の利害ばかりで批判するのは、愛や趣味のような大切な人間性の発揚を無視した野蛮な行為です。動物や自然人には贈答や送迎の必要がないかも知れませんが、こういう功利主義以上の感情生活を撥無はつむして何処どこに文化人の生活があり得るでしょうか。私はそれらの婦人たちが進んで芸術の無用をさえ説かれるに到ることを怖れます。
 世の中には、功利主義的の打算ばかりで生きて行かれない事もありませんから、買物帳をきちょうめんに附けたり、食べる物も食べず、自分と良人と子供との営養を削り取ってまで貯金の殖えることを楽みにして、唯だ口先ばかりで愛とか趣味とかを説き、他人の吉事に祝の品も贈らず、時々の音信に添えて珍しい物の贈答もせねば、他人の旅行に送迎を廃するというような日送りも、それでその人たちの感情が満足される限り、その人たち自身の処世法としては自由であると思いますが、それを印刷物や手紙やで私たちにまで勧告されるに到っては迷惑千万だといわねばなりません。そのような非人情的な運動に、他人の感触を害してまで力瘤ちからこぶを入れられる必要が何処にあるでしょうか。私は敢てそれを無駄なことだと断言します、私たちは経済的の打算ばかりで生きるには余りに自己の尊貴を知り過ぎました。

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 私は、指導者側の婦人たちが自身を先ず一切の因習から解放することの運動――自己改造の運動――を経ないで置いて、言い換れば、自分自身は旧世界の遺物である物質主義、功利主義、常識主義の汚染を洗い落さずに置いて、この破天荒な世界改造の新時代、あらゆる価値の顛倒てんとうしつつある今日に、未来の生活方向の指導者として、私たち一般の婦人に、その時代錯誤の各種の運動を試みられることの矛盾を反省して頂きたいために、以上の直言を敢てしました。
 それらの各種の運動が一時のお祭騒ぎでなく、如何に真面目まじめに熱心に起されても、文化主義の理想と一致する所がなければ、文化主義から絶縁し孤立した一種の遊戯行動であって、いずれも文化運動の体系には属さないものになってしまいます。私たちにはそれがあらずもがなの行為に見えます。そうしてそれらの無用乃至ないし有害な運動に、あたら精力を消耗される先輩婦人たちの徒労を惜みます。露骨にいえば、それらの低級な常識的、物質的、功利的の運動のみに忙しく暮される婦人たちは、どうしてそんな非文化的行動の中に生き甲斐を求められるのであろうかと不思議に思います。

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 左右田博士は「文化主義の論理」という論文の中で「あるいはあるがままの状態に妥協をなして惰眠をむさぼらんとする保守主義、退嬰たいえい主義、凡俗主義、常識主義、乃至ないし好都合主義や……単に物質的成功を以て文化に対する貢献なりと誤解し、煩瑣はんさなる形式生活に追随するのみを知って人生の意義を解するを忘れたる物質主義素町人主義は皆排せざるべからず」といい、また「われらは道義のためにのみ生くるのではない。われらは常識の民としてのみ生くるのではない。いわんやわれらはいわゆる成功せんがためにのみ生くるのではない。われらは文化の帰趨きすうちょうせんとして文化価値の実現を努むる人格として生きんとするのである」といって、文化生活の水準に登らない孤立無理想の生活を批難されましたが、最近の婦人運動には、この厳粛なる批難の前に撤廃するか、もしくは開眼を施すか、いずれかの勇断を要するものが多いように思います。

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 もしそれらの先輩婦人たちが早く文化生活の意義に通じておられたならば、その一々の社会的行動は、文化価値実現の理想を標準として批判され取捨されて、残るものはすべて文化運動の体系につながることが出来たでしょう。のみならず、現在の日本において、同じ文化運動でも、その本末と、軽重と急不急との序次を考察して、大局に関係するものを先とし、局部的なものを後廻しにするだけの用意があったでしょう。
 しかるに、未来の生活理想に自覚を欠いた先輩婦人たちは、すべて因習に妥協し現状を維持する気分の中に、大した煩悶はんもんもなく住んで、名は改造といっても、その実際は何物も破壊せず、何物も創造せず、在来の範囲で単に無用の「置き換え」を試みて、それを婦人の活動と曲解されているに過ぎないのです。従って、その運動は前に挙げたような物質主義、功利主義、非人格主義の軽躁膚浅な行動に停滞しています。それらの婦人たちは、工場婦人の倫理問題、衛生問題、労働時間制限問題、賃銀値上げ問題、夜業禁止問題等についても、また国際労働会議における日本の婦人労働顧問の人選などについても、何らの動く所がありません。労働者の同盟罷工や怠業が如何に起ろうとも、信友会の印刷女工たちが如何に炊き出しをして組合の同盟罷工に活動していようとも、それらの事件に対して全く同情も声援を与えられません。有産と無産の階級闘争は既に我国にも爆発の端を示していますのに、それに対して何らの調節運動も促進運動も試みられません。それについて意見の発表さえもないのです。また町村会初め帝国議会に到るまでの政治機関から婦人を拒んでいることの不法を正すために、第一の必要である治安警察法第五条の撤廃と、婦人の参政権をも認容した普通選挙の要求の如き緊要な問題についても、それらの先輩婦人たちは全く冷淡に看過されています。また教育の方面でも、小中学より大学及び各種の専門学校に到るまでの男女の共学の問題の如きは、ここにならべた諸問題と併せて、男子と平等に文化生活の構成分子たる婦人の看過してはならないものだと考えるのですが、どの婦人運動にたずさわっている婦人たちも、文化生活の基本であるこれらの問題について新しい運動を起される気振けぶりさえありません。私たちはそれらの先輩婦人たちが虚礼廃止とか、廃物利用とか、混食や代用食の実行とかについて、私たち婦人のために最大級の激励を払われるのを見て、時には腹立たしくさえ感じることがあります。
 以上、いろいろと失礼なことを述べました。私はそれをお詫びすると共に、「婦人運動に理想あれ」という希望の言葉を以ってこの感想を結びます。(一九二〇年二月)

(『雄弁』一九二〇年一月)





底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「女人創造」白水社
   1920(大正9)年5月初版発行
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2003年5月18日修正
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