自室から出ましてね、廊下の向うの隅に腰を掛けて車丁に、
『わたしは巴里へ行くのよ。』
と云ひました。
『ええ、奥様。』
と笑ひながら頤の先に髯のある車丁は笑つてましたよ。一昨日までの露西亜人、今朝迄の独逸人とは比べものにならないやうな優しい車丁ですよ。四時に巴里へ着くことに決つて居ても、巴里が終点であることが解つて居てもやつぱしね、すうと巴里を抜け通つてしまつて、地中海の海岸まで伴れて行かれやあしないかと思ふんでせうね、心配なんでせうね。
廊下の大きい硝子窓の向うには、ばたばたと血を落して、汽車の行くのと反対の方へ飛んで行く何かのあるやうに雛罌粟が咲いて居るんです、国境からはもうずうつとかうなの。矢車草もあるんですよ。
ノオルド・エキスプレスは綺麗な汽車なんですよ。かう云ふ厚硝子張りの一等車ばかりがつながつてるんですものね。それにわたしのやうな、昨日からあと二日位食事はしないで置かうと、必要上考へなければならなかつたやうな女が乗つてるんですものね、可笑しいわけですわねえ。
わたしの卓の上にはまだ化粧品や何かがしまはれずに置いてあるのですわ、暇つぶしがなくなつては困りますからね。書物なんかはもう皆片附けてしまつたのです。書物と云つてもね、太抵もう西部利亜の間で三四度も読んだもので、もう味の薄くつまらないものになつたものばかしでしたもの。
わたしは又席へ帰つて来て、随分沢山な荷物だと思つて、頭の上から足の廻りを見廻しましたよ。
川が見え出しましたの、岸の低いねえ、一寸手を伸してもしやぶしやぶと水なぶりが出来さうな川。向うの堤には小枝の多い円い形の木が並んで居ましたよ。かなりいろんな船が居りますのよ。隅田川の半分くらゐの川だけれど。甲板の黄色く塗つたのや、赤い色の沢山使はれたのや、紫がかつた黒い船やとかねえ。人も随分乗つて遊んでるの、向う岸の処々には船と同じやうな美くしい色をした小家があるんです。その向うがずうと薄お納戸色にぼけた街の家並なんでせう。一番向うは空の下を低い山が這つて居るのでせう。山は代赭と緑の絵の具を無茶になすり附けたやうな色。一番冷い色をしたのが間にある街なんでせう。ですからね、却て向うの方が水の流れて居る川のやうなのです。
わたしは前の川をセエヌ川かしらと思ひました。又さうぢやなからうと思ひました。わたしはもう地図なんか出して見られやあしない。わたしの手はもうぶるぶると慄えて居ます。何が出来ますものですかねえ。
川が見えなくなつたり、その川と思ふやうな水を渡つたり、さうかと思ふとまた以前と同じ方角に同じやうな川があつたり、細くてそして房々とした枝の木が多いそんな林を通つたり、崖と崖の間を通つたりして居るうちに、石ばかりで出来上つたやうな小都市の上を通つて行くのでしたわ。お墓のやうな気のする清い街だと思ひましてね、私はまた思はず廊下へ出ましたの、四五人も窓から外を見てましたわ。此方側の方はその綺麗な家の壁などとすれすれに[#「に」は底本では脱落]なつて行くのでした。[#「。」は底本では脱落]青い羽蒲団を窓へ出して居る娘さんや、はたきを肩にかついだやうな形のままで立つて居た女中なんかとわたしも真近に顔を合せましたわ。
それから一時程経ちました。汽車がもう巴里の停車場の構内に入つて行くらしい。大きな機関車の壊れたのを見るやうな停車場のかかりだとわたしは思つてました。けれど、けれどまだなかなか長いのです。
『奥様、巴里ですよ。』
『ええ。』
わたしは自室から飛び出したわ。車丁は棚からわたしの荷物を下し初めたでせう、きつとね。もういよいよ汽車が止りさうなので昇降口まで出て行きました。
日本人が一人居りました。けれど知らない人です。頑丈な風の髭のある。わたしの良人より少し老けたやうな人でした。わたしはもう良人が何処か其処等に来て居るに違ひないと思ひましたわ。わたしはこの人が誰であるかと云ふ判断を早くしたくて仕方がない。良人の居る家の直ぐ隣においでになるのは桜井さんと云ふ京都の画家で、非常な美男でいらつしやるつて良人はよく手紙に書いてよこしましたがねえ、良人はわたしがさうした綺麗な顔の人が好き、さう云ふ人の噂が好きで居るもんですから、いいかげんな嘘を云つて来て居たので、この人が真実の桜井さんなんだらうとわたしは思つたんですわ。丁度わたしが其方の前まで行つた時に汽車は死んでしまひました。脈の早いわたしの身体に此べてさう思ふんですわ。
『君、此処ですよ、此処ですよ。』
とその方は右の手を上げた。そしたら薄紺の服に変りチヨツキを着た人が走つて来ました。良人ぢやありません。横浜から神戸へ行く船で顔馴染になつた長谷部と云ふ画家なんです。良人が前へ来た。
わたしは何時のまにかプラツトホオムへ降りて居ました。良人は綺麗な顔になつて居ました。
『…………。』
良人の云ふことがよく耳に入りませんでした。
『あなたは櫻井さんでいらつしやいますか。』
『いいえ、わたしは福永です。』
わたしはそれより前に長谷部さんと挨拶をしました。
『僕の宿のルイさんだ。』
と云つて、良人は美くしい人に紹介をしてくれました。それからその方の伴の方にもねえ。
車丁はわたしの室の窓から荷物を皆良人と長谷部さんなどに渡してくれましたよ。赤帽が二人で上手にそれを皆持ちましたよ。皆一緒に歩き出しました。わたしは仏蘭西の巴里へ来たと云ふよりも、日本人の居る国へ来たと云ふ気で居るんですね。
『わたしね、都合のいい寝台が御座いませんでね、一等車に乗り替へたんで御座いますよ。』
かうぢやなかつた。良人にものを云ふのはかうした言葉づかひではないんだけれどとわたしの心では思つてるんです。
『わたしはお金をそんなに持つて居らなかつたんで御座います。』
どうしてもわたしの口は云はうとする言葉でない言葉をばかり出しました。
『どうしたらいいかと存じましてね。』
わたしは口がこはばる病になつたやうな不自由さを感じました。露西亜人や独逸人の中に居てもこんな苦しい胸を掻きむしりたいやうな気はしませんでしたよ。
どうやらかうやら私は昨日の心配と、それを助けてくれた英国人の話とを良人にしました。
『ふうむ、ふうむ。』
とばかり良人は云つてましたが、わたしはそれでもう安心をしました。
わたしの姿が珍しいもの怪しいものと思はれて居るだらうと時々は感じるのですが、さうでない時は日本の何処かの端へ着いたやうな気で私は居るんでせうね。
わたし達は手荷物を受取る処へ行きました。自身さへ無事に行ければあんなものなどはどうでもいいのだと思つて居た二つの鞄が直ぐ目の前へ運ばれて来ましたよ。綱で縛られてねえ。わたしはわたし、鞄は鞄で別れ別れに心細い旅をして来たと云ふやうな悲しい気がしましたわ。大きな鞄を開けましてね、三つ四つの懸子の一つ一つに美くしい衣服の入つてあるのを見ましてね、税を取らうと云ふ風を見せる人達に、灰色の髪の女がよくおしやべりをしますこと。
わたしのはルイさんが説明したので直ぐ通りましたよ。
自動車が雇はれましてね、わたし達日本人が四人乗りました。ルイさん達は外へ廻るんですつて。
向うの角に軒が張り出してあつて、いい形に反つた椅子が沢山並べてあつて、男や女がその店に沢山居る家がありましたよ。わたしが恐る恐る巴里と云ふ都に目を向けたこれが初めです。
『奥さん、えらいですね、あなたわ。』
長谷部さんです。こんなことを向ひ合つてる私に云ふのは。
『さうぢやありませんわ。』
わたしは福永さんとももう親しい言葉を交して居ました。
『昨日からわたし何も食べないんですよ。』
わたしは誰に云ふともなしに。
『さうか。』
と云つて、良人はじつとわたしの顔を眺めました。
『でも別に食べたくなんかありませんわ。あなた。』
初めて云へましたの、すらすらと良人にね。
小雨のあとのしんみりと湿つた土を踏んで行くやうな気持を覚えさせられて、わたしは街を通つて居ましたよ。
十分位でもうクトルマツセ町へ来たのかして、自動車が止りました。古着屋の店の前でねえ。
『此処。』
『ああ。』
良人は誰よりも先に飛んで降りました。
古着屋の隣の門に、群青地に白の二十一と云ふ番地のしるしが出て居ましたよ。
荷物などは自身で持つて行かなければならないものと見えてね、一つの鞄を持つて良人は門の中の敷石の道を奥へ行きましたよ。長谷部さんもねえ。良人が二度目のをまた持つて行く。福永さんもねえ。わたしも悪いので信玄袋を持たうと思ひましたけれど、大きくつて重くつてねえ。
わたしは何も持たずに入つて行つたわ。
奥の正面にまた門はあるんですが、左の低い枝折戸のやうな木の庭口の附いたのがルイさんの家らしいんです。戸口の前に荷物が皆置かれてましたよ。
アカシヤの木があつて、その向うは低い平家で、後はまた高い青葉の木でした。アカシヤの枝の下には草の花がいつぱい咲いて居ました。良人が鞄を何度にも運んで行く間わたしは其処で立つて居なければなりませんでしたわ。その時分にわたしはもう直ぐ前の一階の出窓に居る白いものを着た女二人に眺められて居ました。美くしい人の横から棕梠竹の葉が少し見えましたのよ。顔を外したわたしは其方にもまた四五人の若い女がわたしを見て居るのに気が附いたんですよ。平家の入口近くへ皆椅子を持つて来て見て居るのです。
わたしはもう驚いてしまつた。窓の二人もやや暗い室内に居る人も勝れた美くしい人達ばかりだつた。夢の中の人のやうだつた。窓の女の目は殊に大きいからさう云ふ気がするのか知らないけれど。阿片と云ふものの心地よい酔と云ふものはこんなものであらうかと云ふやうな気がわたしにして来ましたよ。わたしはね西洋へ来て居ることだの、巴里だのとは全く忘れてしまつた、あのね、遊仙窟とか紅棲夢[#「紅棲夢」はママ]とかの本の中へ入つて来たと云ふ気がしたんですよ。
この家は入口の石の段が七八つありましたよ。けれど梯子段の処は暗くて綺麗ではなかつた。
『マリイ、マリイ。』
と呼び続けに云つて良人は梯子を上つたり下りたりして居りましたよ。
『君はもう廃してくれ給へ、身体がまだ真実になつてないんだから、よしてくれ給へ。君、君、いけませんよ。』
何方かの人に良人はかう云つてましたわ。わたしはうつらうつらとした気で木の梯子段を二段上りましたよ。鼠色の観音開きになつた部屋の戸と、唯だの扉の入口とが鍵の手になつてある処に長谷部さんは立つていらつしつた。其処の廊下の突当りにも扉がありましたよ。
『マリイ、マリイ。』
良人は女中に鍵が預けてあるんでせう。
『こちら、そちら。』
二つの入口を指ざしてわたしは長谷部さんにかうたづねました。
『此方ですよ、奥様。』
と大きい方を教へて下さいました。
良人が来て手に持つた鍵を戸に当てました。わたしはまた俄に我に帰つたやうになつて泣き出したい気がしました。
何処かで小鳥が啼いて居ました。
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