「お帰り。道は淋しかつたらうね。」
「月夜ですもの提灯は持たないでもいいし。」
久吉が暗い台所から持ち出して来た盆からは餓ゑたお幸に涙を零させる程の力のある甘い匂ひが立つて居ました。お幸は弟の好意を其儘受けて物も云はずその焼芋を食べてしまひました。久吉はお茶の用意もしてくれました。
「私が作つたものだもの、そんなに甘味しければ毎晩でもお食べよ。」
母親はじつと娘を見ながらかう云ひました。
「母様がお作りになつたからおいしいのよ。」
「なんの、おまへ自身で作つて御覧、もつとおいしいよ。」
お幸はこの時ふと母の労力を無駄使ひをさせたと云ふやうな済まない気のすることを覚えました。
「私が持つて行く。」
皮の載つた盆を下げようとする久吉をかう留めてお幸は自身で台所へ行きました。
「母さん、暗くて見えませんけれど、何かして置く用が此処にありませんか。」
お幸はやや大きい声でかう云ひました。
「姉さんは元気が出たね。」
と久吉が云ひました。
「何も用はないよ。」
「母さん、母さん、僕は云つてしまひますよ。姉さんはね、中村さんで晩の御飯を食べさせて貰はないのだつて、他の女中が意地わるをするのだつて、中村さんの音作がすつかり僕に云つてくれましたよ。母さん、もう姉さんを中村さんへ手伝ひに遣るのをよしなさいよ。」
弟の母に語るのをお幸はじつと台所で聞いて居ました。
「お幸や、さうなのかえ。」
「ええ。」
お幸は目に涙を溜めて灯の下へ出て来ました。お近は袖口をくけかけて居た仕事をずつと向うへ押しやりました。
「何故黙つて居ました。自身の身体のことを自身で思はないでどうするお幸。」
「はい。私は外の仕事の見つかるまでと思つて辛抱して居ましたけれど。」
「外の仕事つて。」
「私今晩帰り途で大津の郵便局の郵便脚夫の見習に十五以上の男を募集すると云ふ貼紙を見ましたから、母さん、私は男の姿になつて髪なんかも切つて雇はれに行かうかしらと云ふやうなことも考へて来たのです。」
とお幸は思ひ切つて云ひました。
「おまへにそんな働きが出来ますか。」
「私はよく歩きますし、丈夫ですし。」
「それだけの理由で郵便屋さんにならうと言ふの。」
「いゝえ。私は世の中の手助けになる仕事ですからして見たいのです。」
「今の仕事は。」
「女中と云ふものが主人の家に大勢居ることは一層お金持を怠惰者にするだけのもので、世の中の為めにはならないと私は気が附きました。さうぢやないでせうか。」
「それはさうかも知れない。」
「私は自分の出来ることの中で一番いい仕事をしなければならないと思ひます。」
「十五になると大分理屈が解るね。」
お近はかう云つて久吉の方を見ました。
「姉さんはえらいや。僕なんかは学校を出たら百姓になるのが一番いいことだと思つて居た。」
と久吉は云ひました。
「お幸は百姓をどう思ふの。」
「まだそれは考へません。」
「それを考へないことがあるものですか。母様が若し間違つたことをして居たらおまへは注意をしてくれなければならないぢやないの。母様のして居ることは百姓ですよ。私は世の中へ迷惑をかけないで暮して行くと云ふことが世の中の為めだと思つて居るよ。自身で食べる物を作つて私は自分やおまへ達の着物を織つて居ます。自分の出来ないものは仕事の賃金に代へて貰つて来ると云ふこの暮しやうが私には先づ一番間違ひのない暮しやうだと思つて居るよ。」
お近のこの話をお幸は両手を膝の上で組合せてうやうやしく聞いて居ましたが。顔を上げて、
「母さん、田や畑はもう少し余計に貸して貰へるのですか。」と言ひました。
「小作人が少くて困つて居るのですもの、貸して呉れますとも。」
「髪を切つてお芝居のやうなことをするよりも私のすることは、母様、あつたのですよ。」
「何のことですか。」
「野仕事です。百姓です。」
「さうかね。おまへが郵便局へ行きたいと云ふから、私は男になつたりなどしないで、局長に逢つて女の儘で、採用つて貰ふことを一生懸命ですればいいと思つて居たよ。私には百姓がいいと云つただけで、おまへを百姓にしようと思つて居るのぢやないよ。」とお近は言ひました。
「姉さん百姓におなりよ。三人で百姓をすると決めませうよ。」と久吉は云ふのでした。
「私は何でも出来ますが百姓でも出来ます。」
「それではなつて見るがいいよ。ねえお幸、今日角造さんに聞くと三本松の家を山仁さんはまた堺の商人へ売るさうだよ。私はそれがいいと思つて居るよ。おまへ達は知らないがそれはそれは無駄に広い家なんだからね。あれを真実に人間仲間の役に立てようと思ふなら大勢の使ふものにしなければならないのだからね。堺へ持つて行つて幾つかの家に分けて拵へたらいいだらうよ。併し建物に立派な宝物になる価値のあるものは別だけれど。」とお近は云ひました。
「さうなつたらあの丘へ自由に上れますね。いいなあ。」と久吉は云ひました。三人は幸福であることを感じて居ました。
●表記について
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