お幸の家は石津村で一番の旧家でそして昔は大地主であつた為めに、明治の維新後に百姓が名字を拵へる時にも、沢山の田と云ふ意味で太田と附けたと云はれて居ました。それだのに祖父の時に自身が社長をして居た晒木綿の会社の破綻から一時に三分の二以上の財産を失ひ、それから続いてその祖父が亡くなり、代つて家長になつたお幸の父はまだやつと二十歳になつたばかりの青年であつた為め、番頭の悪手段にかゝつて財産を殆ど総て他へ奪はれてしまつたのでした。喜一郎と云つた其お幸の父も、お幸とお幸より三つ歳下の長男の久吉がまだ幼少な時に肺病に罹つて二年余りも煩つて歿くなりました。其時分にもう太田の家は石津川の向ひの稲荷の森の横の今の所へ移つて来て居ました。自家に所有権のあつた其沢山の田に取巻かれた三本松の丘の家は、今では村の晒問屋の山仁の別荘になつて居ることもお幸兄第にはお伽噺の中の一つの事実くらゐにしか思はれないのでした。お幸は強い性質の子でした。丘の三本松は好い形であると眺めることはあつても、感情的な弱い涙をそれに注がうとはしませんでした。この春高等小学校を卒業してからお幸は母が少しばかりの田畑を作ることゝ手仕事で自分達を養つて居るのを心苦しく思ひまして、自身の友であつた中村おつると云ふ人の親の家へ通ひ女中になつて行つて居ました。中村の家も亦晒問屋でした。お幸が中村家の手伝ひをするやうになつてからもう五月程になるのですがこの最近の四五日程苦しい思ひをさせられたことはありませんでした。お幸に親切な心を持つて居たおつるが九月の新学期から大阪の某女学校へ入る事になつて其地の親戚の家へ行つてしまつたことはお幸の為めに少なからぬ打撃と云はねばなりません。中村家には意地の悪い女中が二人居ました。お幸が通ひで夜遅くなつてからの用をしないのが二人には不平でならないことだつたのでせうが、おつるの居る間は目に見える程の迫害はしませんでした。中村家のお内儀さんは病身でしたから台所のことなどは二人の女中が切つて廻して居るのでした。お幸のしなければならない用事が無暗に殖えて来て自然お内儀さんの部屋へ行くことが少くなると、其処へはまた外の用をどつさりお幸に押し附けた女中の一人が行つて、お嬢様が見ていらつしやらないと思つて用事を疎かにすると云ふやうな告口がされて居ました。家へ帰つて家の用事をする人に夜分の食事はさせないでもいゝと云ふやうな無茶な理屈を拵へて、下男と下女が一緒に食べる夜の食卓にお幸の席を作つてやらないやうなことを二人の女中は仕初めました。家へ帰つて更に食事をすると云ふことは母親に済まないことのやうにお幸は思はれるものですから、昼の食事を少し余計目に食べて我慢をしようとすればまた二人の意地悪女はそれも口穢く罵りました。今日で丁度五日の間お幸は日に二食で過ごして来ました。
お幸は中村家の裏口を出てほつと息を吐きました。
「何か別のことを考へなくては。」
お幸は思はず独言をしました。其処には轡虫が沢山啼いて居ました。前側は黒く続いた中村家の納屋で、あの向うが屋根より高く穂を上げた黍の畑になつて居ます。お幸は黍がこんなに大きくなつてからはつひ人かと思ふことが多くて、歩き馴れた道も無気味でした。中村家の母家の陰になつて居た月は河原へ出ると目の醒めるやうな光をお幸に浴びせかけました。水も砂原もきら/\と銀色に光つて居ました。川下の方に村の真実の橋はあつて、お幸の今渡つて行くのは中村家の人と、此処へ出入する者の為めに懸けられてある細い細い板橋です。鳴り出した西念寺の十時の鐘の第一音に弾き出されるやうにお幸は橋を渡つてしまひました。一町程行くと右に文珠様の堂があります。お堂は白い壁の塀で囲まれて居ます。白壁には名灸やら堺の街の呉服屋やら雇人口入所の広告やら何時でも貼られて居るのです。
「おや、こんなものがある、」
お幸はその中に新しい貼紙の一つあるのを見出したのです。それは大津の郵便局で郵便配達見習を募集するものでした。
「学歴は小学校卒業程度の者だつて、十五歳以上の男子つて、まあそんなに小くてもいゝのかしら、日給は三十五銭。」
お幸はこんなことを口で言ひながら二三分間その貼紙の前で立つて居ました。
「男ぢやないから仕方がない。」
暫くの間お幸は前よりも早足ですた/\と道を歩いて居ましたがまた何時の間にか足先に力の入らぬ歩きやうをするやうになりました。魔の目のやうな秋の月はお幸のやうな常識に富んだ少女をも空想な頭にせずには置きませんでした。
「馬鹿な。」
と思ひ出したやうに云つた後でもお幸の空想は大きく延びるばかりでした。お幸は髪を切つて男装をして大津の郵便局へ雇はれて行かうかとそんなことを思つて居るのです。母さんが承知をしないかも知れない、かう思ふとお幸の目には、そつと髪を切らうとして居る所へ母親が現て来て、あの小楠公の自殺を諌めたやうなことを、母親が切物を持つた手を抑へながら云ふやうな光景が見えて来ました。そして駄目だと思ひました。
「けれども」
お幸はまた最初の考へに戻つて、大津は此処から云へば三里も隔つて居ない所だけれども、泉南泉北と郡が別れて居て村の人などはめつたに往来しない。何方かと云へば海の仕事をする人と工場の多い大津と云ふ街をこの村の人は異端視して居るのだ。だから私が其処で男に化けて郵便脚夫をしても誰も気の附く人はあるまい。自分の働きで自分の食べて行くのは一緒でも今の女中奉公よりその方がどんなにいいか知れない。お金持の奴隷になる訓練を受けてそれが私の何にならう、私はもう断然と外の仕事に移つてしまふのだ。さうしなければならないのだ。私は工女の境遇がつまらないのであることは知つて居る。それにはなりたくないと思つて居る。郵便脚夫は資本のある人に虐待される女工などゝは違つて、お国の人が一緒になつて暮すのに是非廻さなければならない一つの器械を廻すやうなことをするものなのだ。人間仲間の手助けを立派にするものなので、男装して男名にして私は早速郵便配達夫の見習ひに行かう。真実にそれはいいことだとお幸は思ふのでした。
何時の間にかお幸はもう稲荷の森へ入つて来て居ました。虫の声が遠くなつて此処では梟が頻りに啼いて居ます。
「久ちやん。」
お幸はいつものやうに弟へ帰つた合図の声を掛けました。古い戸のがたがたと開けられる音がしました。
「姉さん。」
久吉は草履を突掛けてばたばたと外へ走つて来ました。
「姉さんに云ふことがあるよ。」
「どうしたの、母様は。」
お幸の胸は烈しく轟きました。
「母さんのことぢやないよ。姉さんに云ふことがあるつて云つてるのぢやないの。」
「ぢやなあに。」
お幸は弟の肩へ手を掛けて優しく云ひました。
「姉さん今日はお芋が焼いてあるよ。」
「そんなこと。」
「だつて姉さんはお腹が空いて居るのぢやないか、僕知つてるよ。」
久吉は恨めしさうでした。
「誰に聞いたの。」
「中村さんの音作さんに聞いたよ。今夜だつて食べさせないだらうつて。姉さんはもう我慢が出来まいつて。」
「あなた、母さんに話して、そのこと。」
「いいえ。けれどお芋は母さんに云つて焼いたのだからいいよ。」
「さう、ありがたうよ。久ちやん。」
「早く行かう姉さん。」
久吉に袖を引かれた時に、お幸は郵便配達夫になることを此処で弟と相談して見ようと思つて居たことを思ひ出しましたが、其儘なつかしい母の顔のある家の中に入つて行きました。
二人の母親のお近は頼まれ物の筒袖の着物へ綿を入れた所でした。
「唯今、母様、こんな遅くまでよくまあお仕事。」
とお幸は口早に云ひました。
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