片隅にありて耳をば澄すなりめしひの如き水色の壺
室の一隅に水色をした陶器の壺が置かれてある。じつと耳を澄して常人の耳にはまだ入らない音をも聞かうとして居る。敏感なそしてうす無味の悪い盲目の人の座つた姿が思はれる壺であると云ふ歌。何となく寒気を覚える程確実に物が掴んである。
行く水の上に書きたる夢なれど我が力には消しがたきかな
行く水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけりと云ふ古今集の歌の意を受けて、さうした無駄な思ひかは知らぬが、自分の意志の力ではこの空想を壊してしまふことは出来ないと歎いた歌で、恋歌とせずに、他から見ては突飛な希望と云ふやうなものを胸に畳んでゐることを云つたものと解釈して置く方が妥当なやうである。
銀泥の帯を仄かに引きて去る杉生の底の一すぢの川
箱根の歌である。箱根へは何度となく遊んだ作者であるが、この時の吟行は大正十年かと記憶する。塔の沢と底倉で各一泊したのであつた。強羅から宮の下へ下つて来て見た早川の景色かと思ふ。両岸の杉山の中に銀泥を
刷いた帯をほのかに引いて進んで行く川を作者は美くしいと眺めたのである。四月の初めで春雨も降つてゐた日のささ濁りした流れであつた。
洞門の出口にわれを待つ友がたそがれに吹く青き鳥笛
是れは同じ時に塔の沢から湯本の玉簾の滝を見に出かけた途中で、洞門の出口に友人の西村伊作氏が背を寄せて、土産物店で買つて来た笛を吹いて居たのであつた。
黄昏れて行く山の中の寂しさがよく現れて居ると思ふ。
然かも秋でも冬でもない時の寂しさが見える。青いと音の感じを云つた言葉と、我れを待つと云ふ友情とでしめやかな春を伝へてゐるのである。
桃色の明りの中に白を著て少女の如く走しりくる船
白を著てと云ふ所まで読んで、しののめの空の下を来る少女を云ふ歌かと思ふと、さうでなく、そんな風にして白い色の船が此方へ来ると云ふのである。速力の早い小舟が生き生きとした力を現して出て来たのである。夏の歌かと思はれる。
懲らしめて肉を打ちつつ過ちて魂をさへ砕きつるかな
放埒であつた前日の非を
贖へとばかり極端に自己を
呵責して、身に出来るだけの禁欲を続けて来たことは誤りであつた。肉体に加へた罰から精神までも哀れに萎縮してしまつた。是れは全く予期せぬことであつたと作者は云ふ。
寂しさよこの頃おつる髪を見て作り笑ひもことにこそよれ
寂しい事実である。何がさうかと云ふと、額の方を広くばかりして抜け落ちて行く髪の毛を目に見て、滑稽だなどとも云つて人に笑つて見せて居る自分が情けなく寂しいのである。心にもなく人に笑つて見せることはあつても是れは余りであつて、自分を醜くするこのことに反省がされると云ふ歌。
はしたなく縁の取れたる鏡などあらはに見ゆる我が家の秋
縁が無くなつて裏もはげた中身だけの醜い感じのする鏡、其れがうら寒い秋にうら寒いものの目に附き易くて自分を
傷ましめることの多い此頃であると云ふのである。
女達鏡の間より裾引きてまどに寄るなり秋の夜の月
鏡の間はベルサイユ宮殿の一室の鏡で張りつめた間のことである。大広間の一つになつて居て、窓は広い森に向いて開かれてゐる。是れは鏡の間の方から隣の部屋へ今出て来た皆夜会服の裾を長く引いた貴女達で、其の人達はこの間の広い窓の傍へ寄り、秋の夜の月の明るい庭を眺めるのであつたと云つてある。ルイ十三四世の頃の宮廷の光景を描いて居るのであつて、漢詩の宮詞と云ふやうなものである。沈香亭の北の欄干に倚つて牡丹を見て居た楊貴姫は牡丹の花と同じやうに想像され、このルイ朝の貴女達は秋の月のやうな麗人であることを思はしめる。
曇る空波のしろきを前にして網を打つなり真裸の人
曇つた空が上にあつて、下の海には白い波が立つてゐる。この風景を前にして裸体の人が網を打つて居ると云つてあるが、壮重な感じは一漁夫が立つて居るとする方にあるが、私は漁夫が幾人も居ると見る方がよいと思ふ。其れをこの言葉だけで表現し足りないとは思はない。裸男の大勢の力が集められて居ても大海や空に比べては小さいものであらうから。
木立みな十字にとがり太陽も十字に光る冬枯の上
どの木も十字に見え、それに
射す太陽の光も十字の形に落ちて来るとより見えない、寂しい冬枯の日の園の景色。
象の背の菩薩の如く群青と白の絵の具の古び行く秋
象の背に乗つて居る
普賢菩薩の古い仏画のやうに、秋は白であつて群青色であつて、そして日日その仏画のやうに古く錆びが附て行くと云ふのであつて、作者が思つて居る普賢の像の著衣は青色の鉱物性の顔料で描かれたものであつて、顔には厚く胡粉が重ねられてあるのであらう。其れのみならず初めから灰色を塗られた象の姿も作者の目に映つて居る
筈である。更け行く秋を作者はこんな風に見た。
一切に背を向けながら入る如き甘さを感ず劇場の口
芝居の入口に達した時の心もちに、是れで一時的にもせよ世間と断たれた世界へ身を置くことになると云ふ満足がある。気に入らぬ一切の物に背を向けて遺ることの出来る快感を感じるのはこの時であると
仄かながらも覚えると云ふ歌。
かの隅になにがし立ちて叫べども振る手のみ見ゆ群衆の上
一方の隅に名士の某が立ち高い声を放つて演説をしてゐるやうであるが、何も
聞えるものでない、大衆の居る上に振る手だけが滑稽に見えるだけであると云ふのであるが、議論をする事を嫌つた後年の作者は、さうしたものは皆無用な精力の浪費であると云つて、若い人は創作をのみ熱心にすべきであると説いて居た其の心もちと取るべきである。
拳を打つ二人の男たやすげにすべてを拒む形するかな
拳と云ふものを目に見ない人には
一寸解り難い歌かも知れぬ。手の指を種種な形にして相手と
亘り合ふのであるが、其の中に二つの手を前向けに立てて突出す形がある。指の二三本で変つた形をして居る時よりもこの時の形が派手で目に附き易い。形は物を拒否する姿になつてゐる。あの男のやうに安易に
総ての物を否定する意志を示すことが出来れば痛快であらうと作者は横から見たのである。自分は世間に対して二つの手を前向けに立てて見せられぬのが残念であると云ふ歌。確か桜の咲く頃に石井柏亭氏などと一所に江戸川の川甚と云ふ
旗亭へ入つた時に、向うの方の座敷では拳を打つて居て、其れを
此方からでは丁度手の先きだけが見えて面白いと云ふ歌も、この作者にある。
必ずと云ふ約束をたやすげにかはして別るうら若き人
永久の愛の誓ひを初めとして二年三年の後の約束も若い人達は平気でするが、其れは実行の出来難い物である事を、過去の経験からよく知つて居る自分である。自分も以前にやすやすとした約束が一つとして果されたものはない。諸君は今に自分のやうな苦い悔いばかりを味はねばならないであらうと云つて、若い人を
警める心よりは、単純であり得た自己の青春を限りも無くなつがしがつて居る歌だと私は見て居る。
やはらかに海に入らんとする山を磯にささへて白き城かな
伊太利亜にてと云ふ端書きがある。伊太利亜を私は見ないのであるが、作者の歌つた所は南方の伊太利亜で、柔い岬の山が地中海に伸びて終らうとする所に白いシヤトウが立つてゐて、山の線を止めた形に見えたやうである。
我れも行く春の銀座の灯のもとを巴里の宵の人中として
銀座の春の灯が連つた所を自分も行く。
然し此処へ集つて来る他の人達と心もちに於て少し異つてゐるのである。自分の足は現在を享楽して運ぶ歩でなく過去を追つて居るのである。巴里の夜のグランブルバアルの人波を分けて行く
味ひを是れから得ようとして居ると云ふのである。
ここにして夜毎に逢ふと語る時銀座通を新居格の行く
此の頁に並んでゐるのは何れも軽い調子の歌である。銀座の夜に三四人が
然か語つて居る時に、噂の主の新居格氏が前の舗道を通つて行つた。
カフエエより扇形して春の夜の銀座の雪を照らすともし火
銀座の雪の上へ家の入口の灯の明りが末広がりに扇の形をして
射して居ると云ふのであるが、
唯だの家とは内容の異つたカフエエの灯であることで、内の濃彩と外の淡彩で好い諧調が構成されてゐるやうに思はれる。早春の雪に違ひない。作者はカフエエの中から見てゐることは云ふまでもない。
若きむれ酔ひて歌へば片側の卓にある身もおもしろきかな
作者と片隅の卓へ一所に倚つて居る人達を云ふのでなく、彼方此方に一団一団になつて居る若い連中があるのである。酔つて歌ひ出すまでにも其の人達の歓語が耳を喜ばせて居た。
なほ注げと低き声しぬ誰れ待ちて隅の卓なる白きうなじぞ
「もう一つ」と女は低い声で云つて、ギヤルソンに卓上の
杯を指して居た。この時刻に此処で逢ふ約束の人を待ちかねて居る様子が、顔を外へ見せぬやうにして俯向いた美くしい白い頸附きに見える。と云つて作者は待たれる男の幸福に多少の羨望を感じて居ることも見せた歌である。是れは銀座にゐて遠い巴里と古い記臆を幻に描いた作である。言葉を
態と省略して頸の形だけを云つて女の気もちを其れに托してある。
君により初めて明日の歌を聞く凍れる中の春のおとづれ
吉田精一氏の歌集春の口笛の序に詠まれた歌の一つである。この作者に
由つて自分は初めて未来の世界を見ることが出来、明日の詩を聞くことが出来た。自分達の周囲は今
総て
凍て附いてしまつてゐる。こんな時に春の訪れを持つて来てくれた歌集であるから嬉しいと云ふのであつて、集の名の笛を離れずに所信が叙べられてある。
にはかにも松を通して朱をながす夕日の中の街道の雨
夏の変調な天気らしい。東海道の藤沢辺の街道を少し奥へ入つた家から作者は見て居るやうである。古い並木の松であるから大木が列をなしてゐて、足柄辺りへ入る日が赤い夕焼を作つてゐる空が背景になつて居る。この街道の上に今雨が降つて居るのである。相当に
烈しい雨らしく思はれる。
何故と世に問ふことを忘れたるうつろの心しづかなるかな
自分が何故に無視されてゐなければならぬかを世間に対して問つてやりたい心持ちも、何時となくどうでも好い気になつた、従つて憎みも悲みも忘れた今の心境は静かである。この空虚は愛すべきものであると云ふ歌。もとより是れは作者自身だけが空虚と呼んでゐる空虚なのである。
うきことは思はぬ如く馳せながら薔薇を散らしぬ曲馬の女
人間である以上、
然かもあの境遇にゐる以上持つてゐない
筈のない悲みを忘れたやうに感じないやうに馬上から薔薇の花を撒いて居る曲馬乗りの女よと云つてある。是れも作者は日本で見た曲馬ではなく、郷愁を抱きながら巴里の旅先で見た曲馬らしい。
その中に白き孔雀の誇りもて長く引きたる夕ごろもかな
仏蘭西座の廊下を往来する貴婦人達の中の特に目立つ一人を作者は歌つたのであるが、そんな場所でなく、或る大邸宅の夜会場で思ふ人が誰れよりも素ばらしく、白い衣装を著けて現れて来たやうな解釈が出来ないこともない。作者が巴里に居た頃の女の夜の服は四五尺も裾を引くのが多かつた。白い孔雀が鳥の王のやうな誇りを持つて居るのと、其の人の外へ現れた自尊心に共通なものがあつたのである。
我が筆もミケランゼロの鑿のごと著くるところに人をあらはせ
巨匠ミケランゼロの鑿の当てられるものは岩も木も生命のある人になつたと云ふが、自分の筆もさうでありたい。一度び書かうとすれば遺憾なく万象が詩になるやうにありたいとかう作者は望んである。
いろいろの波斯のきれを切りはめて丘に掛けたる初夏の畑
松戸の高等園芸学校の花畑であらう。色彩の多い、そして直線が主になつて出来た模様のペルシヤの更紗の其れをまた種類も幾つも混ぜて、四角に、長方形に岡へ切りはめたやうに畑の見えたのも、時季が多様な花に満ちた初夏だからであつたであらう。
我が手もて捉ふることの難しとはなほ願くは知らであらまし
自分の力ではどんなに最善を尽くしても得られぬ望みであると云ふ自覚は永久に与へて欲しくない。何時までもこの空想を捨てたくないと云ふことが云はれてゐるのであつて、恋の歌と解釈が出来ないではないが、作者の比較的後年の作であるから、その外のことと見る方が妥当なやうに私は思ふ。
おほかたの目に見えざれば人知らじ心に祈り血を流せども
是れも恋歌めいては居るがさうではないと私には思はれる。普通の目で見ては自分ものんきな者に見えるであらう、芸術の道の精進の為めに心には血を流すほどの苦しみをして居るのであるがと解すべきである。
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