手ずれたる銀の箔をば見る如く疎らに光る猫柳かな
銀箔の押された屏風が古びて黒くなり、それがまた手擦れて所所の光るのを見るやうな落ちついた快さと同じものを早春の猫柳は見せてゐると云つてある。上白んだ猫柳の芽の銀色はいかにもさうとより思はれない。疎らに附いて居ると云ふのもなければならぬ説明である。
取らんとて逃ぐるを恐る美くしき手は美くしき小鳥なるべし
恋人の手を取らうとした刹那に、この自分の手が其処へ行くまでに飛び立つてしまはないであらうか、取返しの附かぬ失望を次の瞬間から自分は味はねばならないのではなからうかと恐れた。美くしい手と云ふ物は美くしい小鳥と同じ性質の物であつたからこんな思ひも自分にさせたのであると云ふのであつて、作者は単に手の美だけを云はうとしたのではない。どれ程現実の物以上に理想化してその恋人を思つて居るかを一端だけ云つて見せたのである。
薔薇の散る低き音にもわななきぬ恋の心は臆せると似る
二人で居る時の心境とも、一人で居る時の心もちとも思へるのであるが、私は作者の意は二人の方であらうと見る。
幽かな薔薇の花片の落る音が耳に入り、また相手も聞いたことを知つて居るのであるから、此の時は歓談も尽きて沈黙が二人を領して居たに違ひない。恋をする者は臆病者のやうに不安に慄かれる、今の幽かな音が相手の心を別な方へ向ける動機にはならなかつたであらうかと作者は怖れて居る。憐むべきやうではあるが実はこれも緊張した心の現れで臆病者と隣りしては居ても実質は違つてゐることも作者は知つてゐる。
地下室のくらき灯のもと椅子七つ秘密結社に似たる歌会
私もこの席の一人であつたやうに思はれるのであるが、何時何処の会とまでは明瞭に記憶しては居ない。例の小さい帖を
掌の上に載せて、口の中では句を練りつつ唱へて居た作者が、ふと目を上げて灯の暗いのに気が附いた時に、帝政時代の露西亜の小説によく書かれてあつた秘密結社を作る為めの寄り合ひのやうであると思つたのであらう。
寂してふ世の常に云ふ言の葉も君より聞けば一大事これ
何処にでも使はれて居る寂しいと云ふ言葉も、恋人の口から聞かされる場合にはどれ程の衝動を受けることか、其れこそ一大事出来と云はねばならない。こんなに深く愛して居てもなお不足を感ぜしめるのか、環境に欠陥があるのか、恋人に寂しいと云はせる理由は何かと急速度に反省がされると云ふものの相手が幾分甘く見られて居ることは歌の調子に見える。
堪へがたし思ひの火より救へよと我がよぶ時に君もまた呼ぶ
情熱の火に焼かれつつある堪へ切れない心を救つてくれと最後の悲鳴を上げた時に、同じ言葉が恋人の口からも叫ばれたと云ふのである。呼ぶと云ひ、悲鳴を上げると云つても他の世界へ向つてして居るのではなく、二人だけの世界に於てであることは云ふまでもない。これはこの作者持まへの綺麗な出来上りを避けて、
態と調子構はずに云つてある所などは前の歌の技巧とは正反対である。
溢るるは唯だにひと時おほかたは醜き石をあらはせる川
是れは象徴歌である。若若しい感情が豊富に胸から溢れ出して、良い芸術が幾つでもやすやすと出来上り、自らを満足させることは、雨後の出水時にだけ見ることの出来る山川の勢ひよさで、幾日も続くことではない。後は涸れて堅くなつた頭脳を苦苦しく思ふばかりである。石ばかりがごろごろとした醜い山の渓の其れのやうにと自嘲した意。
工場に汽笛は鳴れど我れを喚ぶ声にはあらず行く方も無し
作者はまたしよんぼりと街を歩いて行く。この時に近い工場で作業の初まる汽笛が鳴つた。
然し其れは自分に向つて呼びかけてくれたものではない。同じ道を今日まで同一方向に歩いて居た男女は、今の音のため皆多少の血の気を頬に上らせて居るが、相変らず何処へ行つてよいか目的無しに自分は歩くばかりであると云ふ歌。
知らぬ人われを譏ると聞くたびに昔は憎み今は寂しむ
自分をよく知らない人が自分を譏つて居る噂などを聞くと、昔はよく腹が立つたものであつた。今はそんな時にも怒る気にはならないで人生の寂しさをいよいよ深く思はせられるだけである。
くれなゐの秋のひと葉を手に載せぬ若返るべきまじなひのごと
真赤に染まつた紅葉の一片を自分は手に載せてゐる、大切に大切に思はれて長く捨て去ることが出来ない。かうして居れば青春が返つてくるまじなひかのやうにと云ふのであるが、葉は楓でなく柿の葉ではなく、其れよりは細くて優しい桜のもみじであるやうに思はれる。美くしいとは云つてないが、其れは十分に読者の胸へ伝へられてゐる。
わが機に上せて織れば寂しさも天衣の料となりぬべきかな
詩人である自分が心に摂取すれば、普通人には苦痛であるべき寂寥も勝れた創作を成就させる一分の用に立たせることが出来ると云ふのであつて、これには作者の自信が十分に盛られてある。
啼きに啼くあさまし長しかまびすし短き歌を知らぬ蝉かな
何と何時までも啼き続ける蝉であらう。何と云ふ饒舌な蝉であらう、やかましい、うるさい、彼等は自分等が僅かな三十一文字で複雑な感情を簡潔に余すなく述べるやうな技術を持たないのである。憐むべき蝉だと云つてある。蝉はそんなものであるが、その声を聞く作者の心には無駄な文字を多く費すだけで、効果の少い拙い長詩を作る人達を歯がゆく思ふ所があつたのであらう。
騒音は猶しのぶべし一やうに労働服を著たるさびしさ
これも象徴歌である。ソビエツトの都会を見たもののやうに云つてあるが、作者の意はあの下品な
騒しい物音まではまだ辛抱も出来るが、誰れ一人変つた服装をした者のない労働服ばかりの人の群を眺めて居なければならないことは実に不幸であると云つて、文学の平俗化、多衆化を悲しんでゐる。
憂きときは薔薇をば嗅ぎてうち振りぬ胸に十字を描く僧の如
悲しい気もちの起る時は薔薇を嗅いで、其れから薔薇の花を手で振つて見るのが自分の癖である。事に触れては天主の名を唱へて十字を胸に描く宗教家の如く、これは最も神聖な気分でしてゐることであると云ふ歌。薔薇であるために、恋人のことは云つてないがこの花を嗅いで、僧が神の幻を追ふやうに作者の思つて居るものは若い美くしい芳しいものの面影に違ひない。
エルナニの恋のうたげに恐しき死の角笛の響きくるかな
ユウゴウのエルナニと云ふ劇の演ぜられるのを私も一度故人と一所に仏蘭西座で見物した。作者は其れが好きで
猶何度か見たと云つてゐた。私は以前に小山内薫氏の訳で読んで筋を知て
[#「知て」はママ]ゐたから、この芝居は割合楽に見物することが出来た。故人もさうであつたであらう。エルナニは恋敵に或る不始末を見られた
贖ひとして、何時でも望みの時に命を遣らうと云ふ約束をしておいたが、大詰の城内の結婚式後の宴会の場で、命を望む時に吹かれることになつてゐる角笛の音がして来る、相抱いて恐怖に
慄く新郎新婦の前にやがてその老人が現れて来て、命を受取ると云ひ、二人は苦悶しながらも毒を飲んで死んで行くのであるが、西斑牙の昔ばかりでなく、かうした禍ひに我我の運命もしばしば脅かされることを作者は歎いてゐるのであつて、恋と云ふ言葉はあつても、其れは幸福と云ふのに代へてあるだけで恋の歌ではない。
磨かんとして砕けたるそののちは玉の屑ぞと云ふ人も無し
磨かうとして過つて砕いた玉に相違ないが是れが玉の屑であつて、小石ではないことを誰れも認めようとしない。曇つたままで置けば玉であることは疑はれなかつたであらうがと作者は思つて云つて居るらしいが、意地の悪い世間は必ずしもさうとは云はなかつたであらう。不幸な作者よ。
人の見て沙の塔とも云へよかしはかなき中に自らを立つ
好意を持たぬ人間から、是れは永久性のない沙の塔であると云はれても構はない。貧しい生活はしながらも独自の人生観を芸術に托して云はうと努める者は自分であると云ふ歌。
我が玄耳蘭を愛することをしぬ遠方びとを思ひ余りて
故人澁川玄耳氏が山東省の青島に居られた頃に、愛養の百種の蘭を写真にして送られた。玄耳子は愛人を東京に置いて行つて居られたのである。この場合の「我が」には我が親愛なると云ふ意が含められてある。「我が君」、「我が国」、「我が妻」も単に自分のと云ふだけではないのである。近来は「
吾子」と言葉を
無暗に使用する人もあるが、あれはまた「可愛いい子よ」と呼び掛ける言葉であつて、源氏の中の会話に「あが君」と云つてある所は殊更媚びて云ふ必要のある場合に限られてある。自尊心のある男女の会話には無い。調子が甘たれて「我が」とは別な意が出来たのである。さて作者は友の玄耳に深い同情を寄せて居る。蘭を此頃愛して居ると云ふのは、離れて住む情人が遣瀬なく恋しくなる時の心の慰めに過ぎない。蘭に気分を紛らせて居るのであると憐んでゐる。
穀倉の隅に息づく若き種子その待つ春を人間もまつ
今日は暗い穀物倉の隅に納められて居て、吐息をつきながらも来るべき春を待つ思ひに心の燃えて居る何かの生き生きした種子、其れと同じ心もちで未来の光明を待望する人間がある。尠くも自分はさうした人間であると作者は語つて居る。
幼な児が第一春と書ける文字太く跳ねたり今朝の世界に
是れは末女の藤子が或年の春の書初めに、
半切の白紙へ書いた字である。第も春も大人には不可能に思はれる勢ひで跳ねが出来て居た。作者はこの大胆さが嬉しかつたのである。自分等の新しい春はこの子に
由つて強められた。整然とした正月の朝の家が更らに活気づいたと喜んで居る。此処の世界は家の中を中心としたやや狭い意味。
止まりたる柱時計を巻きながらふと思ふこと天を蔑みせり
今まで止まつて居た柱の時計の
螺旋を巻きながらふと自分は大それた事を思つた。其れは自然の則も無視することの出来るやうな力が自分の内に充満してゐることを信じたのであつた。つまり時の流れなどは何んでもないのであると云ふやうな思ひがしたのである。
沈黙を氷とすれば我があるは今いと寒き高嶺ならまし
無言で居る境地を氷に
譬へるならば、今自分が居る所は氷雪に満ちた寒い高山の絶頂と云ふべきであると云つて、暗に認識不足な世間に対して、云ふべきを云はず黙して立つ者は、骨も削づられるばかりの冷寒の苦を味はつて居るのを云つて居るのであらう。
自らを恋に置くなりしら玉よ香る手箱にあれと云ひつつ
今や自分は恋愛三昧の人である。白玉にも
譬へたい自分の置場を、他の傷つき易い所に置きたくないからで
馥郁たる香を湛へて名利の外にある恋だけはよく自分を安らかならしめるであらうとかう定めて居ると云ふ意。
辻に立ち電車の旗を振る人もいしく振る日は楽しからまし
これはまだ交通の信号燈などの出来なかつた時代の東京の街上風景に得た感想である。水道橋とか、神保町とかの四つ角に立ち青旗、赤旗を振つて居る人は、みじめな仕事をして居ながらも旗の振りやうが思ひ通りに巧みに出来た場合は、自分等に良き創作の出来た時と変らない満足感があるであらうと云ふのであつて、高村光太郎氏の歌に
屋後切が巧みに門戸の閉りを切つた跡を見ると、是れも芸術であると云ふやうな気がされると云ふのがあつたのは、彫刻の刀を取られる同氏の作であるだけ、さうした巧みな物があつたのに誰れも気附かぬ美を発見して教へられたものとして私は記憶して居るが、是れは創作の楽みが其処に認められると歌はれて居るのである。
女みな流星よりもはかなげにわが世の介の目を過ぎにけん
西鶴の好色一代男の主人公(ここの「我が」は自分が愛して居るのではなく、作者の西鶴が愛して居ると云ふ意)が相手にした多くの女達はどれも空の流星の如く世の介の目に一時的な光を投げ得ただけの価値よりないものであつて、次次ぎに消えて行つたと取り為すべきであらう。彼れをして終生変らぬ執著を持たしめる女は無かつただけで、必ずしも世の介を軽薄と云ふべきでないと云つてある。作者の自己弁護が少しは混つてゐるかも知れない。
自らを愛づるこころに準らへてしら梅を嗅ぐ臘月の人
早く十二月に咲いた白梅の花の香を自分自身を賞美すると云ふのに近い気持ちで嗅いで居る。自分は白梅の清香に類したものを内に蔵して居るから殊更この花を愛すると云つて居るのであつて、人は作者自らである。
地の上に時を蔑みする何物も無きかと歎く草の青めば
この大地には自然が押しつけて約束したことに違背する勇気のあるものは何も無いのであらうか、とこんなことを自分は春になつて、毎年の例のやうに若草が青む時に思ふと云ふのであつて、何事かを起さないでは居られないやうな
鬱勃たる不平がこの歌には見える。
目を遣れば世の恋よりも何よりも燃えて待つなり片隅の薔薇
ふと室の一隅を見ると云ふ言葉で、その時まで作者は或る思ひに懊悩してゐたことが解る。其処には血の燃え立つ色を見せた薔薇の花があつた。世と云ふのは世の人間のと云ふ意である。其れは自分が対象にしてゐる恋人の生温るさには似ない熱意を見せて自分の近づくのを待つ薔薇ではないかと云ふのと同時に作者は溜息を
洩した。待つと云ふ言葉も逢ひたさを云ひ遣つた人の返事が思ふやうな物でなかつた為めに出た言葉ではあるまいか。何よりもはその外の一切の物よりもと云ふのであるが大して其れを強くは云つて居ない。
この国に呟くことをふと愧ぢぬ冬もめでたき瑠璃の空かな
日本に居て
猶不足がましく歎息などをしてゐる自分を見出して愧ぢた。冬と云ふのにこの冴えた瑠璃色の空はどうであらう。巴里の冬は毎日陰鬱に曇つて居たではないか、東方の恵まれた自然の中に居る自分ではないかと作者は思つたのである。
美くしき心を空に書きたれば明星は打つ金のピリウド
自分は夕方の大空を見て清い恋を思つて居た。美くしい言葉にして其れを青色の広い広い紙にも書く自分であつた。この時に出て来た明星は自分の文章に
黄金色の句点を打つたと云ふ歌。
わが額を鞭もて打つは誰がわざぞ見覚めて見れば手の上の書
ぴしりと自分の前額を打つ者があつた。誰れからこの
咎めを受けたのであるかと目を
醒して考へて見ると、其れは手の上に置いた書物から受けた譴責であつたと云ふのである。作者は全く眠つて居たのではない。夢を見て居たのでもない。瞑目して暫時自己を忘卻して居たのも、既にこの良き書から発せられた警告の為めであつた。是れに接するまでの愚かな自分を鞭打ちたく思つたのはもとより作者自身であつた。
大いなる傘に受くれば一しきり跳れる雨も快きかな
大きい傘の拡げられた刹那にばらばらと降りかかる雨が上に跳つてゐるやうな快感が覚えられた。雨も新味と変化とを喜ぶ自分達の心と同じであると云つてある。之れは夏の日の雨らしい。寒いことなどは思はれない。
世の隅に涼しき目をば一つ持ち静かにあらんことをのみ思ふ
善悪と美醜のけぢめに正しい判断力を備へた自分を守つて、世の表面などには出ず、人目につかぬ片隅で静かな存在としてあることが幸福であらうとばかりこの頃は
希はれる自分であると云ふ歌。
時の波絶えず寄せ来て人の身をはてなき沙に埋めんとする
止む間もなく押し寄せてくる時と云ふ波はこの世のどの人間をも寂しい死の沙に埋めようとして居る。こんな戦慄をする時のある作者であつた。私は作者が寂しい無色の沙へ永久に埋歿されたとは思はない。私が故人を思ふだけの心でさへ百彩の錦をなして居ると信じて居る。
猶しばし昨日の夢にかかはりぬ覚めぎはの目の甘くおもたく
忘れ去るべき人であると自分の理知が命ずる儘に違背しようとはして居らぬが、自分の感情の
殆ど全部はまだその恋が占めて居る。楽しい夢を見た良き朝の目の覚めぎはの気もちとも云ふやうな、半睡時の甘美さと重苦しさを感じる者は自分であると云ふのである。約束された覚醒が近づいて来るのを恐れて居るのでもないのである。相当に複雑な気もちがよくも短く表現が出来たものであると私は思ふ。昨日と云ふ言葉なども簡単に使つてあるのではない。
とばりより君覗くなり水色の矢車草を指にはさみて
自分が下を通つて行く時に窓のカアテンの間から恋人が外を覗いて居た。水色の矢車の花を指と指の間に狭みながらと云ふのであつて、是れは日本婦人の習慣に其れ程無く、異国の婦人には有り勝ちな媚態を作つて居たことが思はれる。巴里の宿の前の庭に矢車草の沢山咲いて居たこともこの歌から私は目に見えるやうに思はれる。
もろともに花をかざして若き日はまたなしとしも歎きつるかな
是れも同じ人を追想して出来たものらしい。花も矢車草であつたであらう。或ひは白いマアガレツトかも知れない。かざすと云ふ言葉は男が洋服の胸へさしたこともかう云つてよいのである。二人で同じ花を胸にさして若い日は去り易い、其れを知つて居る我等は燃ゆる火を内に抱いて相寄つて居るのではないか、罪であつても何であつても仕方が無いと話し合つたと云ふのである。歎くと云ふのは二人の恋の底に不安があるからである。其の場面には花園用の萠葱色のベンチがなくてはならない。
花園を隣にもてるここちしぬ匂へる君をいと近く見て
百花爛漫と咲いた花園の意味では恐らく無いであらうと思はれる。めざましい
眩い花園ではなく、人が
一寸主人に羨望の念を抱く程度の美くしい花園を隣にして住む家に居るやうな幸福感を自分は与へられて居る。其れはこの麗人と膝を並べて坐してゐるからであると云ふのである。
向日葵を一輪活けて幸ひのうちあふれたる青玉の壺
青玉の壺へ向日葵を一輪活けて見ると幸福と云ふものが外にまで溢れた形が見えると云ふのである。一つで壺全体を
被ふた大花であることが解り、其れが勢ひのよい盛りであつたことも解る。心もち横に傾いて居て溢れると云ふ聯想が起つたのであらう。
然かもこれは象徴歌で、向日葵は恋を云ひ、静かな青玉の壺に自己の心境を托したものなのである。中年の落ちついた男の恋と盛んな女の恋の形である。
天つ日が四月の昼に見る夢か武庫の高原つつじ花咲く
空の太陽が陽春四月の昼に見て居る夢が是れなのであらうかと思つた。この躑躅の盛りを見る所は六甲山の高原であると云ふのであつて、躑躅は白などではなく臙脂と樺色であつたのであらう。六甲山はむこやまの当字に最初書かれたのが漢字読みの山の名になつて居るのである。頂上に近く石がちに原をなして居る物は灌木で大方躑躅なのである。作者はかうした景色が好きで、軽井沢から浅間にかけて躑躅の咲く季節に信州へ遊びたいと云つて居たが遂げずに終つた。
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