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選挙に対する婦人の希望(せんきょにたいするふじんのきぼう)
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私は少しばかり政治について所感を述べようと思います。私たち婦人は憲法の上でこそ男子と同等の権利を持った個人ですが、専ら男子に由って作られた法律の上では憲法と矛盾して、不合理にも、単に女性であるからという理由だけで私たちの生存に必要ないろいろの権利を制限されております。以前のように依頼主義と屈従主義とに甘んじていた婦人と異い、個人としての自己の欲望の尊厳と、自己の能力の無限とを信ずる今日の婦人にあっては、次第に男女間の権利の偏頗が苦痛の種となります。 私たちは市区町村会議員の選挙権及び被選挙権すら持っておりません。私たちは自分の労力の結果を割いて公共生活のために納めている直接間接の租税がどのようにして全日本人の生活の幸福を増進するために運用されているかを知ることさえ出来ないのですから、ましてそれを如何に運用すべきかについて男と共に討議する公の機関に参与することの出来ないのはいうまでもありません。甚だしきは未成年の男子と同じく、政治に関する演説及び集会を催すことすら禁じられております。世界の女権論がわざわざ新奇な要求を提出するのでなくて、全く失われた婦人の権利の回復を意味するものとして唱えられる所以はここにあります。しかし女子自身さえまだ普通選挙制を建て得ないような我国の現状では、婦人が欧米の女権論者の主張のように早くも参政の権利を要求することは穏健な行動でなかろうと思います。それに我国の婦人はまだ政治以外の問題についてさえ団体運動に慣れておりません。女権回復の運動は団体運動であることを必要とします。私は日本婦人の現在の知識及び勇気の程度に考えてまだ暫く団体運動の成立つ時機ではなかろうと思っております。 それなら政治については黙して忍ぶかというに、幸なことには文書を以てする政治上の言論だけは私たち婦人にもその自由を認容されております。これがために私たちは政治的に隠忍して奴隷の位地に落ち込むことを纔に免れております。私たちはこの辛うじて開かれている唯一の窓を利用して、此処から出来るだけ政治その他の生活機関に対する私たち婦人の希望を述べねばなりません。こういう自覚から私はこの感想をも書こうと思います。 第三十八議会は予想の通りに解散となりました。官僚と党人との政争の外に立っている私たち婦人は、いまさら衆議院の提出した内閣不信任案の是非や、それに応戦して寺内内閣の奏請した解散の不法であるか否かを顧みるようなことに多くの必要も深い興味も持つことが出来ません。むしろこの解散を機会に官僚も党人も国民全体も過去の政争的関係をすべて一擲して、立憲国の代議政治の根本精神に立ち返り、世界の大勢と国家の現状とに考えて日本人全体の生活を一層合理的にし、一層幸福にするように努力して欲しいと思います。 しかるに寺内首相と後藤内相とが地方官会議の席上でなされた演説を見ると、私たちのこの希望を裏切って、これまでの陰険醜悪な政争の上に更に一層頑冥の政争を重ねようとする志向が顕著に見えております。失礼な申分ですが、男子というものは太古以来聡明を以て自任している割に、一旦衆を恃むと、どうしてそのように低級野蛮な盲目的感情を固執して羞恥を感じないのでしょうか。現在の戦争にしても、常識を以てしては欧洲の先進文明国の間に到底起りそうにないことであったのですが、それが数年にわたって継続し科学を悪用した新式の強暴な武器を以て人と人とが互に殺し合いながら、まだその平和回復の時機さえ予想されないというのは、要するに権勢を独占して支配者の位地に立とうとする男子の専制欲が第一の動機となっているのです。盲目的感情は婦人の所有する所といわれておりますけれども、婦人の感情的妄動は自己と少数の周囲とを禍するに過ぎませんが、男子のそれは幾百万の人類を殺傷し、幾百億の財力を消耗し、幾千年来の文明を一朝にして破壊します。たといその害の小いものでも直接たちどころに一国の利害休戚に関係します。婦人の盲目的感情がそういう大きな禍を人間生活に加えた例は世界の歴史に全く見当らないことを断言してよいと思います。寺内、後藤二氏の演説はロイド・ジョウジやウィルソンの演説に比べるまでもなく、一見して何という奥行の乏しいかつ調子の野卑なものであるでしょう。現代の政論には必ず現代の自由思想を背景とする所がなくてはなりません。二氏の「秉公持平の善政」というのは何らの具体的政見も伴わない支那流の空名虚辞に過ぎないのですからまだ少しも政論の域に入っていないものだと思います。一体に我国のいわゆる政治家は在朝在野ともに、厳格にいえば感情論ばかりで、確かな学説と実験とに立脚した鮮明な政見を持っている場合は極て稀なのですから、これを二氏に望むことは気の毒にも感ぜられますが、人情論の中の最も旧式な人情論――無内容な秉公持平説――を持出しながら、それさえも立派な政見のように標榜するとは余りに国民を愚弄したものだと思います。 私たち婦人の自由な位地からいえば、政権の争奪を以て目的としていることは官僚も、政友会も、憲政会も全く同じです。国民党にしても、その少数党の微力を以て到底容易に政権に近づきがたい所から、その党首の機智的命令に従い、自暴半分に唯だ奇兵を用いて国民の耳目を惹こうとし、この度の不信任案提出は実にその奇兵の功を奏したものに外ならないのですが、久しく逆境にあるの故を以て国民党を政権の争奪に冷淡なものと見ることは出来ないのです。この意味において、我国には今日まで真の国民の味方となった政治家というものはありません。国民の真の味方は国民を以て赤子とし、国民の休戚を以て大御心とせられる歴代の天皇があらせられるばかりです。我国の天皇が専制の君主にましまさぬことは、我々が太陽の光の博愛平等であるのを疑う余地のない如くに昭々たる事実です。政治家という政治家が悉く国民を凌辱する官僚主義者である証拠には、古来の政界の改造がすべて甲の官僚主義者と乙の官僚主義者との更迭以外に何らの意味もなく、藤原氏の独占していた政権が平氏に移り、平氏がこれを源氏に奪われ、北条、足利、織田、豊臣、徳川の諸氏が次第にこれを奪って独占したという歴史があるので明白です。偶ま豊臣氏のように微賤から出た政治家があっても新しい官僚政治家が一人殖えただけで、政治に対する国民の権利を官僚から取返してこれを国民に分配したというのではありません。 代議政治は国民の一切が国民みずからの生活の幸福な発展を目的として、法律を制定すると共に、一切の政治を運用しかつ監督する権能を発揮する政体です。しかるに官僚と政党とは代議政治の採用されている今日なお依然として国民の上に立ち、平氏と源氏、新田氏と足利氏の関係を以て対峙しております。彼らは国民の利害と国家の消長とを口実にしながら、実は政権の争奪を以て主要な目的としております。直截にいえば、どの政党も皆官僚の変形であって、官僚が政党を罵り、政党が官僚を罵るのは鴉が互に色の黒いのを罵るのに等しく、笑うべきことであるのです。私は秉公持平説を口にする寺内、後藤二氏が憲政会ばかりを政権争奪者として悪罵し、政友会を専ら誠意に富んだ政党であるかの如く曲庇した偏頗の沙汰を陋とします。それよりも先ず寺内内閣みずからが政争を超越した公明な政治家の集団であることを政見において証明せねばならない順序であるのに、二氏の演説が一言もそれに及ばないのはどういう訳でしょうか。 政争の上に超越した政治家の心事はロマン・ロオランがこの度の戦争から超越して世界人類のために博愛正義の宣伝に努めている如く、真に国民の味方たる志士仁人の熱烈な心情に満ちているべきはずですが、寺内、後藤二氏の言論には政敵を圧迫する争気と殺気とが横溢しているだけで、国民の味方としては何らの表示をも認めることが出来ません。政見を欠くことにおいて浅薄であり、国民の意志を眼中に置かないことにおいて専制的であり、政敵を悪罵し狡獪なる御用党を曲庇することにおいて野卑であると思います。それでは秉公持平の正反対に、みずから政争の有力な選手になって反対党の敵意を挑発し、復讐として肉を噬い髄を啜るとも飽かないような深怨を結ばせて、ますます陰険、醜陋、残忍を以て終始する政界の私闘を助長する危険があると思います。 また私の厭わしく思うことは、寺内内閣に反対する党人たちの言論が理性を基礎としないで感情的に傾き、寺内内閣の徒のみが非立憲的であり官僚主義者であるような不公平、不徹底な立論を敢てし、一朝政権を握れば憲政会自身がまた官僚主義者たることにおいて同じ穴の貍であることを掩蔽し、寺内、後藤二氏から受取った悪罵以上の悪罵を以て酬いながら、国民の前に怖るべき虚偽を述べつつあることです。彼ら党人の論調の粗笨乱暴であることは往年の憲政擁護運動時代における慷慨殺伐の口吻と比べて少しも進歩していないのに驚かれます。殊に寺内氏の演説に対する憲政会の「弁妄書」が寺内氏らにも劣らぬ官僚臭味を暴露しているのは、正直とはいえ、また余りに国民の要求と懸隔しているのを憐れまずにはいられません。「吾人は必ずしも政党員にあらずんば内閣員たるを得ずと主張するものにあらず」といい、「単に衆議院における多数党の代表者を以て内閣を組織せざるべからずと決議したることなく、声明したることなく、主張したることなし」といい、「内閣組織に当りて貴族院の勢力を度外視するを得ず」というような見苦しい弁疏を、平民の真の味方である大政党の言論として憲法発布後三十年の今日に聞くに到っては時代の逆行、民主思想の退歩として呆れざるを得ません。これもまた国民を愚弄することの甚だしいものであると思います。 私は敢てこの小さな窓から全日本人に問い掛けます。我々は今こそ真実の個人の権利を以て生きようと自覚すべき時機ではありませんか。我々の生存に必要な政治上の権利を官僚と官僚の変形である既成政党との久しく壟断するのに放任して置いて、それを自由に行使することを怠っていたということに今こそ我々は気が附かないでしょうか。
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