或会社の技師をしている工学士某氏の妻が自分に対する苛酷(かこく)を極めた処置に堪えかねて姑を刺したという故殺(こさつ)未遂犯が近頃公判に附せられたので、その事件の真相が諸新聞に現れた。嫁が姑を刃傷(にんじょう)したということは稀有(けう)な事件である。無教育な階級の婦人間においてさえ類例を見出しがたいことであるのに、工学士の妻として多少の教育もあり、女優として立とうと決心していたほど新代の芸術に対する渇仰(かつごう)もある婦人が、こういう惨事を引起すに至ったについては何か特別な理由がなくてはならない。私は諸新聞の態度が初めから一概に被告を憎んで掛らずに、力(つと)めて細かに事件の真実を伝えようとし、その結果『東京朝日』記者のように特に被告に対して同情のある報道をされたことを、被告と同じ女性の一人として感謝する者である。
新聞紙の伝うる所に由(よ)れば、姑という人は明治以前の思想をそのままに墨守して移ることを知らず、現代の教育を受けた若い嫁の心理に大した同感もなく、かえって断えず反感を持って対し、二言目には家風を楯(たて)に取り、自分の旧式な思想を無上の権威として嫁の個性を蹂躙(じゅうりん)し圧倒することを何とも思わず、聞き苦しい干渉と邪推と、悪罵(あくば)と、あてこすり[#「あてこすり」に傍点]とを以て嫁を苛(いじ)めて悔いぬような、世にいう姑根性をかなり多く備えた婦人であるらしい。私は幼い時から私の郷里などにそういう無智な姑の少くない事を見聞しており、また一般に温厚な嫁ほどそういう姑の下にあって人の知らない多大の苦痛を忍んでいることを知っているので、姑に対する新聞紙の報道を誇張だとは思わない。
また妻という人は新聞紙に由れば普通の教育もあり、常識もあり、良人(おっと)との仲も睦(むつ)まじく、所帯持も好(よ)く、快濶(かいかつ)ではないが優しい中に熱烈な所のある婦人で、芸術上の希望を満たしたいために女優として立つに至ったのも良人との相談の上であって、夫婦の間に決してそれが突飛な問題でもお転婆な行為でもなかったのである。これは今日の女子教育の程度から見て工学士の妻として恥(はずか)しからぬ婦人であることは誰も同意するであろう。普通ならば学士の妻となったことに甘んじて尋常な一生を送る若い婦人が多い世の中に、更に物議の多い女優となって新しい芸術に何ほどかの貢献をしようとする熱心と勇気とを思うと、むしろ多数の学士の妻の中にあって得やすからぬ健気(けなげ)な婦人の一人であるといってもよい。
若い夫婦は良人の任地である横浜に住み、老父母たちは神戸に住んでいたが、姑はおりおり夫婦の家に来て滞在しながら良人の留守に嫁に小言をいい、良人に対しても嫁について讒訴(ざんそ)とも見るべきことを言うのであった。それについて若い妻は日本の一般の女性が姑に捧(ささ)げる限りのあらゆる忍従の態度を取って、少しもそれに反抗する言動を示さなかった。新旧思想の過渡期に生れたあわれな若い妻は、姑の無情非理を知りつつ出来るだけ忍従の態度を取る外に賢い孝養の法がなかった。
ここに私の遺憾に思うのは――むしろ攻撃したく思うのは――その良人たる工学士某氏の思慮の足りないことである。なぜに一人前の教育ある紳士がその母の旧思想を説破し、その苛酷な干渉を諫止(かんし)して、夫婦の間の生活は専ら夫婦の間で決すべきものであることを宣明しなかったのであろう。母を尊敬し併せて妻を愛重する文明男子がこの際に取るべき手段は、誠意ある諫諍(かんそう)を敢てして、母を時代錯誤から救い出し、現代に適した賢い母たり新しい母たらしめる外にないではないか。子としても良人としても確かなかつ周到な思慮を欠いて甚だ煮え切らぬ態度を取っていたために、母の恥を世に曝(さら)し、妻を罪人たらしめ、自分自身を不幸に導くような悲惨な結果になってしまった。私は良人たる人さえ首鼠両端(しゅそりょうたん)でなかったら、この悲劇の運命は多分避け得られたのではないかと思って返すがえすも惜まれるのである。
さて嫁が姑を刺すという悲劇の突発した時には姑が夫婦の家に滞在していた。それは良人の不同意にかかわらず家風に合わぬ嫁は姑の権威で離縁させるといってその離縁を実行するためにわざわざ神戸から出掛けて来たのであった。そして良人の留守に姑は散々の悪態を吐(つ)いて乱暴にも肺を病んでいる嫁をいびり出そうとした。恐ろしい権幕で今から直ぐに出て行けといい放った。今日まで如何なる難題にも、邪推にも、悪罵にも、あてこすりにも十二分に堪えていた温良な嫁も、むざむざ良人との愛を割(さ)かれるこの不法と苛酷に対して、思わず自制の箍(たが)を逸(はず)してかッと[#「かッと」に傍点]逆上した。たとい嫁の血族に精神病の系統のあることが後に公判廷で立証されたにしても、姑の不法な言いがかりが専擅(せんせん)苛酷な夫婦の離別に及ばなかったならなおこの逆上はしなかったであろう。またあるいは無情な離別を強(し)いられたにしても、嫁の体質が平生の生理状態であったなら恐らくなおこの逆上はしなかったであろう。しかし不幸にも若い嫁は病身である上に月経時であった。逆上すると同時に偶(たまた)ま手近にあった刃物を取って姑に投げ附けた。積極的に斬(き)ろうとするのでなく、勿論殺意があるのでなく、手当り次第に投げ附けた。それは猛烈なヒステリイの発作であった。姑は微(かす)かなかすり疵(きず)を負って逃げ出した。こうして意外な悲劇が突発し、嫁が姑を刺したという稀有な故殺未遂犯が成り立った。
ヒステリイは今日までの所、多数の婦人の或時期(月経時、妊娠時、分娩後、子宮病時)や或境遇(久しい間の独身、異常な災厄)に伴う共通の発作症である。それに強烈なのと微弱なのとあり、また遺伝から来るのと特発するのとあるが、それが或事を誘因として遽(にわ)かに迫って来る時には、人は意識の統一を失って自分で自分が制し切れなくなるものである。私は自身に精神病者の血を引いているし、父が卒中で斃(たお)れたほどの大酒家であったので、自然に病的な素質を持っていて、或時期に往往はげしいヒステリイに襲われることがあるから、その若い妻が逆上して刃物を投げ附けたという心理を十分に想像することが出来るのである。投げた物が偶(たまた)ま刃物であったために大それた刃傷沙汰になったが、ヒステリイの不可抗力に襲われたその時の気分は、何でもいいから手当り次第に投げ散して鬱積(うっせき)した心の蒸汽を狂的に洩(もら)さずにはいられないのである。そしてその不可抗力に襲われて無茶苦茶なことをしてしまった後の甚(はなはだ)しい悔恨と不快さはこれを経験しない人に到底理解の出来そうにないことである。意識の自制を失った際とはいえ、姑に刃物を投げ附けて負傷させたような結果を作ったのであるから、その瞬時の後に自己に返った若い妻が教育ある婦人だけにその悔恨が心を噛(か)んだことも異常であったに違いない。法廷において被告が誠心誠意懺悔(ざんげ)の涙に咽(むせ)んだというのは同情されることである。
その動機に情状の酌量すべき所があっても、その事実が法文に触れているのであるから犯罪人として処刑されるのはやむをえない。殊に在来の道徳や習慣をその不用な部分までも背景にしている日本の法律では、嫁が姑を刺したという表面の大それた事実を重く見るので情状酌量の余地がない。それでこの犯罪は八年の懲役に処せられ、執行猶予の沙汰もなかったが、宣告の際に物優しい判事は獄則を恪守(かくしゅ)して刑期の半(なかば)を過したなら仮出獄の恩典に浴することも出来るということを告げたということである。私はこの刑罰の裁量が妥当であるかどうかを知らない。とにかくこうして某工学士一家の傷(いた)ましい悲劇は一段落が附こうとしているのである。しかし私はこの事件を切掛(きっかけ)にして更にいろいろの感想が胸に浮ぶ。
同じ悲劇の種は、姑と嫁のある日本の家庭の大多数に伏在している。姑が嫁を愛するというような事は昔の清少納言(せいしょうなごん)も珍しい物の中に引いている通りむしろ例外であって、「あなたは善い姑をお持ちになってお仕合せです」と嫁の友人から祝を述べるほどのことである。固(もと)より姑根性には種種(いろいろ)あって某工学士の母の実際はどうであるか知らないが、最も極端な例に引かれる残忍な姑さえ決して世間に珍しくはないのであるから、それ以外の、あるいは悪性、あるいは不良な程度の姑は無数に散在している。官吏や被傭人となって他郷に生活している若夫婦の中には父母と別居している者が多く、それらは直接に姑の干渉を受けないであろうが、しかし某工学士夫婦のように横浜と神戸とに別居していてすら前述のような惨事を引起したのであるから、如何に遠く離れて住んでいても聡明な愛情を欠いた姑に対する嫁の気兼(きがね)苦労は多少にかかわらず附帯しているのである。まして姑と一所に定住している大多数の嫁がそれらの姑の下にあるいは干渉され、あるいは苛(いじ)められ、あるいは意地悪く一分(いちぶ)だめしに精神的に虐殺されつつあるのは言うまでもない。
私は自分の息子(むすこ)のように嫁を愛し、あるいは蔭に廻って嫁を弁護するほどの美質を持った理想的の姑が甚だ稀(まれ)に世にあることを認めるが、それは勿論尊敬すべき姑である。しかしいわゆる姑根性を脱しない大多数の姑たちについて、私は一概に憎悪のみを以て対しようとは思わない。これは私が姑という者を持たない境遇にいて、姑に対する気兼苦労の実感を経験しないからでもあろうが、私は憎悪の外に気の毒なと思う感が附随している。なぜなら彼らの大多数の姑たちは一方には教えられざる婦人であり、一方には老後の索寞(さくばく)、月経閉鎖期前後の悲哀、その他種種の事情から精神の平衡を欠き、もしくはヒステリイ症に罹(かか)っている婦人だからである。
数年前に私は老人教育の必要であることを述べた。日本の教育という意味が青年教育ばかりに偏しているので、青年の思想はどしどし前へ進んで行くのに、老人は一度若い時に教育されたきりであるからその思想は過去のままに乾干(ひから)びている。社会の要部が老人と青年とで成立つものである以上、老人と青年との意志が疏通(そつう)しなければ社会は順調に進歩しない訳である。年齢の差などがあって少しは疏通しにくい部分があるのは免れないにしても、青年と共に現代の思想に浸ることを怠(おこた)りさえしなければ、すべての老人が青年の思想を大部分理解することが出来て、同じ基調の上に呼応し協力して人生の音楽が合奏されるに到るであろう。しかるに日本の老人の多数は私のこの理想と全く背馳(はいち)している。殊に老婦人の階級はその若い時に教育らしい教育も受けていない人が多く、男子側の老人でさえ内外の新書に親(したし)むことは稀(まれ)なのであるから、それらの老婦人たちが現代について精神的に何物も教えられていないのは言うまでもない。それで過去の思想に停滞している老婦人は万事を過去の標準で是非し、若い嫁のする事が凡(すべ)て気に入らない所から、一一それに世話を焼きたくなる。世話や忠告の程度に留っていればよいが、親切が過ぎては干渉となり、加之(おまけ)に在来の姑と嫁とは殆ど専制時代の君臣の関係であることが正しいとせられているから、干渉が一転すれば強制となり威圧とならずには置かない。
それに老婦人の中には早く良人に別れたり、また良人があっても愛情が亡くなっていたりして心寂しい生活を送っている人がある。そういう婦人は子供の愛だけがせめての慰安であり生活の力であったのに、子供に嫁が出来れば嫁は子供に対する愛の競争者である。そして結婚以後の子供の心理が母に対して幾分疎縁(そえん)になるのも、またそれについて母が孤独の寂しさと嫁に対する一種の嫉妬とを感じるのも自然の人情であろうと想われる。
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