『阪の処まで行きますよ。』
かう云つて随いて来る母親から次第に遠く離れて双子は急足で女子学院に添つた道を歩くのであつた。鏡子はお照を新橋から迎へて来て此処を歩いて居た時の自分の其人に対する感情は純なものであつたなどゝ思ふ。けれど今だとてあの人を悪くは少しも思つて居ない。子供が俄かに母の手に帰つたので云ひ様もない寂寞を昨日からあの人は味つて居るのであるから、あゝした尖つた声で物を云つたり、可愛い榮子を打つたりするのである。さう同情して思ふから、一層この後があの人のためにも自分のためにも心配でならないと、こんな事を思つて居る鏡子は俯向き勝ちに歩を運んで居た。何時の間にか回生病院の前へ出た。
『さよなら。』
今度は母の方から大きく云つた。
『さようなら。』
双子は振返つて一寸お辞儀をしたが、直ぐ阪を駆けて降りやうとした。十間程先で二人はぱつと左右に分れた。そしてわつと泣き出した。鏡子がまだ阪の上に立つて居た事は云ふ迄もない。鏡子は転ぶやうに子の傍へ行つた。二人を両手で同じ処に引き寄せた。鏡子はべつたり土に坐つて、親子三人は半年前の新橋の悲しい別れを今の事に思つて道端で声を放つて泣いたのであつた。小学生が四五人怪しさうにこれを見て通つた。
『母さん、母さん。』
と絶えず云ふ瑞木の言葉の奥には行つちやあ厭と云ふ声が確かにあるのをもとより母は知つて居た。[#「底本では「。」は脱落]
『ぢやあ幼稚園まで送つて上げようね。』
二人は泣きながら黙頭くのであつた。歩み出しても泣[#「なき」は底本では「ない」]じやくりが止まりさうにない。
『泣いては人が笑ひますよ。ねえ、母さんはもう何処へも行かずに家にばかり居るのだからいいでせう。』
云ふと二人は何でも黙頭くのであるが泣声はますます高くなる。幼稚園の門で別れやうとすると、
『母さう、母さん。』
とまた云ふ鏡子はお照の居ない家なら伴れて帰るものをと思ふのであつた。爺やに慰められても聞かず二人は母を廊下に上げて教場まで伴れて行つた。
『さあ、運動場へ行きませう、花木さんはお姉さんぢやありませんか。お姉さんが泣いてはをかしいですね。瑞木さんももう泣かないでせう。』
保姆に云はれて二人は泣きながらまた黙頭いて居た。
悔恨の銀の色の錘を胸に置かれた鏡子が庭口から入つて行つた時、書斎の敷居の上に坐つて英也は新聞を見て居た。座敷の縁ではお照がまだ榮子に乳を含ませて居た。
『おかヘり遊ばせ。』
『お早う御座います。寝坊をしてしまひました。』
と云ふ英也にも口が利かれなくて、唯お辞儀をしただけで鏡子は花壇の傍へ走つて行つて、二人には後向になつて葉鶏頭の先を指で叩いて居た。鏡子はふと晨坊はどうしたであらうと思つて胸を轟がせた。今縁側の傍迄行つた時に、晨が書棚の横の五寸と一尺程のひこんだ隅に立つて居た事に気が附いたのである。
『晨坊、いらつしやい。』
鏡子は縁側の処へ寄つて行つた。
『なあに。』
と晨の云つて居るのはやはり其の狭い処からである。
『晨は何時もあんな処に入つて居るのですか。』
『そんなこともないんですがねえ。』
とお照は云ふ。
『いらつしやい。』
晨は赤い口唇を細く窄めながら母の手へ来た。鏡子はそれを肩に載せてまた花壇へ行つた。
『いいお花ね。』
子に見せながら、この子をもう一人かうして出れば後には心残りがない。家へ帰りたい帰りたいと思つた家と云ふものは実はこんなものなのかと思つた。
『英さん、今日はお出かけ。』
かう快活な声で云つて暫くして鏡子は上ヘ上つて来た。
『さあ。』
『行つていらつしやい。展覧会へでもね。』
『さあ。』
『そんなに東京を見くびるものぢやないわ。私は昨日東京を見て感心しちやつたのよ。麹町は好い所ぢやありませんか、ねえお照さん。』
『さうですね。京都より好い処もありますね。』
今度はお照が極く滅入つた調子である。
『歌舞伎座の案内を頼むのに好い人があるのですがね、勤めの身ですからね、今日はだめだらうと思ふのですよ。』
かう微笑みながら云ふ英也が、自分のよく知らない良人の若盛りと云ふものの影ではないかなどと鏡子は一寸思ふ。
『私、あなたが飲んでいらつしやるのを見るとまた煙草が飲みたくてならなくなるのよ。』
鏡子は英也の横顔を眺めながら云つた。
『お飲みになればいいぢやありませんか。』
さう云つて英也はアイリスを一本火鉢にかざした叔母の指に持たせた。
『折角よしたのですからね。』
と鏡子は云つて居た。此人は甥であつても年下であつても、もう思想がちやんと出来上つて居る人で、自身などを叔母、叔母と云ふだけが最善の事をして居ると思つて居るに違ひないのであると、こんな事を鏡子が思つて居るうちに煙草は皆粉になつて灰の上に散つて居た。煙草に気が附いた時鏡子は好い事をしたと思つた。廃めた事をあんなに良人から善ばれた煙草だからと、さう思ふのであるが水色の煙が鼻の前に靡くのを見ると堪へ難くなつて座を立つた。
昼飯の時も榮子は目を閉いで食べた。お照が叱ると、
『末とあべる。』
と云ふ。
『母さんが厭なの、他所へ行つちまつたら好いと思ふの。』
鏡子が笑声で云つた時、榮子は初めて目を開いて母を見て点頭いた。
『榮子は厭な人ね。母さんは今日鞄を開けたらもう一つ人形があるのだけれど、榮子はいらないこと。』
『欲しくないや。いらないや。』
榮子は叔母の方を向いて低い声で云つた。
一時頃に英也は出て行つた。鏡子はコロンボ以来の消息を良人に書かうとして居た。畑尾が来た。畑尾は昨日彼方此方で聞いた鏡子の噂などを語るのであつたが、鏡子は此人が今に大阪訛を忘れ得ないで居るのが、一層この人をなつかし味のある人にするのであるやうに、お照は京言葉を使へば好いではないか、女中困らしの彼方の固有名詞は最も多く使つて居るのになどと思つて居た。お照が榮子を抱いて来た。
『甘うますわねえ。』
『ええ。』
と云つて、お照はまた、
『此人は一番姉さんのお気質によく似て居るのでせうよ。何力も強い者同志でびんと撥ねてるのですよ。』
と云つた。
『あら、あんな事、私がそんなに強い人なものですか。ねえ畑尾さん。一人行つて一人帰るのがさう云つた人に見えるか知らないけれど、違ひますねえ、畑尾さん。まるでねえ、畑尾さん。』
訴へるやうに畑尾を見て云つた。畑尾は口を半開けて、頬をむごむごさせて限りもなく気の毒に思ふと云ふ表情を見せた。
『それでもねえ。』
と未だお照は云つて居た。榮子の眉と目の間、高い鼻、口元がお照に似て居ると云ふ事も鏡子は云ひ出すのに遠慮をして居る自分とは違つた気強い人を恨めしく思つた、畑尾はそこそこに帰つて行つた。瑞木と花木が朝の涙などは跡方もない顔して帰つて来た。滿と健も帰つて来た。何と思つたか健が手紙を涙を零しながら書いて居る母の傍へ来て、
『母さん、何時迄も生きて居て頂戴よ。え、母さん。』
と云つた。
『母さん所へ行つていらつしやいよう。いらつしやいてばよう。』
癇走つた声が打叩きする音に交つて頻に聞える。鏡子は立つて行かうとしてまた思ひ返して筆をとつた。
『榮子なんか駄目だ。馬鹿。威張つたつて駄目だよ。兄さんを撲つたりしてももう聞かないよ。』
滿の罵る声がしたかはたれ時に、鏡子は茶の間へ出て行くと、お照は四畳半で榮子をじつとじつと抱いて居た。
(終り)
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