鏡子が茶の間で昼の膳に着いたのはかれこれ二時前であつた。向ふの六畳では清と英也と秋子と千枝子が並んで食べて居た。英也は何時の間にか銘仙に鶉縮緬の袖の襦伴[#「伴」はママ]を重ねて大島の羽織を着て居た。それは皆靜のものであつた。着る人も扱ふ人も自分達でなくなつたと、深くはないが鏡子の胸に哀れは感じさせた。末と云ふ女中はお照の事を奥様と云つて居る。畑尾は先刻頼まれて帰つた事の挨拶に二三軒の家へ出掛けて行つたのである。
荷物が皆配達されて鏡子はおもちや類を子供に分けた。双子と千枝子は揃ひの人形、滿と健と薫はバロンの毬、晨は熊のおもちや、榮子は姉達のより少し小いだけの同じ人形を貰つた。
『まだあるの、けれど鞄の中で他の物に包んだりしてあるのだから後で出して上げます。千枝ちやんや、瑞木さんや、花木さんの洋服もあるのよ。』
と鏡子は云つた。
『僕には何があるの、外に。』
と健が云つた。
『さあ何だつたかねえ。』
『母さん、兄さんはもう要らないのね、絵具箱があるのだもの。』
『そんな事ありませんね、母さん。』
『いいんだ。いいんだ。』
『やかましい、健。』
と滿が云ふと、
『いやあ。』
と健が泣き出した。
『瑞木ちやんの人形の方がいいのよ、とり替へて頂戴よ。』
と花木が云ふ。
『いやよ、いやよ。』
と瑞木が泣声で云つて居る。鏡子は周章しい世界へ帰つて来たと夢から醒めた時のやうな息をして子供達を見て居た。
『後程また伺ひます。』
清は薫のバロンを持つて、千枝子だけを残して帰つた。鏡子はふとトランクや鞄の鍵をどうしたかと云ふ疑ひを抱いて書斎へ行つた。そして赤地錦の紙入を違棚から出した中を調べて見たが見えない。
『あら。』
と独言を云つて首を傾けて見たが外に何の心覚えもない。
『お照さん、鞄の鍵を私落して来てよ。』
恥しい事を思ひ切つて云ふやうに鏡子は隣の間の妹に声を掛けた。
『何処かにあるのぢやありませんか。』
入つて来たお照の顔は目の尻、結んだ口の左右に上向いた線がある。
『着物を脱いだ[#「脱いだ」は底本では「晩いだ」]所になかつたこと。』
『いいえ、ありません。』
『ぢやあ汽車の中なんだわ。』
『大変ですね。』
『さうだわ。』
『困りますね。』
『いいわ。どうかなるわ。けれどあなた一寸新橋の停車場へ電話で聞いて見て下すつても好いわ。あのう、食堂車の前の箱ですつて。』
『さういたしませう。』
お照は立ちしなに襟先を一寸引いて、上褄を直して出て行つた。
鏡子が茫として居る処へ南が出て来た。
『おや、南さん。』
鏡子の頬に涙がほろほろと零れた。
『おめでたう。』
其儘じつと南は俯向いて居て、細い指だけは火鉢の上へかざされた。この無言の中へ夏子の入つて来たのを鏡子は嬉しくなく思つた。英也も来て南に初対面の挨拶をして居た。
出入の料理屋の菊屋から奥様にと云つて寿司の重詰が来たと云つてお照が見せに来た。片手は背に廻して先刻から泣いて居る榮子を負ぶつて居るのである。
『何故そんなに榮子は泣くのでせう。』
『先刻ね、今晩から母さんとおねんねなさいと云つたら、それから泣き初めたのですよ。』
お照は口を曲げてかう云つた。
『そんなことを云はないでもいいに。』
と云つて鏡子は榮子の顔を見て一寸眉を寄せた。
『榮ちやん、いけませんねえ。』
と云つて榮子を夏子が抱き取つて二人の女は一緒に立つて行つた。
『焼けましたねえ。』
南は気の毒さうにまじまじと師の奥様の顔を眺めて居る。
『情ないのねえ。けれど荒木さんは私を若くなつたと神戸では云つたのね。』
鏡子は英也の顔を見て笑ひながら云つた。
『少くも二つ三つはね。』
英也は胡散らしく云つた。
『さうぢやありませんよ、確に。』
『南さんの方が真実ですね。ねえ南さん、良人がね、巴里でね、此処へ着いた十日程は若かつたねと云ふのでせう。私を先に帰して下すつたら、あなたが帰つていらつしやる時にはまた五日位は若いでせうと云つたの、僕の思ひなしにしてしまつて居るのだ馬鹿だと怒つてましたわ。』
英也は火鉢の灰を掻きならしながら下を向いて笑つて居た。
南夫婦と鏡子は菊屋の寿司を書斎へ運ばれて、子供達は六畳でそれを食べて、夕飯はそれで済んだ。飯酒家の英也はお照の見繕つた二三品の肴で茶の間で徳利を当てがはれて居た。清の妻の都賀子が来たので鏡子は暫く座敷で語つて居た。都賀子は鏡子よりは二つ三つの年上で洒脱な江戸女である。
『唯今迄のお照さんのお役目が大変で御座いました。』
と出て来た妹に花を持たせる事も忘れなかつた。
鏡子は書斎へ帰つてゆきなり、
『私ときどき喧嘩もして来てよ、帰りたいばかしに。』
と云つて南夫婦をじつと見た。
『ほ、ほ、ほ。』
と夏子は笑つた。やつとして南は、
『さうですか。』
と云つて居た。南の気の毒なものを見るやうな目附が鏡子には寂しく思はれるのであつた。巴里への手紙は今日書けないかも知れぬと悲しい気持になつたり、書棚の引出しに確かにある筈の良人と一緒に去年の夏頃とつた写真が見たいものだと云ふ気になつたりして居た。榮子がまたぐずぐず云つて居るのを聞いて夏子が立つて行つた。
榮子は英也の向側に坐つたお照の横に、綿入を何枚も重ねて脹れた袖を奴凧のやうに広げて立つて、
『叔母さんとねんの、叔母さんとねんの。』
と連呼して居た。
『どうなすつたの、榮ちやん。夏子さんとおねんねいたしませう。』
と云つて夏子は坐つた。お照は榮子を膝に掛けさせて、
『母さんと寝れば好いので御座いますがね。』
と云つた。
『今晩からは御無理で御座いますよ。榮ちやんいらつしやい。』
榮子は夏子の伸した手の中へ来た。
『さあお寝召を着かへませう。お末さん何方。』
『はあい。』
お末は白い前掛で手を拭き拭き出て来て、暗い六畳の半間の戸棚から子供達の寝間着の皆入つた中位な行李を引き出した。
『榮子さまは好いので御座いますねえ、夏子さんとおねんねで御座いますか。』
『いいのですとも。』
榮子を抱いて来た夏子はくるくると着替へをさせてしまつた。そして末の敷いた蒲団へ小い身体を横に置いて、自身も肱枕をして、
『ねんねえ、ねん、ねん。』
と云つて居た。
『もう皆もお休みなさいよ。』
書斎の母親は座敷に遊んで居る子供達にかう声を掛けた。
『いつもまだまだ寝ないのよ、母さん。』
滿は不平らしい声で云つた。
『でも、今朝は早く起きたのでせう。だから。』
『はあい。』
と滿は答へた。
『もう眠いのよ。母さん。』
母の傍へ来た花木がかう云つた。
『末や、お床とつて。』
云ひながら茶の間へ滿が出て行くと、
『まだ早いぢやありませんか。』
とお照が云つた。
『母さんが寝なさいつて云ふたんだあ。』
羽織の白い毛糸の紐の先を歯で噛みながら云つて居る此声を、もう起き過ぎたねぞろ声だと母親は此方で思つて居た。泣くやうな目附を見るやうにも思つて居た。
『さうですか、末や床をとつておやり。』
お照はまた、
『岸勇と云ふのが好いのでせう。』
と英也に話を向けた。
『うん、うん、うん、あれなんか好いのだ。』
点頭きながら叔母にかう答へて英也は杯を取つた。畑尾がまた来たのと入り違へに南は榮子を寝かし附けた夏子を伴れて帰つて行つた。
『私ね、鞄なんかの鍵を無くしてしまつたのよ。神戸の宿屋でせうか。』
『さうですか、大変ですね。』
『ええ。』
と云つたが、鏡子は先刻お照から大変だと云はれた時程ひしひし悪い事をしたと云ふ気も起らないのであつた。
『三越へ電話で頼んで頂戴よ。彼処にはあるに決つて居るのだから。』
『ああさうですね。宜しうおます。』
それから昨日神戸でしかけた旅の話の続きのやうな話が長く続いた。鏡子は気に掛る良人の金策の話を此人にするのに、今日は未だ余り早すぎると下臆病な心が思はせるので、それは心にしまつて居た。
お照が出て来て、
『英さんがお先に失礼すると申して二階へ上りました。』
と云つた。
『さう。あなたも今日はくたびれたでせうね。』
『いいえ。そんな事があるものですか。』
とお照は云つた。京女のその人は行届いた言葉で今度の礼を畑尾に云つて居た。
『また伺ひます。さやうなら。』
何時もの風で畑尾はだしぬけにかう云つて帰つた。
『姉さん、私はね、初め四月程の不経済な暮しをして居ました事を思ひますと姉さんに済まなくつて済まなくつて、仕方がないのですよ。』
お照は右の手首を左の手の掌でぐりぐりと返しながら姉の顔を見て云つた。
『済んだことだわ。何とも思つて居やしませんよ。』
余り聞きたく無い事であつたから鏡子は口早に云つてしまつた。
『榮子の薬代も随分かかりますしね。』
『さうでせう。さうでせう。』
鏡子は少し自棄気味で云つた。
『榮子一人にどれだけお金の掛つたか知れませんよ。』
『あのう、巴里から一番おしまひに来た手紙は何時でしたの。』
と鏡子が云つた。
『十日程前でしたかしら。』
『見せて頂戴な。』
『はい。』
お照は本箱の上に載せた蝋色の箱の中から青い切手のはつた封筒の手紙を出した。手に取つて宛名を見ると、鏡子は思ひも及ばなかつた徴[#「徴」はママ]かな妬みの胸に湧くのを覚えたのであつた。
子供達皆無事のよし、何事も皆お前様の深き心入よりと嬉しく候。
と書き出して、優しい言葉が多く書いてある。鏡子が巴里に居た頃、自身達の本国に居た頃より遥かに多く月々の費りが入るのを知らせて来る妹の家計を、下手であると怒つては出すのも出すのも妹を叱る一方の手紙だつたのを、傍からもう少し優しくとか、もう少しどうかならないかと頼み抜いた自分が、傍に居ない日になると、他人の自分が居なくなると兄は妹にこんな手紙も書けるのであるとかう思ふと、鏡子は何とも知れぬ不快な心持になつた。鏡子も無事に日本へ帰るかどうかと心配がされると云ふやうな事もあるのであるが、良人の愛に馴れた妻はこの位の事は嬉しいとも思はないのである。
『畑尾さんの処へ来たと云ふ方が近いたよりなんですね。』
鏡子は何気ない振でかう云つて居た。
『私もう寝ませうかねえ。』
とまた云つた鏡子の声は情なさうであつた。
『さうなさいまし。』
『おやすみなさい。』
鏡子は寝室へ行つた。八畳の真中に都鳥の模様のメリンスの鏡子の蒲団が敷かれてある、その右の横に三人の男の子の床が並んで居て、左には瑞木と花木が寝て居る。若草の中の微風のやうな子等の寝息、鏡子のこがれ抜いたその春風に寝る事も鏡子にはやつぱり寂しく思はれた。良人を置いて一人この人等の傍へ寝に帰らうとは、立つ前の夜の悲しい思ひの中でも決して決して鏡子は思はなかつたのであつた。ふとお照がもう五つ六つ年若な女であつたなら、そしてあのやうな恐い顔でなかつたならせめて嬉しいであらうなどとこんな事も思ふのであつた。
五時頃から滿と健はもう目を覚して、互いの床の中から出す手や足を引張り合つたり、爆ぜるやうな呼び声を立てたりして居た。鏡子は昨夜二三十分位は眠れたが、それも思ひなしかも分らない程で朝になつたのである。六ケ月の寝台の寝ごこちから、畳の上に帰つた初めての夜の苦痛もあつたからであらう。
『母さん、母さん。』
滿が呼んで見た。
『なあに。』
『母さん、仏蘭西の話をして頂戴よ。』
『して、して。』
と健も云ふ。
『母さん、話してい。』
花木も云ふ。
『母さん。』
云はねば済まないやうに瑞木も云つた。
『狐の母さん、お乳を飲ましてくえないか。』
目を覚して晨も声を出した。
『何を云つてるの。』
『学校子供云ふの。』
これは健の友達の弟がさう云つたと云ふ話を晨の聞き覚えた事なのである。
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