玄関の板間に晨は伏目に首を振りながら微笑んで立つて居た。榮子は青味の多い白眼勝の眼で母をじろと見て、口を曲めた儘障子に身を隠した。格別大きくなつて居るやうではなかつた。晨は三寸程は確かに大きくなつたと思はれるのであつた。円顔の十七八の女中も出て来て居た。
『晨坊さん。』
母のかう云ふのを聞いて、晨は筒袖の手を鉄砲のやうに前へ出して、そして口を小くすぼめて奥へ走つて入つた。
『抱つこしませう。晨坊さん。』
鏡子は晨を追つて家へ上つたのであつた。座敷から其次をかう走り廻るのが鏡子に面白かつた。
白い菊と黄な菊と桃色のダリヤの間に葉鶏頭は黒味のある紅色をして七八本も立つて居る。[#「。」は底本では脱落]やもめのやうな白いコスモスも一本ある。それを覆ふて居る大きい木は月桂樹の葉見たやうな、葉の大きい樹で珊瑚のやうな、赤い実が葉の根に総て附いて居る。新嘉坡、香港などで夏花の盛りに逢つて来た鏡子は、この草や木を見て、東の極のつゝましい国に帰つて来たと云ふ寂しみを感じぬでもなかつた。
『よく花がついたのね。』
『ええ。』
お照は嬉しさうに云つた。
『清さんや英さんは車ぢやなかつたの。』
『さうなんでせうね。姉さん、お召替を遊ばせ。』
『はあ。私ね、けどね、此儘であなたに一度お礼をよく云つてしまはなければ。』
『云つて頂かないでも結構ですわ。』
お照が次の六畳へ行つた。鏡子は書斎の障子を懐しげに見入つて居た。
六畳へ入つて着物を替へやうとしながら鏡子は辺りを見廻して、
『お照さん、真実に難有うよ。何もかもよくこんなにきちんとして置いて下すつたのね。』
畳も新しくて清々しいのである。
『姉さんは真実にお窶れになりましたのね。』
お照は先刻から云ひたくてならなかつたと云ふやうに云つた。
『真実ね。あらこんな襟買つとつて下すつたの、いいわね、けれどをかしいでせう。印度洋で焼けて来た顔だもの。』
鏡子は平常着の銘仙に重ねられた紫地の水色の大きい菊のある襟を合せながら云つた。
『早くもとの通りにおなりなさいね。』
『何だかもう硼酸で洗つたりする勇気もないわ。』
『そんなこと。』
『私まだ顔を洗はないのよ。』
『さうでしたね。直ぐ湯を沸かさせませう。』
鏡子はこんなに睦まじく話す人が家の中にある事を涙の零れる程嬉しく思ふのであつた。小紋の羽織の紐を結ぶと直ぐ鏡子は鏡のある四畳半へ行かうとした。茶の間を通つた時、やつぱり我家と云ふものは嬉しい処であるとこんな気分に鏡子はなつた。もう余程影の薄いものになつて居たやうなあるものが、実はさうでもない事が分つて来たのである。鏡の前へ一寸嘘坐りして中を覗くと、今の紫の襟が黒くなつた顔の傍に、見得を切つた役者のやうに光つて居た。良人が居ないのだからと鏡子は不快な投やり心を起して立つた。巴里の家の大きな三つの姿見に毎日半襟と着物のつりあひを気にして写し抜いた事などが醜い女の妬みのやうに胸を刺すのであつた。
書斎の靜の机の上も鏡子のも綺麗に片附いて居て、書棚の硝子戸にも曇り一つ残つて居なかつた。小菊が床に挿してある。掛けたあの人の銀短冊の箔の黒くなつたのが自身の上に来た凋落と同じ悲しいものと思つて鏡子は眺めて[#「眺めて」は底本では「眺めた」]居た。門の開く音がして、それから清と英也が庭口から廻つて来、畑尾と夏子が玄関から上つて来た。
新聞記者の二三人が来て帰つた後で清とお照は相談をひそひそとして居たが、それから清はお照の持つて来た硯で、紙にお逢ひ致さず候と書いた。それをお照が御飯粒で玄関の外へ張つた。これで大安心が出来たと云ふ風にお照は書斎へ行つた。
『姉さん、兄さんがさう云ひましてね、お逢ひ致さず候と書いて玄関へ張つたのですよ。もう安心ですわ。あんなに詰めかけて来ると外の者がひやひやするのですもの、巴里の兄さんもそれが案じられると云つて居られるのですからね。』
『お照さん、巴里から私に手紙が来て居ないこと。』
『いいえ。』
『さうですか。』
『もう家へも参る頃なんですよ。』
『私は来て居るだらうとばかり思つてたわ。』
鏡子は情なささうに云つて、
をべたりと襟に附けて、口笛を吹くやうな口をして吐息をした。お照が何と云つて慰めたものかと思つて居ると、俄に鏡子が、
『お照さん、そんなこと書いてあると憎まれるわ。』
と云つた。併も少し高調子であつたからお照は一寸どきまぎした。
『さうでせうか。』
『はがして頂戴よ。畑尾さん、一寸。』
鏡子は縁側で滿と戯れて居た畑尾にも声をかけた。
『はい。』
畑尾は直ぐ鏡子の傍へ来た。
『あのう、清さんが心配してお逢ひ致さずとか書いて下すつたのですつて、けれど気の毒ですから私逢ひますわ。はがして来て頂戴よ。』
『さうですか。よろしうおます。』
畑尾は立つて行つた。
『母さん。僕達のおみやげは未だ来ないの。』
と云つて健が来た。
『さあ、母さんには分らないわ。どの荷物が先に来たのでせう。ねえ、お照さん。』
『三つ程だけですよ。お座敷に御座います。』
『後にしませう。皆来たら母さんが出して上げます、直ぐ。』
『つまんないの。』
と云つて健が出て行つた。
『兄さん、未だお土産が出されないんだつて。』
と健が兄に云つて居る声が耳に入ると、思ひ出したやうに鏡子は立つて行つて、畑尾が持つて来た座敷の床の間に置いた影を見た絵具箱の二つからげたのを取つて来た。
『滿さん、来てごらん。』
『なあに、母さん。』
『この大きい方があなたの絵具箱ですよ。あなたに上るのよ。』
紐を解きながらさう云つた。
『さう、母さん。』
『うれしいこと、滿さん。』
『ふん、嬉しいなあ。』
『好いのよ、大きくなる迄使へるのよ。』
『早く中を見せて頂戴よ、叔母さん。』
『叔母さんは彼方へいらしつたぢやないの。』
『ふん、母さんだ。間違つちまふ。厭だなあ。』
と滿が云つた。母の手から貰つて横に糸で結へ附けてある鍵で箱の中を開やうとするのであつたが、金具は通つて来た海路の風の塩分で腐蝕して鍵が何方へも廻らない。
『なあに、兄さん。』
『私にも見せて頂戴。』
と云つて双子が出て来た。晨もそつと後から随いて来た。
『花木を一度母さんが抱きませうね。』
さう云ふと、おつとりとした子は限りもない喜びを顔に見せて母の膝に腰を掛けた。瑞木も傍へ来て母にもたれかかるのであつた。
晨は襖子にもたれて立つて居る。滿は縁側へ箱を持ち出して夏子に開けて貰つて居る。
『母さん、恐い夢を見たの、巴里で。』
花木は下を向いて我足を見詰めながら云つた。これは何時やら鏡子が子の上で見た凶夢を悲しがつて書いて遣したのを、叔母から語られて子供達は知つたのである。
『厭な夢を見てね。』
『花ちやんがいくらでもいくらでも泣くのですつてね、母さん。』
瑞木がをかしさうに云つた。
『厭な夢ね、真実に真実に厭な夢。』
と花木が云ふ。鏡子は其夢の中でかうして抱いたら泣き止んだことを思ひ出して、じつとまた抱きしめた。清の子の千枝子が庭口から入つて来た。
『あら、千枝子さん。』
と鏡子は我を忘れて云つた。従妹の影を見て双子は一緒に出て行つた。晨も行つてしまつた。お照が榮子を抱いて来た。泣いた跡らしく榮子の頬がぴりぴりと動いて居る。家の中で一番美人と云ふ評判をする人があるとか、自分も確かにさう思ふのと榮子の事をお照が巴里へ書いて遣すのを、巴里で夫婦はそんな事がと云つて苦笑したのであつたが、或はさう云ふ風に顔が変つて来たのかも知れないと思はないでも鏡子はなかつたのであつたが、先刻一目見た時からその一番の美人と云ふ事をどんなに滑稽に鏡子は思つて居るか知れないのである。子供として並外れた高い鼻と其横に附いて居る立湧のやうな深い線、未来派の描きさうな目を榮子は持つて居るのである。髪の毛も叔母によく似た癖毛である。
『母さんの所へ行つていらつしやい。』
と云つて、お照が榮子を畳の上へ置くと、口唇も頬も一層の慄へを見せて横歩きに母の傍へ末の子は近寄つた。
『抱つこして上げませう。』
鏡子は手を出したが目は今入つて来た千枝子にそそがれて居た。千枝子は黒地に牡丹の模様のあるメリンスの袖の長い被布を着て居る。
『おかへり。』
手を突いて静かに千枝子は頭を下げた。
『大きくなりましたね、髪が長くなりましたねえ。』
嬉しさうに鏡子は云つた。元禄袖の双子は一つ齢下の従妹を左右から囲んで坐つた。暫く直つて居た榮子の頬の慄へが母の膝に抱かれるのと一緒にまた烈しくなつてきた。鏡子は榮子が預けてあつた里の家から帰つて来て半月程で旅立つたのであるから、この子に就いての近い過去としては、里から附いて来た娘のことを、とうとの姉やと呼んで、いくら抱かうとしても、
『とうとの姉やだあい。』
と叫泣をされた記憶しかない。遠い昔にはその丸十一ケ月前に生れて牛乳で育てられて居た晨がひよわな子で、どうしても今度生れたのは乳母を雇ふか里へ預けるかして育てねばならない事になつて、[#「、」は底本では脱落]乳母と云ふ鏡子の望む方の事は月に小二十円の費りが入ると云ふので靜の恩家への遠慮で実行する事が出来ずに、里へ預ける事になつた時、未だ産後十七日位の身体で神田の小川町へ、榮子に持たせてやる涎掛だの帽子だのの買物に行つた其日の悲しい寂しい思ひ出がある。里親夫婦が自身達よりも美服した裕福な品のある人達であるのを嬉しく思ひながら、榮子が明日から居る処をみじめな田舎家とばかり想像されて、ねんねこの掛襟を掛けながら泣いて居たのも鏡子だつたのである。
『榮子に乳を飲ませて上げようか。』
鏡子は白い胸を開けた。六年程子の口の触れない乳は処女の乳のやうに少く盛り上つたに過ぎないのである。
『厭、厭。』
榮子は首を振つた。
『ぢやあまた欲しい時に上げませうね。』
と云つて鏡子は襟を合せた。何時の間にか千枝子も伯母の膝にもたれて居た。お照が千枝子に二言三言物を云つて[#「云つて」は底本では「立つて」]行かうとすると榮子がわつと泣き出した。鏡子は手を放して子を立たせた。お照は走つて寄つた榮子を、
『いけません。』
と突き飛ばして行つてしまつた。榮子は直ぐ起き上つて走つて行つた。
『千枝子さんはお悧口ね。』
かう云つて鏡子は姪に頬擦りをしたが心は寂しかつた。千枝子は口を少し開いて小鳥のやうな愛らしい表情をして居た。鏡子は弟の様に思つて居る京都の信田と云ふ高等学校の先生が、自分は一人子の女よりも他人の子の方を遥に遥に可愛く思ふ事、思ふ事の常である事を経験して居ると云つた事を思ひ出したりなどして居た。
『姉さん、お湯が沸きましたからお顔を洗つて頂きませう。』
とお照が云つて来た。鏡子が髪もさつぱりと結ひ替へて書斎へ帰るとまた二三人の記者が待つて居た。顔も知らない人もあつたが鏡子は心と反対な調子づいた話をして居た。
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