浜松とか静岡とか、此方へ来ては山北とか、国府津とか、停車する度に呼ばれるのを聞いても、疲労し切つた身体を持つた鏡子の鈍い神経には格別の感じも与へなかつたのであつたが、平沼と聞いた時にはほのかに心のときめくのを覚えた。それは丁度ポウトサイド、コロンボと過ぎて新嘉坡に船の着く前に、恋しい子供達の音信が来て居るかも知れぬと云ふ望に心を引かれたのと一緒で自身のために此処迄来て居る身内のあるのを予期して居たからである。鏡子の伴は文榮堂書肆の主人の畑尾と、鏡子の良人の靜の甥で、鏡子よりは五つ六つ年下の荒木英也と云ふ文学士とである。畑尾は何かを聞いた英也に、
『ああさうです、さうです。此処に来てゐる筈です。』
と[#「と」は底本では「ど」]点頭きながら云つて、つと立つて戸口を開けて外へ出た、英也も続いて出て行つたらしい、白つぽい長外套の裾が今目を過つたのは其人だらうと鏡子は身を横へた儘で思つて居た。目の半は氷を包んで額へ置いたタオルで塞がれて居るのである。
『あつ、坊ちやんが来やはつた。』
遠い所でかう云つた畑尾の声[#ルビの「こひ」はママ」が鏡子の耳に響いた。迸るやうな勢で涙の出て来たのはこれと同時であつた。暫くしてから氷に手を添へた心程身を起して気恥しさうに鏡子が辺を見廻した時、まだ新しい出迎人も旧の伴の二人も影は見えなかつた。国府津で一緒になつた新聞記者が二人向側に腰を掛けて居るので、この人等には病のために談が出来ないと断つてあるのであるから、急に元気附いたら厭な気持を起させるに違ひないと思つて、起き上りたい身体を其儘にしてじつとして居ると、開いた戸口から寒い風が入つて来た。
『これで安心致しました。真実にどうなつてはるのやろと心配したことでありませんでしたけれど。』
『直ぐ行つて下すつたので、船が一日早かつたにも係[#「かゝは」は底本では「かゝら」]らず間に合つて結構でした。あなたもお疲れでせう。』
『どう致しまして、荒木さんも神戸迄来て下さいまして、それから又随いて来てくれはつたのです。』
『さうですか、英也が。』
列車の外で清と畑尾とはこんな談話をして居たのである。
『やあ。』
『御機嫌よう。』
と声を掛けたのを初めに、英也と季の叔父の清とは四五年振に身体をひたひたと寄せてなつかしげに語るのであつた。
『坊ちやん。何時に起きて来やはつたのです。』[#底本では「』」は脱落]
二人の立つた傍を一廻りして、それから畑尾は滿に話しかけた。[#底本には「』」があるが除いた]
『五時。』
滿は元気よく云つた。
『五時、早いのだすなあ、外の坊ちやんやお嬢さんは新橋に来てはりますか。』
『晨と榮子は家に居る。』
『外の方は来てはるのだすやろ。』
『どうだか。』
と滿は小首を傾げて云ふ。
『それは来てはりますとも。』
『さう、畑尾さん。』
滿は女の様な地の声で云つた。
『嬉しいでせう、坊ちやん。』
『ふん、母さんは何処に居るの、畑尾さん。』
と滿は心配さうに云つた。
『彼処においでです。』
と云つて、畑尾は二つ向ふの車を指差した。
『嬉しいなあ、畑さん。』
と滿は云つたが、其処へ飛び込んで行かうともしないのである。
もう待草臥れたと云ふやうに鏡子が目を閉て居る所へ其人等が入つて来て、汽車は直ぐ動き出した。
『お早くから難有う御座いました。留守の子供達もいろいろお世話になりまして難有う御座いました。御親切は胆に銘じて居ります。』
鏡子は何時の間にか床に足が附いて居て、額にあつた氷は膝の上の掌に載つて居た。
『まあ御病気も太した事でありませんで結構でした。もつとお弱りかと思ひましてね、案じて居りましたのですが。』
それから清は前に立つて微笑みながら母を眺めて居る滿に、
『滿さん、御挨拶をしないの。』
と優しく云つた。
『母様、おかへり。』
かう云つて滿は顔をぱつと赤くした。
『滿さん。』
と云つた母の顔にも美くしい血が上つた。滿は其儘向側の畑尾の傍へ行つてしまつた。鏡子はまた横になつて[#「横になつて」は底本では「横になつ」]しまつた。
『家でもお照さんが心配して居るらしいですわね、畑尾さんの所へ巴里から来た手紙が余り大層に書いてあつたらしいですわね、さうだもんだから。』
鏡子はあへぎあへぎ云つた。
『お静かにしていらしつたらどうです、お話はゆつくり伺ひますから。』
見兼ねて清がさう云つた。
『ええ。』
と黙頭いて二三分も経つか経たぬに鏡子はまた、
『私ね、あなたも恨んだ事があつたのですよ。彼方で帰りたくなつた時ね。あの!巴里から来いと云つて来ました一番初めの手紙ね、あれが来た時丁度あなたが来ていらつしつて、其事を賛成遊ばしたから、私の心が間違ひ初めたのだなんか思つてね。』
と前と同じ調子で話しだした。
『はあ、さうですか、ふふ、さうですか。』
清は病院の見舞客のやうな労り半分の返辞を続けて居た。
『滿を呼んで下さいな。』
突然鏡子が云つた。
『滿さん、母さんの所へ来なくちやあ。』
『なあに。』
叔父さんは少し坐を空けて滿を座らせた。
『皆新橋へ来るの。』
鏡子は滿の手を取つた。
『晨と榮子は来ないけれど。』
『あの人等は来なくつても好い。小いのだから。』
と云つて、鏡子はお前は自分の子の中で一番大きな大切な子であると確かめて知らせるやうな目附きで滿を見た。
『瑞木や花木は此頃泣かなくつて。』
『どうだか、僕は学校へ行つてるからよく知らない。叔母さん僕は三番よ。』
『滿。なあに。』
『僕は三番なのよ。叔母さん、健は四番です。』
滿が続けざまに云ひ誤ひをして、そしてそれに少しも気が附かないで居るのが鏡子には悲しかつた。この時のは冷い涙であつた。
『英さん、北野丸を見て。』
滿は向側の従兄に話しかけた。
『ああ、見たよ。』
『アリヨルと何方が大きい。』
『それは北野丸の方が大きいさ。』
鏡子は我子の言葉から、春の末の薄寒い日の夕暮に日本の北の港を露西亜船に乗つて離れた影の寂しい女を幻に見て居た。その出立の時に自分はもう此辺からしみじみ帰りたかつたのだとも哀れに思ひ出される。新橋へ着く前に顔を洗ひたいと思つて居ることも実行がむづかしいやうでもあり、昨日北野丸で上げた儘で、そして夜通しもがき続けたのであるから髪も結ひ替へたいが出来さうにもない。こんなに何事にも力の尽きたやうな今の様がみじめでならなくも思はれるのであつた。二人の記者は何時の間にか席に居なくなつた。畑尾と英也は手荷物の数を読んだり、これこれは配達させようなどと相談をしたりして居た。
鏡子はもう幾分かの後に逼つた瑞木や花木や健などとの会見が目に描かれて、泣きたいやうな気分になつたのを、紛すやうに。
『私は苦しいのでね、まだ顔を洗はないのですよ。』
清に話しかけた。
『なあに、宜しう御座いますよ。』
『あなたの処の薫さんや千枝子さんはどうしていらつしつて。』
鏡子は弟の子の事を今迄念頭に置かなかつたやうに思はれはしないかと、かう云つた後で少し顔を染めた。
『皆壮健で居ります。』
『大きくおなりでしたらうね。』
鏡子自身がかう云つた言葉の態とらしいのに満足が出来なかつた。
『私は千枝子さんが真実に好きなんですよ。』
と云つて見たがこれも木に竹を継いだやうで厭に思はれた。[#「。」は底本では「、」]良人の外に言葉の通じぬ世界の生活に続いて、船の中で部屋附のボオイや給仕女に物を云ふ以外に会話らしい会話もせず三十八日居た自分は当分普通の話にも間の抜けた事を云ふのであらうとこれなども味気なく鏡子には思はれるのであつた。先刻から銀の針で目の横を一寸刺されたなら、出ても好いと言はれた涙は流れに流れて、あの恐しいものだつた海と同じ程にもなるだらうとそんな感じが鏡子にするのであつたが、その押へて居ると云ふのは喜びに伴ふ悲哀でも何[#ルビの「な」は底本では「なん」]んでもない、良人と二人で子の傍へ帰つて来る事の出来なかつたのが明らままに悲しいのである。得難いものの様に思つて居た子を見る喜びと云ふものと楽々目前に近づいて居るのを思ふと、それはもう何程の価ある事とも鏡子には思へないのであらう。
『叔母さん。母さん、もう新橋よ。』
と云つて、滿が母の傍へ来た。
『もう参りました。』
と清が云つた。
鏡子は滿が想像してた程大きくなつて居なかつた事が実は嬉しくてならなかつたのであつたが、瑞木と花木は其割合よりも大きかつた。さうであるから悲しい涙が零れた。そして紫の銘仙の袷の下に緋の紋羽二重の綿入の下着を着て、被布は着けずにマントを着た姿を異様な情ない姿に思はれた。
『健は。』
鏡子は前後を見廻してから云つた。
『健さん、何処に行つてるのでしよう。』
お照は人に隔てられて一二間先に立つて居た健の手を引いて来た。
『健。』
『うう、おかへり。』
顔も声もこれは最も変つて居なかつた。鏡子は意識もなしに先刻から時々其人に物を云つて居た黒目鏡が南の夏子であることに漸く気が附いて来た。
『お変りなくつて、南さんもね。』
『南も参るので御座いますがね、どうしても出なければならない講義がありましてね、私ばかり参りましたの、[#「、」は底本では脱落]皆様が大よろこびで大変で御座いましたの、奥様まあおめでたう御座います。』
静かにではあるがかう続けざまに夏子は云つた。
『一寸お写真を取らして戴きます。』
先刻同車して来た記者は写真師を伴れて来た。
『困るわ、私まだ顔も洗はないのだから。』
鏡子はお照に云ふともなく記者に云ふともなく云つて、夏子の肩に手を掛けて顔を蔭へ隠すやうにした。
『ねえ、かうしてね。』
小声で云つた。
『困つてしまひますね。』
夏子は写真師に聞えるやうな声で云つた。お照は鏡子の窶れた横顔を身も慄ふ程寒く思つて見て居た。
改札口の所には平井夫婦、外山文学士などと云ふ鏡子の知合が来て居た、靜の弟子で株式取引所の書記をして居る大塚も来て居た。十年余り前に靜と鏡子が渋谷で新世帯を持つた頃に逢つた限り逢はない昔馴染の小原も来て居た。鏡子の帰朝の不意だつたこと、ともかくも衰弱の少く見えるので嬉しいと云ふことなどが皆の口から出た。鏡子は自身でも歯痒く思ふやうなぐずぐずした挨拶をして居たが、急に晴やかな声を出して、
『平井さんの小説が大層評判が好いさうですね。』
と云つた。
『此頃は無暗に書きたいのですよ。』
平井は微笑みながら云つた。その人の妻は口を覆ふて笑ふて居た。
『車を持つて来させて御座います。』
清は鏡子を車寄せの方へ導いて行つた。旅客は怪しむ様に目をこの三十女に寄せた。
『滿がね、私の事を叔母さん叔母さんと間違へて云ふのですよ。』
車に乗らうとして横に居た外山にかう云つた鏡子の言葉尻はおろおろと曇つて居た。
『ああ、さうですか。』
外山は満面に笑を湛へて云つて居た。瑞木が鏡子の前へ乗つた。花木も乗りたさうな顔をして居たのであつたが後の叔母の車に居た。瑞木を膝に乗せた車が麹町へ上つて行く。こんな空想を西洋に居た時に何度鏡子はした事か知れない。滿、瑞木、健、花木、晨、榮子と云ふ順に気にかゝるとは何時も鏡子が良人に云つて居た事で、瑞木は双子の妹になつて居るのであるが、身体も大きいし、脳の発達も早くから勝れて居たから両親には長女として思はれて居るのである。容貌も好い。赤ん坊の時から二人の女中が瑞木の方を抱きたいと云つて喧嘩をしたりなどもした。鏡子はまた子供の中で自身の通りの目をしたのは瑞木だけであると思ふから、永久と云ふ相続さるゝ生命は明らさまに瑞木に宿つて居るやうにも思ふのである。どうしても今日母に抱かれる初めの人は瑞木でなければならないのであつた。
『お悧口にして居た。』
女の顔を上から覗き込んで鏡子が云つた。
『ええ。』
瑞木は不安らしくかう云つたのである。大きい目には涙が溜つて居る。それを見ると鏡子も悲しくなつて来た。汽車から持つて出た氷を包んだタオルはこの時まだ大事さうに鏡子の手に持たれて居たので、指ににじむその雫を冷く思つたのは十月の末の日比谷の寂しい木立の中を車の進む時であつた。
『兄さん、お父様の帰る時は僕も神戸へ行くよ。』
『伴れて行つて上げるよ。』
『兄さんに伴れて行つて貰はないでも母さんと行くのだよ。』
『ぢやあ行きなさいよ。僕なんかもうこれから君と一緒に学校へ行かない。何時でも先行つちまふから好い。』
『いやあ、兄さん。』
『およしなさいよ。ぎやあの大将。』
二番目の車に居る二人は三宅阪を曲る時にこんな争ひをして居た。麹町の通から市ケ谷へ附いた新開の道を通る時、鏡子は立つ前の一月程この道を通つて湯屋へ子供達を伴れて行く度に、やがて来る日の悲しさが思はれて胸がいつぱいになつた事などの思ひ出が氷の雫と同じやうに心からしみ出すのを覚えた。其事を云つて巴里でかこつた相手の事も思ひ出される。車屋の角を曲るともう美阪家の勝手の門が見えた。
『ををばあさあん。』
と大きい声で云つて居るのが塀越しに聞えた。同じ節で同じ事を云ふ低い声も聞える。大きいのが女の子の声で低いのが男の子の声である。この刹那に鏡子はお照から来た何時の手紙にも榮が可愛くなつたとばかり書いてあつて、[#「、」は底本では「。」]ついぞ晨の事の無かつたのと、自身が抱かうとすると反りかへつて、
『いやだあい。』
と幾度も繰り返した榮子の気の強さを思つて、其子が叔母の愛の前に幅を拡げて晨は陰の者になつて居るのではないかと胸が轟いた。早く晨を抱いて遣らねばならないと思はず鏡子の身体は前へ出た。
『おかへりい。』
門の戸は重い音を立てゝ開けられた。瑞木を車夫が下へ降すのと一緒に鏡子は転ぶやうにして門をくゞつた。
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