『男ですよ。』
『まあ可愛らしい。』
女は手を出して私の膝の上に居る子供をあやすやうにして居ました。よく笑ふ子ですから、きいきいと云つて居ました。
『Y君はよく東京の事情を知らないものだから、原稿さへ書けば直ぐ金になると思つて居たので、気の毒だ。』
『それですよ。書いてしまつたら屹度お金になるんだと云ふものですから、どうぞ書いて頂戴、私はその間どうでもしますつて云ひましてね。働いて居たんですよ。その間はYさんもさうですが私も毎晩二三時頃まで寝ませんでしたよ。』
『金は出来ないでもY君の仕事は真面目なことで、そしてきつと立派なものが出来たらうと思ふんですがね、どんなに私の心安い本屋でもこれまで名の知れてない人の長い小説は引き受けてくれませんからね。』
『これさへ出来れば、これさへ出来ればと云つて居ましてね。』
女は涙を袖で拭いて居ました。さうかと思ふとまた急に、
『坊ちやん、小母さんは貧乏でおみやがありませんね。』
と大きい声で子に話かけたりもするのです。
『恥しいお話なんですが、今日なんか私の来ます時、あなた炊いて置いて頂戴ねつて云つて来ましたお米はもう一合あまりなんですよ。二十日も三十日もお湯には入りませんし、Yさんはかう云つて下さるんですよ、おまへは昔の顔に似た処が一つもなくなつたつて。まあお腰巻を一つ買つても五十銭や六十銭かかりますからね、この間もね、小笠原さんと云ふ巡査の奥様の処へ行つてね、小母さん、私にお腰巻を頂戴ねつて云ひますとね、困つたね、私も一つよりかけがへがないんだけれどと云つて恵んでくれたんですよ。』
『××へは帰る気にはならないのかい。』
『一ぱし踏み出して来たんですもの。』
『前借が残つて居るのだつて。』
『ええ、けれど私はその三倍も儲をさせて来てやつたんですよ。こんなをかしな顔ですけれど、よく流行りましてね。』
私は自分が大きく点頭いたことを気の毒に思ひました。
『さうですから逃げ出しました時にはまだ指輪なんかも持つて居ましたのですよ。宮島に一月隠れてまして、それから東京へ来て二月の間物を買つては食べ食べして居たもんですから、ひどい身になつたんですよ。それからYさんが来たんですが、あの人は初めから何も持つて居ないんでせう。私が自分で働いたり、人にお金を借りたりしましてね、それからまた二月なんですからね。』
『Y君の話では初めは外の人と国を出て来たと云ふぢやないか。その人と一緒になるつもりだつたのかい。』
『いいえ、いいえ。』
女は恐い目をしました。そして首を暫くの間振つて居ました。
『途中で道伴になつた人があるんですよ。その人が××へ帰つてすつかり話をしたもんですから楼主の方へ皆解つてしまひましてね、あの方も土地に居られなくなつたんですよ。けれど前から三月には社をやめて東京へ行くと云つてたんですよ。初めからくはしくお話しないと解りませんけれど、一昨年の十一月に私が初めて出ました晩に上つてくれた客があの人だつたんですよ。私は女郎買なんかは嫌ひだけれど、身体に悪いから一月に一度は来るつもりだ。別の処へ行くよりはお前の処へ来ることに決めて置かうとお云ひになつてね、それから毎月一度だけは欠かさず来て居てくれたんですよ。あの人だつてちつとも困つて居ませんでしたし、私だつて女郎の四五人も下に伴れるだけの者になつて居ましたしね。それが妙なことでこんなことになりましたのよ、やはりあの社の或方のお母様の方がね、いい人だから一遍行つて逢つて見ろつてあの人が云ふもんですから、私は検査の帰りに一寸行きますとね、人を馬鹿にした方でね、女郎が真実のことを云ふ時があるかつて、そんなことを云ふんですよ。私だつて人間ですから嘘を云ふこともありますけれど、Yさんには嘘を云ひませんよと云つて帰つて来たんですよ。Yさんがその晩来ましたから、口惜しくつて口惜しくつて仕様がないと云ひますとね、随分あれで疑ひ深いのですからね、嘘がないのなら逃げて見ろと云ふのでせう。ええ逃げますともつて逃げたんですよ。』
『年期はどれ程あるんですか。』
と私は問ひました。
『ええ、丁度二年なんですよ。』
『Y君とあなたとは何時までも一緒になつて居られる、厭になんかならないと信じ合つて居るのですか。』
『私はもうそれはもとより、あの人だつてまあ別れると云ふやうな気にはなれないやうですね。私はあの書いた物がお金にならないからつて、いい加減に諦めを附けて、伴れて帰らうと思つたがどうしても居所が知れなんだとか何とか云つて一度帰つていらつしやい、私は一人で働いてあなたの運の向いて来るのを待つて居ますよと云ふのですがね、そんなことは出来ません、どうしても私には出来ないよと云ふのですよ。私は内職で十円位は取れるんですよ。あの人が此処のところで十五円位も取つて下さることが出来たらそれでいいんですがね。』
『あなたの身体をかたにして借りたお金の期限が明日きりだと云ふぢやありませんか、それはどうなさるの。』
と私は云ひました。
『それは利子を払つてやればいいでせう。』
女はそんなことは気にも留めて居ないと云ふ風でした。Yさんはそれがあるので死と云ふ言葉をよく使ふのでせうが、随分違つて居るものだと私は思ひました。
『そんな人に身体が遣れるもんなら、私は××へでも帰れるわけですよ。石にかじり附いてもあの商売は二度としようと思ひません。』
『内職つて何だね。』
と良人は聞きました。
『襯衣や腹巻を縫ふんですよ。襯衣は三銭にしかなりませんし、腹巻は六厘から一銭までなんですよ。それがね、一寸一切り仕事が切れたものですからそんな風にお米も買へないんですよ。』
『感心だね。よく針が持てるね。』
『私は編物なんかでも八本針位は使ひます。さく子さん済まないね、あんなに贅沢をして居たのになんか、二時や三時まで起きて居るとYさんは云ふのですよ。醤油を一合買つたんですけれど、煮るやうな物は何も買へませんから黴びてしまひましたよ。三升買つた糠で漬物を拵へてそればかり食べてますの。』
『Y君に仕事があるといいがね。』
『昨日ね、なんかの外交員が入ると書いてあつたとかで其処へ行きますとね、金を一円出さないと何処と云ふことは教へられないと云ふんですつて。一円が十銭もないと云つてYさんは帰つて来たんですつて。』
『そんなのに引つ掛つちやあいけませんよ。一円が取りたいからそんな仕掛をしてあるんですよ。東京と云ふ処にはいろんな人が居ますからね。』
『へええ。』
女は舌の先を円く巻いて一寸出しました。
翌日の夕方に良人が机の上で肱を突きながら、青桐の根の処を眺めて、
『Yが自分の甥か南君かだつたら憤つてやるがね。』
こんなことを云つてました時、ひよつくら玄関へ来た人はYさんでした。
良人は二階で暫くYさんと話してから微笑をして降りて来ました。
『Y君はね、昨夜あの女を出して置いてから或家へ行つてしまつたのだとさ。Y君が学生時代に居た家ださうだ。女には手紙をよく書いて置いて来たさうだよ。』
昨夜あの女が寿司を取つて来て食べさせても、どうしても喉につまると云つてろくろく食べなかつた、あの時分にYさんは女の家を出たのだらうかなどと私は思ひました。
(をはり)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
上一页 [1] [2] 尾页