今日は昨日の続きである。エレベーターは吐瀉を続けた。チヨコレートの中へ飛び込む女。靴下の中へ潜つた女。ロープモンタントにオペラパツク。パラソルの垣の中から顔を出したのは能子である。コンパクトの中の懐中鏡。石鹸の土手に続いた帽子の柱。ステツキの林をとり巻いた羽根枕、香水の山の中で競子は朝から放蕩した。人波は財布とナイフの中を奥へ奥へと流れて行く。缶詰の谷と靴の崖。リボンとレースが花の中へ登つてゐる。
久慈は進行して来る紙幣の群れを掴みながら、競子の視線を避けてゐた。香水の中から彼女の瞳がカウンターヘ反発する。
「あなた、いいわ。」
「今は午前だ。」
パラソルの中で、能子の微笑が痛快がる。新婚の若夫婦の眼前で、青春とはかくの如し、とぽんぽん羽根枕を叩きながら、
「ええ、ええ、これならお丈夫でございますわ。」
無論、能子には覚えはない。昨夜は競子と久慈を張り合つて帰つて来た。邪魔をするのが目的だ。久慈を愛してゐるが故ではない。誇らかな競子の半世紀遅れた肉感を、嶄新な諧謔で圧倒してやるためである。彼女は羽根枕の売上げを久慈の傍まで持つて行つた。
「はい。」
「やア。」
「少しはこちらも見て頂戴。」
「今暫く。」
競子は足先で床を叩いた。香水が三本売れれば三べん久慈のネクタイヘ息を吐きかけることが出来るのだ。だが、此のぼんやりしたシクラメン、オーデコロンは憎々しげに光つてゐる。能子はわざわざ競子の肉感を験べるために前を廻つて帰つて来た。
「急がしさうね。」
「ええ、御覧の通り。」
紙幣行進曲に合せてデパートメントは正午へと沸騰する。エレベーターのボーイは七層の空間を上つたり下つたりしながら、その日の時間を消していつた。
久慈がカウンターヘひつ付いてゐるのは生活のためではない。此のデパートメントの持ち主の道楽息子は永遠の女性を創るがためだ。生活は彼にとつては嘘のやうに方便だ。彼は七層のシヨツプガールを次から次へと舐めてみるシヤベル。永遠の女性は彼に於ては寄り集めて創られる。競子は胴で能子は頭。肩や手足は七階の毛布や机の中で動いてゐる。容子。鳥子。丹子。桃子。鬱子。彼の小使は一ケ月に二万円だ。百貨店の七階から街路へ向かつて振り撒いても、電車や自動車の速力は鈍るだらう。
久慈は二階へ昇つて行つた。鬱子は半襟の中で胃袋のやうに動いてゐる。彼女は久慈にとつては永遠の女性の右脚だ。その癖彼を片肩に担いだまま、片足に重役を履いて馳け廻るのも美事である。
「あら、久慈さん、お暑いのね。」
「下はここよりなほ暑い。」
「ここも暑いわ。」
「もう一寸、笑つてくれ。」
「だつて、まだ氷も飲めないの。」
久慈は十円札を握らせて三階へと登つて行く。封筒の中に、レツテルのやうに埋つてゐるのは軽い桃子。
「もう少し、暴れなければ。」
「だつて、暑いわ。」
「だつて、ハンカチ位はあるだらう。」
十円札をハンカチに包んで投げ出すと、久慈は四階へと昇つて行つた。婚礼調度品の大鯛小鯛に挟まつて、丹子は汗をかいたまま夕暮の来るのを待つてゐる。
「まア、素通りするなんて。」
「今日は人がゐないぢやないか。」
「だから、寄つたつていいぢやないの。」
「人がゐなければ、人眼に付く。」
「五階へお急ぎになるのには、悪いわね。」
「四回で疲れて了つては、意気地がない。」
丹子は女中のやうにお饒舌だ。ここで掴まると、五階の会話が短かくなる。振り切り賃を鯛の腹の下へ押し込んで、五階へと急いで行く。鳥子は金属の中に、刺つた花のやうに浮いてゐた。近よる久慈の方へ指を上げながら、
「けふは冗談を仰言らないで。」
「僕は休憩時間だよ。」
「だつて、あたしはこれからなの。」
「五階まで昇つて蹴られては、降りられない。」
「まア、もう少しあちらへ行つて、」
「これほど放れてをれば、汗もかくまい。」
「あそこで人が、みてるぢやないの。」
「ぢや、これはいくらでございます?」
「はい、それは三十五銭でございますの。」
久慈は爪切りを一丁買ふと十円紙幣を支払つた。
「お釣はお宅へ。」
六階へ昇ると、笑つた容子が鏡の中に五人もゐる。
「どちらが君だ。」
「あら、今日の巡礼はお早いのね。」
「だから、練習と云ふものは、しておくものさ。」
「道理で能子さんが、おしやべりになつたのね。」
「それや、君だ。」
「あたしがおしやべりになつたつて?」
「誰だかそんなことを云つてたよ。」
「それや、あたしが、六階あたりにゐるからよ。」
「人里はなれて暮らしてゐると、下界のことが気になるな。」
「こんな所で、お婆さんにはなりたくないわ。」
「いや、物事は、高い所から見降ろすものさ。」
「でも、高い所へはなかなか男の方は来ませんわ。」
「なるほど、君は、今日は満点だ。」
二枚の十円札が、いきなり容子の帯の間へ突き刺さる。
「まア、もう逃げ支度をなさるのね。」
「時間だ。」
「それや、下でお涼みになる方が、湿気があつて、」
急転直下、久慈は運動が終ると七階からエレベーターで馳け下る。彼は能子の傍へ近かづいた。彼には能子は苦手である。此の「永遠の女性」の頭だけは彼の十円紙幣で効いたためしは一度もない。それ故彼の心理学はいつも此処まで来ると狂ふのだ。彼は賭博に負けたマニヤのやうに、十円札を彼女の前へ重ねて行く。だが、能子の云ふのはかうである。
「あなた。何ぜあなたはあたしにこんなにお金を下さるの?」
「君が、受けとりさうにもないからさ。」
「ぢや、あたし、貰つておくわ。だけど、あなたは、馬鹿だわね。」
「いや、僕より、君の方が賢いのだ。」
彼女は彼の誘惑に従つてどこへでもついて行く。だが、彼女は彼の誘惑にかかつたことは一度もない。
「あなた、なぜあなたは、あたしの心がお分りになれないの。」
「分つて了へば、それまでだ。なるだけ、君だけは、百貨店の法則から逆に進行してゐてくれ給へ。」
「さうすると、あたしにこんなにお金が出て来るの?」
「いや、それは君が金を馬鹿にしてゐる賃金さ。」
「だつて、あたしは、あなたがあたしにお金を下さることを馬鹿にしてゐるのよ。」
「それは勝手だ。だが、金を君にやるからと云つて、僕を馬鹿扱ひにするのは御免蒙る。」
「だけど、そんなことをなすつてゐると、今にあなたがお金のやうに見えて了ふわ。」
「つまり、人間に見えないと云ふんだな。」
「ええ、さう。あなたはお金よ。たつたそれだけ。」
「今度は化物扱ひにし出したな。」
「だつて、あなたは、それが本望なんですもの。あなたは人間の感能がお金でどこまで発達してゐるか、験べる機械のやうなものなのよ。ね、あたしはあなたに、どんな参考になつてゐるの?」
「君は、今の百貨店の売上高では、分らない。」
「ぢや、あたし、あなたにもつと勉強するやうにさせて上げるわ。そしてそのときになつたら、あたしあなたからお金をとつて、それをみんな、あたしと一緒に働いてゐる人達に振り撒くの。さうすると、品物の能率が上るでせう。そしたら、あなたがもつとお金をおとりになるでせう。そしたら、またあたしが沢山とつて、それを人々に振り撒いて、ね、あなたはその間にいろいろな女の方に飽くことを練習するの。今はまアあなたの過度期だから、あたしは黙つて見てゐるわ。まア、あたしは、ここ暫くはあなたの柔い監督ね。」
「うつかりすると、君は社会主義者になりさうだよ。」
「ええ、さう、あたしは、あなたん所の労働者よ。万国の労働者よ団結せよつて云ひたい方なの。だつて、あたしは、朝の八時から立ち詰めよ。あなたのやうに運動がてらに七階まで上つて行つて、一枚づつお幣(さつ)をくばつて降りて来て、それから競子さんを自動車に乗せて飛び廻ることなんか、新らしい仕事だなんて思へないわ。」
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