「こらッ、あの子を泣かしちゃいかんよ」
私はこんなに自分の次男によく云ったが、次男は、
「あの子、泣きみそなんだよ」と云ってさも面白そうにまた泣かした。高次郎氏の所へ一年に一度年賀の挨拶に私の方から出かけて行くのも「今年もまた何をし出かすか分りませんから、どうぞ宜敷(よろし)く」と、こういう私の謝罪の意味も多分に含んでいた。この家は門の戸を開けると一歩も踏み込まないのに、すぐまた玄関の戸を開けねばならぬという風な、奇妙な面倒さを私は感じ敷居も年毎に高くなったが、出て来るみと子夫人の笑顔だけは最初のときと少しも変らなかった。
高次郎氏とも私は顔を合すというような機会はなかった。月の良い夜など明笛(みんてき)の音が聞えて来ると、あれ加藤の小父さんだよと子供の云うのを聞き、私も一緒に明治時代の歌を一吹き吹きたくなったものである。
高次郎氏が看守長となった年の秋、漢口(かんこう)が陥(お)ちた。その日夕暮食事をしていると長男が突然外から帰って来て、
「加藤さんところの小父さん、担架に乗せられて帰って来たよ。顔にハンカチがかけてあった」と話した。
私と家内は咄嗟(とっさ)に高次郎氏の不慮の死を直覚した。
「どうなすったのかしら。お前訊(き)かなかった」
家内の質問に子供は何の興味もなさそうな顔で「知らん」と答えた。外から見てどこと云って面白味のない高次郎氏だったが、篤実な人のことだから陥落の喜びのあまりどこかで酒宴を催し、ふらふらと良い気持ちの帰途自動車に跳(は)ねられたのではなかろうかと私は想像した。それならこれはたしかに一種の名誉の戦死だと思い、すぐ私は二階へ上って加藤家の方を見降した。しかし、家中は葉を落した高い梧桐(あおぎり)の下でひっそりと物音を沈めているばかりだった。そのひと晩は夜の闇が附近いちめんに密集して垂れ下って来ているような静けさで、私は火鉢につぐ炭もひとり通夜の支度をする寂しさを感じた。すると、次の朝になって次男が、
「加藤さんの小父さん、お酒飲んで帰って来たら、電車に突き飛ばされて死んじゃったんだって」とまた云った。
「違うよ。まだ生きてるんだよ」
と長男が今度はどういうものか強く否定した。
「死んだんだよ。死んだと云ってたよ」
とまた次男は声を強め倦(あ)くまで長男に云い張った。どちらがどうだかよく分らなかったが、とにかく不慮の出来事のこととてこちらから訊ねに行くわけにもいかずそのままでいると、その翌日になって高次郎氏の家から葬(とむらい)が出た。
私は家内を加藤家へお焼香にやった後、小路いっぱいに電柱の傍に群れよって沈んでいる、看守の服装をした沢山な人たちの姿を眺めていた。そのときふと私はその四五日前に見た、加藤家の半白の猫が私の家の兎(うさぎ)の首を咥(くわ)えたと見る間に、垣根(かきね)を潜(くぐり)り脱けて逃げた脱兎(だっと)のような身の速さを何となく思い出した。
高次郎氏の不慮の死はやはり子供たちの云い張ったようだった。酔後終電車に跳ねられてすぐ入院したが、そのときはもう内出血が多すぎて二日目に亡くなったということである。みと子夫人は裁縫の名手だから高次郎氏の死後の生活の心配は先ず無くとも、見ていても出来事は少しこの家には早すぎて無慙(むざん)だった。加藤家はその後すぐ人手にわたった。そして一家は高次郎氏やみと子夫人の郷里の城ヶ島へ水の引き上げてゆくような音無(おとな)しさで移っていった。
三カ月は不慮の死の匂いがあたりに潜んでいる寂しさで私は二階に立った。ある日みと子夫人から、香奠返(こうでんがえし)に一冊の貧しい歌集が届いた。納められた中の和歌は数こそ尠(すくな)かったがどれもみな高次郎氏の遺作ばかりだった。私は氏を剣客だとばかり思っていたのにそれが歌人だったと知ると、俄(にわか)に身近かなものの死に面したような緊張を感じ、粗末な集を先ず開いたところから読んでみた。
「宵月は今しづみゆき山の端(は)におのづ冴(さ)えたる夕なごり見ゆ」
「夕暗(ゆふやみ)に白さ目につく山百合(やまゆり)の匂ひ深きは朝咲きならむ」
月夜に明笛を吹いた剣客であるから相当に高次郎氏は優雅な人だと私は思っていたが、しかし、これらの二首の歌を見ると、私は今まで不吉な色で淀(よど)んで見えた加藤家の一角が、突然爽(さわ)やかな光を上げて清風に満ちて来るのを覚え襟(えり)を正す気持ちだった。
「冷え立ちし夜床にさめて手さぐりに吾子の寝具かけなほしけり」
「井の端にもの洗ひ居(を)る我が妻は啖(たん)吐く音に駆けてきたれる」
この歌など高次郎氏の啖吐く音にも傍まで駆けよって来るみと子夫人の日常の様子が眼に泛(うか)んで来るほどだが、これらの歌とは限らず、どの歌も人格の円満さが格調を強め高めているばかりではない、生活に対して謙虚清澄な趣きや、本分を尽して自他ともどもの幸福を祈ってやまぬ偽りのない心境など、外から隣人として見ていた高次郎氏の温厚質実な態度以上に、はるかに和歌には精神の高邁(こうまい)なところが鳴りひびいていた。
暫くの間、私はこのあたりに無言でせっせっと鍬(くわ)を入れて来た自分の相棒の内生活を窺(のぞ)く興味に溢(あふ)れ、なお高次郎氏の歌集を読んでいった。妻を詠(うた)い子を詠う歌は勿論(もちろん)、四季おりおりの気遣(きづか)いや職務とか人事、または囚人の身の上を偲(しの)ぶ愛情の美しさなど、百三十二ほどのそれらの歌は、読みすすんでゆくに随(したが)い私には一句もおろそかに読み捨てることが出来ないものばかりだった。私ら二人は新年の挨拶以外に言葉を交(まじ)えたことはなかったとはいえ、どちらも十幾年の月日を忍耐して来た一番の古参である。この歌集の序文にも加藤高次郎君は剣道よりも後から和歌に入りまだ十幾年とはたたぬのに、かくも精神の高さにいたったことは驚歎に価すると歌の師匠が書いているが、私には、高次郎氏の歌はどの一首も思いあたることばかりだったのみならず、すべてそれは氏の亡くなってから私に生き生きと話しかけて来る声だった。私は身を乗り出し耳を傾ける構えだった。
「一剣に心こもりておのづから身のあはだつをかそかに知れり」
「正眼に構えて敵に対(むか)ひつつしばし相手の呼吸をはかる」
これは戸山学校の剣道大会に優勝したときの緊張した剣客の歌である。次にこういうのがあった。
「ことたれる日日の生活(たつき)に慣れにつつ苦業求むる心うすらぐ」
この歌は恐らくみと子夫人の情愛に、いつとなく慣れ落ちてしまった高次郎氏の悔恨に相違あるまい。このような歌を作った歌人はあまり私の知らないところだが、また私にも同様の悔恨が常に忍びよって来て私を苦しめることがある。
「現身(うつしみ)のもろき生命(いのち)の思ひつつ常のつつしみかりそめならず」
これは囚人を絶えず見守っている人の家に帰った述懐であろうが、この述懐がつもり積って次のような歌となり、人人の心を襲って来るのが一首あった。
「生きの身をくだきて矯(た)めよ囚人(めしうど)の心おのづとさめて来たらむ」
看守長のなさけはまだこの他にも幾つとなくつづいていた。折にふれてと題して、
「口重き吾(われ)にもあらず今日はまたあらぬ世辞言ひ心曇りぬ」
この人は心の騒ぐ日、いつも歎き悲しむ歌を詠むのが習慣となっているが、その一つに、
「己が身の調(ととの)はざるか人の非にかくも心のうちさわぎつつ」
というのがある。私は自分にもこんな日がしばしば来たばかりか、他人の非に出あわぬ朝とて幾十年の間ほとんどないのを思いよくも永年(ながねん)この忍耐をしつづけて来たものだと、我が身をふり返って今さら感慨にふけるのだった。
「上官のあつきなさけに己が身を粉とくだきて吾はこたへむ」
この歌も高次郎氏を思うと嘘ではなかった。私はこのような心の人物の一人でも亡くなる損失をこのごろつくづくと思うのだが、上官に反抗する技術が個性の尊重という美名を育て始めた近代人には、古代人のこの心はどんなに響くものか、私は今の青年の心中に暗さを与えている得も云われぬ合理主義に、むしろ不合理を感じることしばしばあるのを思い、私の子供にこれではお前の時代は駄目になるぞと叱る思いで、次の歌を読みつづけた。
「移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮(すいれん)けさ咲きにけり」
加藤高次郎氏のこの歌集は題して「水蓮」という。これは高次郎氏の歌の師匠のつけた題であるが、この師は高次郎氏の「睡蓮」について睡を水としたまま次のように書いている。
「加藤君がかつて水蓮によって、人生をいたく教えられたことがあると言って、しみじみと洩(も)らされたことがあった。先年役所(刑務所)の庭に造った池に、所長さんの処から一株の水蓮を根分けしていただいたことがある。この水蓮は刑務所の池へ移されて来ても、少しもかわるところがない。やはり水蓮としての性を十分発揮してその可憐(かれん)なやさしい美しい花を開いているではないか。この水蓮の可憐な花の姿に加藤君は魂をうたれた。人間であればいかなる偉い人でも、刑務所へ移されると態度が変ってしまう。それなのに水蓮は移されたことも知らぬ顔に咲き誇っている。なんたる自然の偉大さであろう。出来得べくんば自分もこの水蓮の花のように、如何(いか)なる事件に逢おうとも心を動かすことなくありたい。これが加藤君の水蓮によって悟入した心境であった」
師匠というものは弟子の心をよく知っているものだが、高次郎氏もまた、水蓮のような人として師の眼に映じていたにちがいない。この遺歌集の最後の二首は、また氏の最後のものらしく円熟した透明な名残(なご)りをとどめている。
「しののめはあけそめにけり小夜烏(さよがらす)天空高く西に飛びゆく」
「大いなるものに打たれて目ざめたる身に梧桐(あをぎり)の枯葉わびしき」
高次郎氏の師匠はさらにこの歌集の巻末に、加藤君はある夜役所の帰りに突然私の所へ来て、雑誌に出た自身の歌を全部清書したいからと云い、端座したまま夜更(よふけ)までかかって清書をし終えた。その後で酒を二人で飲んで帰途についたが、翌日加藤君の危篤の報に接し、次の日に亡くなった。人生朝露のごとしといえあまりのことに自分は自失しそうだと書いてあった。
してみると、高次郎氏が電車に飛ばされたのは、自分の歌集を清書し終えたその夜の帰途にちがいないと私は思った。私には高次郎氏の死はもう他人の事ではなく、身に火を放たれたような新しい衝撃を感じた。一度は誰にも来る終末の世界に臨んだ一つの態度として、端座して筆を握り自作を清書している高次郎氏の姿は、も早や文人の最も本懐とするものに似て見え、はッと一剣を浴びた思いで私はこの剣客の去りゆく姿を今は眺めるばかりだった。
高次郎氏が亡くなってからやがて一周忌が来る。先日家内は私の家の兎を食い殺した加藤家の猫が、老窶(おいやつ)れた汚(きたな)い手でうろうろ食をあさり歩いている姿を見たと話した。私は折あらば一度その猫も見たいと思っている。
底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年8月20日初版発行
1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2000年10月7日公開
青空文庫作成ファイル:
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