您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 横光 利一 >> 正文

純粋小説論(じゅんすいしょうせつろん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-13 9:22:08  点击:  切换到繁體中文


 中島健蔵氏の通俗小説と純文学の説論、阿部知二氏の純文学の普及化問題、深田久弥氏の純文学の拡大論、川端康成氏の文壇改革論、広津和郎氏、久米正雄氏、木村毅氏、上司小剣氏、大佛次郎氏、等の通俗小説の高級化説、岡田三郎氏の二元論、豊田三郎氏の俗化論、これらはすべて、私の見たところでは、純粋小説論であるが、それらの人々は、すべて実際的な見地に立って、それぞれの立場から、純粋小説を書くために起る共通した利益にならぬ苦痛を取り除く主張であると見えても、さしつかえはないのである。それらは通俗小説を書けというのでは勿論もちろんない。現代の日本文学を、少くとも第一流の世界小説に近づける高級化論であって、ず通俗への合同低下の企劃きかくと思い間違える低俗との、戦いとなって現れて来たのである。そうして、今はこの問題の通過なくして、文芸復興のどこから着手すべきものか私は知らない。恐らく、この現れは困難多岐な道をとることと思うが、作家共通の苦痛を除くためには、是非とも緊急なことであって、それなればこそ異口同音の説が形を変えてき興って来たと見るべきで、私は新人として現れるものなら、主義流派はともかくも少くとも純粋小説をもって現れなければ意義がないと思うばかりでなく、旧人といえども、純粋小説に関心なくして、今後の成長打開の道はあるまいと思う。
 ここで少し私は自分の純粋小説論を簡単に書いてみたい。今までのべて来たところの事は、誰にでも通じることであったが、以下書くことは、現代小説を書こうと試みた人でなければ興味のない部分に触れると思う。――今までの日本の純文学に現れた小説というものは、作者が、おのれひとり物事を考えていると思って生活している小説である。少くとも、もしそれが作者でなければ、その作中に現れたある一人物ばかりが、自分こそ物事を考えていると人々に思わす小説であって、多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているという世間の事実には、盲目同然であった。もしこのようなときに、眼に見えた世間の人物も、それぞれ自分同様に、勝手気儘かってきままに思うだけは思って生活しているものだと分って来ると、突然、今までの純文学の行き方が、どんなに狭小なものであったかということに気づいて来るのである。もしそれに気がつけば、早や、日記文学の延長の日本的記述リアリズムでは、一人の人物の幾らかの心理と活動とには役には立とうが大部分の人間の役には立たなくなるのである。前にものべたように、人々が、めいめい勝手に物事を考えていることが事実であり、作中に現れた幾人かの人物も、同様に自分一人のようには物事を思うものでないと作者が気附いたとき、それなら、ただ一人よりいない作者は、いったいいかなるリアリズムを用いたら良いのであろうか。このとき、作者は、万難を切りぬけて、ともかく一応は幾人もの人間と顔を合せ、そうして、それらの人物の思うところをある関聯に於てとらえ、これを作者の思想と均衡させつつ、中心に向って集中して行かねばならぬ。このような小説構造の最因難な中で、一番作者に役立つものは、それは観察でもなければ、霊感でもなく、想像力でもない。スタイルという音符ばかりのものである。しかし、この音符を連ねる力は、ただ一つ作者の思想である。思想といっても、この思想を抽象的なものに考えたり、公式主義的な思考と考えるようなものには、アランの云ったように思想の何ものをもつかめないにちがいはないが、登場人物各人のことごとくの思う内部を、一人の作者が尽く一人で掴むことなど不可能事であってみれば、何事か作者の企画にせ参ずる人物の廻転面かいてんめんの集合が、作者の内部と相関関係を保って進行しなければならぬ。このときその進行過程が初めて思想というある時間になる。けれども、ここに、近代小説にとっては、ただそればかりではゆるされぬ面倒な怪物が、新しく発見せられて来たのである。その怪物は現実に於て、着々有力な事実となり、今までの心理を崩し、道徳モラルを崩し、理智を破り、感情をゆがめ、しかもそれらの混乱が新しい現実となって世間を動かして来た。それは自意識という不安な精神だ。この「自分を見る自分」という新しい存在物としての人称が生じてからは、すでに役に立たなくなった古いリアリズムでは、一層役に立たなくなって来たのは、云うまでもないことだが、不便はそれのみにはあらずして、この人々の内面を支配している強力な自意識の表現の場合に、幾らかでも真実に近づけてリアリティを与えようとするなら、作家はも早や、いかなる方法かで、自身の操作に適合した四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はないのである。もうこのようになれば、どんな風に藻掻もがこうと、短篇たんぺんでは作家はただ死ぬばかりだ。純粋小説論の起って来たのは、すべてがこの不安に源を発していると思う。「すべて美しきものを」と浪曼主義者は云う。しかし、現代のように、一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなおつ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途いちずに頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。われわれの最大の美しい関心事は、人間活動の中の最も高い部分に位置する道徳と理智とを見脱みのがして、どこにも美しさを求めることが出来ぬ。「われら何をなすべきか」と能動主義者は云う。しかし、いかに分らぬとはいえ、近代個人の道徳と理智との探索を見捨てて、われら何をなすべきであるのか。けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称の設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人なんぴとも企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。新しい浪曼主義は、ここから出発しなければ、創造は不可能である。しかも、ただ単に創造に関する事ばかりではない。どんなに着実非情な実証主義者といえども、法則愛玩ほうそくあいがんの理由を、おのれの理智と道徳とのいずれからの愛玩とも決定を与えぬ限り、人としての眼も、個人としての自分の眼も、自分を見る自分の眼も、容赦なくふらつくのだ。私はこの眼のふらつかぬものを、まだそんなに見たことがない。いったい、われわれの眼は、理智と道徳の前まで来ると、何ぜふらつくのであろう。純粋小説の内容は、このふらつく眼の、どこを眼ざしてふらつくか、何が故にふらつくかをさぐることだ。これが純粋小説の思想であり、そうして、最高の美しきものの創造である。も早やここに来れば、通俗小説とか、純文学とか、これらの馬鹿馬鹿しい有名無実の議論は、万事何事でもない。

 しかし、純粋小説に関して、なおこまかい説明をつけようとすれば、ここにまた次の新しい技術の問題が現れて来なければならぬ。それは自然の中に現れる人物(人間)というものは、どこからどこまでが小説的人物であるかという、残しておいたまことに厄介な解釈である。純粋小説論は哲学とここの所で一致して進むべきものと思うが、しかし同時にここから、技術の問題として、たもとを分けて進まねばならぬ。私は話意を明瞭めいりょうにするために、前からのべて来たところをしばらく重複させねばならぬが、いったい、人間は存在しているだけでは人間ではない。それは行為をし、思考をする。このとき、人間にリアリティを与える最も強力なものは、人間の行為と思考の中間の何ものであろうかと思い煩う技術精神に、作者は決定を与えなければならぬ。しかも、一人の人間に於ける行為と思考との中間は、何物であろうか。この一番に重要な、一番に不明確な「場所」に、ある何ものかと混合して、人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼とが意識となってよこたわっている。そうして、行為と思考とは、様々なこれらの複眼的な意識に支配を受けて活動するが、このような介在物に、人間の行為と思考とがわかたれて活動するものなら、外部にいる他人からは、一人の人間の活動の本態は分り得るものではない。それ故に、人は人間の行為を観察しただけでは、近代人の道徳も分明せず、思考を追求しただけでは、思考という理智りちと、行為の連結力も、洞察することは出来ないのである。そのうえに、一層難事なものがまたここにひかえている。それは思考の起る根元の先験ということだが、実証主義者は、今はこれを認めるものもないとすればそれなら、感情をもこめた一切の人間の日常性というこの思考と行為との中間をつなぐところの、行為でもなく思考でもない聯態れんたいは、すべて偶然によって支配せられるものと見なければならぬ。しかし、それが偶然の支配ではなくて、必然性の支配であると思わなければ、人間活動として最も重要な、日常性について説明がつかぬばかりではない、日常性なるものさえがあり得ないと思わねばならぬのである。これは明らかに間違いである。
 こうなれば、作家が人間を書くとは、どんなことを云うのであろうか。純粋小説論の結論は、所詮しょせんここへ来なければ落ちつかぬのである。しかし、人間を書き、それの活動にリアリティを与えねばならぬとなれば、いかなる作家といえども、この難渋困難な場合に触れずに、一行たりとも筆は動かぬ。すなわち、人間を書くということは、ず人間のどこからどこまでを書くかという問題である。すでにのべたように、人間の外部に現れた行為だけでは、人間ではなく、内部の思考のみにても人間でないなら、その外部と内部との中間に、最も重心を置かねばならぬのは、これは作家必然の態度であろう。けれども、その中間の重心に、自意識という介在物があって、人間の外部と内部を引き裂いているかのごとき働きをなしつつ、あたかも人間の活動をしてそれが全く偶然的に、突発的に起って来るかのごとき観を呈せしめている近代人というものは、まことに通俗小説内に於ける偶然の頻発と同様に、われわれにとって興味あふれたものなのである。しかも、ただ一人にしてその多くの偶然を持っている人間が、二人以上現れて活動する世の中であってみれば、さらにそれらの偶然の集合は大偶然となって、日常いたる所にひしめき合っているのである。これが近代人の日常性であり必然性であるが、このようにして、人間活動の真に迫れば迫るほど、人間の活動というものは、実に瞠目どうもくするほど通俗的な何物かで満ちているとすれば、この不思議な秘密と事実を、世界の一流の大作家は見逃がすはずはないのである。しかも彼らは、この通俗的な人間の面白さを、その面白さのままに近づけて真実に書けば書くほど、通俗ではなくなったのだ。そうして、このとき、卑怯ひきょうな低劣さでもって、この通俗を通俗として恐れ、その真実であり必然である人間性の通俗から遠ざかれば遠ざかるに従って、その意志とは反対に通俗になっているという逆説的な人間描法の魔術に落ち込んだ感傷家が、われわれ日本の純文学の作家であったのだ。この感傷の中から一流小説の生れる理由がない。しかし、も早やこの感傷はゆるされぬのだ。われわれは真の通俗を廃しなければならぬ。そのためには、何より人間活動の通俗を恐れぬ精神が必要なのだ。純粋小説は、この断乎だんことした実証主義的な作家精神から生れねばならぬと思う。

 私は目下現れているさまざまな文学問題に触れつつまわり道をして純粋小説に関する覚書を書きすすめて来たが、人間をいかに書くかという最後の項には、触れることをやめよう。これは作家各自の秘密と手腕に属することであり、云い得られることでもない。唯ここでは、私は、自分の試みた作品、上海、寝園、紋章、時計、花花、盛装、天使、これらの長篇制作ちょうへんせいさくに関するノートを書きつけたような結果になったが、他の人々も今後さかんに純粋小説論を書かれることを希望したい。今はこのことに関する意見の交換が、何より必要なときだと思う。そのために、作家は延び上り成長するべきときである。浪曼主義者ろうまんしゅぎしゃも、能動主義者も、共にこの問題について今しばらく考えられたい。行動主義と自由主義については、その前に飛び越すわけには行かぬ民族の問題があるから、今は一先ずこれにはペンをつつしもう。今日本がヨーロッパと同一の位置にいるとは私には思えないからだ。私はヨーロッパの理智が、亜細亜アジアの感情や位置の中で、どこまで共通の線となって貫き得られるものかという限界を、前から考えてみたが、まだ今は我国のマルキシズムさえが、外部から見れば一種の国粋主義のごとき観さえ帯びている時代である。転向して来た作家評論家の行為も何となく一番自然に無理なく見えるのも、原因はここにあるのだ。これらの人の行為は、内部からばかり見るものではなく、外部からも見なければ、自然や人間に忠実な見方とはいえないと思う。日本人の思想運用の限界が、これで一般文人に判明してしまった以上は、日本の真の意味の現実が初めて人々の面前に生じて来たのと同様であるのだから、いままであまりに考えられなかった民族について考える時機も、いよいよ来たのだと思う。私に今一番外国の文人の中で興味深く思うのは、ヴァレリイとジイドであるが、ジイドの転向に反して、ヴァレリイの動かぬのはただ単に思想実践力の両者の相違とばかりには思えない。一人は分ったから動き、一人は分ったから動かぬのか、あるいは、一人は分らぬから動き、他は分らぬから動かぬか、そのどちらかであろう。しかし、分り、分らぬとは、どこが違うか誰も定めたのではない。ただ私には、亜細亜のことは自分は知らぬから、云わないだけだと云ったヴァレリイの言葉が一番に私の胸を打つ。ところが、わが国の文人は、亜細亜のことよりヨーロッパの事の方をよく知っているのである。日本文学の伝統とは、フランス文学であり、ロシア文学だ。もうこの上、日本から日本人としての純粋小説が現れなければ、むしろ作家は筆を折るにくはあるまい。近ごろ、英国では十八世紀の通俗小説として通っていたトムジョーンズという作品が、純粋小説として英国文壇で復活して来たということだが、我国の通俗小説の中にも、念入りにしらべたなら、あるいは純粋小説があるのかもしれない。このごろ私はスタンダールのパルムの僧院を贈られたので読んでいるが、これは純粋小説の見本ともいうべきものだ。この作者は「赤と黒」とを書いているとき、すでにトムジョーンズを読みつつ書いたといわれただけあって、この「パルム」も原色を多分に用いた大通俗小説である。もし日本の文壇にこの小説が現れたら、直ちに通俗小説として一蹴いっしゅうせられるにちがいあるまい。純文学を救うものは純文学ではなく、通俗小説を救うものも、絶対に通俗小説ではない。等しく純粋小説に向って両道から攻略して行けば、必ず結果は良くなるに定っていると思う。純粋小説の社会性と云うような問題は他に適当な人が論じられるであろうから、私は今はこれには触れないが、しかし、純粋小説は可能不可能の問題ではない。ただ作家がこれを実行するかしないかの問題だけで、それをせずにはおれぬときだと思う事が、肝腎かんじんだと思う。





底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月~
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2002年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

上一页  [1] [2]  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告