十三
S城の軍兵はその粗大さの故に遂に破れた。しかし、Q城はS城からその生命の原泉であるS川の水を奪ふことは出来なかつた。何ぜなら、Q城の城主は、S城の市民の間に、彼らの必死の反抗心を育てることを喜ぶことが出来なかつたからである。
S川は依然として流れることを赦された。だが、S城の城主は反逆者として殺された。さうして、Q城の城主は、再びS城に新しい城主を与へなかつた。かうして、S城の市民は永久に彼らからその反逆の武器を奪はれた。
SとQとの二城の闘争は断絶した。S城は常にQ城の支配の下に鎮つてゐなければならなかつた。だが、城主の亡んだS城の市民の間では、ひそかに個人の経済活動が分裂しながら繁しくなつた。商人がひとり財力を蓄積した。個人と個人の争闘が激烈になり出した。
しかし、Q城の城主にとつて、此の現象は喜ぶべきことであつた。何ぜなら、個人の争闘が激しくなればなるほど、彼らはQ城に対する怨恨の団結力を鈍らせて行くにちがひなかつたからである。いかに個人が勢力を貯へたとて、一国の城主に勝てないことは分つてゐた。
十四
SとQとの二城の争闘が根絶されたときには、天下は再び王朝の勢力を挽回した。曽て彼らの国主を担いで王朝に反抗した民衆は、今は彼らの国主を捨てて王朝を担ぎ出した。封建制度が亡び出した。民衆は彼らの領主から解放された。領主は民衆の一人となつて蹴落された。
さうして、Q城の城主もまた、不意に彼の使役した一介の土民と等しい一線へ墜落した。
だが、此の急激な変遷にひとり利益を得たのは商人であつた。S城の市民はQ城のために久しくその武力を奪はれてゐた報酬として、彼らは商人となつて莫大な私財を貯へてゐた。此のためS城の市民の財力は、個人としてはるかにQ城の市民を凌駕してゐた。領主から解放されたQとSとの市民達は、突如としてその私財の多寡に従つて個人の権力を延ばし出した。
十五
S市はQ市を圧倒した。S市は私財を糾合した力に依つて、ひとり益々彼らの生産力を膨脹させた。彼らの生産が増せば増すほど、彼らの私財は増加した。彼らの私財が増せば増すほど、彼らの生産力は膨脹した。
今は、Q市はS市の勢力に対する唯一の妨礙として、S川の閉塞を命令することが出来なかつた。彼らはただ貧しきままに、正しき伝統と品位とを誇らかに尊重してゐなければならなかつた。
しかし、S市の海岸平野の上には珍奇な工場が竝び出した。S市の市民は、その混種の粗雑さを以つて新らしき文化を建設し始めた。彼らには伝統はなかつた。彼らには因習がなかつた。彼らは新らしき祖先であつた。彼らは彼らの力のまゝに、その生産と財力とを拡張すればそれで良かつた。彼らは彼らの障害となる凡ゆる古き習性と形式とを破壊し始めた。彼らは自由であつた。彼らには拘束がなかつた。彼らは気品と階級を蹴倒した。彼らは団結を憎んだ。彼らは個性を愛した。彼らは分裂した各々勝手な情熱を以て横に拡がつた。
さうして、S市の市長は忽ちの間にQ市の市民を併呑した。
十六
S市はその財力の豊かさを以つて、絶えずS川の開鑿を行つた。だが、Q市はその財力の貧しさの故に、絶えずQ川の堆積物を放任した。このため、Q川の浸蝕力の鈍るに従ひ、S川の浸蝕力はいつまでも増大した。S川の浸蝕力が増せば増すほど、ますますQ川はS川にその河水を掠奪されていつた。しかし、S市の膨脹力はS川の膨脹力よりも激しかつた。今やS市の要求する河水は、S川の水量だけでは不足となつた。さうして、Q川は遂にS河を助けるために、初めてその支流を閉塞された。
だが、Q市民はS市民に向つて反抗することは出来なかつた。何ぜなら、Q市民それ自身、今はS市民であつたから。かくして、SとQとの市街は、争奪し合つた二川のために一大都会となつて来た。
十七
SQの開析デルタの上には工場が陸続として建ち並んだ。鉄道の数は増していつた。S川の電力は馬力を上げた。船舶の帆檣は林立した。さうして、全市街は平面から立体へ、木造から石造へ。営舎が、官衙が、工場が、商店が、校舎が、劇場が、会社が、寺院が、橋梁が。ガラスと金属の光波は絶えず空間で閃き合ひ、発動機の爆音と鉄槌との雑音が溌溂として交錯した。
しかし、此の壮大な市街を構成したものは財力であつた。所詮SQの市民は財力の下には屈伏しなければならなかつた。さうして、その財力の投資者であつた商人達は、ひとりますます民衆を使役した。市街は投資者の市街となつた。民衆の労役は彼らのための奉仕となつた。自由と平等は彼らのために奪はれた。S川の河水は、徒に彼らのために誇らしく流れてゐるのと等しかつた。
労働者達は自身を使役する財力のために青ざめ出した。彼らの疲労はます/\彼らを苦しめる財力を助けることとなり出した。しかし、彼らは彼ら自身を生存させるその市街から逃れることは出来なかつた。さうして、彼らは彼らの勢力をもつて築き上げるその大市街が尨大になればなるほど、その大都会の全重力を彼らの肩に背負つて行かなければならなかつた。そこで、初めて最も平等を重んじたSQの市民達も、その各自の財力に従つて、必然的に階級が存在してゐることを意識し始めた。
十八
SQ市の無産者達は団結した。彼らは彼らの労力がいかに有産者達にとつて尊重せられるべきかを警告するために反抗した。
資産家達はその財力の権力を用ひて圧迫した。
無産者達は擡頭した。
一大争闘がデルタの上で始つた。
集団が集団へ肉迫した。
心臓の波濤が物質の傲岸に殺倒した。
物質の閃光が肉体の波濤へ突撃した。
市街の客観が分裂した。
石と腕と弾丸と白刃と。
血液と爆発と喊声と悲鳴と咆哮と。
疾走。衝突。殺戮。転倒。投擲。汎濫。
全市街の立体は崩壊へ、――――
平面へ、――――
水平へ、――――
没落へ、――――
色彩の明滅と音波と黒煙と。
さうして、SQの河口は、再び裸体のデルタの水平層を輝ける空間に現した。
大市街の重力は大気となつた。
静かな羅列は傷ける肉体と、歪める金具と、掻き乱された血痕と、石と木と油と川と。
(「文芸春秋」大正14[#「14」は縦中横]年7月号)
●表記について
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