一
末雄が本を見ていると母が尺(さし)を持って上って来た。
「お前その着物をまだ着るかね。」
「まだ着られるでしょう。」
彼は自分の胸のあたりを見て、
「何(な)ぜ?」と訊(き)き返(かえ)すと、母はやはり彼の着物を眺めながら、
「赤子(あか)のお襁褓(むつ)にしようかと思うて。」と答えた。
「赤子って誰の?」
「姉さんに赤子が出来るのや。」母は何(な)ぜだか普通の顔をしていった。
彼は姉にそんなことがあるのかと思うと、何ぜか顔が赧(あか)らんだ。しかし、全く嬉しくなった。
「ほんとうか?」
「もうその着物いらんやろ。代りのを作(こし)らえてあげるで解(ほど)こうな。」
「ほんとうに出来るのか。」
母は答えずにそのまま下へ降りてしまった。彼はちょっと腹が立った。が、その腹立たしさの中から微笑がはみ出るように浮んで来た。いくら顔をひき締めてみても駄目だった。
彼と姉とは二人姉弟(きょうだい)で、姉は六年前に人妻になっていた。それにまだ子供は一人もなかった。
二
晴れた日、彼は山を越して姉のおりかの家へ行った。赤子のことを訊(き)くのが羞(はずか)しかったので黙って時々気付かれぬように姉の帯の下を見た。しかし、彼の眼では分らなかった。ただ何となく姉は生々としていた。姉は間もなく裏の山へ行こうといい出した。二人は山へ来ると蘚(こけ)の上へ足を投げ出して坐った。真下に湖が見えた。錆色(さびいろ)の帆が一点水平線の上にじっとしていた。深い下の谷間からは木を挽(ひ)く音が聞えて来た。
「ボケを一本ひいて帰ろ。もう直(じ)き花が咲くえ。」
姉はそういいながら立って雌松林(めまつばやし)の方へ登っていった。彼はひとり長々と仰向(あおむ)きに寝て空を見ていた。長い間姉と二人でこういう所へ来てこういう風に遊んだことはなかった。彼は姉がたいへんに好きであった。
「こいつ、堅(かた)いわア。」と姉の声が頭の上でした。
彼が振り返って姉の方を見ると、姉は丁度躑躅(つつじ)をひき抜こうとしている両肱(りょうひじ)を下腹にあてがって後へ反(そ)り返(かえ)ろうとしている所であった。彼は姉の大切な腹の子供に気がついて跳ね起きた。
「よせ。」
彼は馳(か)けていって姉を押しのけると自分でその躑躅をひいてみた。根はなかなか堅かった。
「堅いやろ。二人かかるとええわ。」
そう姉はいってまた躑躅に手をかけようとした。
「行こう行こう。」
彼が姉の手を持ってもとの所へ戻ろうとすると、姉は未練そうに後を見返りながら、
「もうじき綺麗(きれい)な花が咲くえ。あれ餅躑躅(もちつつじ)え。葉がねばねばするわ。ああしんど。」といった。
彼は姉の下腹を窺(うかが)った。躑躅をひくときの姉の様子を浮かべると、肱で子供が潰(つぶ)されていそうに思えてならなかった。しかし、それをどうして吟味(ぎんみ)してよいものか分らなかった。姉に訊いてみることも羞しくて出来ないし、これは困ったことになったと彼は思った。
姉は足もとの処でまた一本小さな躑躅を見つけると、
「末っちゃん、これなら引けるえ。」といってその方へ寄りかけた。
「うるさい。」と彼は叱った。
「たまに来たのに一本ぐらい引いて帰らにゃもったいない。」
「もう帰るんだ。」
「もう帰るん?」姉は彼の顔を見ると、
「何アんじゃ。」といって笑い出した。
彼は黙ってさきになって歩いた。実際彼には姉の腹のことがひどく気になり出した。もうそれ以上遊ぶ気がしなくなった。
「お腹すかないか。」
と彼は不意に姉に訊いてみた。空(す)いていると答えれば、幾分か肱で腹の子供を押し潰したそれだけ空いているのだとそんな他愛もない考えから訊いたのだが、姉は空かないと答えた。しかし無論その答えだけでは承知が出来なかった。
「俺(おれ)はちょっと腹が痛いんだ。姉さん処の昼の肴(さかな)が悪かったんじゃないかね。姉さんは?」
と彼は訊(たず)ねた。
姉は顔を顰(しか)めるようにして彼を見ながら、
「私(うち)どうもないえ、ひどう痛むの?」と訊き返した。
姉も痛むといえばまた姉の腹部の子供に触(さわ)りが出来ているにちがいないという考えから、彼はそういうかけひきで訊いたのだった。ところが姉の腹は痛んでいなかった。少し安心が出来かけるとまた親の腹部の感覚と子供の感覚とは全く別物だと気がついた。親の腹が痛くなくとも子の身体は痛んでいるかも分らなかった。もう医者に姉の腹を見せるより仕方がないと彼は思った。しかし、見せるとすればまたどうしても一度は彼の心配の仕方を姉に話さなければならなかった。これが彼には羞しくて厄介(やっかい)だった。正式な結婚で姉は人妻になっているとはいえ、とにかくいずれ不行儀な結果から子供が産れて来たにちがいない以上、それをお互に感じ合う瞬間が彼にはいやであった。彼が黙っているので姉も黙っていた。
「まだ痛い?」と姉は暫(しばら)くして訊いた。
「もういいんだ。」
「降りたら薬屋があるわ。小寺さんなら近いし。痛い?」
小寺さんとは近くの医者の名であった。
「もう癒(なお)ったよ。」と彼はいうと、
「それでも診(み)てもろうておく方がええやないの。」と、今度は姉から彼に医者をすすめ出した。
彼は聞かぬ振りをしてどしどしと山を下った。
三
四月には彼は東京にいた。女の子が生れたという報知(しらせ)を姉の良人(おっと)から受け取ったのは五月であった。
「しめた!」と彼は思った。そして、今まで誰にもいわずに隠(かく)していた不安は、全く馬鹿気たことだったのだと思って可笑(おか)しかった。
「やっと叔父(おじ)さんになったぞ。」
そう思うと彼は文句なしに人間が一段豪(えら)くなったような気がした。
四
六月に末雄は帰省した。彼は姉の家へ着くと直ぐ黙って上ろうとした。が、足が酷く汚れていたので膝(ひざ)で姪(めい)の寝ているらしい奥の間の方へ這(は)い出(だ)した。黄色い坐蒲団(ざぶとん)を円(まる)めたようなものが見えた。
(いるいる。小っぽけな奴だ。)
彼はにたりと笑いながら姪の上へ蚊帳(かや)のように被(かぶ)さった。
(待て、こりゃ俺に似とるぞ。)
彼は姪の唇を接吻した。つるつる滑(すべ)る乳臭い唇だ。姪は叔父を見ながら蝸牛(かたつむり)のような拳(こぶし)を銜(くわ)えようとして、ぎこちなく鼻の横へ擦(す)りつけた。
(こ奴(いつ)、俺そっくりじゃないか。)
彼は不思議な気がすると、笑いながら、俺の子じゃないぞと思った。
(よし。一人増した!)
彼は何かしらを賞(ほ)めてやりたかった。これこそ俺の味方だ、嘘(うそ)ではないぞ、と思った。
姉のおりかは笑いながら晴れやかな顔をして縁側(えんがわ)から上って来た。
「何時の汽車、二時?」
「こ奴俺に似とるね。似てないかね。」
おりかは娘を見下(みおろ)すと、黙って少し赧(あか)い顔をして肩から襷(たすき)をはずした。
「ね、似とるよ、何っていう名だね?」
「ゆきっていうの。」
「ゆき?」
「幸村(ゆきむら)の幸(ゆき)っていう字。」
「さいわいか?」
「そやそや。」
「あんな字か、俺ちゃんと考えといてやったんだがな。辞引(じびき)ひっぱったのやろ?」
「漢和何とかいうの引いたの。末っちゃんに考えてもらえって私(うち)いうたのやけど、義兄(にい)さんったらきかはらへんのや。いややなアそんな名?」
「こりゃ可愛(かわい)い子だ。俺に似るとやっぱり美人だな。」
「そうかしら、お風呂で芸者はんらがな、こんな可愛らし子どうして出来るのやろいうて取り合いしやはるのえ。」
「いい子だよ。苦労するぜ姉さんは。」
末雄は姉を見て笑うと、急に自分のませ[#「ませ」に傍点]た態度が不快になった。彼は立って井戸傍(いどばた)へ足を洗いに行った。それから疲れていたので姪の傍にくっついて寝たが、姉が見ていなかったので姪の手を引っぱったり鼻をつまんだりしてなかなか眠つかれなかった。
五
彼は遠くで赤子の泣き声のしている夢を見て眼が醒(さ)めた。すると、傍で姪が縺(もつ)れた糸を解(ほど)くように両手を動かしながら泣いていた。
「アッハ、アッハ、アッハ、アーッ。」
そういう泣き方だ。彼は前に読んだ名高い作家の写生的な小説の中で、赤子の死ぬ前にそれと同じ泣き方をする描写があったのを思い出した。彼は不安な気がして姉を呼んだ。姉はいなかった。で、姪を抱き上げて左右に緩(ゆる)く揺(ゆす)ってやると直ぐ泣きやんだ。
「死ぬのじゃなかった。」
そう思って彼は静(しずか)に寝かしてやると、また、「アッハ、アッハ。」と泣き出した。彼はまた抱き上げた。するとやはり泣きやんだ。こんな同じことを辛抱強く四度ほど繰り返すうちに、もう彼は面倒臭くなって来て、身体に力を籠(こ)めながら欠伸(あくび)を大きくした。姪は腹のあたりを波立たせて、「アッハ、アッハ。」と泣いた。
彼はいらいらして来た。が、姪はしきりに泣き続けた。
「泣け泣け。」
彼はじっと憎々しい気持ちで姪を眺めながらそういった。が、その中(うち)にもうとても溜(たま)らなくなって来た。彼は竊(そ)ッと姪の黄色な枕の下へ手を入れて彼女の頭を浮き上らせると、姪はぴたりと泣きやんだ。彼は姪を抱き上げてやる気はなかった。で、にたりと笑いながらまた静に手放すと、彼女は前より一層声を張り上げて全身の力で、「アッハ、アッハ、アッハ。」と泣き立てた。
彼はうまい手を覚えたつもりでもう一度それを繰り返そうとした。が、ふと、幸子(ゆきこ)は生れて今初めて瞞(だま)されたのではなかろうかと思った。
(その最初の瞞し手がこの叔父だ。)
そんな風に考えると、彼は自分のしたことがそう小さいことだとは思えなくなった。彼は姪を抱き起した。そして、謝罪の気持ちで姉が帰って来て乳を飲ませるまで抱き通してやった。
六
次の日、山越しに彼は家へ帰った。
「まア昨日(きのう)帰ると思うていたのえ。お寿司(すし)こしらえといたの腐ってしもうた。」
そういって母は盥(たらい)に水をとってくれた。
「昨日着いたんだけれど、一日姉さんとこの小女(こめ)と寝転んでいた、あの小女は可愛らしい顔をしてますね。」
「それでもお臍(へそ)が大きいやろ。あんまり大き過ぎるので擦(す)れて血が出やへんかしら思うて、心配してるのやが、どうもなかったか?」
「そうか、そんなに大きいのか。」
彼は足を洗いながらある女流作家の書いた、『ほぞのお』という作の中で、嬰児(えいじ)の臍から血が出て死んでゆく所のあったのを想い出すとまた不安になって来た。
「そんなことで死んだ子ってありますか?」
「あるともな。」
「死にゃせぬかなア。」
母は黙っていた。
「どうしたら癒(なお)るんだろう、お母さん知りませんか。」
「私(うち)おりかに二銭丸(にせんだま)を綿で包んで臍の上へ載せて置けっていうといたんやが、まだしてたやろな?」
「ちっとも見ない。」
「そおか。う――んと気張ると、お前の胃みたいにごぼごぼお臍が鳴るのや。お前胃はもうちょっと良うなったかいな?」
彼は足を洗ってしまったのに、まだ上(あが)り框(かまち)に腰を下したまま盥の水を眺めていた。暫(しばら)くして、
「死にゃせぬかしら。」とまたいった。
「どうや知らぬわさ。お前髪をシュウッととき付けたらええのに、痩(や)せて見えて。」
母はちょっと眉を寄せてそういうと盥の水を捨てに裏の方へ行った。
彼は気が沈みそうになると、
「くそッ死ね!」といって一度背後へひっくり返ってから勢好く立ち上った。
七
幸子の臍はその後だんだん堅まっていった。初め彼の見た時には、腹部を漸く包んだ皮膚の端を大きくひねって無雑作(むぞうさ)にまるめ込んだだけのように見えた。そして、彼女が泣く時臍は急に飛び出て腹全体が臍を頭としたヘルメットのような形になってごぼごぼ音を立てた。それはいつ内部の臓(はらわた)が露出せぬとも限らぬ極めて不安心な臍だった。それにおりかは割りに平気であった。ある時彼は姪の臍の上に二銭丸の載っていない所を見付けた。彼は自分の読んだ書物の中で、そのような臍は恐るべき命(いのち)とりだと医者がいっていたということを、巧妙な嘘を混じえて姉にいいきかして嚇(おど)かした。
「そうかしら。」
そう姉はいうとちょっと笑って、
「死ぬものか、これ見な。」といって娘の臍をぽんと打った。
「馬鹿。」と末雄は笑いながら睥(にら)んだ。
するとおりかはまた二、三度続けさまに叩いてから、「ちょっと指を入れとおみ。」といった。
彼はふと弄(いら)ってみる気になって、人差指で姪の臍の頭をソッと押してみた。指さきは何の支えも感じずに直ぐ一節(ひとふし)ほど臍の中に隠された。それ以上押せば何処(どこ)まででも這入(はい)りそうな気がしてゾッとすると、
「いやだ。」といって手を引っこめた。
しかしこんな不安は間もなくとれた。そして、或(あ)る日おりかは彼に幸子が笑い出したと嬉しそうにいった。
見ているとなるはど時々幸子は笑った。それは何物が刺戟(しげき)を与えるのか解らない唐突(とうとつ)な微笑で、水面へ浮び上った泡のように直ぐ消えて平静になる微笑であった。しかしまたその微笑を見せられた者は、これは人生の中で最も貴重な装飾だと思わずにはいられない見事な微笑であった。
八
夕暮、人の通らない電車道の傍で鶏(にわとり)にやるはこべ[#「はこべ」に傍点]を捜していると、男の子が一人石を蹴(け)りながら彼の方へ来た。彼はその子の家に黒い暖簾(のれん)が下っていたのを思い出して、誰が死んだのかと訊いた。男の子は黙っていた。
「だれが死んだのや。」
ともう一度訊くと、
「赤子(あか)や。」と答えた。
「ふむ赤子か、どうして死んだ?」
すると男の子は羞しそうな顔をして馳(か)け出(だ)そうとした。彼は男の子の手首を素早く握った。
「なアどうしてだ、うむ、いったら豪(えら)いぞ。」
が、男の子はやはり答えずに彼の握った手を振り放そうとして口を歪(ゆが)めた。
彼は少し恐い顔をして手首を放した。男の子は逃げもせずそろそろと電車道まで来ると、レールの上へ跨(また)がって腰を下ろした。
彼はその方を向かないようにして草の中に蹲(しゃが)んでいると、男の子は向うから、
「教えてやろうか、なア?」といい出した。
「アア教えてくれ、どうして死んだんだ?」
男の子は硝子(ガラス)の破片でレールの錆(さび)を落しながら暫く黙っていてから、
「いやや。」とまたいった。
彼は男の子を黙って見詰めていた。すると、
「お母アが乳で殺さはったんや。」とその子はいった。
「乳でってどうしてだ?」
「あのな、昼寝してて殺さはったんや。」
彼には全く何のことだか解らなかったので子供の顔を見続けていた。男の子は何(な)ぜだか眩(まぶ)しそうな顔をしてちょっと彼を見上げると、急に向うの方へ馳け出した。
暫くして彼は、男の子の母親が赤子に添い寝をしていて乳房(ちぶさ)で鼻孔(びこう)を閉塞(へいそく)させたのだと近所の人から教わった。そんな殺し方は彼には初耳だった。が、なるほどと思った。それから急に彼は姉の乳房が気になり出した。
次の日彼は姉の家へ出かけて行くと直ぐそのことを話した。
「そりゃ死ぬわさ。ようあることや。」と姉はいった。
「知ってたのか。」
「そんなこと知らんでどうする、末っちゃんは私(あて)を子供見たいに思うてるのやな。何んでも知ってるえ私(うち)ら。」
そういって姉は笑った。彼は少し安心が出来た。が、その直ぐ後で姉は、幸子と三日違いに生れた隣家の赤子が三日前に肺炎で亡くなったということや、久吉の友人の赤子も今肺炎にかかっていてもう医者に手を放されたということを話した。
「やれやれ。」と彼は思った。生き続けて大きくなってゆくということは、よほどむずかしいことのように思われて気が重苦しくなってしまった。
二、三日してから彼は上京した。上京する時ちょっと姉の家へ寄ると、久吉の友人の赤子がとうとう死んだと聞いた。彼は淋しくなった。縁側に立っていると、隣家から赤子の回向(えこう)の鉦(かね)の音が聞えて来た。初秋の涼しい夜だ。すると、
「昔丹波(たんば)の大江山(おおえやま)。」と子供の歌う声がして、急に鉦はそれと調子を合せて早く叩かれた。
「阿呆(あほ)やな。」と直ぐ母親らしい叱る声がした。
彼がこちらで笑い出すと、おりかも何処か暗い処で笑い出した。
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