彼は突然に眼を閉じ、唇を噛締めて、雑木藪の中を盲滅法に驀進し初めた。あたかも背後から追かけて来る何かの怖ろしい誘惑から逃れようとするかのように、又は、それが当然、意志の薄弱な彼が、責罰として受けねばならぬ苦行であるかのように、袷衣一枚の全身にチクチク刺さる松や竹の枝、露わな向う脛から内股をガリガリと引っ掻き突刺す草や木の刺針の行列の痛さを構わずに、盲滅法に前進した。全身汗にまみれて、息を切らした。そうして胸が苦しくなって、眼がまわりそうになって来た時、突然に、前を遮る雑木藪の抵抗を感じなくなったので、彼はヒョロヒョロとよろめいて立佇まった。
彼はまだ眼を閉じていた。はだかった胸と、露わになった両脚を吹く涼しい風を感じながら、遠く近くから疎に聞こえて来るツクツク法師の声に耳を傾けていた。山中の静けさがヒシヒシと身に泌み透るのを感じていた。
突然、鳥とも獣とも附かぬ奇妙な声がケタタマシク彼を驚ろかした。
「ケケケケケケケケケ……」
彼はビックリして眼を見開いた。彼は山の中の空地の一端に佇んでいたのであった。
そこは巨大な楠や榎に囲まれた丘陵の上の空地であった。この村の昔の名主の屋敷趾で、かなりに広い平地一面に低い小笹がザワザワと生え覆さっている。その向うの片隅に屋根が草だらけになって、白壁がボロボロになった土蔵が一戸前、朽ち残っていた。
その倉庫の二階の櫺子窓から白い手が出て一心に彼をさし招いている。その手の陰に、凄い程白く塗った若い女の顔と、気味の悪い程赤い唇と、神々しいくらい純真に輝く瞳と、額に乱れかかった夥しい髪毛が見えた。それが窓から挿し込む烈しい光線に白い歯を美しく輝やかした。
「……キキキ……ヒヒヒ……ケケケ……」
その幽霊のように凄い美くしさ……なまめかしさ。眼も眩むほどの魅惑……白昼の妖精……。
彼は骨の髄までゾーッとしながら前後左右を見まわした。
彼の頭の上には真夏の青空がシーンと澄み渡って蝉の声さえ途絶え途絶えている。彼を見守っているものは、空地の四方を囲む樹々の幹ばかりである。
彼は全身を石のように固くした。静かに笹原を分けて土蔵の方へ近付いた。
窓の顔が今一度嬉しそうにキキと笑った。すぐに手を引込めて、窓際から離れて、下へ降りて行く気はいであった。
土蔵の戸前には簡単な引っかけ輪鉄が引っかかって、タヨリない枯枝が一本挿し込んで在るキリであった。それを引抜くと同時に内側で、落桟を上げる音がコトリとした。彼は眼が眩んだ。呼吸を喘ませながら重い板戸をゴトリゴトリと開けた。
「キキキキキキキキキ……」
そこまで考え続けて来ると彼は寝床の中で一層身体を引縮めた。背後にスヤスヤと睡っているらしい花嫁……初枝の寝息を鉄瓶の湯気の音と一所に聞きながらなおも考え続けた。
……それは彼の生れて初めての過失であると同時に、彼の良心の最後の致命傷であった。
その後、その重大な過失の相手である唖女のお花が行衛不明となり、そのお花の言葉を理解し得るタッタ一人の父親、門八が、彼女を無くした悲しみの余りに首を縊って死んだと聞いた時には彼は、正直のところホッとしたものであった。最早、天地の間に彼の秘密を知っている者は一人も無い。この僅かな秘密の記憶一つを、彼自身がキレイに忘れて終いさえすれば、彼は今まで通りの完全無欠の童貞……絶対無垢の青年として評判の美人……初枝を娶る事が出来るのだ。
「おお神様。神様。どうぞこの秘密をお守り下さい。この私の罪をお忘れ下さい。もう決して……決して二度とコンナ事をしませんから……」
と彼は人知れず物蔭で、手を合わせた事さえ在ったくらい、そうした思い出そのものを恐れ、戦き、後悔していた。そうして彼は幸福にも一日一日と日を送って行くうちに、もう殆んど、そうした良心の傷手を忘れかけていた。彼は彼自身の社会に対する一切の野心と慾望を擲って、美人の妻と一所に田舎に埋もれるという、涙ぐましいほどに甘美な夢を、安心して、夜となく昼となく逐い続けているところであった。
その甘美な夢が、今、無残にもタタキ破られてしまったのであった。
時も時……折も折……忘れるともなく忘れて、消えるともなく消え失せていた彼の過去の微かな秘密が、突然に、何千、何万、何億倍された恐ろしい現実となって彼の眼の前に出現し、切迫して来たのであった。
見るも浅ましい孕み女。物を得言わぬ聾唖者。それが口にこそ云い得ね、手真似にこそ出し得ね、正当な彼の妻である事を現実に立証し、要求すべく立現われて来たのであった。それは、ほかの人間たちには絶対にわからない、ただ彼にだけ理解される恐ろしい、不可抗的な復讐に相違なかった。
……もしも彼女がタッタ一言でも物を云い得たら……否々。一人でも彼女の手真似を正当に理解し得る者が居たら……そうして、それだけの恐怖、不安、戦慄を、今日の日に限ってこの家の玄関に持込んで来たのが、彼女の意識的な計劃であったら……。
……それがさながらに悪魔の智慧で計劃された復讐のように残酷な、手酷しい時機と場面を選んで来た事はトテモ偶然と思えない。白痴の一つ記憶式の一念で、云わず語らずのうちに彼女がそうしたところを狙って、時機を待っていたかのようにも思える。又は全然そうでないかのようにも思える……。
……そうした判断の不可能な事を考え合せると、その恐怖、不安、戦慄が更に更に神秘数層倍されて来るのであった。
彼は思わず今一度ゾッとして身体を縮めた。パッチリと眼を見開いて、静かに振返ってみると花嫁の初枝は、夜具の襟に顔を埋めてスヤスヤと眠っているようである。
彼は極めて注意深くソロソロと夜具を脱け出した。枕元の障子をすこしずつすこしずつ音を立てないように開けて廊下に出て、足音を窃み窃み渡殿伝いに母屋の様子を窺った。
家中が森閑と寝静まって給仕人の足音も途絶えている。勝手の方の灯も消えてしまって、ただ奥座敷に寝ているらしい伝六郎の寝言とも歌とも附かぬグウダラな呆け声が聞えている……その声を聞き聞き彼は真暗な中廊下を抜けて、玄関脇の薬局の扉を開いた。
薬局の三方硝子窓の外は雪のように輝やいていた。西に傾いて一段と冴え返った満月に眩しく照らされた巴旦杏の花が、鉛色の影を大地一面に漂わしていた。
中央の調薬台の前に立った彼は恍惚としてその白い光りに見惚れていた。そうして今日までに彼が見たり聞いたりした幾多の所謂成功者、すなわち立志伝中の人々が……如何に残忍な、血も涙も無い卑怯な方法をもって弱者を蹂躙し、踏殺して来たかを聯想し、想起し続けていた。
……俺もその一人にならなければならぬ。否々。もっともっと強い人間にならねばならぬ。貴い俺自身の一生涯……これだけの頭脳と、智識と……この若い血と、肉と、豊かな情緒とをあの見苦しい、淋しい廃物同然の唖女の一生と釣換えにしてたまるものか……これは当然の事なのだ、天地自然の理法なのだ。ちっとも恥ずるところはない。咎められるところもない。ただ他人に見咎められさえしなければ……疑われさえしなければいいのだ。ちっとも構わない。何でもない事なのだ。
そんな事を考えまわしているうちに、いつの間にか、雪の光りに包まれたような寒さを感じ初めたので、彼はハッとして吾に帰った。
頭のシンは睡むくてたまらないのに、意識だけはシャンシャンと冴え返っているような気持で彼は、正面の薬戸棚の抽出から小さなカプセルを一個取出した。それから突当りの薬戸棚の硝子戸を開いて、きょう昼間、頓野老人が持出した黒柿の秘薬箱を今一度取出して、調合棚の上に置いた。その中から、やはり今日頓野老人が扱った塩酸モルヒネの小瓶を抓み出して、その中の白い粉末の小量を、月の光りに透かしながらカプセルに落し込んだが、多過ぎると思ったらしく又、その中の極微量を小瓶の中へ落し返してからカプセルの蓋をシッカリと蔽うた。それから何もかもモト通りに直して、薬戸棚の硝子戸をピッタリと閉じた。
その時に彼の背後の、開放しにして来た廊下の暗闇で微かな、深い溜息が聞こえたように思ったので、彼はハッとばかり固くなった。慌ててカプセルを右手に握り込んだまま、指先走りに廊下に出てみたが、しかしそこには何の人影も無く、真暗な中廊下の向うの、閉め忘れて来た渡殿の入口の片側に、白桃の花が白々と月あかりに見えたので、今度は彼自身が思わず、深いタメ息をさせられた。
彼は彼自身を勇気付けるかのようにタッタ一人で微笑した。悠々と薬局に帰って、小型のビーカーを取上ると常水を六分目程満たした。塩酸モルヒネ入りのカプセルと一所に左手に持って、薬局用のスリッパを爪探った。薬局の横の扉の掛金を外して、勝手口の外側に出た。
軒下の暗がり伝いに足音を窃み窃み、台所の角に取付けた新しいコールタ塗の雨樋をめぐって、裏手の風呂場と、納屋の物置の廂合いの下に来た。
そこでは西へ傾いた月が、かなり深い暗がりを作って、直ぐ横手の白光りする土蔵の壁を、真四角に区切っていた。
彼は絶対に音を立てないように……まだ痲酔しているであろう唖女の眼を醒まさないように、用心しいしい納屋の扉の掛金を外した。
……すると……納屋の中の暗がりで、突然にガサガサと藁の音がし初めた。たまらない乞食臭い異臭がムウと襲いかかって来た。……と思う間もなく獣のように髪を振乱した怪物……逞ましい、………………………唖女が飛出して来て、イキナリ彼に抱き付いた。心から嬉しそうに笑った。
「キイキイキイ……キキキキキ……」
その鵙さながらの声は月夜の建物と、その周囲をめぐる果樹園に響き渡って消え失せた。
彼は一切が破滅したように思った。眼も眩むほど胸がドキンドキンとした。全身にゾーッと生汗を掻きながら今一度、静かに左右を振返ってみたが、その彼の怯えた視線は、タッタ今通って来た台所の角の、新しい黒い雨樋の処へピタリと吸い寄せられた。同時に彼の全神経が水晶のように凝固してしまった。
そこには離座敷から、彼の行動を跟けて来たらしい花嫁の初枝の、冴え返った顔が覗いていた。昨夜のままの濃化粧と、口紅のクッキリとした、高島田の金元結の艶めかしい、黒い大きな瞳を一パイに見開いた人形のような瓜実顔が、月の光りに浮彫りされたまま、半分以上雨樋の蔭から覗き出して、彼の姿を一心に凝視しているのであった。
彼はソレを月の光りに照し出された巴旦杏の花の幻覚かと思った。右手で左右の眼をグイグイと強くコスッて今一度よく見直した。
それは、たしかに花嫁の初枝の顔に相違なかった。鬢のホツレ毛が二三本、横頬に乱れかかっているのが、傾いた月の光りでハッキリと見えた。その二つの黒い瞳が、マトモに此方を凝視したまま大きく、ユックリと二つばかり瞬いたのが見えた。同時に、その真白い頬から大粒の涙の球が、キラリキラリと月の光りを帯びて、土の上に滴たり落ちるのが見えた。
彼は、彼の足元の大地が、その涙の落ちて行く方向にグングンと傾いて行くように感じた。持っているビーカーを取落しそうになった。
その時に彼に取縋っているオドロオドロしい姿が、泥だらけの左手をあげて、初枝の顔を指した。勝誇るように笑った。
「ケケケケ……エベエベエベ……キキキキ……」
人形のような高島田の顔が、静かに雨樋の蔭から離れた。長々と地面に引擦った燃立つような緋縮緬の長襦袢の裾に、白い脛と、白い素足が交る交る月の光りを反射しいしい、彼の眼の前に近付いて来た。
彼はカプセルを自分の口に入れた。ビーカーの水を……その中にゆらめく月の光りを凝視しつつ……思い切ってガブガブと飲んだ。
●表記について
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