「それから後、この唖女の姿を見た者は一人も居りませんので……ヘエ……」
「ふうむ。誰が逃がいたのかわからんのか」
「ヘエ。それがで御座います。御覧の通り唖娘の上に色情狂で、あの裏山の中の土蔵の二階窓から、山行の若い者の姿を見かけますと手招きをしたり、アラレもない身振をして見せたり致しますので、跛の門八爺が外に出る時には、必ず喰物を内に残いて、外から厳重と締りをしておったそうで御座います。それでも門八が帰りがけには、途中で拾うた赤い布片なぞを持って帰ってやりますとこの花子奴が……この娘の名前で御座います……コイツが有頂天も無う喜んでおりましたそうで、その喜びようが、あんまりイジラシサに門八爺が時々、なけなしの銭をハタいて、安物の練白粉や、口紅を買うて帰ってやったとか……やらぬとか……まことに可哀相とも何とも申様の無い哀れな親娘で御座いましたが」
「……まあ……」と博士夫人がタメ息をして眼をしばたたいた。
「ふうむ。してみると誰かこの女にイタズラをした村の青年が、その土蔵の戸前を開けてやったものかな」
「ヘエ。そうかも知れませぬが、跛の門八が戸締を忘れたんかも知れませぬ。だいぶ耄碌しておりましたで……それで娘に逃げられたのを苦に病んで、行末の楽しみが無いようになりましたで、首を吊ったのではないかと皆申しておりましたが」
「うむ。そうかも知れんのう。つまりこの娘を逃がいた奴が、門八爺を殺いたようなもんじゃ」
「ヘエ。まあ云うて見ればそげな事で……」
「しかし、それから最早、かれこれ一年近うなっとるが、どこに隠れていたものかなあこの女は……」
「それがヘエ。やっぱりどこか遠い処を、当てもなしに非人してまわりよりまする中に、誰やらわからん×××を宿して、久し振りに父親の門八爺が恋しうなりましたので、故郷へ帰って来ますと、あの裏山の土蔵は壊けてアトカタも御座いませんので、途方に暮れておりまするところへ、コチラ様の前を通りかかって、御厄介になりに来たのではないかと、こう思いますが……」
「ふうん。併し物を遣っても要らんチウし、自分の腹を指さいて何やら云いよるではないか」
「ヘエ。もう産み月で痛み出して居るかも知れませんがなあ。ちょうどこの村から姿を隠いた時分から数えますと十月ぐらい。………そうとすれば孕ませた者は、この村の青年かも知れませんが……ヘヘヘ……」
「うむ。困った奴じゃのう」
「何せい相手が唖女で、おまけの上にキチガイと来ておりますけに、何が何やらわかったものでは御座いません」
「しかしここが医者の家チウ事は、わかっとる訳じゃな」
「さあ。わかっておりますか知らん。オイオイ花チャン。ここ痛いけん」
一作爺が自分の腹を指して見せながら、唖女の顔を覗き込んだ。
しかし唖女のお花は答えなかった。最前からの二人の問答を、自分の事と察しているらしく、無邪気な、真剣な眼付で二人の顔を代る代る見比べていたが、そのうちに、栗野博士夫妻の背後から、物珍らしそうに覗いている新郎新婦の中でも、先に立っている新郎澄夫の青白い顔に気が付くと、お花は見る見る眼を丸くして口をポカンと開いた。泥だらけの手足を躍らして小犬のように跳ね上ると、玄関の式台へ泥足のまま駈け上って、栗野博士を突除けながら、澄夫の袴腰にシッカリと抱き付いた。同時に「アッ」と小さな声を立てた花嫁の初枝を、背後から抱きかかえるようにして栗野夫人が、廊下の奥の方へ連れ込んで行った。
澄夫はハッと度を失った。花嫁の方を振返る間もなく、唖女の両手を払い除けて飛退こうとしたが、間に合わなかった。ガッシリと帯際を掴んだ女の両腕を、そのまま逆にガッシリと掴み締めると、眼を真白く剥き出し、舌をダラリと垂らした。そうして気を落付けようとしているのであろう。周章ててその舌を嚥込み嚥込み眼をパチパチさせた。その顔を下から見上げた唖女はサモサモ嬉しそうに笑った。
「ケケケ……ケケケケケケケケケ……」
若様らしい上品な澄夫の顔が、その笑い声につれて見る見る皺だらけの鬼婆のような、又は髪毛を逆立てた青鬼のような表情に変った。反対に澄夫の方が発狂しているかのように見えた。
栗野博士も一作爺も、澄夫と一所に度を失った。
「コレコレ……退かんか……」
「コラッ……コン外道……」
と二人が声を揃えて怒鳴り付けるうちに一作が、女の襟首へ手をかけると、古びた笈摺の背縫と脇縫が、同時にビリビリと引離れかかった。その手を非常な力で跳ね除けながら唖女は、涙をボロボロと流した。澄夫の顔を指し、又自分の腹部を指し示して、情なさそうな奇声を発しながらオドオドと三人の顔を見廻わした。
「エベエベ……アワアワ。アワアワアワアワ……」
澄夫は絶体絶命の表情をした。唇を血の出る程噛んで、肩をキリキリと逆立たした。
「イヨオ。これは芽出度い」
という頓狂な声がして、澄夫の背後の廊下から伝六郎が躍出して来た。又も大盃を呷り付けて、素敵に酔払っているらしく、吉角力の大関を取ったという双肌を脱いで、素晴らしい筋肉美を露出している。
「ヨオヨオ。これは芽出度い、婚礼の門口に孕み女とは芽出度い、イヤア……汝あ裏山のお花坊じゃねえかい。こん外道人間。片輪者とはいいながら親の死んだ事も知らじい、どこをウロ付きおったかい。どこの×××××をば孕うで来おったかい。ええ。コレ……コレ……」
と云ううちにお花の両脇の下に手を入れて軽々と抱き上げた。お花は引離されまいとする一生懸命さに、片手で色々な手真似をしいしい、線香花火のように暴れ出した。繿縷布片の腰巻が脱け落ちそうになったまま叫び続けた。
「アワアワアワ。エベエベエベエベ。ギャアギャアギャアギャアギャ」
「アハハハ、わかったわかった。感心感心。ウムウム。エベエベエベじゃ。ベッベッ。臭いなあ貴様は……アハハハ。わかったわかった。つまり近いうちに子供が生まれるけに、この若先生に頼んで生ませてもらいたいチウのか……ウムウム。なかなか良うわかっとる。エベエベ。感心感心」
「エベエベエベエベエベ」
「ええ。泣くな泣くな。縁起の悪い。ウムウム。わかったわかったそうかそうか。よしよし。俺が頼うでやる頼うでやる。柔順しうしとれ」
「エベエベエベエベ」
「なあ若先生。魂消なさる事はない。これあ芽出度い事ですばい。たとい精神異状者じゃろが、唖女じゃろが何じゃろが、これあ福の神様ですばい。何も知らじい来た、今日のお祝いの御使姫ですばい。何とかして物置の隅でも何でも結構ですけに、置いてやって下さいませや。本来ならば役場で世話せにゃならぬところですけれど、この村にゃ[#「村にゃ」は底本では「村にや」]設備が御座いませんけに、なあ先生。功徳で御座いますけに……きょうのお祝いに来た人間なら何かの因縁と思うて、なあ若先生……これ位、芽出度い事は御座いまっせんばい」
「……………」
「どうぞもし……どうぞ若先生。先生の病院はこの功徳の評判だけでも大繁昌ですばい。アハハ……なあ花坊。祝い芽出度の若松様よ……トナ……さあ。花ちゃん。この手を離しなさい。柔順しうこの帯を離しなさい。この若先生が診てやると仰言るけに……」
双肌脱の伝六郎が、音に聞こえた強力で、お花の腕をぎ離そうとする度に、帯際を掴まれている澄夫は式台の上でヨロヨロとよろめいた。
「コレコレ。離せと云うたら。恐ろしい力じゃ。コレコレここ、離しおれと云うたら……云うたて聞こえんけに往生するのう。袴の紐が切れるてや。ええ若先生。この袴と帯を解かっしゃれ。アトは私が引受けますけに……」
今にも気絶しそうに生汗を滴らしながら唖女の瞳を一心に凝視していた澄夫は、この時やっと気を取直したらしく、伝六郎の顔を見て真赤になった。暗涙を浮かめた瞳で背後の栗野博士を振返ると、すこしばかり頭を下げた。やっとの思いで唇をわななかした。
「誠に……恐れ入りますが、モルフィンを少しばかり、お願い出来ますまいか……一プロ……ぐらいで結構ですが……」
「オット。モルヒネなら失礼ながら私が作りましょう。長らくこの病院の留守番をさせられて、案内を知っておりまするので……」
栗野博士の背後から頓野老人が山羊鬚を突出した。
「二番目の棚の右の端で御座ったの」
と云ううちに自分で二つ三つうなずきながら、大仰に袴の両岨を取った頓野老人は、玄関脇の薬局にヨチヨチと走り込んだ。ホントウにこの家の案内を知っているらしく、突当りの薬戸棚の硝子戸を開いて、旧式の黒柿製の秘薬筥を取出して調薬棚の上に置いた。その中から抓み出した小型の注射器に蒸溜水を七分目ほど入れて、箱の片隅の小さな薬瓶の中の白い粉を、薬包紙の上に零すと、指の先で無雑作に抓み取りながら注射器の中へポロポロとヒネリ込んだ。活栓と針を手早く添えて、中味の液体をシーソー式に動かすと、薬の残りを箱の中の瓶に返して、右手にアルコールを涵した脱脂綿と、万創膏を持ちながら薬局を出て来た。
「ヘッヘッヘ。わしは元来胆石でなあ。飲み過ぎると胸が痛み出す。痛み出すと自分でこの注射をやって眠るのが楽しみでなあ。ヒッヒッ。この見量なら下手な天秤よりもヨッポドたしかじゃ。生命がけの練習しとるけになあ。……さあ作って来ました。六分ゲレンの一じゃからちょうど一プロの一瓦じゃ。相手が相手じゃけに相当利きまっしょう。さあ……」
澄夫は、こうした頓野老人の自慢の離れ業を格別、驚いた様子もなく受取った。無造作に狂女の右腕を捕まえて注射した。
唖女のお花は痛がらなかった。却て何となく嬉しそうに注射器と澄夫の顔を見比べてニコニコしていたが、注射が済むと、何と思ったか急に温柔しく手を離して、伝六郎と一作に手を引かれながら、繿縷の腰巻を引擦り引擦り立ち上った。もう真暗になった軒下を、裏手の物置納屋の処へ来た。
納屋の前まで来た時、彼女はモウ眠気を感じているらしかった。先に立った一作が造ってくれた古藁と、古茣蓙の寝床へコロリと横になって眼を閉じた。大きな腹の上に左手を投げかけると、もうスヤスヤと寝息を立てていた。
嘗て殿様のお鷹野の時に、御休息所になったという十畳の離座敷は、障子が新しく張換えられ、床の間に古流の松竹が生けられて、寂びの深い重代の金屏風が二枚建てまわしてある。その中に輪違いの紋と、墨絵の馬を染出した縮緬の大夜具が高々と敷かれて、昔風の紫房の括枕を寝床の上に、金房の附いた朱塗の高枕を、枕元の片傍に置いてあった。
その枕元に近い如鱗の長火鉢の上に架かった鉄瓶からシュンシュンと湯気が立っていた。
仲人栗野博士から、唖女に対する伝六郎の口上を、身振り手真似、声色入りで聞かされた花嫁の初枝は、たしなみも忘れて、声を立てながら笑い入った。そうして、
「まあまあ大事にしてやんなさい。医者の人気というものはコンな事から立つものじゃけに……そのうちに私が県庁へ手続きをして行路病人の収容所へ入れて上げるけに……」
という博士の話を聞いて初枝はスッカリ安心したらしく、両手を突いて頭を下げながらホッとタメ息をしてみた。しかし新郎の澄夫は両手をキチンと膝に置いて頸低れたまま、ニンガリもせずに謹聴していた。
それから博士夫妻の介添で、床盃の式が済んで二人きりになると、最前から憂鬱な顔をし続けていた澄夫は、無雑作に………………、………………………………………………………………………。塗枕と反対側の床の間の方を向いて、両腕を組んで、両脚を縮めたまま凝然と眼を閉じた。
澄夫の着物を畳んで、衣桁にかけた花嫁の初枝は、…………………………………………、…………………、……………………。………………………………………………、透きとおるような声で、
「おやすみ遊ばせ」
とハッキリ云うと、石のように頬を固ばらせたまま冷然と眼を閉じている………………………………………………………、……………………………………………………………、出来るだけ静かに………………………、……………………………………。
しかし澄夫は動かなかった。呼吸をしているのか、どうかすら判然らない位凝然と静まり返っていた。初枝も天鵞絨の夜具の襟をソット引上げて、水々しい高島田の髱を気にしいしい白い額と、青い眉を蔽うた。
白湯の音がシンシンと部屋の中に満ち満ちた。
新郎――澄夫は、その白湯の音に耳を澄ましながら、物置の中に寝ている唖女の事ばかりを一心に考え続けていた。
それは去年の八月の末の事であった。
暑中休暇の数十日を田舎の自宅で潰して、やっとの事で卒業論文を書上げた彼は、正午下りの晴れ渡った空の下を、裏山の方へ散歩に出かけた。
彼の両親はもう、三個月ばかり前に老病で相前後して死んでいた。後の医業は彼の父の友人で、伜に跡目を譲って隠居している隣村の頓野老人が来て、引受けてくれていたので、彼はただ一生懸命に勉強して大学を卒業するばかりであった。しかも天性柔良で、頭のいい彼は、各教授から可愛がられていたし、自分自身にも首席で卒業し得る自信を十分に持っていた。卒業論文が出来上れば、もう心配な事は一つも無いといってよかった。
彼は完全な両親の愛の中で育ったせいであろう。庭球以外には何一つ道楽らしい道楽を持っていなかった。もちろん女なんかには、こっちから恐れて近附き得ないような所謂、聖人型だったので、二十四歳の大学卒業間際まで、完全な童貞の生活を送っていた。それは大学時代の一つの秘密の誇りでもあった。
だから来年に近附いて来た結婚に対する彼の期待は、彼の極めて健康な、どちらかといえば脂肪肥りの全身に満ち満ちていた。田圃道でスレ違いさまにお辞儀をして行く村の娘の髪毛の臭気を嗅いでも、彼は烈しいインスピレーションみたようなものに打たれて眼がクラクラとする位であった。
だから、そんなものに出会うのを恐れた彼はこの時にも、わざと傍道へ外れて、彼の家の背後の山蔭に盛上った鎮守の森の中へフラフラと歩み入った。そのヒイヤリとした日蔭の木の間を横切って行く、白い蝶の姿を見ても、又は、はるか向うの鉄道線路を匐い登って行く三毛猫の、しなやかな身体附を見ただけでも、云い知れぬ神秘的な悩みに全身を疼かせつつ、鎮守の森の行詰まりの細道を、降るような蝉の声に送られながら、裏山の方へ登って行った。
忽ち、たまらない草イキレと、木蔭の青葉に蒸れ返る太陽の芳香が、おそろしい女の体臭のように彼を引包んだ。行けば行くほどその青臭い、物狂おしい太陽の香気が高まって来た。彼は窒息しそうになった。
むろん医学生である彼は、その息苦しくなって来る官能の悩みが、どこから生まれて来るかを知っていた。同時にその悩ましさから解放され得る或る…………誘惑を、たまらなく気附いているのであった。だから彼は、現在、蒸れ返るような青葉の芳香の中で、その誘惑を最高潮に感じたトタンに、自分のフックリと白い手の甲に……附いた。汗じみた、甘鹹い手の甲の皮膚をシッカリと…………て気を散らそうと試みた……が……しかしその手の甲の肉から湧き起る痛みすらも、一種のタマラない……………のカクテルとなって彼の全身に渦巻き伝わり、狂いめぐるのであった。
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