「キキキ……ケエケエケエ……キキキキッ」
形容の出来ない奇妙な声が、突然に聞こえて来たので、座敷中皆シンとなった。
それはこの上もない芽出度い座敷であった。
甘川家の奥座敷。十畳と十二畳続きの広間に紋付袴の大勢のお客が、酒を飲んでワイワイ云っていた。奇妙な謡曲を謡う者、流行節を唄い唄い座ったまま躍り出しているもの……不安とか、不吉とかいう影のミジンも映していない、醇朴そのもののような田舎の人々の集まりであった。それが皆、突然にシンとしてしまったのであった。
「……何じゃったろかい。今の声は……」
「ケダモノじゃろか」
「鳥じゃろか」
「猿と人間と合の子のような……」
「……春先に鵙は啼かん筈じゃが……」
皆、その声の方向に顔を向けて耳を澄ました。二間の床の間に探幽の神農様と、松と竹の三幅対。その前に新郎の当主甘川澄夫と、新婦の初枝。その右の下手に新郎の親代りの村長夫婦。その向い側には嫁女の実父で、骨董品然と痩せこけた[#「痩せこけた」は底本では「痩せこせた」]山羊鬚の頓野羊伯と、その後妻の肥った老人。仲人役の郡医師会長、栗野医学博士夫妻は、流石にスッキリしたフロックコートに丸髷紋服で、西日の一パイに当った縁側の障子の前に坐っていた。その他、村役場員、駐在所員、区長、消防頭、青年会長、同幹事といったような、村でも八釜しい老若が一ダースばかり下座に頑張って、所狭しと並んだ田舎料理を盛んにパク付いては、氏神様から借りて来た五合、一升、一升五合入の三組の大盃を廻わしている。皆相当酔っているとはいうものの、まだ、ほんの序の口といってもいい座敷であった。
縁側の障子際に坐っている仲人役の栗野博士夫妻は最前から頻りに気を揉んで、新郎新婦に席を外させようとしていたが、田舎の風俗に慣れない新郎の澄夫が、モジモジしている癖にナカナカ立ちそうになかった。やっと立上りそうな腰構えになると又も、盃を頂戴に来る者がいるので又も尻を落付けなければならなかった。そうして、やっと盃が絶えた機会を見計って本気に立上ろうとしたところへ、今一度前と違った奇怪な叫び声が聞こえたので、又もペタリと腰を卸したのであった。
「アワアワアワ……エベエベ……エベ……」
「何じゃい。アレ唖ヤンの声じゃないかい」
「唖ヤンの非人が何か貰いに来とるんじゃろ」
「ウン。お玄関の方角じゃ」
「ああ、ビックリした。俺はまた生きた猿の皮を剥ぎよるのかと思うた」
「……シッ……猿ナンチ事云うなよ」
そんな会話を打消すように末席から一人の巨漢が立上って来た。
「なあ花婿どん。イヤサ若先生。花嫁御はシッカリあんたに惚れて御座るばい」
そう云ううちに新郎の前へ一升入の大盃を差突けたのはこの村の助役で、村一番の大酒飲の黒山伝六郎であった。見るからに血色のいい禿頭の大入道で、澄夫の膳の向うに大胡座をかいた武者振は堂々たるものであったが、袴の腰板を尻の下に敷いているので、花嫁の初枝が気が附くと真赤になって下を向いた。
澄夫は恭しく大盃を押戴いたが、伝六郎が在合う熱燗を丸三本分逆様にしたので、飲み悩んだらしく下に置いて口を拭いた。
伝六郎は両肱を張って眼を据えた。座敷中に響き渡る野天声を出した。
「なあ若先生。イヤサ澄夫先生。惚れとるのは花嫁御ばかりじゃないばい。村中の娘が総体に惚れとる。俺でも惚れとる。なあ。この村で初めての学士様じゃもの。しかも優等の銀時計様ちうたら日本にたった一人じゃもの……なあ。学問ばっかりじゃない。テニスとかペニスとかいうものは学校でも一番のチャンポンとかチンポンとかいう位じゃげな」
仲人の郡医師会長夫妻と、頓野老夫婦と、新郎新婦が、腹を抱えて笑い出した。下座の方の若い連中が又続いて大声でゲラゲラ笑い初めたので、伝六郎はその方に入道首を捻じ向けて舌なめずりをした。
「……何かい。何が可笑しかい。俺の英語が何が可笑しい。まだまだ知っとるぞ畜生。なあ頓野先生。そうじゃろがなあ。男ぶりチウタならトーキー活動のロイドよりも、まっとまっとええ男じゃしなあ。阪妻でも龍之介でも追付かん。トーキー及ばんチウ言葉は、これから初まったゲナ……ええ。笑うな笑うな。貴様達はトーキー活動ちうものをば見た事があるか。あるめえが。この世間知らずの山猿どもが。キングコングの垂れ粕どもが……」
「アハハハ……もうわかったわかった。もう止めてくれ給え伝六君。腹の皮が捩じ切れる。アハハハハ……」
「オホホホホホホホホホ」
「まあ、そう云わっしゃるな。その盃をばツーッと一つ片付けさっしゃい。なあ若先生。俺あ要らん事は一つも云いよらん。皆に云うて聞かせよるとこじゃ。なあ……若先生は村でタッタ一人のお医者様じゃ。しかしこげな山の中の素寒貧村には過ぎた学士様じゃ。先代の仲伯先生も云うちゃ済まんが、学校は出ちゃ御座らん漢方の先生じゃ。今度の医師会長のお世話で、隣村の頓野先生のお嬢さん……しかも女学校をば一番で卒業さっしゃったサイエンス……ええ……何が可笑しいか。馬鹿ア。ナニイ……サイエン? サイエンが本真チウのか……馬鹿あ。ヘゲタレエ。スの字が附くと附かぬだけの違いじゃないか。ウグイスとウグイ……カマスとカマ……ナニイ大違いじゃあ……大違いじゃとも。サイエンスの方がサイエンよりもヨッポド上等じゃ。問題になるけえ。上等の証拠にコレ程の別嬪さんが日本中に在ると思うか。なあ医師会長さん。サイエンスちうのは別嬪さんの事だっしょう。西洋の小野の小町というてみたような……ヘエヘエ。それみろ。俺の英語は本物じゃ。よう聞いとけ。ロイドちうのは色男の事ぞ。舶来の業平さんの事ぞ。セルロイドと間違えるな。その日本の業平さんと、小野小町とこの村で結婚さっしゃる。新式の病院を開業さっしゃる。お蔭で村の者が一人残らず長生きする。なあ……これ位芽出度い事は無いなあ医師会長さん。死んだ先生も喜んで御座ろう」
伝六郎は床の間の上に並んで架かっている二枚の額を見上げた。古びた金縁の中に極めて下手な油絵の老夫婦の和服姿が乾涸びたままニコニコしていた。
「ああ。喜んで御座る喜んで御座る。なあ老先生。もう絵になって終うて御座るけんどなあ老先生。あなた方御夫婦はこの村の生命の親様じゃった。四十年この村に御奉公しとる私がよう知っとる。御恩は忘れまっせんぞえ。決して決して忘れませんぞえ……なあ。せめて今一年と半年ばかり生かいておきたかったなあ。今日というきょうこの席へ座らせたかったなあ。若先生御夫婦には、この伝六が附いとるというて安心させたかったなあ。今までの御恩報じに……」
伝六郎の声が次第に上釣って涙声になって来た。満場ただ伝六郎の一人舞台になってシインとしかけているところへ、縁側の障子の西日の前に一人の小女の影法師がチョコチョコと出て来て跪いた。障子を細目に隙かして眩しい西日を覗かせた。
仲人の医師会長栗野博士が、その障子の隙間に胡麻塩頭を寄せて、少女の囁声を聞くと二三度軽くうなずいて立上った。その後から博士夫人が続いて立上ると、見送りのつもりであろう新郎新婦が続いて立上った。
「イヤ、宜しい」
と栗野博士が振返って手を振った。新婦の母親の頓野老夫人も、ちょっと中腰になって押止めにかかったが、新夫婦が強いて行こうとするのを見た頓野老人が、山羊鬚を扱いて老夫人を押止めた。小声で囁いた。
「婆さん。留めるな留めるな。もう良えもう良え。立たしとけ立たしとけ。こげな式の時には見送りに立たぬものと昔からなっとるが、今の若い者は流儀が違うでのう。心配せんでも宜えわい」
床の間の前では話の腰を折られて唖然となった伝六郎が、新郎の残して行った大盃に気が付くと、
「勿体ない。お燗が冷める」
と云って両手で抱え上げながら顔を近付けてグイグイと一息に飲み初めたので、見ていた下座の連中がゲラゲラ笑い出した。
玄関に近い中廊下の暗がりまで来ると、栗野博士がニコニコ顔で新夫婦を振返った。
「イヤ。これは恐縮でした。……実は玄関に妙な患者が来たという話でな。あんた方は今日は、そげな者を相手にされん方が宜えと思うたけに、私が立って来ましたのじゃが」
「ハッ。恐れ入ります。そんな事まで先生を煩わしましては……」
新郎の態度と言葉が、如何にも秀才らしくテキパキとしているのを、背後から花嫁の初枝が惚れぼれと見上げていた。栗野博士はそれに気付きながら気付かぬふりをしていた。
「いや。実はなあ。その患者が精神病者らしいでなあ」
「エッ……キチガイ……」
「そうじゃ。玄関に坐って動かぬと云うて来たでな。今日だけは私に委せておきなさい。まだ時間はチット早いけれども、ちょうど良え潮時じゃけにモウこのまま、離座敷に引取った方がよかろうと思うが……あんな正覚坊連中でもアンタ方が正座に坐っとると、席が改まって飲めんでな。ハハハ……」
「……ハイ……」
「私たちもアトから離座敷へチョット行きますけに、お二人で茶でも飲んで待っておんなさい。今一つ式がありますでな」
「……ハ……ハイ……」
新郎新婦は狭い、暗い処で折重なるようにお辞儀をした。そのままに立って見送っていた。
玄関の夕暗の中をズウーッと遠くの門前の国道まで白砂を撒いて掃き清めてある。その左右の青々とした、新しい四目垣の内外には邸内一面の巴旦杏と白桃と、梨の花が、雪のように散りこぼれている。その玄関に打ち違えた国旗と青年会旗の下に、男とも女とも附かぬ奇妙な恰好の人間が、両手を支いて土下座している。
頭は蓬々と渦巻き縮れて、火を付けたら燃え上りそうである。白木綿に朱印をベタベタと捺した巡礼の笈摺を素肌に引っかけて、腰から下に色々ボロ布片を継合わせた垢黒い、大きな風呂敷様のものを腰巻のように捲付けている恰好を見ると、どうやら若い女らしい。全体に赤黒く日に焼けてはいるが肌目の細かい、丸々とした肉付の両頬から首筋へかけて、お白粉のつもりであろう灰色の泥をコテコテと塗付けている中から、切目の長い眦と、赤い唇と、白い歯を光らして、無邪気に笑っている恰好はグロテスクこの上もない。
今しも台所から出て来たこの家の下男の一作が、赤飯の握飯を一個遣って追払おうとするのを、女はイキナリ土の上に払い落して、大きく膨脹した自分の下腹部を指しながら、頭を左右に振った。獣とも鳥とも附かぬ奇妙な声を振絞った。
「アワアワアワアワアワ。エベエベエベエベエベ」
「コン畜生。唖女の癖にケチを附けに来おったな。コレ行かんか。殺すぞ」
一作が薪割用の斧を振上げて見せると、唖女は、両手を合わせて拝みながら、蓬々たる頭を左右に振立てた。下腹部を撫でて見せながら今一度叫んだ。
「エベ……エベ……エベエベエベ」
その時に栗野博士夫婦が玄関へ出て来た。
「コレコレ。乱暴な事をしちゃ不可ん。穏やかにして追返さんと不可ん」
唖女が急に向直って栗野博士のフロック姿に両手を合わせた。下腹部を指して奇声を発し続けた。
「何だ。妊娠しとるじゃないか」
一作が手拭を肩から卸した。斧を杖に突いてペコペコした。
「ヘエヘエ。これは先生。この唖女はモトこの裏山の跛爺の娘で、あそこの名主どんの空土蔵に住んでおった者で御座いますが……」
「フウム。まだ若い娘じゃな爺さん」
「ヘエ。幾歳になりますか存じませんが。ヘエ。去年の夏の末頃までこの裏山に住んでおりまして、父親の跛爺の門八は、村役場の走り使いや、避病院の番人など致しておりましたが……」
「フーム。村の厄介者じゃったのか」
「ヘエ。まあ云うて見ればソレ位の人間で御座いましたが、それが昨年の秋口になりますと大切な娘のこの唖女が、どこかへ姿を隠しましたそうで、門八爺は跛引き引き村の内外を探しまわっておりますうちに、あの土蔵の中で首を縊って死んでおりました事が、程経てわかりましたので大騒動になりましてな」
「ウムウム」
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