私は遠からず路傍の木乃伊になってしまいそうな気がする。口をポカンと開いた……眼の前の空間を凝視した……。
私は中学を卒業した切り上の学校に行かないが、その中学時代が小説の耽読時代であった。漱石、蘆花、紅葉、馬琴、為永、大近松、世阿弥、デュマ、ポー、ホルムズ、一千一夜物語、イソップなぞ片端から読んだ。二葉亭、涙香、思案外史、鴎外なぞも漁った。
それから自然主義の勃興にぶつかった。
自然主義一流のコクメイな写実式の描写を、気の永い努力で無理に読み味わっては感心した。これが文学だな……と思って熱心に模倣し愛誦していた。絵でも音楽でも西洋風の写実主義のものを尊重した。とにかく西洋人の仕事を矢鱈に崇拝して、唯物個人主義的な観念に深入りして行った。
私ばかりでない。その頃の日本人は皆謙遜であった。西洋文化を見境いもなく吸収するのに忙がしかった。同じ日本の風景でも日本人の手に成ったものは頭から軽蔑して、毛唐のタッチばかりを随喜した。毛唐のヨサがわからなければ芸術はわからないとまで云い合っていた。
そのうちに西洋流の唯物資本主義が日本で飽満して、腐敗して、自己分解を初めた。
唯物資本主義者の根本思想が、表面忠君愛国の美名に仮装されていながら内実は、社会主義者と同様の虚無思想であり、その生活の目標が弱肉強食と黄金万能の動物的享楽以外の何物でもない事がわかった……無良心、無節操、無意気、無感激な、ただその時その時の風まかせで生きて行く人間でなければ、大衆生活の仲間入りが出来ないように訓練された資本主義、唯物主義、個人主義者の子孫たち……そのような投遣りな傾向の日本の大衆が滔々としてエロ、グロ、ナンセンスの芸術に走り、犯罪小説、もしくは探偵小説のスリルに没入して行った。それはさながらにアル中、モヒ中の患者たちのように、そうした極端な刺戟をアトからアトから渇望し初めた。唯物個人主義の支配階級の連中が、その黄金の力で常に飽満しているエロ、グロ、ナンセンスの残忍、深刻なものを、彼等の夢の中に求めて止まなくなった。
非常な勢いで発達して来た日本国内の印刷能力が、これに呼応し、活躍して、忽ちの中に大衆を飽満させて行った。見る間に純文学の滅亡を叫ばしむるに到った。
一種の国産品の大量生産……それが現在の大衆読物の氾濫ではあるまいか。
しかもその国産品の氾濫も最早、行き詰まりかけているのではあるまいか。
多量の雑誌が出て来て、それがドシドシ売れて行く。読者は皆、芸術鑑賞の紋付袴で読む事を好まない。仰向けに引っくり返って、安易な夢を逐おうとしている事がわかればあとは、材料の安価と、商品化の手軽さが問題になって来るばかりである。
真剣な作家の真剣な作品を、骨を折って集めるのは馬鹿馬鹿しい事になって来る。ヨタでも焼直しでも何でもいい、読者がちょっと面白がりさえすればいいという事になって来る。そこいらのゴミ溜や、よその畠から失敬して来た材料にアニリン塗料とサッカリンで色と味を附けた、ちょっと口あたりのいい料理を作るのが芸術界の大勢になって来る。あとで庖丁を入れられたり、味加減をされたりしても決して文句を云わない。云わば扱い易い料理人が到る処にウヨウヨ出て来る。
高価い金を払って、三拝九拝しても芸術的な作品しか作り得ない、ちょっと給仕人が手加減を加えても、直ぐに尻を捲くってムクレ返るような旧式の板前は、見る見る路頭に迷い初めた。
しかし読者の味覚は案外に敏感なものである。日増しの材料とアニリン塗料と、サッカリンの味とにいつとなく飽きて来る。もっと生きのいいビタミンに満ち満ちたものが、云わず語らずの中に慾求されて来る。
実話の流行、新進作家の濫造、座談会の隆盛が、この慾求を満たすべく現われ初めたが、これとてもアニリン、サッカリンで味を占めた店は、真剣なものを作ろうとしない。彼等はお客を馬鹿にして金を儲ける道を知り過ぎている。それがホントの金儲けとさえ信じている向きもある位、資本主義社会の悪習に慣れている。やはりアニリン、サッカリン趣味の名だけの新進創作、実話、座談会を濫造する。
固い、消化の悪い出版が流行り初めた。もう大抵の読者は胃酸過多になっているらしい。古い古い缶詰めやタクアンが美味く感ぜられるくらい大衆は胃下垂状態に陥っているらしい。
大衆の読書趣味が行き詰まり初めたようである。何を読んでも面白くなくなって来たようである。
日本が敗けるか勝つか……といったようなものが売れ出したら文学とか芸術とかいうものは、黙って引込むべきではなかろうか。
暫く芸術をやめて戦争する方がよくはあるまいか。今の読者の消化不良は、たしかに運動不足のせいもあると思う。
一と運動して元気を回復した後にドンナものが読みたくなるかだ。
今一度エロ、グロ、ナンセンスでもあるまい。昔ながらの缶詰文学でもあるまい。
三越、白木屋のスシと河岸のスシの味を味わい分け得るのは一種特別の最高級のブルジョア根性の舌でなければならない。同様に、吾等の見ていた、純文学の価値は、資本主義社会特製のブルジョア頭でなければ、批判出来ないものであったかも知れない。そうして永久に亡び去るべき運命を持った芸術であったかも知れない。
芸術が亡びない限り純文学が亡びないと信じたのは、吾等の錯覚であったかも知れない。
とにかく、何もかもが八百八街の幌自動車の数と一所に過ぎ去り、且つ、消え失せて行きつつ在る。その過ぎ去り消え失せるスピードが、時々刻々に加速度化しつつ在る。私はただ茫然と、それを見恍れているきりである。
遠からず路傍の木乃伊になってしまいそうである。口をポカンと開いた……眼の前の空間を凝視した……。
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