ミミは泣きじゃくりながら顔を上げて、女王様に尋ねました。
「女王様。女王様はほんとうに……私たちを陸へ帰して下さいますでしょうか」
「ほんとうともほんとうとも。私が今云うたひとり言はみな偽りでないぞや。
あのルルが来て、あの噴水を直してくれなければ、この湖の中のものは皆死ななければならぬ。それゆえルルを呼びました。それゆえお前にも悲しい思いをさせました。どうぞどうぞ許してたもれや。それにしてもおまえはよう来ました。よう兄さまを迎えに来ました。きっと二人は陸に帰して上げますぞや。お前たちのお父さんのように悪い魚にたべられぬようにして……そうして、陸に帰ったならば鐘も鳴るようにして上げますぞや。
なれども、ルルがあの噴水を治してしまうまでは待ってたもれよ。それももう長いことではない。ミミよ、お聞きやれ。あのルルの打つ鎚の音の勇ましいこと」
女王様とミミは涙に濡れた顔をあげて、ルルの振る鉄鎚の音をききました。
ルルは湖の御殿の噴水を一生懸命につくろいました。もう二度とふたたびこわれることのないように、そうして、陸の鐘つくりや鍛冶屋さんが湖の女王様に呼ばれることのないように、命がけで働きました。そのうち振る槌の音は、湖のふちにある魚の隠れ家や蟹の穴までも沁み渡るほど、高く高く響きました。
「カーンコーン カンコン
ミミにわかれてこの湖の、底にうちふるこの鎚のおと、ルルがうちふるこの槌の音
カーンコーン カンコン
ないてうちふるこの槌の音、ないてたたいてこの湖の、水をすませやこの槌のおと
カーンコーン カンコン
ミミにあいたやあの妹に、おかへゆきたやあの故郷へ、そしてききたやあの鐘の音」
ルルはとうとう噴水を立派につくろい上げました。玉のような澄み切った水の泡が、嬉しそうにキラキラと輝きながら空へ空へ渦巻きのぼってゆきました。そのま上の濁った水が、新しく
噴き上った水に追いのけられて、そこからあかるい月の光りと清らかな星の光りが流れ込んで来ました。もうこれから何万年経っても、この噴水がこわれることはあるまいと思われました。
湖の御殿の真珠の屋根は、月と星の光りを受けて見る見る輝き初めました。
瑠璃の床、青玉の壁、
翡翠の窓、そんなものがみなそれぞれの色にいろめき初めました。
湖の女王の沢山の家来……赤や青や、紫や、
黄金色の
魚たちは、皆ビックリした眼をキョロキョロさして、われもわれもと列を組んで御殿のまわりに集まって来ました。そのありさまはまるで虹が泳いで来るようでした。
湖の女王様は手をあげてその魚どもを呼び集められまして、これからルルとミミにできるだけ立派な御馳走をするのだから、その支度をせよと云いつけられました。
湖の御殿の噴水を立派に直したルルは、もう歩くことが出来ないほど疲れておりました。けれども……この噴水がもう二度とふたたびこわれないようになった……この湖の中に在る数限りないものの生命は助かった……そうしてこれから
後何万年経ってもこの水は濁らない……村にわるいことも起らないのだ……と思うと、ルルは嬉しくてたまりませんでした。その嬉しさに、疲れた
身体を踊らせながら女王様の前に帰って来ました。
その時にルルは、今までにない美しい御殿の様子に気が付きました。
御殿の大広間は夜光虫の薄紫の光りで夢のように照らされておりました。広い広い部屋一パイに飾られた
水艸の白い花は、ほのかな
香いを一面にただよわせておりました。
その中に群あつまる何万とも何億とも知れぬ魚の数々。その奥の奥に見える紫水晶の階段。その上に立っていられる女王様のお姿。
そうして今一人の美しい女の子の姿……ミミ……。
ルルは思わず壇の上に駈け上ってミミを抱きました。ミミもしっかりとルルの首に
獅噛み付きました。
今まで虹のようにジッと並んでいた数限りない魚の群は、この時ゆらゆらと動き出しました。青、赤、紫、緑、黄色、銀色、銅色、
黄金色と、とりどり様々の色をした魚が、同じ色同志に行列を作って、縞のようになったり、渦のようになったりしました。又は花の形を作ったり、鳥の形を作って見せたり、はては皆一時に入り乱れて、一つ一つに輝きひるがえる美しさ。その間を飛びちがい入り乱れる数知れぬ夜光虫の光り。それは世界中が
金襴になって踊り出すかのようでした。
ルルとミミは抱き合ったまま、夢のように見とれていました。その前に数限りない御馳走が並びました。
月の光りはますます明るく御殿の中にさし込みました。そうして、女王様の嬉しそうなお顔やお姿を
神々しく照し出しました。
そのうちに月の光りが次第次第に西へ傾いてゆきました。ルルとミミの
陸へ帰る時が来ました。
ルルとミミは女王様から貸していただいた、大きな美しい
海月に乗って、湖の御殿の奥庭から
陸の方へおいとまをすることになりました。
女王様はルルとミミを今一度抱きしめて頬ずりをされました。そうして、こんなお祈りをされました。
「この美しい
兄妹は、この後どんなことがありましても離れ離れになりませぬように」
ルルもミミも女王様が懐かしくなりました。何だかいつまでもこの女王様に抱かれて、可愛がっていただきたいように思って、涙をホロホロと流しました。
けれども女王様は二人をソッと抱き上げて、海月の上にお乗せになりました。
「海月よ。お前は絶えず光りながら、この
兄妹を水の上まで送り届けよ。そうして、悪い魚が近付かないように毒の針を用意して行けよ」
海月は黙って浮き上りました。
咲き揃った
水藻の花は二人の足もとを
後へ後へとなびいてゆきました。御殿の屋根は薔薇色に、または真珠色に輝きながら、水の底の方へ小さく小さくなってゆきました。宝石をちりばめたような海月の足の下へ……。
「ネエ、ルル兄さま!」
「ナアニ……ミミ」
「女王様は何だかお母様のようじゃなかって」
「ああ、僕もそう思ったよ」
「あたし、何だかおわかれするのが悲しかったわ」
「ああ、僕もミミと二人きりで湖の底にいたいような気もちがしたよ」
こんなことを二人は話し合いました。そうして二人は抱き合って、海月の足の下をのぞきながら、何遍も何遍も女王様のいらっしゃる方へ「左様なら」を送りました。
ルルとミミが湖のおもてに浮き上ったところには、美しい一艘の船が用意してありました。その上にルルとミミは乗りうつりました。
「海月よ。ありがとうよ。ルルとミミが心から御礼を云っていたと、女王様に申し上げておくれ」
海月はやはりだまって、ユラユラと水の底に沈んで行きました。
兄妹は
舷につかまって、その海月の薄青い光りが、水の底深く深く、とうとう見えなくなってしまうまで見送っておりました。
お月様は今、西に沈みかけていました。かすかに吹き出した暁の風が、二人の船を
陸の方へ吹き送りはじめました。
湖の
面には牛乳のような
朝靄が棚引きかけていました。その上から、まだ誰も起きていないらしい、なつかしい故郷の村が見えました。その村のお寺の鐘撞き堂に小さく小さくかすかにかすかに光る鐘……ルルはそれをジッと見つめていましたが、その眼からどうしたわけか涙がポトポトとしたたり落ちました。
「まあ。お兄さま、どうなすったの。なぜお泣きになるの……」
ルルはしずかにふりかえりました。
「ミミや。お前は村に帰ったら、一番に何をしようと思っているの……」
「それはもう……何より先にあの鐘の
音をききたいと思いますわ。あの鐘は今度こそきっと鳴るに違いないのですから……どんなにかいい
音でしょう……」
と、ミミはもう、ルルの顔をあおぎながら、その
音が聞こえるようにため息をしました。ルルも一所にため息をしました。
「ミミや。そうしてあの鐘が鳴ったなら、村の人はきっと私たちを可愛がって、二度と再び湖の底へはゆけないようにしてしまうだろうねえ」
「まあ。お兄様はそれじゃ、湖の底へお帰りになりたいと思っていらっしゃるの……」
ルルはうなずいて、又一つため息をしました。そうして又も涙をハラハラと落しました。
「ああ。ミミや。わたしはあの鐘の
音をきくのが急に怖くなった。村の人に可愛がられて、湖の底へ又行くことが出来なくなるだろうと思うと、悲しくて悲しくてたまらなくなった。私は湖の御殿へ帰りたくて帰りたくてたまらなくなったのだ。私は死ぬまであそこの噴水の番がしていたくなったのだ」
「それならお兄様……あの鐘の
音はもうお聴きにならなくてもいいのですか……お兄様……ききたいとはお思いにならないのですか」
「ああ。そうなんだよ、ミミ……だから、お前は私の代りにも一度一人で村へ帰って、あの鐘を撞いてくれるように村の人に頼んでくれないか。あの鐘はルルの作り損いではありませんと云ってね。それから兄さんのところへお出で……兄さんはその鐘の
音を湖の底できいているから……お前の来るのを待っているから……」
といううちに、ルルは立ち上って湖の中に飛びこもうとしました。
「アレ。お兄さま、何でそんなに情ないことをおっしゃるの……それならあたしも連れて行ってちょうだい」
と、ミミは慌ててルルを抱き止めようとしました。そうすると、不思議にもルルの姿は煙のように消え失せてしまいました。船も……お月様も……湖も……村の影も……朝靄も消え失せて、あとにはただ何とも云われぬ芳ばしいにおいばかりが消え残りました。
ミミはオヤと思ってあたりを見まわしました。見ると、ミミは最前のまま湖のふちの
草原に突伏して、花の鎖をしっかりと抱きしめながら睡っているのでした。今までのはすっかり夢で、待っていたお月様は、まだようようにのぼりかけたばかりのところでした。そうして湖の水はやっぱりもとの通り黒いままでした。
ミミはワッとばかり泣き伏しました。泣いて泣いて、涙も声も無くなるほど泣きました。女王様の言葉を思い出しては泣き、ルルの顔を思い出しては泣き、ルルと抱き合って喜んだ時の嬉しさを思い出してはあたりを見まわしました。
けれども、あたりにルルの姿は見えませんでした。ただミミが花を摘んでしまった春の草が、涙のような露を一パイに溜めて、月の光りをうつしながらはてしもなく茫々茂っているばかりでした。
それを見て、ミミはまた泣きつづけました。
その
中にお月様はだんだんと空の真ん中に近づいて来ました。ミミも泣き止んで、そのお月様をあおぎました。
「ああ、お月様。今まで見たのは夢でしょうか、どうぞ教えて下さいませ」
けれどもお月様は何の返事もなさいませんでした。
ミミは涙を拭いて立ち上りました。露に濡れた
草原を踏みわけて、お寺の方へ来ました。そうして鐘撞き堂まで来ると、空高く月の光りに輝いている鐘を見上げました。
「あの鐘を撞いて見ましょう。あの鐘が鳴ったなら、睡蓮が教えたことはほんとうでしょう。湖の底の御殿もあるのでしょう。女王様のお言葉もほんとうでしょう。お兄さまもほんとうにあそこで待っていらっしゃるでしょう。……あの鐘を撞いてみましょう……」
ミミが撞いた鐘の
音は、大空高く高くお月様まで……野原を遠く遠く世界の涯まで……そうして、湖の底深く深く女王様の耳まで届くくらい澄み渡って響きました。
お寺の坊さんも、村の人々も、子供までも、みな眼をさましたほど、美しい、清らかな
音が響き渡りました。
ミミは夢中になって喜びながら、お寺の鐘撞き堂を駈け降りました。
「ああ……夢ではなかった。夢ではなかった。お兄様はほんとうに湖の底に待っていらっしゃる。
妾が来るのを待っていらっしゃる。
ああ、嬉しい。ああ、嬉しい。妾はもうほんとうにお兄様に会えます。そうして、もう二度と再び離れるようなことはないのです。ああ、うれしい……」
こう云ううちに、ミミは最前の花の鎖のところまで駈けもどって来ました。その花の鎖の端を両手でしっかりと握って、静かに湖の底へ沈んでゆきました。――空のまん中にかかったお月様をあおぎながら……。
村中の人々は鐘の音に驚いて、
老人や子供までみんなお寺に集まって来ました。お寺の坊さんと一所になって、どうしたのだろうどうしたのだろうと話し合いましたが、誰が鐘を打ったのか、どうして鐘が鳴ったか、知っているものは一人もありませんでした。
そのうちに鐘撞き堂の石段に、ミミの露に濡れた小さな足あとが、月の光りに照されているのが見つかりました。その足あとは
草原のふちまで来ますと、草を踏みわけたあとにかわって、ずっと湖のふちまで続いております。
村の人々はやがて、湖のふちに残っている花の鎖の端を見つけました。その一方の端はずっと湖の底深く沈んでいるようです。
「あら、これはあたしたちがミミちゃんに摘んであげた花よ。ミミちゃんが花の鎖につかまってお兄さんに会いにゆくって云ったから、あたしたちは大勢で加勢して上げたのよ」
と二三人の女の子が云いました。
村の人々は皆な泣きました。泣きながら花の鎖を引きはじめました。
お月様がだんだん西に傾いてゆきました。それと一所に湖の水がすこしずつ澄んで来るように見えました。けれども、花の鎖は引いても引いても尽きないほど
長う御座いました。
ようようにお月様が沈んで、まぶしいお
太陽様が東の方からキラキラとお上りになりました。その時にはもう湖の水はもとの通り水晶のように澄み切っておりました。そうしてやがて……。
シッカリと抱き合ったまま眠っているルルとミミの姿が、その奇麗な水の底から浮き上って来ました。
――可哀そうなルルとミミ……。
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