二
体重三十貫近くもあろうかと思われる太刀山さながらの偉大な体格だ。頭の上に美事なターバンを巻付けているので一層物々しく、素晴らしく見える。太い毒々しいゲジゲジ眉の下に茶色の眼が奥深く光って、鼻がヤタラに高い。ダブダブの印度服に、無恰好なゴム長靴を穿いて一瞬間私を胡乱臭そうな眼付で見たが、やがて頭をピョコリと下げて見せた。
私は何だかここいらに伯父の巣窟がありそうに思えたので、その印度人に握手する振りをして十円札を一枚握らせると、印度人は私の気前のいいのに驚いたらしい。
毛ムクジャラの両手を胸に当てて、最高級の敬礼をした。直ぐ背後に在る真鍮鋲の扉を押して開いて、私を迎え入れるべくニッコリと愛嬌笑いをした。
扉の内側は豪華なモザイクのタイルを張詰めた玄関になっていた。そのタイルの片隅に横たえられた長椅子にタキシードを着た屈強の男が三人、腕組みをして並んでいたが一眼で用心棒という事がわかる。その中の一人が印度人の眼くばせを受けると慌てて立って釘のように折れ曲りながら私に一礼した。右手の地下室に通ずる扉を開いて、私を導き入れると、ピシャンと背後から扉を閉じた。
私は青い光りに照されているマット敷の階段を恐る恐る降りて、突当りの廻転扉をくぐると忽ち真暗になってしまったが、間もなくその暗闇の中から、冷たい小さな女の手が出て来て、私の左手をシッカリと握った。ヒヤリヒヤリと頬に触れる木葉の間を潜り抜けながら奥の方へ引張り込んでいった。
私は恐ろしく緊張させられてしまった。早稲田在学当時、深夜の諏訪の森の中で決闘した当時の事を思い出させられたので……。
ところが、そうした樹の茂みの中を、だんだんと奥の方へ分入ってみると驚いた。決闘どころの騒ぎでない。
詳しい事実は避けるが、さながらに極楽と云おうか、地獄と形容しようか。活動写真あり。浴場あり。洞窟あり。劇場あり……そんなものを見まわしながら生汗を掻いて行くうちに、やがて蛍色の情熱的な光りに満ち満ちた一つのホールに出た。棕梠、芭蕉、椰子樹、檳榔樹、菩提樹が重なり合った中に白い卓子と籐椅子が散在している。東京の中央とは思えない静けさである。
私は何がなしにホッとしながら護謨樹の蔭にドッカリと腰を据えた。そこで今まで私の手を引いて来た女の顔をシッカリと見た。
女はオズオズと私の前にプレン・ソーダのコップを捧げていた。
栗色の夥しい渦巻毛を肩から胸まで波打たせて、黄色い裾の長いワンピース式の印度服を着ている。灰色の青白い光沢を帯びた皮膚に、濃い睫毛に囲まれた、切目の長い二重瞼、茶色の澄んだ瞳。黒く長い三日月眉。細りと締まった顎。小さい珊瑚色の唇。両耳にブラ下げた巨大な真珠……それが頬をポッと染めながら大きな瞬きをした。何となく悲しく憂鬱な、又は恥かし気な白い歯の光りだ。印度人に相違ないが、恐しく気品のある顔立ちだ。
私は指の切れる程冷めたいソーダ水のコップを受取った。
「君の名は何ての?」
「アダリー」
女の両頬と顎に浮いた笑凹が出来た。頬が真赤になって瞳が美しく潤んだ。私は又、驚いた。どう見ても処女である。コンナ処に居る女じゃない。
「いつからこの店に出たの」
「今日から……タッタ今……」
「今まで何をしていたの」
「妹のマヤールと一緒に日本の言葉習っておりましたの」
「どこに居るの、そのマヤールさんは……」
「二階のお母さんの処に居ります」
「フウン……お父さんはどこに居りますか」
私の言葉が自然と叮嚀になった。
「私たちのお父さん、印度に居ります」
「イヤ。そのお母さんの旦那様です。わかりますか」
「わかります。私の印度に居るお父様が、西洋人から領地を取上げられかけた時に、私たち姉妹を買い取って、お父様を助けて下すった方でしょ」
「そうです。その方の名前は何と云いますか」
「二階のお母さんの旦那様です。須婆田さんと云います」
私の胸は躍った。
「そうそう。その須婆田さんです。どこに居られますか。その須婆田さんは……」
「表に居なさいます」
「表に……? 表のどこに……」
「印度人になって立っていなさいます」
「アッ。あの印度人ですか。僕は真物かと思った」
「須婆田さんはホントの印度人です」
「成る程成る程。貴女はそう思うでしょう。スゴイ腕前だ。それじゃ十円上げますから僕の云う事を聞いて下さい」
「嬉しい。抱いて頂戴……」
と叫ぶなりアダリーは私の首に両腕を巻き付けた。異国人の体臭が息苦しい程私を包んだ。誰に仕込まれた嬌態か知らないが私は急に馬鹿馬鹿しくなった。
「馬鹿……ソレどころじゃないんだ。入口へ案内してくれ給え」
「……あの……会わないで下さい。どうぞ……」
アダリーは早くも私の顔色から何か知ら危険な或るものを読んだらしい。
「イヤ。心配しなくともいいんだよ。お前を身請するのだ」
「……ミウケ……」
「そうだ。お前を俺が伯父さんから買うのだ」
「エッ。ホント……?」
「ホントだとも。俺は果物屋の主人なんだ。お前を店の売子にするんだ。いいだろう」
「嬉しい。妾歌を唄います」
「歌なんか唄わなくともいい。二階のお母さんていうのは雲月斎玉兎っていう奇麗な人だろう」
「イイエ。違います。ウノコ・スパダっていう人です」
「おんなじ事だ」
こんな会話をしているうちにアダリーは私を導いて、暗い地下室の階段を登り詰めた。右手に狭い暗い木の階段が在る。ちょうど玄関の用心棒連が腰をかけている背後らしい。
「二階へ行くのはこの階段だろう」
「ハイ。あたしここより外へは出られません」
「ヨシ。あの部屋に帰って待ってろ。今に主人の須婆田さんが呼びに行くから……」
玄関には最前の通り用心棒らしいタキシード男が三人、腰をかけて腕を組んでいたが、外へ出て行こうとする私の顔を見ると三人が三人とも一種の怯えたような顔をして見送った。そうして扉の把手に手をかけると三人が三人とも恐しそうに中腰になりかけたが、直ぐに又腰を卸した。妙な奴だと思ったが間もなくその怯えている理由が判然った。
樫の木らしい重たい玄関の扉を内側からソーッと開くと、忽ち怒号の声が外から飛込んで来た。
最前の巨大な印度人が扉を背にして突立っている。その前の四五歩ばかり隔った濡れたタタキの上に、背広服にレインコートの壮漢が五六人こっちを向いて立ちはだかっている。その中央に仁王立になっている無帽の巨漢は太い黒塗のステッキを右手に構えている。一目でわかる暴力団員である。近頃流行のエロ退治で、この家を脅迫に来たものに違いない。
印度人は私を振返る余裕もないらしい。右手に小さな銀色のピストルを持ち、左手に分厚い札束を抓んで軽く上下に振り動かしている。その頭の上の真暗い空間からは、銀色の小雨が依然として引っきりなしに降り注いで、場面を一層物凄くしている。
暴力団の中央の無帽の巨漢がステッキを左手に持ち換えた。右手を上衣のポケットに突込みながら怒鳴った。
「天に代って貴様等を誅戮に来たんだ。日印××なぞといって銀座街頭で南洋女の人肉売買をしているんだ。ちゃんとネタが上っているんだぞ」
それは真に怒髪天を衝くといった形相だった。
しかしこれに反して印度人の態度は見上げたものだった。よしんばそれが卑怯、無残な伯父の変装であるにしても、私は今更に伯父の性格を見直さなければならないかな……と思ったほど堂々たるものがあった。六人もの生命知らずの壮漢を向うに廻しながら、鬚だらけの横頬で微笑しているらしかった。
「ヘヘヘ。大きな声はやめて下さい。貴方がたのお世話で商売しておりません」
ステッキの巨漢が怒りのためにサッと青くなった。ほかの五人もその背後からジリジリと詰め寄った。
「ナ……何だっ。貴様はこの家の主人か」
「主人ではありませぬ、印度の魔法使いです」
「魔法使い……?……」
「そうです……わたしの指が触わると何もかもお金になるのです。お金にならないものは皆、血になるのです。ヘヘヘ……」
「……………………」
スッカリ気を呑まれたらしく生命知らずの連中が六人とも顔を見交して眼を白黒さした。この印度人が尋常の人間でない事を感付いたらしい。私はイヨイヨ伯父に違いないと思った。スッカリ感心してしまった。
「……サア……どうです。一体いくら欲しいのですか。君等は……」
「……サ……三千円出せ」
「アハハハ。そんなに出せませぬ。今ここに八百五十円あります」
「畜生……そんな目腐れ金で俺達が帰れると思うか」
「ヘヘヘ。ここはビルデングの奥です。わかりましたか。ここはビルデングの奥ですよ。ピストルを撃っても往来までは聞えません。どんな取引でも出来ます。サア……お金か……血か……どちらがいいですか」
「血だッ……」
と叫ぶと同時にステッキを提げた巨漢が右のポケットから黒い拳銃を取出した。
その一刹那、私は印度人の前に大手を拡げて立塞がった。……と思う間もなく背後の扉から飛出したらしい、黄色いワンピースを着たアダリーが私の前に重なり合って突立った。私と印度人を庇護うつもりらしかった。
巨漢は面喰ったらしい。ピストルを持ったまま一歩背後に退った。
しかし私はソレ以上に面喰った。背後からアダリーを引抱えて、横に突き退けようとしたが、これが私の大きな過失であった。その一瞬間、鼻の先の巨漢の右手から茶色の光りの一直線が迸って印度人の巨体が無言のままドタリと仰向けに倒れた。ウームと唸りながら両足を縮めた。
アダリーを扉の間に閉め込んだ私は、その倒れた印度人の側に突立った。失望とも混乱とも憤懣とも、何ともかとも云いようのない感情の渦巻の中に喘ぎ喘ぎ突立っていた。云い知れぬ絶望感のために危うく自制力を失いかけていた。鼻の先に巨漢がノシノシと近付いて来た。
「何だ貴様は……」
私は冷然と笑った。その私の前後左右に勢を得た暴力団員が立塞がった。私を取逃がすまいとするかのように……。
その隙に巨漢は、素早く身を屈めて印度人の手から紙幣の束を奪い取ろうとした。私は思わずカッとなった。イキナリ馳寄ってその巨漢の右手を靴の先で蹴飛ばした。紙幣が散乱してビショビショに濡れた漆喰の平面に吸付いた。
「……ウヌッ……」
と怒髪天を衝いた巨漢が、私の耳の上に一撃加えようとするのを、私はヘッドスリップ式に首を屈げたが、その隙に両腕を強く振ると、左右の二人が肩の関節を外して悲鳴を上げた。同時に正面の巨漢がピストルを握ろうとした右手を逆に掴んで背負うと、ポキンという音と共に、右の上膊の骨を外した巨漢が、眼の前のタタキの上にモンドリ打って伸びてしまった。
その手からピストルを奪い取って膝を突いたまま見まわすと、ほかの連中は巨漢を残して狭い路地口を押合いヘシ合い逃げて行った。その後から背後の扉を飛出したタキシードと用心棒連が、何やら怒号しながら追うて行ったのを見ると私は急に可笑しくなった。
アトを見送った私は倒れた印度人の死骸に向って頭をチョット下げた。
「自業自得です。成仏して下さい」
と黙祷すると、落散った紙幣を、一枚一枚悠々と拾い集めてポケットに入れた。それから背後の扉を押して玄関の横から狭い木の階段をスルスルと馳上って二階へ出た。
地下室の豪華絢爛さに比べると二階はさながらに廃屋みたような感じである。窓が多くて無闇に明るいだけに、粗末な壁や、ホコリだらけの板張が一層浅ましい。
私は一渡り前後左右を見まわすと、その廊下の突当りに向って突進した。
事務室に居るという雲月斎玉兎女史こと、本名須婆田ウノ子を逃さないためだ。
廊下の突当りに事務室と刻んだ真鍮板を打付けた青ペンキ塗の扉がある。その扉を開こうとすると、黄色のワンピース……アダリーが、イキナリ私の右腕に飛付いてシッカリと獅噛み付いた。涙を一パイ溜めた眼で私を見上げた。
「アナタの伯母さんを殺してはイケマセン……」
私は愕然となった。唖然となった。私の心の奥底の秘密を、どうしてアダリーが知っているのだろう。
私の舌が狼狽の余り縺れた。
「馬鹿……ホントの……ホントの伯母さんじゃない。毒婦だ」
アダリーはイヨイヨシッカリと私の腕に絡み付いた。栗色の頭髪を強く左右に振った。
「チガイマス……善い人です。私たちの恩人です」
私は呆れた。同時に狼狽した。左手に握っていた八百五十円の札束をイキナリ、アダリーのワンピースの襟元に押込んだ。
「さ……これを遣る。放してくれ」
「アッ。イケマセン」
とアダリーは叫んで、慌てて札束を取出そうとした。その隙に私はアダリーを振離して青ペンキ塗の扉の中に飛込んだ……が……思わずアッと声を立てた。
そこは意外千万にも真紅と黄金の光りに満ち満ちた王宮のような居室であった。嘗て何かの挿画で見た路易王朝式というのであったろう……緋色の羅紗に黄金色の房を並べた窓飾や卓子被、白塗に金銀宝石を鏤めた豪華な椅子や卓子がモリモリ並んでいる。その入口に面した向側の大暖炉の上に巨大な鏡が懸かって、血相の変った私の顔がハッキリと映っている。
煙突の掃除棒みたようにクシャクシャに乱立した頭髪。青黒く痙攣した顔面筋肉。引き歪められた古背広。ネクタイ。ワイシャツ。動脈瘤の妖怪然たる決死の姿……。
部屋の中には誰も居ない。大暖炉の横の紫檀の台の上に両手をブラ下げて天を仰いだ裸体の少年像(後から聞いたところによるとこれはロダンの傑作の青銅像で雲月斎玉兎女史の巴里土産であったという)がタッタ一つ立っているきりである。部屋の中に満ち満ちた香水の芳香がシンカンと静まり返って気が遠くなりそうである。
「ホホホホホホホホホ」
思いがけない方向から思いがけない女の笑い声が聞えたので、私はビックリした。その方向に向き直ってキッと身構えた。
部屋の右手の隅に七宝細工かと思われる贅沢な寝台が在る。金糸でややこしい刺繍の紋章を綾取った緋色の帷帳がユラユラと動いたと思うとサッと左右に開いた。その中の翡翠色の羽根布団を押除けて一つの驚くべき幻影がムクと起上った。
玉虫色の夜会服を着た妖艶花のような美人……噂に聞いた……ブロマイドで見た……銀幕で見た……否。それ以上に若い、匂やかな生き生きした艶麗さ……私は、私の大動脈瘤が描きあらわす一つの幻覚ではないかと思った。コンナ素晴らしい幻影が見えるのは、黴毒が頭に来ているせいじゃないか知らんと思ったくらい蠱惑的な姿であった。
「オホホホホホ。初めてお眼にかかります。妾は伯父様に御厄介になっております玉兎で御座います」
私は背後の低い緞子の肘掛椅子に尻餅を突いた。クッションに跳ね返されて辷り落ちそうになったので慌てて坐り直した。
「ホホ。最前からの御様子はここから拝見しておりました。お美事なお手の中に感心致しておりました。失礼ですけど……あのアダ子や……アダ子や……」
「ハイ……」
返事の声と殆ど同時に私の横手の扉が静かに開いた。耳の横に新しいフリージャの花を飾ったアダリーが、湯気の立つ赤黒い液体を湛えた青い茶碗を二つ載せた銀盆を目八分に捧げて這入って来た。印度風の礼式であろうか。頭の上に押し戴くように一礼しいしい私の前の小卓子に載せた。
扉の外での切羽詰まった態度はどこへやら、今までの事はどこを風が吹くかという落附きぶりを見せながらアダリーは両手を胸に当てて最敬礼をしいしい立去った。
その背後姿を扉の外へ見送っているうちに私はやっと吾に帰った。同時に余りにも白々しい二人の冷静さに、たまらない怒気が腹の底から煮えくり返って来るのを、どうする事も出来なかった。
二人は自分達の夫であり、主人である伯父の死体が玄関前に横たわっているのを知っておりながら平気で私を取巻いて、この上もなく冷血な芝居をしている。アダリーが私を扉の外に引止めたのは、毒婦玉兎女史に何かしら準備の余裕を与えようとしていたものに相違ない。
私は、そう気が付くと同時に颯と緊張した。
「オホホホ。まあ落付いて下さい。どうぞ印度のお紅茶を一つ……実はあなたに御相談したいことがありますの」
「この上に落付く必要はないです。眼が見えます。耳が聴えます。どんな御相談ですか」
「……まあ……随分性急ですね、友太郎さんは……」
だしぬけに名前を呼ばれて、私はビックリした。しかし、それを顔には出さず、咳払いをした。
「止むを得ません。時日がないですから」
「まあ……時間がない、どうしてですか」
「僕はもう二三日中に死ぬのです。大動脈瘤に罹っているんです」
「まあ……大動脈瘤と申しますと……」
「前月の二十七日にQ大学で心臓をレントゲンにかけてもらったのです。そうしたら僕の心臓の大動脈の附根に巨大な動脈瘤というものがある事が発見されたのです。その時にもう二週間の寿命しかないと、宣告されたのですから、僕の寿命は今日、明日のうちなのです」
私がそう云ううちに、伯母の化粧した顔色が眼に見えて変化して来た。幾十歳の老婆のように皮膚が張力を失い、唇がわななき、眼の中に一パイ涙ぐんで来た。カップを持つ手がわなわなとふるえ出した。
「ですから御相談に来たのです。……サア……弟をどうしてくれますか」
「そ……それはもう妾が引受けて……」
「口先ばかりではいけませんよ伯母さん。僕の眼の前でチャンとした方法を立てて下さい」
「待って……待って下さい。伯父様に一度御相談しないと……」
「馬鹿……その手を喰うと思うか。……この毒婦……」
「エッ、妾が……毒婦ですって……」
「毒婦だ毒婦だ……貴様は俺の伯父を唆かして、俺の両親の財産を横領させた上に生命までも奪ってしまったろう……」
「アッ……そ……それは大変な貴方の思い違いです」
「ナ……ナニを今更ツベコベと……覚悟しろ……」
「アレッ……」
と叫ぶと同時に玉兎女史は、私の振上げた短刀の刃先をスリ抜けて、寝台の中に飛込んだ。玉虫色の羽根布団を頭から引っ冠ったが、私はこの羽根布団の下の人の形の胸のあたり眼がけて、グサッと短刀を突込んだ。
だが、不思議や羽根布団がビシャンコになってしまった。慌てて羽根布団をマクリ上げて下を覗いて見た私は、アッと叫んで立竦んだ。羽根布団の下は真赤な血に染ったシーツばかりである。そのシーツの中央には何かあって手を突込んでみると、下はからになっているらしい。こころみに両手で引明けてみると三尺ばかり下には階段があって、青い電燈が点っているのが見える。
私は一杯食わされたのだ。雲月斎玉兎女史一流の手品で逃げられてしまったのだ。が、腹を立てても追附く話でない。私は血に染んだ短刀を掴んだまま、ぼうっとしかけたが、落着いて見ると、表の方で時ならぬ声がする。
立って寝台の向うの窓から覗いて見たが、騒がしい筈だ。狭い路地口には真黒い警官がつめかけていて、この家の周囲は蟻の這い出る隙もないくらい厳重にとりかこまれているようである。例の用心棒連はその押し合いへし合いしている中に数珠つなぎになってうなだれている。そのほかに、地下室で騒いでいた紳士、半裸体の女優、活動写真技師、女給なぞが、次から次に引っぱり出されて来る。十坪ばかりの空地が芋を洗うように雑沓して来る。
そのうちに背後の扉が開いた音がしたので、ハッとして振向くと、顎紐をかけた警官が二三人ドヤドヤと這入って来た。皆殺気立った形相をしていたが、振返った私の血だらけの右手を見ると、イキナリ二三梃のピストルを突きつけた。
「動くな。貴様だろう。犯人は……」
私は静かに寝台の上に突立った。
「そうです。お手数はかけません」
「死骸はどこに隠した……この家の主人の死骸を……」
「知りません」
私は内心唖然とした。警官が片附けたのでなければ消え失せるよりほかになくなりようがない筈だ。
「おのれ……白を切るか」
というなり、先に立った警官が飛びかかって来た。私は咄嗟の間に身を飜して寝台の中へ飛び込んだ。ストンと音がして、身体が階段の上に落ちるとすぐに、跳ね起きて階段を駈け降りた。
馳け降りると一つの扉にぶつかった。ぶつかるとすぐに押開いて中にはいると、頑丈な閂が取付けてあるのを発見したので、これ幸いとガッチリ引っかけた。私はやっと落着いて、胸の動悸をしずめて真闇になったトンネルを手捜りで歩き出した。どこへ行くかわからないまま……。
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