「玲子さん……僕は今のお母さんが初めてこの家に来られた時からこの女はイケナイ人だ……玲子さんのためにならない人だということを看破っていたのです。ですからこの家に来るのをやめて、あの女のすることを眼も離さずに見張っていたのです。玲子さんにも早く打ち明けようと思っていたのですが、玲子さんは頭はステキにいいんですけども心がトテモ正直ですから、もし僕が、あの女を疑っていることが、玲子さんを通じてあの女にわかって用心させるといけないと思いましたから、わざと黙っていて、あの女が玲子さんをイジメるのを知らん顔して見ていたのです。あなたも辛かったでしょう。しかし僕も辛かったですよ。ほんとにほんとにすみませんでした」
「イイエイイエ。先生。先生を怨む気持なんか……あたし……あたし……」
「まあまあ落ちついて聞いて下さい。あなたが、それでもあの女をホントの母親のように思って心から慕い、敬っていられるのを見て、僕がドンナに感心したことか……そうしてドンナに心配したことか……ね。玲子さん。わかって下さるでしょう、僕の心持は……」
「ええ。ええ。あたし先生ばっかりを、おたよりに……」
「そればかりじゃありません。毎日のようにお講義を聞いている大沢先生が日に増しお顔色が悪くなってゆかれるのに気がついた僕がどんなに気を揉んだことか……大沢先生は世界に知られている鳥の学者ですからね。いつまでもいつまでも生きていて頂かなければならぬ日本の国宝ともいうべき貴い方ですからね……それで思い切ってある日のこと大学校で大沢先生にお眼にかかって聞いてみると、大沢先生が御自分はお気づきにならないまんまにあの女から毒殺されかけておいでになることが、僕にハッキリとわかったのです。大沢先生は去年の秋口のある晩のこと、蒲団が薄かったので鼻風邪を引かれたのです。それで鼻が詰まってしまってアンマリ不愉快なので学校を休もうかと思っていられるところへ、あの女がすすめてコカインの霧吹器で先生の鼻の穴を吹いて上げると瞬く間に鼻がスッと透って、頭がハッキリして来ましたので、先生は大喜びで、そのスプレーをポケットに入れて学校に来られました。そうしてソレ以来、風邪を引かれなくとも頭をハッキリさせるために彼女の調合したコカインとアドレナレンのスプレーで鼻の穴をプープー吹かれるようになって、とうとう本物のコカイン中毒になられたのです。しかもそのコカインの分量をあの女がグングン強めて行ったのに違いありません。そうして大沢先生の心臓をグングン弱めて行ったに違いないのです。あの女は現在横浜の西洋人のお医者を情夫に持っているのですからね。そこから密輸入のコカインを自由自在に手に入れているに違いありません。そうして最後には何かモット強い……たとえば青酸加里か何かをスプレーの薬に使って、コカイン中毒で死なれたように見せかけるつもりだったのでしょう。トテモ怖ろしい女だったのですよ。アレは……ね。そうでしょう玲子さん」
玲子は眼を大きく大きく見開いて中林先生の顔を見上げて呼吸も吐けないでいた。その顔を見下しながら中林先生はニッコリと笑った。
「ところが悪いことは出来ないものです。それ以来、僕が毎日毎日あの女の行く先を探っている中に、あの女のアトを僕と同じように跟けまわしている一人のルンペンみたような男がいるのに気がつきました。そうしてツイこの四五日前のことです。そのルンペンがある酒場で酔っ払った時に……俺はモウ近い中に大金持になるんだぞ……と口走るのを聞きましたから、僕はハッとしました。イヨイヨ危ないナ……と思いましたから直ぐに大沢先生に何もかも打明けて、家を出て行って頂いたのです。心臓がもうかなり弱っていられるのを無理にそうして頂いたのです」
何もかも忘れて聞き惚れていた玲子はハッと気がついて、心からうなずいた。
中林先生の深い深い親切と智慧に、驚いて、感心してしまいながら、その乱れた髪毛の下に光る凜々しい瞳の光りを見上げていた。
「けれども玲子さん。お父さんのことは心配しなくともいいです。大沢先生が信州へ行かれたのは嘘なのです。先生は今東京の大学病院に這入ってコカイン中毒の治療をしておられるのですよ。そのうちに元気になって帰っておいでになるでしょう」
「まあッ……ホント……」
玲子は思わず中林先生の肩にかじりついた。その襟筋に熱い熱い感謝の涙を落しかけた。
中林先生も声をうるませた。
「ほんとうですともほんとうですとも。僕が附添って入院させたのですから。そうして何もかもお話しておいたのですから御心配に及びません。その時に何もかもおわかりになった大沢先生は僕の手を握って、玲子のことを頼む頼むと何度も言われましたから、僕も一生懸命になって気をつけているところへ、思いがけない昨日のお手紙でしょう。あの悪党女が、お父さんのお留守を利用して、自分一人だけでお金を盗んで逃げようとしているのを感づいた、もう一人の男の悪党が横合いから飛込んで、そのお金をあの女ごと引ったくろうとしているのです……そのためにはドンナ恐ろしい犠牲を払ってもいい覚悟をしているらしい。一刻も猶予しないつもりらしいことがわかりましたから、僕は直ぐにこの家に忍び込んで、どんなことが起るか待ち構えていたのです。それを知らずにあの男は、お父さんのお留守を幸いに忍び込んで、あの女を脅迫しようと思ったのでしょう。短刀を持って抜足、さし足この段々の下まで来ると、ちょうどその時にこのサローンであの女と玲子さんとの問答が初まったのです。そうしてあの手紙をあの女が読み初めたのです」
玲子は恐ろしかったその時のことを思い出して今更のように身体を縮めた。
「あの時のあの女の度胸のよかったこと……あんなにも恐ろしい手紙を読みながら平気の平左で、即座に玲子さんを欺して、この僕をオビキ寄せさせようとした、あの智慧の物すごかったこと……僕はあのルンペン男の背後に隠れて聞きながらゾッとしてしまいましたよ」
と言いさして中林先生はホッとふるえたタメ息をした。玲子もまたガタガタふるえ出しそうになったのを中林先生の腕に縋ってやっと我慢した。
「けれどもあの時にあの女がアノ手紙を読んだり、その文句を冷やかしたりさえしなければ、あの女は殺されなくともよかったのでしょう。『雉も啼かずば撃たれまいに……』という諺の通りであの女は命を取られる運命を自分で招きよせたのでした。……あの手紙を読んでいる中にあの女が、あの女の前の夫を馬鹿にしている。自分を怨んでいる前の夫の脱獄囚を嘲笑い振り棄てて自分一人でうまいことをして逃げようとしている。うっかりすると又、警察へ密告する気かも知れない……と気がついたのであの男はカアッとなってしまったのでしょう。玲子さんが三階へ上ると間もなくあの女の寝室へ忍び込んで、何をするかと思ううちに、一気に刺殺してしまったのです。つまり天罰を下したつもりなのですね。ですから僕は直ぐにあの男の背後から近付いて不意打ちの当て身を一つ喰わして電気炬燵のコードでしっかりと縛って、あの寝室の隣りの標本室の大机の足にしっかりと縛りつけて、外から鍵を掛けておいたのです。あの大机の上には鳥の剥製を作る硝子の道具や、劇薬毒薬の瓶を山のように積み上げておきましたから、あの男は息を吹き返しても身動き一つ出来ないでしょう。……そのほかのものは殺人の現場の塵一本、動かしてないのですから、今にも警察の人が来て調べたら何もかもホントウのことがわかるでしょう。ただ一つ惜しいことにあの手紙は焼き棄ててしまってあるようですが、しかし中味の文句は僕がハッキリ記憶えておりますから大丈夫です。玲子さんも記憶えているでしょうね」
玲子は唇の色までなくしたまま中林先生の顔を見上げてうなずいた。
中林先生も一層、微笑を深めてうなずいた。
「それならばイヨイヨ大丈夫です。……何なら警察の人が来る前に今一度あのルンペン男の顔を見ておいてくれませんか。昨日の昼間あなたに手紙を渡した男に相違ないかどうか……」
しかし玲子はうなずかなかった。フト……たまらないほど心配なことを思い出したので、そのままスルリと中林先生の腕を抜けて一散に階下へ走り降りて行った。廊下の切戸を開く間も遅くお庭へ降りる石段の上に出ると、折から向うの木立ちを離れた太陽の光りに、マトモに射すくめられてしまった。同時に、大きな黒いものが真正面から玲子に飛びついて、彼女の涙だらけの顔をペロペロと嘗めまわした。
「おお。アムールや。よくまあ無事でいてくれたのね」
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