「貴様は殺したあとで肉を売って喰おうと思っていたのに……ヤーイ……豚ヤーイ」
と怒鳴りながら駈出しましたので、豚吉は自分の事かと思って一生懸命に走ります。そのあとからヒョロ子が走ります。そのあとから豚が走ります。そのあとから無茶先生が真裸体で走りますので、往来を通っている人はみんなビックリしました。
「何だろう」
「どうしたのだろう」
「行って見ろ行って見ろ」
「ワイワイワイワイ」
と集まって、往来一パイになってかけ出しました。
そのうちに無茶先生はやっと豚の尻尾を押えましたので、それを逃がすまいと一生懸命になっている隙に、豚吉とヒョロ子は一生懸命逃げて宿屋へ帰りましたが、自分たちの居間に這入ると二人はホッと一息しました。
「アア、驚いた。いくら死ななくても、あの金槌でゴツンとやられるのは御免だ」
「ホントに恐ろしゅう御座いましたね」
二人は話し合いました。
「おれあもう諦めた。一生涯片輪でもいい。おれたちの片輪を治してくれるお医者は無いものと思ってあきらめよう」
「ほんとに。あんな恐ろしい眼に遇うよりも片輪でいた方がいいかも知れません」
夫婦がこんなことを云っているところへ、表の方が大変騒がしくなりましたから、何事かと思って障子のすき間から夫婦でのぞいて見ますと、コハイカニ……表の通りは一パイの人で、みんな口々に、
「さっきこの家に走り込んだ珍らしい夫婦を見せろ見せろ」
と怒鳴り散らしております。
それをこの家の番頭さんが押し止めて、
「いけませんいけません。あれは私の家の大切なお客様ですから、私の方で勝手に見せるわけに参りません。もし見たいとお思いになるならば、私のうちにお泊り下さるよりほかに致し方ありません」
と大きな声で云っております。
往来の人々はそれを聞くと、
「そんならおれはここに待っていて、あの夫婦が出かけるのを待っている」
というものと、
「おれはこの家に泊って、是非ともあの夫婦を見るんだ」
というものと二つに別れましたが、泊る方の人々は、
「サア。番頭さん、泊めてくれろ。宿賃はいくらでも出す。ゼヒとも一ぺんあの珍らしい夫婦を見なければ――」
と番頭さんに云いましたが、番頭さんは又手を振りました。
「いけませんいけません。あなた方より先にこの宿に泊っている人でこの宿屋は一パイなのです」
「この野郎、嘘を吐くか」
とその人々は騒ぎ立ちました。
「貴様はうるさいものだからそんなことを云うのだ。泊めないと云うなら、表を押破って這入るぞ」
といううちに、われもわれもと番頭を押しのけてドンドン中へ這入って来ました。
これを聞くと豚吉はふるえながら、
「どうしよう」
といいます。ヒョロ子も何ともしようがないので、互に顔を見合わせておりますと、そのうちに下からドカドカと大勢の人が上がって来るようです。
「どこだどこだ」
「下の方には居ないようだ」
「二階だ二階だ」
といううちに、五六人ドカドカと二階の梯子段を飛び上って来る音をききますと、ヒョロ子は慌てて豚吉の方へ背中を向けて、
「サア、私におんぶなさい」
と云いました。そうして、
「どうするのだ」
と驚いている豚吉を捕えて背中に負うて、そこにあった帯で十文字にくくり付けますと、すぐに窓をあけて屋根の上に飛び出しました。
これを見付けた往来の人々は大騒ぎを初めました。
「ヤア。屋根に出て来たぞ。しかも男が女に背負さっているぞ。みんな出て来い。見ろ見ろ」
と口々に叫びました。
ヒョロ子はそれを見るとすぐに隣の屋根にヒョイと飛び移って、屋根を伝って、又その先の屋根へヒョイと飛び移って行きました。そうすると、これを見付けた宿屋の番頭が又大声を出して、
「ヤア。あの夫婦は喰い逃げだ。喰い逃げだ。みなさん、捕まえて下さいッ」
と叫びました。
「ソレッ、捕まえろ」
と、大勢の見物人も屋根伝いに逃げる二人のあとから往来の上をドンドン追っかけ初めました。
こうなるとヒョロ子も一生懸命です。屋根から屋根、軒から軒と、重たい豚吉を背負ったまま飛んでは走り飛んでは走りします。それを下から見物人が指さしながら、
「あっちへ逃げたぞ」
「こっちへ来たぞ」
と面白半分に追いまわします。そのうちに通りかかりの人々は皆、屋根の上を走る奇妙な夫婦の姿を見て驚いて、みんなと一所に走り出しますので、人数はだんだんに殖えるばかり。しまいには何千人とも何万人ともわからぬ位になって、ワアワアワアワアワアと町中の騒ぎになりました。
けれども、遠く離れた往来を通っている人には何事だかわかりません。
「何という騒ぎだろう」
「戦争でしょうか」
「鉄砲の音がしない」
「火事だろうか」
「煙が見えない」
「何だろう何だろう」
「行って見ろ行って見ろ」
駈け出すものや、屋根に上るものなぞが、あとからあとから出来て、騒ぎはいよいよ大きくなるばかり。中には転んで踏み潰されたり、屋根から落ちて怪我をしたり、又はブツカリ合って喧嘩を初めるものなぞがあって恐ろしい有様になりました。
そうなると警察もほっておくわけに行きませんので、ドンドン巡査を繰出します。消防も半鐘をたたいたので、近くの町や村々の消防や蒸気ポンプがわれもわれもと駈け付けましたが、何しろ騒ぎが大きいのと、どこの往来も人で一パイなので近寄ることが出来ません。一所になって、
「静まれ静まれ」
と叫ぶばかりなので、町中は引っくり返るような騒ぎです。
こちらはヒョロ子です。豚吉を背負ったまま高い屋根の上に立って四方を見渡しますと、見渡す限りの往来も屋根もみんな人間ばかりで、警察や消防も出て来ているようです。どっちを向いても逃げようがありません。
「ああ、情ないことになった。おれたちが片輪に生れたばっかりに、こんな騒ぎになった。もうとても助からぬ。捕まったら殺されるに違いない」
と、豚吉はヒョロ子の背中に掴まって、ブルブルふるえながらオイオイ泣き出しました。
ヒョロ子も涙を流しながら、
「ほんとにそうです。けれども私たちが結婚式の晩に村を逃げ出しさえしなければ、こんな眼に会わなかったでしょう。お父さんやお母様や親類の人達に御心配をかけた罰でしょう」
と云いました。
「そうじゃない」
と豚吉は怒鳴りました。
「あの橋を無理に渡って、こんな馬鹿ばかり居る町に来たからこんな眼に会うのだ」
「そうじゃありません。音なしくあの見世物師の云うことをきいて見世物になっておれば、こんなことにならなかったのです。檻を破ったり何かした罰です」
「そうじゃない。あの無茶先生に診せに行ったのがわるかったんだ」
「そうじゃありません。あの無茶先生がせっかく治してやろうとおっしゃったのを、逃げ出したからわるいのです」
「そうじゃない。お前がおれをこんなに背中に結び付けて、屋根の上を走ったりするもんだからこんな騒ぎになるのだ。お前は馬鹿だよ」
「馬鹿でもほかに仕方がありませんもの……」
「ああ、飛んだ女と夫婦になった」
「そんなら知りません。あなたをここに捨てて逃げてゆきます」
「イケナイ。そんなことをすると喰い付くぞ、この野郎」
と云うと、イキナリ豚吉はヒョロ子の髪毛を捕まえました。
「アア痛い。放して下さい放して下さい。逃げられませんから」
とヒョロ子は金切声を出しました。
これを見た往来の人々は、
「ヤア。あすこで夫婦喧嘩を初めた。今の間に捕まえろ」
というので梯子を持って来ますと、元気のいい二三人の青年が屋根の上に飛び上って来ました。
それを見ると、豚吉は慌ててヒョロ子の髪毛を放しながら、
「ソレ、捕まるぞ。逃げろ逃げろ」
と云いますと、ヒョロ子は夢中になって往来を隔てた向うの屋根に飛び移りました。
「ソレ、又逃げ出した」
「あっちへ行った」
「追っかけろ追っかけろ」
と追いまわし初めましたが、何しろ人数が多いのでヒョロ子夫婦はどっちへも逃げようがありません。それをあっちへ飛び、こっちへ飛びしているうちに、ヒョロ子は豚吉を背負ったままだんだん町外れの方へ来ましたが、その家の無くなりがけに小さい古ぼけた屋根が見えます。そこから先はもう家も何も無い上に、仕合わせと人間もまだ追い付いて来ていない様子で、往来には誰も居ないようですから、ヒョロ子は占めたと思いまして、高い屋根の上からその低い屋根の上に両足を揃えて飛び降りますと、その屋根は腐っていたものと見えまして、ヒョロ子と豚吉の重たさのためにズバリと破れました。そうしてその勢いでヒョロ子は豚吉を背負ったまま屋根の下の天井までも打ち抜いて、その下に寝ている人の腹の上にドシンと落ちかかりました。
「ギャッ。ウーン」
と云って、寝ている人はそのまま眼をまわしてしまいましたが、そのおかげでヒョロ子も豚吉も怪我をしないで起き上って見ますと、こは如何に……眼をまわしているのは無茶先生で、そこいらには鍋だの焜炉だの豚の骨だの肉だのが一面に散らばっております。その横には最前の馬もまだ足を投げ出して寝ています。
「まあ。大変よ、無茶先生ですよ。さっきの豚を捕まえて召し上って、寝ていらっしたところですよ。その上から私たちが落ちかかったのですよ……まあ、ほんとにどうしましょう」
とヒョロ子は泣声を出しました。
「心配するな。そこにあるバケツの水を頭からブッかけて見ろ」
と豚吉が背中から云いましたので、ヒョロ子はその通りに無茶先生の頭からブッかけますと、無茶先生は、
「ウーン。ブルブルブル」
と眼をさましました。そこへも一パイ頭からバケツの水をブッかけましたので、無茶先生は、
「ウワア。夕立だ、雷だ」
と云いながら飛び起きました。
その様子が可笑しかったので、ヒョロ子も豚吉も腹を抱えて笑い出しましたが、無茶先生は頭から濡れたまま眼をこすってよく見ますと、思いもかけぬヒョロ子が豚吉を背負って立っていますので、又驚きました。
「ヤア、お前達はどうしてここへ来たのだ」
と尋ねました。
ヒョロ子は落ちかかる豚吉をゆすり上げながら今までのことをお話ししますと、無茶先生は面白がってきいておりましたが、
「フーンそうか。それじゃ、町中の奴がお前達夫婦を見たいと云って追っかけまわしたのか。それは困ったろう。しかし、それというのも、お前たちがおれの云うことをきかないからこんなことになるのだ。おれの云うことをきいて背骨を入れかえてさえおけば、そんな眼に会わなくても済むのだった」
と云いましたので、ヒョロ子は豚吉も気まりがわるくなって、
「ほんとに済みませんでした。もうこれからどんなことをされても恐がりませんから、どうぞ当り前の人間にして下さい。今度でもうコリゴリしました」
と床の上に座ってあやまりました。無茶先生は大威張りで、
「よしよし。お前達がそんなにあやまるならば、今度は背骨だけでなく、身体中すっかりたたき直して、ビックリする位立派な人間に作りかえてやろう」
「ええっ。そんなことが出来ますか」
「ウン、出来るとも出来るとも。お前達はおれの腕前を知らないからそんなことを云うけれども、おれが持っている薬の力ならば、どんなことでも出来ないことはないのだ」
「ありがとう御座います。それではすぐに治して下さい」
「イヤイヤ、ここでは出来ぬ。それには支度が要るから、どこか鍛冶屋へ行かなければ駄目だ。今からすぐ行くことにしよう」
と、無茶先生はすぐにお薬を取り出して、鞄の中へ入れ初めました。
その時にはるか向うから、
「ワーッ、ワーッ」
「あすこの家に珍らしい夫婦が逃げ込んだ」
「無茶先生の家だ無茶先生の家だ」
「それ、押しかけろ押しかけろ」
と云う声がすると一所に、あとからあとから大勢の人間が押しかけて、無茶先生の家のまわりを一パイに取り巻いてしまいました。
無茶先生はこれを見ると真赤になって憤り出しました。
「こん畜生。来やがったな。よしよし、おれが追払ってやる。お前達は二人共鼻の穴にこの綿を詰めてジッとしていろ。そうして、馬鹿共が居なくなったら、すぐに逃げられるように用意していろ」
と云ううちに、無茶先生は自分の鼻の穴にも綿をドッサリ詰め込んで、丸裸体のまま表に飛出して大勢の者を睨み付けますと、
「コラッ。貴様共は何しに来たんだッ」
と怒鳴り付けました。
すると、大勢の人の中から一人の大きな強そうな男が飛び出して来て、
「貴様は無茶先生か」
とききました。
「そうだ。貴様は何だ」
「おれはこの町の喧嘩の大将だが、今貴様のうちにヒョロ長い女がまん丸い男をおぶって逃げ込んだから捕まえに来たんだ」
「何だってその夫婦を捕まえるんだ」
「その夫婦は奇妙な姿で屋根から屋根へ飛び渡って町中を騒がしたんだ。そのため怪我人や死んだものが出来たんだ。それだから捕まえに来たんだ」
「馬鹿野郎。貴様たちがその夫婦を無理に見ようとしたから夫婦が逃げ出したんだろう。貴様たちの方がわるいのだ」
「こん畜生。貴様はあの夫婦に加勢をして、おれ達に見せまいとするのか」
「そんな夫婦はおれの処に居ない」
「居ないことがあるものか。あの屋根を見ろ。あんなに破れている。あすこから落ちこんだに違いない」
「そんなら云ってきかせる。夫婦はうちに居るけれども、貴様たちに渡すことは出来ない」
「こん畜生。貴様はおれがどれ位強いか知ってるか」
「知らない。いくら強くても構わない。おれが今追い払ってやる」
「追い払えるなら追い払って見ろ」
「ようし。見ていろ」
と云ううちに、無茶先生は隠して持っていた香水の瓶を取り出して、家のまわりにぐるりとふりまきました。
それを嗅ぐと、大勢の人は吾れ勝ちに嚔を初めて息もされない位で、しまいにはみんな苦しまぎれに眼をまわすものさえ出て来ました。
それを知らないであとからあとから押しかける町の人々はみんなクシャミを初めて、これはたまらぬと逃げ出します。大きな男の喧嘩大将も一生懸命我慢していましたが、とうとう我慢し切れなくなって、百も二百も続け様にクシャミをしているうちに地びたの上にヘタバッてしまいました。
けれども、遠くからこの様子を見ていた人は、みんなが嚔をしていることはわかりません。只、無茶先生の家のまわりを取り巻いている人が、みんなひっくり返って、上を向いたり下を向いたりして苦しんでいる有様しか見えませんから、驚きまして、
「コレは大変だ。あの無茶先生は大変な魔法使いに違いない。まごまごしているとみんな殺されるかも知れぬ」
というので、ドンドン逃げ出してゆきました。
大勢の人が無茶先生の香水に恐れて逃げて行きました。おかげでうしろの方に居た巡査さんや消防は、やっと前の方に出て来ることができましたが、その巡査さんや消防たちも無茶先生の香水のにおいを嗅ぐと、やっぱり同じこと一時にクシャミを初めまして、消防は鳶口を持ったまま、又巡査さんはサーベルを握ったまま、あっちでもこっちでも、
「ハクションハクション」
「ヘキシンヘキシン」
「フクシンフクシン」
「ファークショファークショ」
「ハアーッホンハアーッホン」
と云ううちに、みんな引っくり返ってしまいました。
この様子を見た大勢の人々はいよいよ驚いてしまいました。
「これは大変だ。巡査さんや消防までも無茶先生に殺されそうだ。早く兵隊さんを呼んで来て、無茶先生を殺してもらおう」
と、大急ぎで兵隊さんを呼びにゆきました。
けれども、無茶先生や豚吉やヒョロ子は鼻の穴に綿をつめておりますから、香水の香いもわからなければ嚔も出しません。
「サア、この間に逃げるんだ」
と無茶先生は云いながら、横にあった金槌を取り上げて、横に寝ている馬の頭をコツンと一つなぐり付けますと、馬はパッと生き上りました。それを表に引き出して、細引で口縄をつけると、無茶先生が裸体のまま鞄を持って一番先に乗ります。そのあとからヒョロ子が豚吉を背負って馬の背中に這い上りますと、無茶先生が手綱を取って、
「ハイヨーッ」
と云うと、広い往来を一目散に逃げ出した。
その時、うしろの方から勇ましいラッパの音がきこえて、兵隊さんが大勢、無茶先生の家へ押寄せましたが、見ると無茶先生と豚吉とヒョロ子は馬に乗ってドンドン逃げて行く様子です。
「ソレッ。魔法使いが逃げるぞ。打て打て」
と云ううちに、兵隊さんは横に並んでドンドン鉄砲を打出しましたが、ちょうどその時、兵隊さんはみんな無茶先生の香水のにおいを嗅ぎましたので、みんな一時にクシャミを初めて鉄砲を狙うことが出来ません。撃ってもクシャミをしながら撃つのですから、弾丸はとんでもない方へ行ってしまいます。その間に無茶先生と豚吉とヒョロ子を乗せた馬はドンドン逃げてしまいました。
やがて馬が或る山の麓まで来ますと、無茶先生は馬から下りまして、
「サア、ここまで来れば大丈夫だ」
と、ヒョロ子を馬から下ろしてやりますと、ヒョロ子も背中から豚吉を下ろしてやりました。そうして三人は鼻の穴の綿を取って棄てました。
無茶先生はそれから馬をもと来た道の方へ向けて、お尻をピシャリとたたきますと、馬は驚いてドンドン駈けてゆきました。
裸体のままの無茶先生は豚吉とヒョロ子を連れて、それからすこしばかり行ったところの町で一軒の宿屋に這入りました。
ところが宿屋の者は三人の奇妙な姿を見ると、恐ろしがってなかなか泊めてくれませんでしたから、それじゃ物置でもいいからと云いましたけれども泊めてくれません。そのうちにその宿屋の表には見物人が黒山のように集まりました。
無茶先生はとうとう怒り出してしまいました。
「この馬鹿野郎共。何が珍らしくてそんなに集まって来るのだ。人間だから裸で居るのもあれば、背の高いのもあれば低いのもあるのは当り前の事だ。それを珍らしがって見に来るなんて失敬な奴だ。又、この宿屋の奴もそうだ。おれたちのどこがわるいから泊めてくれないのだ。おれたちはみんな人間だぞ。人間が宿屋に泊めてくれというのが何がわるいのだ。愚図愚図云うと、貴様共をみんな盲にして終うぞ」
と云ううちに、鞄から小さな粉薬の瓶を出しました。
それを見ると豚吉は、
「おもしろいおもしろい」
と手を拍って喜びましたが、ヒョロ子は慌ててそれを止めまして、
「まあ、先生。そんな可愛そうなことをなさいますな。泊めてくれなければ、私たちは山の中に寝てもよろしゅう御座いますから」
と云いました。
そうすると無茶先生は、
「よし。それではやめてやろう。その代りおれは泊めてくれるまでここを動かない」
と云ううちにその粉薬を仕舞って、その宿屋の上り口のところにドッカリと座りますと、今度は鞄からパイプを出して、黒い色の煙草を詰めて、火をつけてスパリスパリと吸い初めました。
店の番頭は困ってしまいました。
「どうもそんなことをなすっては困ります。こんなに店の前に大勢人が居ては、ほかのお客さんが泊りに来られませんから早く出て行って下さい……」
と云いかけましたが、ヒョイと妙なことに気が付きました。
座ったままパイプを啣えて、スパリスパリと煙草を吸っている無茶先生の顔がだんだん黄色くなって行きます。オヤオヤと思っているうちにその顔色が赤くなって、それから紫色になって、見る見るうちに真っ黒になってしまいました。
番頭は肝を潰してしまいましたが、その時に不図気が付きますと、黒くなったのは無茶先生ばかりではありません。側に居た豚吉やヒョロ子はもとより、まわりを取り巻いている見物人も、無茶先生の煙草の煙に当ったものはみんな、顔色が黄色から赤へ、赤から紫へ、紫から黒へとなりかけています。
番頭はふるえ上って奥へ飛んで来て、御主人の前まで来ると腰を抜かしました。
「御主人様。大変です大変です」
と云いますと、主人と一緒に御飯をたべていたおかみさんも、子供も小僧さんも、みんなワッとお茶碗を投出して逃げてゆきそうにしました。
それを主人は止めながら、
「大変とは何です。あなたは一体どなたです」
と云いました。番頭は不思議そうに眼をキョロキョロさせながら答えました。
「私は番頭です」
「何、番頭。私の処にはあなたのような黒ん坊の番頭さんは居りません」
「エエッ。私が黒ん坊ですって。ああ、情ない。そんならやっぱりあの魔法使いにやられたのだ」
と云ううちに、番頭さんはそこへ泣きたおれてしまいました。
「何、魔法使いにやられた。それはどういうわけだ」
と、みんな番頭のまわりに集まってききました。
番頭は泣きながら、
「今、表に魔法使いが来ています、その魔法使いと喧嘩をしましたためにこんなに顔を染められたのです。ああ、情ない。ワアワアワア」
と、番頭はなおなお大きな声で泣き出しました。
「フーン、それは不思議なことだ。よしよし、おれが行って見てやろう。そんなに早く人の顔に墨を塗ることが出来るかどうか」
と云いながら立ち上って表へ行きますと、ほかのものもあとからゾロゾロくっついて表へ来てみました。
宿屋の主人が表に来て見ますと、無茶先生は相変らずパイプを啣えながらプカリプカリと煙を吹かしています。そうして、立っている人々も自分の顔が黒くなったのは知らずに、みんな無茶先生や豚吉やヒョロ子の黒くなった顔を面白そうに見ています。
宿屋の主人は驚き呆れて、開いた口が閉がらぬ位でしたが、やっと落ち付いて無茶先生に向って、
「これ、黒ん坊の魔法使い。お前は何の怨みがあって、おれのうちの番頭をあんなに黒ん坊にしてしまった」
と叱りました。
無茶先生はその時ニヤニヤ笑いながら、宿屋の主人の顔を見て云いました。
「貴様のうちに泊めてくれないからだ」
「何、泊めてくれないからだ」
「そうだ。だから泊めてくれるまでここを動かないつもりだ」
と、又白い煙を沢山に吹き出しました。主人はこれをきくと大層腹を立てました。
「馬鹿なことを云うな。おれのうちは貴様みたような生蕃人や、そんな片輪者なぞを泊めるようなうちじゃない。出てゆけ出てゆけ。泊めることはならぬ」
「アハハハハハ」
と無茶先生は笑いました。
「今に見ていろ。きっと、どうぞお泊り下さいと泣いて頼むようになるから」
「何糞。いくら貴様が魔法使いでも、おれはちっとも怖かないぞ。出てゆかねばこうだぞ」
と懐中からピストルを取り出して、無茶先生につき付けました。
「フフン。おれを殺したらあとで後悔するだけだ」
と無茶先生は落ち付いたもので、又も黒い鼻からと口からと白い煙をドッサリ吹き出しました。
そうするうちに見物人はみんなワイワイ騒ぎ出しました。
「ヤアヤア。宿屋の御主人の顔が蒼白くなった。赤くなった。もう紫になった。オヤオヤ真黒になってしまった。奥さんもお嬢さんも、坊ちゃんも小僧さんもみんな黒くなった。大変だ大変だ」
と騒ぎ立てましたが、そのうちに今度は自分たちの顔までも真黒になっていることに気が付きますと、サア大変です。
「ヤア。おれたちまでも魔法にかかった。大変だ大変だ。魔法使いを殺してしまえ」
と寄ってたかって、無茶先生へ掴みかかって来ました。
その時無茶先生は立ち上って、大勢を睨み付けながら怒り付けました。
「馬鹿野郎共。何が魔法だ。おれが色の黒くなる煙草を吸っているのを、貴様たちがボンヤリ立って見ているからだ。貴様たちの方がわるいのだ。それともおれを殺すなら殺せ。貴様たちは一生真黒いまま死んでしまうのだぞ。おれは白くなるお薬を知っているんだ。サア、殺すなら殺せ」
これを聞くと、みんな一時に静まりました。そうしてその中から一人のお爺さんが出て来て、
「私たちがわるう御座いました。どうぞそのお薬を教えて下さいませ」
とあやまりますと、ほかのものも地びたに手を突いて一生けんめいお詫びをしました。
それを見ると無茶先生はうなずいて、
「よしよし。それなら貴様たちからこの宿屋の主人に頼んで、おれたちを泊めてくれるようにしろ」
と云いました。
宿屋の主人はこの時まで、自分のおかみさんや子供達が真黒になって泣いているのを見て、ボンヤリ突立っておりましたが、忽ちピストルを取り落すと、無茶先生の前に跪いて、真黒な顔を畳にすり付けながら、
「どうぞどうぞお泊り下さいお泊り下さい」
とピョコピョコお辞儀をして、手を合わせて拝みました。それを見ると無茶先生は大威張りで、
「それ見ろ。おれの云う通りだ。そんなら泊ってやるからうんと御馳走するのだぞ」
「ヘイヘイ。どんな御馳走でもいたします」
「よし。それじゃ教えてやる。みんなの顔が黒くなったのは、この煙草の脂がくっついたのだ。だからお酒で洗えばすっかり落ちてしまう。サア、おれたちにもお酒を入れた風呂を沸かしてくれ。そうして、おれには特別にあとでお酒を沢山に持って来い。この煙草を吸ったので腹の中まで真黒になったから、お酒を飲んで洗わなくちゃならん。サア、豚吉も来い。ヒョロ子も来い」
と、大威張りでこの宿屋の一番上等の室へ通りました。
無茶先生のおかげで豚吉とヒョロ子はやっと宿屋へ泊りましたが、宿屋の主人が大急ぎで沸かしましたお酒のお風呂で身体を洗いますと、三人とももとの通りの姿になりました。又、ほかのものもみんな、無茶先生から教わった通りにお酒で顔を洗って、もとの通りの白ん坊になりましたので大喜びで、無茶先生の不思議な術に誰もかれも驚いてしまいました。
それを見た無茶先生は威張るまいことか、宿屋の主人が出した晩御飯の御馳走を喰べながら、豚吉と一緒にお酒を飲んで酔っ払って、大きな声で自慢を初めました。
「どうだ、みんな驚いたか。おれは当り前のお医者とは違うんだぞ。病気やなんか治すよりも、もっともっとえらいことが出来るんだぞ」
これを聞くと、無茶先生と一緒にお酒を飲んでいた豚吉も威張り出しました。
「おれは、きょう、兵隊が千人と巡査が一万人と消防が十万人、町の者が十万人で向って来たのをみんな追い散らして来たんだぞ」
これを聞いたヒョロ子はビックリしまして、
「そんなことを云うものじゃありません。もしこの町の巡査さんや兵隊さんがそれを聞いて、捕まえに来たらどうします」
と叱りました。けれども豚吉は平気なもので、なおの事大きな声を出して云いました。
「ナアニ。大丈夫だ。その時は又無茶先生に追い払ってもらうのだ」
と、つい本当のことを云いましたので、無茶先生もヒョロ子も腹を抱えて笑いました。
けれども宿屋の主人は何も知りませんので、いよいよ感心して驚いてしまいました。
「ヘエー。それはえらいお方ばかりですな。それじゃ無茶先生は当り前の病気ぐらいは訳なくお治し下さるで御座いましょうな」
と尋ねました。
無茶先生はやはり真裸のまんま、ガブガブお酒を飲みながら大威張りで答えました。
「おお。どんな病気でも治してやる。その代り一人治せばお酒を一斗宛飲むぞ」
「それじゃお酒を一斗差し上げますから、私の妻の病気を治して下さいませぬか」
「どんな病気だ」
「何だかいつも頭が痛いと申しまして、御飯を食べる時のほか寝てばかりおりますが、どんなお医者に見せましても治りませぬ」
「よし、すぐに連れて来い」
「かしこまりました」
と、亭主は無茶先生たちの居る二階を降りてゆきましたが、間もなく手拭で鉢巻きをしたお神さんをおぶっこして上って来て、無茶先生の前にソッと卸しました。そのあとから上って来たさっきの番頭は、お酒を一斗樽ごと抱えて来て無茶先生の前に置きました。
無茶先生はその樽の栓を取ると、両手に抱えてグーグーグーグー一息に呑み初めましたが、やがて飲んでしまいますと、
「アー。久し振り樽ごとお酒を飲んで美味かった。ドレ、お神さん。顔を見せろ」
とお神さんの顎に手をかけて顔をジッと見ておりましたが、忽ち割れ鐘のような声で笑い出しました。
「アアアアアア。なるほど、頭が痛そうな顔をしているな。コレ、お神さん。お前はなあ、あんまり主人に我儘を云ったり、番頭や丁稚を叱りつけたりするから頭が痛いんだぞ。しかし、その病気はすぐなおるから心配するな。これから頭が痛い時はすぐに、主人にこうしてもらえ」
と云ううちに、右の手で岩のような拳固を作って、お神さんの右の横面をグワーンとなぐりつけました。お神さんは、
「ギャッ」
というなり眼をまわして、左の方へたおれかかりました。そこで無茶先生は今度は左の拳骨を固めて左側から横ッ面をポカーンとなぐりつけますと、眼をまわしていたお神さんはパッと眼をさまし、そこいらをキョロキョロ見まわしておりましたが、
「アラ。私の頭の痛いのが治ったよ。まあ、何という不思議なことでしょう。ほんとに無茶先生、有り難う御座いました」
と大喜びでお礼を云って降りて行きました。
この様子を見ていた宿屋の主人は、もう無茶先生のエライのに肝を潰してしまいました。
「ああ、ビックリしました。先生は何というエライお方でしょう。それではお序に私の息子の病気も治していただけますまいか」
「フーン。貴様の息子の病気は何だ」
「ヘエ。私の息子の病気は、いつもお腹が痛いお腹が痛いと云うて学校を休むのです。どんなお医者に見せても治りません」
「そうか。それはわけはない。おれが見なくとも病気はなおる」
「ヘエ。どうすればなおります」
「朝の御飯を喰べさせるな」
「そうすればなおりますか」
「そればかりではいけない。昼のお弁当を息子に持たせずに、学校の先生の処へお使いに持たしてやれ。どんなことがあっても朝御飯と昼御飯をうちで喰べさせるな。そうすればお腹が空くからイヤでも学校に行くようになる」
「成るほど。よくわかりました」
「サア。酒をもう一斗持って来い」
「ヘイ、只今持って来させます。それでは序に私のおやじがカンシャク持ちで困りますから、それも治して下さいませ」
「よしよし、つれて来い」
こうして無茶先生は家中の者の病気をみんな治してやりました。
先ずおやじのカンシャク頭は、テッペンをクリ抜いて蓋をするようにして、憤った時はその蓋を取ればなおるようにしてやりました。
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