一
「百万円あったら、ああしよう……こうしよう」
と空想していた青年中村芳夫は、思いもかけぬ伯母の遺産を受け継いで一躍百万長者になった。
芳夫は早速数万円を投じて素破らしい邸宅を建てた。そこに美姫と、美酒と、山海の珍味を並べて、友達を集めて昼夜兼行の豪遊をこころみたために、百万円は瞬く間に無くなって、些なからぬ借財さえ出来た。その抵当に邸宅を取られた彼は、再びもとの通りの無一物になってしまった。
二
「不思議だ。奇怪だ。不可解だ。百万円を得ない前の自分と、失った後の自分との間には何等の相違もない。空想の百万円と実物の百万円とは、使用した結果から見ると全く同じものであった。おお百万円よ。お前は何のために自分に天降ったのか。何故にかくも無意義に自分から消え去ったのか。おお百万円よ。お前はどこへ行った」
芳夫は腕を組んでこう考えた。識っている限りの人々にこの疑問を提出して解決を求めた。
三
山本という社会学者は云った「百万円をお前から奪い去ったのは、百万円自身である。お前が識ったことではない」
松井という法律学者は云った「お前自身がお前から百万円を奪い去ったのだ」
村上という心理学者は云った「お前の百万円を奪ったものはお前の心の中に居る。お前の心の奥に隠れて、人知れずニヤニヤ笑っている」
又空誉という高僧はこう説いた「百万円は無くなっていない。お前の心の中にチャンと隠されている。その百万円を取り返すには、お前から百万円を奪った、その心を探し出して殺して終うのが一番だ。そうすれば百万円の金は、自然とお前の身に帰って来る」
最後に万象という占断者はこう判じた「これは天地否という卦です。自然の事を自然の順序に考えて行くと、万事が否定的のフン詰まりになるという、実に不可思議な玄理をあらわした形です。すべての順序を逆にして、考えて行って御覧なさい。地天泰という卦になって一切が泰らかに解決されてゆきます」
四
芳夫は思案に余ったあげく、高山という名探偵を訪問して一切の経過を打明けて頼んだ。
「僕の百万円を奪った奴を見付け出して下さい。百万円を取り返して下さい。成功すれば謝礼としてその半額を呈上します」
名探偵は快よくうなずいた。
「どうか葉巻を一本吸う間待って下さい。考えますから」
五
葉巻が短かくなると、高山名探偵は窓の外へ投げ棄てた。組んでいた腕を解いて、事もなげに微笑した。
「百万円を奪った犯人は、あなたの心のほかに居ります」
芳夫は愕然とした。無言のまま眼を輝やかして一膝進めたが、名探偵は依然として微笑を続けた。
「それは一人の若い女性です。しかも非常な美人で、学識といい、心操といい、実に申分のない処女です」
芳夫は思わず叫んだ。
「それはどこに居りますか」
「それを探し出し得る人は世界中にあなた一人です」
芳夫は面喰った。独言のように云った。
「いったい……それは……どういうわけで……」
名探偵は厳粛な口調で説明した。
「あなたは百万円を得られる前に、いろんな計劃を立てられたでしょう。それはどれもこれもスバラシイ理想的なものだったでしょう」
芳夫は無言でうなずいた。
「けれども、その計劃の第一着手として、理想的な美少女を令夫人に迎えることを、あなたは全く忘れておられました。あなたが百万円を得られると同時に、そうした立派な令夫人を迎えておられましたならば、あなたの百万円は一文も無意義に費されずに済んだでしょう」
青年芳夫の眼から熱い涙がハラハラと溢れ落ちた。高山名探偵はその顔を凝視しつつ、断乎として云い切った。
「すなわち……あなたから、あなたの百万円を奪い去ったものは、あなたの未来の夫人たるべき、その美少女です。あなたはその美少女から百万円を奪い返すべき権利があります」
六
中村芳夫は、高山名探偵の、こうした炯眼と推理力に心から嘆服してしまった。涙と共に床の上にひれ伏した。
「どうぞ私と力を合わせて、その女を探して下さい。百万円の全部をあなたに捧げても構いませんから……」
名探偵は一議に及ばず引き受けた。
けれども芳夫青年から、百万円を奪い去ったであろうほどの、理想的な若い女性は容易に見つからなかった。稀に居るにはいたが、芳夫から百万を奪った犯人であることを告白して、結婚の申込を承諾する少女は一人も居なかった。
芳夫青年と高山名探偵は、とうとう乞食同様になって、野たれ死にをしてしまった。
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