彼女はいつもねまきにしている、十六七歳時代の紅友禅の長襦袢を着せられていた。その上から紫扱帯の古ぼけたのが一すじ、グルグルと巻き付けてあるきりであったが、そのふくらんだ自分の胸に取り縋るように、両方の掌をシッカリと押し当てて、素足のまま寝床を降りると、スラスラと畳の上を渡って、芭蕉布張りの襖に手をかけた。その時に、畳に引きはえた襦袢の裾が、枕元に近いお盆の上の注射器に触れてカラカラと音を立てた。それにつれて、睡っていた健策が、すこしばかり大きな寝息をしたが、品夫は別に見向きもせず、足を止めようともしなかった。
芭蕉布の襖が音もなく開くと、寒い風が一しきりスースーと流れ込んで来た。しかし品夫は、そのあとを閉める気も無いらしく、次の間の障子を今一つスーと開くと、そのまま明るい廊下へ出た。その廊下の一方は硝子雨戸になっていて、黒々と拭き込んだ板張りにも、外のお庭の雪の植込みの上にも、タッタ今晴れ渡ったばかりのニッケル色の空から、スバラシイ満月の光りがギラギラとふるえ落ちていたが、品夫は、やはり、そんな光景には眼もくれなかった。恰も何者かに導かれるように、半開きの瞳の前の冷たい空間を凝視しつつ、一直線に長い廊下を渡りつくしたが、その行き止まりに在る青ペンキ塗りの扉を開いて、薬局の廊下に這入ると、真暗なリノリウムの上を、やはり一直線に進んだらしく、間もなく突き当りの扉を押す音がした……と……やがて診察室の中央に吊るされた電球が、眼も眩むほど輝き出した。
暖かい奥座敷から、急に氷点以下の寒い処に出て来たせいか、品夫の血色は全く無くなっていた。顔も手足も、それこそ雪のように真白く透きとおっていたが、それが黒い髪を長々とうしろへ垂らして、燃え立つような長襦袢を裾も露わに引きはえつつ、青白い光線をふり仰いで眼を細くした姿は淫りがましいと云おうか、神々しいと形容しようか。人間の眼に触れてはならぬ妖艶しさの極み……そのものの姿であった。
しかし、雪に鎖された藤沢病院の、深夜の診察室に、こんな姿が立ち現われていようことは、誰一人思い及び得よう筈が無かった。すべては零下何度の空気に包まれて、シンカンと寝静まっていた。そのような静けさの中にスックリと立ち止まった品夫は、いかにも眩しそうなウッスリした眼つきで、そこいらを一渡り見まわしていたが、間もなく室の隅に置いてある四方硝子張りの戸棚に眼をつけると、ヒタヒタと歩み寄って、重たい硝子戸を半分ほど開いた。そこから白い片手を突込んで、方形の瀬戸引きバットに並んでいる数十のメスをあれかこれかと選んでいたが、やがてそのバットの外に、タッタ一つ投げ出してある大型の一本を取り上げた。
それは小さい薙刀の形をした薄ッペラなもので、普通の外科には必要の無い、屍体解剖用の円刃刀と称する、一番大きいメスであった。この病院では何か外の目的に使われているらしく、柄の近くには黒い銹の痕跡さえ見えていたが、彼女はそれを右手の指の中に、逆手にシッカリと握り込むと、背後の青白い光線に翳しながら二三度空中に振りまわして、キラキラと小さな稲妻を閃めかした。それを見上げながら品夫はニッコリと、小児のような無邪気な微笑を浮かべたが、そのままメスを右手に捧げて、左手で両袖を抱えつつ、開いたままの扉の間から、又もリノリウムの廊下に辷り出た……と……今度は左に折れて、泉水の上から、病室の方へ抜ける渡殿の薄暗がりを、ホノボノと足探りにして、第一の横廊下を左に折れ曲ったが、やがて、その行き詰まりに在る特等病室の前に来た。そうして、やはり何の躊躇もなく真鍮のノッブを引いた。
十燭の電燈に照らされた鉄の寝台の上には、白い蒲団を頭から冠っている人間の姿がムックリと浮き上っていた。その上にメスを捧げたまま、品夫は何かしらジッと考え込んでいるようであったが、やがて上の蒲団を容赦なく引き除けると、髪毛を濛と空中に渦巻かせて、寝床の中に倒れ込むようにメスを振りおろした。その枕元から、白い散薬の包紙が一枚、ヒラヒラと床の上に舞い落ちた。
「ムム……オオッ……」と夢のような叫び声がして、白いタオル寝巻に包まれた、青黒い巨大な肉体が起き上りかけた。それはイガ栗頭の黒木繁であったが、毛ムクジャラの両腕を引き曲げて、寝巻の胸に沈み込んだメスの柄を、品夫の右腕と一緒に無手と掴んだ。
……しかし、それをドウしようというような力はもう無かった。血走った白眼を剥き出して、相手の顔をクワッと覗き込んだが、乱れた髪毛の中を一眼見ると、そのまま両眼をシッカリと閉じて、シーツの上にのけぞった。
「……むむッ……チ……畜生ッ。もう……来……た……か……」
と切れ切れに叫びかけたが、その言葉尻にはヘンテコな節が付いて、流行唄の末尾のように意味を成さないまま、わななきふるえつつ消え失せた……と思う間もなく、喰い縛った歯の間から凩のような音を立てて、泡まじりの血を噴き出した。
しかし品夫は依然として手を弛めなかった。相手の腕の力が抜けて来れば来るほど、スブスブスブと深くメスを刺し込んで行った。そうして大浪を打つ患者の白いタオル寝巻の胸に、ムクムクムクと散り拡がって行く血の色を楽しむかのように、紅友禅の長襦袢の袖を、左手でだんだん高くまくり上げて、白い、透きとおるような二の腕を、力一パイにしなわせながら、ジロリジロリと前後左右を見まわしていたが、やがて眼の前の逞ましい胸が、一しきりモリモリモリと音を立てて反りかえって来たと思う間もなく、底深い、血腥い溜息と一所に、自然自然とピシャンコになって行くのを見ると品夫は、白い唇をシッカリと噛み締めたまま眼を細くして、メスを握り締めている自分の手首を凝視した。大きく、静かに、最後の呼吸を波打たせる相手の胸に、調子を合わせるかのように、彼女自身の呼吸を深く、深く、ゆるやかに張り拡げて行った。そうして相手の呼吸が全く絶えると同時に、彼女自身もピッタリと呼吸を止めて、彫像のように動かなくなった。
「……品夫ッ……」
という雷のような声が、廊下の方から飛び込んで来たのはその時であった。
ハッとした品夫は、一瞬間に身を退いた。夥しい髪毛を颯と背後にはね除けて、メスを握った右手を高く振り上げかけたが、白い服のまま仁王立ちになっている健策の真青な、引き歪められた顔を眼の前に見ると、急に身を反らして高らかに笑い出した。
「……ホホホホホホ。ホホホホあなた見ていらっしたの……ホホホホホホ。ステキだったでしょう……妾……とうとう讐敵を討ったのよ……」
品夫の手から辷り落ちたメスが、床の上に垂直に突立った。同時に気が弛んだらしくグッタリとなった品夫は、両頬を真赤に染めて羞恥ながら、健策の胸にしなだれかかった。血だらけの両手を白い診察服の襟にまわしながら、火のような眼をしてふり仰いだ。
「……ネ……わかったでしょう……。もう貴方と…………ても……いいのよ…………」
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