昭和二年の二月中旬のこと……S岳の絶頂の岩山が二三日灰色の雲に覆われているうちに、麓の村々へ白いものがチラチラし始めたと思うと、近年珍らしい大雪になった。
その麓のS岳村から五六町離れた山裾に、この界隈での物持と云われている藤沢病院が建っていた。田舎には珍らしい北欧型のスレート屋根を、古風な破風造りの母屋の甍と交錯さして、日が暮れても、ハッキリとした輪廓を、雪の中に描き現わしていたが、やがて、その玄関の左右から明るいのと、暗いのと、二いろの電燈が輝き出した。
向って右側の明るい窓は、この病院の薬局で、二段重ねの薬戸棚に囲まれた中央の調合台の前には、この家の養女として育って来た品夫が、白い看護婦服を着て、キチンと腰をかけていた。彼女の前のセピア色の平面には、きょう出された処方箋や、薬品の註文の写しや、新薬のビラの綴じ込みや、カード式の診断簿等というものが、色々の文房具や、薬品などと一緒に一パイに取り散らしてあった。
彼女の皮膚は厚化粧をしているかのように白かった。その頬と唇は臙脂をさしたかのように紅く、その睫と眉は植えたもののように濃く長かった。髪毛も同様に、仮髪かと思われるくらい豊かに青々としているのを、眥が釣り上がるほど引き詰めて、長い襟足の附け根のところに大きく無造作に渦巻かせていた。そうして、しなやかな身体を机に凭たせかけながら、切れ目の長い一重瞼を伏せて、黒澄んだ瞳を隙間もなく書類の上に走らせるのであったが、その表情は、ある時は十二三の小娘のように無邪気に、又、ある瞬間は二十四五の年増女のようにマセて見えた。又ある時は西洋の名画に在る聖母のように気高く……かと思うと、その次の刹那には芝居の毒婦のように妖艶にも……。
彼女はホントウに忙しいのであった。
近いうちに彼女と式を挙げる筈になっている藤沢家の養子で、前院長の甥に当る健策という医学士は、昨年の暮に、養父の玄洋氏が急性肺炎で死亡すると間もなく、大学の研究を中止して帰って来たのであったが、なかなかの元気者で、盛んに広告をして患者を殖やす上に、何から何まで大学式のキチョウメンな遣り方をするので、その忙しさといったら無かった。その中でも薬局と会計の仕事だけは、他人に任せない家風だったので、前の院長の時から引き続いて、品夫がタッタ一人で引き受けているのであったが、田舎の女学校出の彼女にとっては、独逸語の処方箋を読み分ける事からして容易ならぬ骨折りで、寧ろ超人間的の仕事といってもいい位であった。
しかし、そのうちに彼女はヤット仕事を終った。新薬の広告ビラを板の上に綴じ付けて、会計簿の上にキチンと置くと、ホッと溜息をしながら眼をあげて、正面の薬戸棚の間に懸かっている大きなボンボン時計を見た。その瞬間に時計は、彼女のこの上もない親切な伴侶ででもあるかのように、十一時の第一点を打ち出した。
その音が鳴りおわるまで彼女は、机の上にあらわな両腕を投げ出して、ウットリと眼を据えていた。唇をすこし開いたまま……そうして時計の音が一つ一つに室の中を渦巻いて、又、もとの真鍮の振り子の蔭に消え込んでしまうと、彼女は頭を使い切ってしまった人のように、両手を顔に当ててグッタリとなってしまった。
けれども、それはホンの一分か二分の間であった。……どこか隔たった室で話しているらしい男の声が、廊下に面した扉の間からホソボソと沁み込んで来るうちに……
……品夫……
……復讐……
……という二つの言葉が偶然のように相前後してハッキリと響いて来ると、彼女はパッと顔を上げた。アヤツリ人形のように真正面を見据えて、何ともいえない怯えた表情をしながら、全身をヒッソリと硬ばらせたようであったが、やがて大急ぎで足下の反射ストーブを消して、頭の上にゆらめく百燭光のスイッチを注意深くひねると、真暗になった薬戸棚の間を音もなく廊下に辷り出た。やはり真暗な玄関を隔てた向側に在る、患者控室の扉に近づいて、ソット鍵穴に眼を当てた。
患者控室は十畳ばかりのリノリウム張りであった。そのまん中には、薄暗い十燭の電燈がブラ下がっていたが、その下に据えられた大火鉢に近く、二人の男が長椅子を引き寄せてさし向いになりながら股火をしているのであった。
扉に背を向けているのは若い院長の健策で、糊の利いた診察服の前をはだけて、質素な黒羅紗のチョッキと、ズボンを露わしている。背丈はあまり高くないが、その胸高に組んだ逞ましい腕や、怒った肩や、モシャモシャした頭や、健康そのもののように赤光りする顔つきは、まだ純然たる書生型で、院長らしい気取った態度は微塵もない。ウッカリすると柔道かボートの現役選手に見られそうな風采である。
これに反して向い合った男は、蒼黒く肥った、背の高い、堂々たる風采のイガ栗頭であった。四十代に見える、鼻すじの通った貴族的な顔に、ロイド式の大きな黒眼鏡をかけて、上等の駱駝の襯衣を二枚重ねた上から、青縞の八反の褞袍を着ているが、首のまわりにクッキリと白くカラのあとが残っているのが何となく意気に見える。……もう久しく……正月の初め頃から、この病院の特等室に寝起きしている、黒木繁という患者で、元来欧洲航路のカーゴボートの一等運転手であったのが肺尖を患った揚句、この病院の新聞広告を見て静養しに来たものだそうである。東京育ちと名乗るだけに、金づかいが綺麗なばかりでなく、物ごしが上品で、見聞が広いために、いつとなく若い院長と懇意になって、無二の話相手にされているのであった。
二人の間にプープーと湯気を吹いているアルミの大薬鑵や、外の雪をチラチラと透かしながら一面に水滴をしたたらしている硝子窓は、二人が長い間話し込んでいる事を証明していた。しかも、その話の興味はかなりに高潮しているらしく、健策は長椅子に背を凭たせて、冷然と腕を組んだまま……又、黒木はその黒眼鏡をかけた魚のように無表情な顔を、火鉢の上にさし出したまま、双方睨み合いの姿で、緊張した沈黙に陥っているのであったが、やがて、黒木が固く結んでいた唇を開くと、相手の顔を見詰めたまま、長い溜息を一つした。そうしてポッツリと独言のように、
「……復讐……」
と云った。すると健策は、その言葉を待ちかねていたかのように大きく、一ツうなずいた……が、間もなく何かしらパッと赤面しながら微苦笑を浮かべた。
「……そうなんです……品夫は親の讐敵を討ちたいから、今暫く結婚を延期してくれと云うのです。……あんまり馬鹿馬鹿しい云い草なので、実は僕も面喰っているのですがね……ハハハハハ」
黒木はしかし笑わなかった。なおも健策の顔を凝視しながら、躊躇しいしい問うた。
「……ヘエ……しかし、それには何か深い理由がおありになるでしょう?」
「ええ……それは、あるといえば在るようなものです。貴方のように世間を広く渡っておられる方に、その理由というのを聞いて頂いたら、何か適当な御意見が聞かれはしまいかと思って、実はお話しするんですがね……ほかに相談相手も無いしするもんですから……」
「ヘエ……私で宜しければですが……しかし、そんな立ち入った事を……」
「構いませんとも……誰も聞いている者はありませんから……ほかでもありません。……今もお話しする通り、品夫と僕の事は、死んだ養父の玄洋が、もうズット前から決定ていましたので、親類連中とも話し合って、去年の暮に式を挙げるばかりになっていたのが、養父の病気でツイ延び延びになってしまったんです。……それで、養父が亡くなりますと、正月の十一日でしたが……三七日の法事の時に、親類たちと相談をしまして、四十九日の法事が済んだら、間もなく式を挙げる事に決定したのですが、それを品夫が聞きますと、意外にも、頑強な反対論を持ち出しましてね……今までは別に異存も無いらしかったのですが……」
「ヘエ……妙ですな。それは……」
「エエ……妙なんです……。つまり養父の百箇日が来るまで遠慮したいと云うので……そのうちには品夫の実父の二十一回忌も来るしする事だから、そんな法事をスッカリ済ましてから、ゆっくりと式を挙げたいと云うのです」
「成る程……それなら御無理もないかも知れませんね……。初なお嬢さんは何となく結婚を怖がられるものですから」
健策は又も耳のつけ根まで赤くなった。
「……エエ……それは僕も知っています。しかし、そういう品夫の態度が恐しく真剣なので、僕はすこし気にかかりましてね。何となくトンチンカンな感じがしましたから……その時にこう云ってやったのです……。それは一応尤もな意見だが……しかし、もう親類と相談をしてきめてしまった事だから、今更変更するのは面白くないだろう……と……」
「なるほど……これも御道理ですね」
「そう云いますと、今度は品夫の奴がメソメソ泣き出して、ウンともスンとも返事をしなくなったんです」
「ヘエ……なるほど……」
「……様子が変ですから僕はいよいよ気になりましてね……何故泣くのかと云って無理やりに、根掘り葉掘り尋ねますと、やっとの事で白状したのです。……つまり妾は、二十年前に殺された、妾の実のお父さんの讐敵を討たなければ結婚をしない決心だと云うので……イヤもうトンチンカンにも、時代錯誤にも、お話しにならない奇抜な返答なのですが、本人はそれでも頗る付きの大真面目らしいので、僕はスッカリ面喰ってしまいました」
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