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その時に私が、どんな顔をしたか、私は知りませぬ。ただ死ぬ程息苦しくなって、張り裂けるほど胸が轟いて、唖のように何の返事もし得ないまま立ち上りますと、ソロソロとアヤ子から離れて行きました。そうしてあの神様の足の上に来て、頭を掻きり掻きりひれ伏しました。
「ああ。天にまします神様よ。
アヤ子は何も知りませぬ。ですから、あんな事を私に云ったのです。どうぞ、あの処女を罰しないで下さい。そうして、いつまでもいつまでも清浄にお守り下さいませ。そうして私も…………。
ああ。けれども…………けれども…………。
ああ神様よ。私はどうしたら、いいのでしょう。どうしたらこの患難から救われるのでしょう。私が生きておりますのはアヤ子のためにこの上もない罪悪です。けれども私が死にましたならば、尚更深い、悲しみと、苦しみをアヤ子に与えることになります、ああ、どうしたらいいでしょう私は…………。
おお神様よ…………。
私の髪毛は砂にまみれ、私の腹は岩に押しつけられております。もし私の死にたいお願いが聖意にかないましたならば、只今すぐに私の生命を、燃ゆる閃電にお付し下さいませ。
ああ。隠微たるに鑒給まう神様よ。どうぞどうぞ聖名を崇めさせ給え。み休徴を地上にあらわし給え…………」
けれども神様は、何のお示しも、なさいませんでした。藍色の空には、白く光る雲が、糸のように流れているばかり…………崖の下には、真青く、真白く渦捲きどよめく波の間を、遊び戯れているフカの尻尾やヒレが、時々ヒラヒラと見えているだけです。
その青澄んだ、底無しの深淵を、いつまでもいつまでも見つめているうちに、私の目は、いつとなくグルグルと、眩暈めき初めました。思わずヨロヨロとよろめいて、漂い砕くる波の泡の中に落ち込みそうになりましたが、やっとの思いで崖の端に踏み止まりました。…………と思う間もなく私は崖の上の一番高い処まで一跳びに引き返しました。その絶頂に立っておりました棒切れと、その尖端に結びつけてあるヤシの枯れ葉を、一思いに引きたおして、眼の下はるかの淵に投げ込んでしまいました。
「もう大丈夫だ。こうしておけば、救いの船が来ても通り過ぎて行くだろう」
こう考えて、何かしらゲラゲラと嘲り笑いながら、残狼のように崖を馳け降りて、小舎の中へ馳け込みますと、詩篇の処を開いてあった聖書を取り上げて、ウミガメの卵を焼いた火の残りの上に載せ、上から枯れ草を投げかけて焔を吹き立てました。そうして声のある限り、アヤ子の名を呼びながら、砂浜の方へ馳け出して、そこいらを見まわしました…………が…………。
見るとアヤ子は、はるかに海の中に突き出ている岬の大磐の上に跪いて、大空を仰ぎながらお祈りをしているようです。
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私は二足三足うしろへ、よろめきました。荒浪に取り捲かれた紫色の大磐の上に、夕日を受けて血のように輝いている処女の背中の神々しさ…………。
ズンズンと潮が高まって来て、膝の下の海藻を洗い漂わしているのも心付かずに、黄金色の滝浪を浴びながら一心に祈っている、その姿の崇高さ…………まぶしさ…………。
私は身体を石のように固ばらせながら、暫くの間、ボンヤリと眼をみはっておりました。けれども、そのうちにフイッと、そうしているアヤ子の決心がわかりますと、私はハッとして飛び上がりました。夢中になって馳け出して、貝殻ばかりの岩の上を、傷だらけになって辷りながら、岬の大磐の上に這い上りました。キチガイのように暴れ狂い、哭き喚ぶアヤ子を、両腕にシッカリと抱き抱えて、身体中血だらけになって、やっとの思いで、小舎の処へ帰って来ました。
けれども私たちの小舎は、もうそこにはありませんでした。聖書や枯れ草と一緒に、白い煙となって、青空のはるか向うに消え失せてしまっているのでした。
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それから後の私たち二人は、肉体も霊魂も、ホントウの幽暗に逐い出されて、夜となく、昼となく哀哭み、切歯しなければならなくなりました。そうしてお互い相抱き、慰さめ、励まし、祈り、悲しみ合うことは愚か、同じ処に寝る事さえも出来ない気もちになってしまったのでした。
それは、おおかた、私が聖書を焼いた罰なのでしょう。
夜になると星の光りや、浪の音や、虫の声や、風の葉ずれや、木の実の落ちる音が、一ツ一ツに聖書の言葉をやきながら、私たち二人を取り巻いて、一歩一歩と近づいて来るように思われるのでした。そうして身動き一つ出来ず、微睡むことも出来ないままに、離れ離れになって悶えている私たち二人の心を、窺視に来るかのように物怖ろしいのでした。
こうして長い長い夜が明けますと、今度は同じように長い長い昼が来ます。そうするとこの島の中に照る太陽も、唄う鸚鵡も、舞う極楽鳥も、玉虫も、蛾も、ヤシも、パイナプルも、花の色も、草の芳香も、海も、雲も、風も、虹も、みんなアヤ子の、まぶしい姿や、息苦しい肌の香とゴッチャになって、グルグルグルグルと渦巻き輝やきながら、四方八方から私を包み殺そうとして、襲いかかって来るように思われるのです。その中から、私とおんなじ苦しみに囚われているアヤ子の、なやましい瞳が、神様のような悲しみと悪魔のようなホホエミとを別々に籠めて、いつまでもいつまでも私を、ジイッと見つめているのです。
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鉛筆が無くなりかけていますから、もうあまり長く書かれません。
私は、これだけの虐遇と迫害に会いながら、なおも神様の禁責を恐れている私たちのまごころを、この瓶に封じこめて、海に投げ込もうと思っているのです。
明日にも悪魔の誘惑に負けるような事がありませぬうちに…………。
せめて二人の肉体だけでも清浄でおりますうちに……。
*
ああ神様…………私たち二人は、こんな苛責に会いながら、病気一つせずに、日に増し丸々と肥って、康強に、美しく長って行くのです、この島の清らかな風と、水と、豊穣な食物と、美しい、楽しい、花と鳥とに護られて…………。
ああ。何という恐ろしい責め苦でしょう。この美しい、楽しい島はもうスッカリ地獄です。
神様、神様。あなたはなぜ私たち二人を、一思いに屠殺して下さらないのですか…………。
――太郎記す………
◇第三の瓶の内容
オ父サマ。オ母サマ。ボクタチ兄ダイハ、ナカヨク、タッシャニ、コノシマニ、クラシテイマス。ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。
市川 太郎
イチカワ アヤコ
●表記について
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- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。
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