呪われた鼻
――運命と鼻の表現(六)
獣からやっとこさと人間へ進化して来た鼻は、初めて地面から手を離して四方をキョロキョロ見廻しました。ここまではスフィンクスの暗示に依って進化して来たのでありますが、これから先どこに向って進化向上していいか見当がつかなかったからであります。
意地の悪いスフィンクスは折角ここまで連れて来ながら、その鼻の表現を隠して人間を五里霧中に突放しました。
突放された人間がヒョットコでありました。
ヒョットコは見る物毎に驚きました、呆れました。人間の五官の世界が果しもなく広く美しく眩しく荘厳に不可思議なのに肝を潰してしまいました。えらい処へ来たと思いました。大変なものばかりであると思いました。そのために鼻の穴がスッカリ開け放しになってしまいました。
オッカナビックリ歩きまわって見ました。しかしいくら歩きまわっても、只驚くべき怪しむべき事ばかりで、行っても行っても同じ風が吹いているという事だけがわかりました。どこへどう落ち着いて、どんなに日を送っていいか、まるっきり見当がつかなくなりました。
スッカリスフィンクスに馬鹿にされてしまいました。
仕方がないのでヒョットコは、遂に色気と喰い気に逆もどりをしました。昔獣であった時代からこれを生命と守り通して来た利己心――生命の保存と永続の二つの本能のいとなみに凝り固まりました。
姿は人間でありながら、心は昔の獣のまま喰って惚れて生きている――
――絶対の無自覚の姿!
「オホホホホホホ」
とおかめがこれを見て笑い出しました。
「マア、面白い事。おかしい事。一寸ヒョットコさん、御覧なさいよ。何て奇麗なお月様でしょう。何て明るいお太陽様でしょう。妾すっかり感心しちゃったわよ。こんな有難い事は無いわよ。ホントに勿体ない――嬉しい事……オホホホホ」
おかめはこうして総てに満足しました。この上に何物も望みませんでした。
人間の五官を備えている事だけに満足し切って、空虚な喜びに生きている――
――消極的の無自覚の姿!
この無知無能に対して、恐ろしく憤慨したのは天狗様でした。
「おれは貴様達のような無自覚なものじゃないぞ。何物にも満足するような無知なものではないぞ。如何なる事でも為し遂げ得る能力を持っているぞ。あらゆる向上力と通力とを持っているぞ」
こうして総てを眼下に見下して、自分だけ慢心してしまいました。たった一人で、俺は人間以上のものだと威張り腐って生きているようになりました。
自覚心があり過ぎて、却って無自覚と同じ事になってしまいました。ちっとでも他の生物より優越したところがあれば、直に満足をするようになりました。――スフィンクスが終極の目標を示さないために――
そうしてすべてにこの自覚の誇りを宣伝すべく、全世界を飛びまわりはじめました。
――鼻ばかり高く突き出しながら――
――積極的無自覚の姿!
……………………………………………………
――おかめとヒョットコと天狗様――この三つはこうして人間の無自覚――スフィンクスの鼻の表現から生まれました。
いずれも絶対の馬鹿の表現であります。
無自覚に凝り固まった鼻の表現であります。
永久にスフィンクスに呪われた姿であります。
子供のオモチャにしかならぬ程度のものであります。
こうなりたくないために――スフィンクスの呪いにかかりたくないために――子供のオモチャにしかならぬ程度の一生を送りたくないために、噴火口や瀑布に飛び込む人すらある位であります。
その他の人々は、しかもそうは考えませぬ。自分の満足するところに満足すりゃいいじゃないかといった調子で、めいめい行き得るところまで行って、これに満足し得意になる。あとは只驚いている。首をひねっている。感心している。喜んだりビクビクしたりしている。こんな鼻の表現がもしあったならば、その持ち主は同時にヒョットコであり、おかめであり、天狗様でなければなりませぬ。
スフィンクスに呪われた人でなければなりませぬ。
鉱物式や植物、動物式の性格
――運命と鼻の表現(七)
スフィンクスは埃及の万有神教から生れたものだけに、人間の鼻の表現の呪い方も森羅万象式で種々雑多に分かれております。しかしこれを大別しますと、無生物式と植物式と動物式の三つの呪い方にわかれるようであります。
凡そありとあらゆる人々はスフィンクスにこんな風に呪われながら、自分でもこれを知らず、これに囚われこれに満足して向上発展の意気を喪っているように見受けられます。
先ず無生物式に呪われているというのは、変化の無いつめたい石や金属の性質を帯びている鼻の表現であります。
男性では頑冥不霊の石塔の鼻や、微塵も色気の無い石部金吉の鼻、鉄のように頑強な性質、又は銅臭に囚われた人、或は金ピカ自慢の方なぞがこの部類であります。いずれにしても或る硬度にまで凝り固まった融通の利かぬタチで、中には合金や鍍金、流し金なぞで満足している人もあるという次第で、各とりどり様々にその持ち前の性格を鼻の表現に光らせております。
女性の方でも同様で、めいめいに御自分のプライドを鉱物や金属に思いなして、囚われておいでになるようであります。鉄や銅のように世帯向きの実用式性格を御自慢の向きもあれば、上流向きの銀子さんや金子さんを以て自ら任じておいでになる方もあります。又は御自分を水晶と見ておられる方もあれば、翡翠と見られる方もあります。ルビー嬢や真珠夫人、ダイヤ姫なぞと来ると、囚われても囚われ甲斐のある方で、家門の誇り、社交界のお飾りたるべく、皆もう後生大切に研きをかけては光り、光っては研きをかけつつ、身動きさえもそっとして、鼻の表現にそのプライドを輝かすばかりに夜を明かし日を暮しておいでになります。
お次に植物式に囚われた鼻の表現のうちで一番多く見うけるのは、極めて狭い処に極く小さな芽をふいて、チョッピリした枝葉を出して、イササカの花を咲かせ実を結んで満足している鼻であります。
これという実も花も持たぬままに、潤いを求めて地を這いまわる蘚苔のようなもの、又は風に任する浮草式生活の気楽さに囚われている者に到っては殊に夥しいのであります。恐ろしい毒に身を守って、虫も鳥も寄り付かぬのを誇りとするという、凄い珍しい囚われ方をした鼻の表現も、亦この部類に数えらるべきものでありましょう。
梅、桜、牡丹、芍薬、似たりや似たり杜若、花菖蒲、萩、菊、桔梗、女郎花、西洋風ではチューリップ、薔薇、菫、ダリヤ、睡蓮、百合の花なぞ、とりどり様々の花に身をよそえて行く末は、何処の窓、誰が家の床の間に薫るとも知らず、泣きつ笑いつ、はかなくかぐわしい夢に浮かれる人々も亦、この中に数えねばならぬのではありますまいか。
しかも植物式の囚われ方をしたものの中で偉大なものになると、鳥を宿し、星を停め、雲を払い、風に吼えて、素晴らしい偉観を呈するのがあります。他の草木の根を覆えし、枝葉を枯らして自分のこやしにして終う一方、巻付いて来る蔦蔓から、皮肉に食い込んで来る寄生植物までも引き受けて、共々に盛んに芽を吹き、枝を延ばし、花を咲かせ、実を結んで、大得意になっておる鼻がそれであります。一家一門繁昌して「祝い芽出度」と囃されてニコニコと喜んで、
「アア、これでやっと眼が瞑れる」
と安心して閑日月を楽しもうという、このような鼻の表現が何となく物足りなく見えるのは、その表現が植物性を帯びているからではありますまいか。そこが人間の有難いところだと眼を細くしている鼻は、草木が茂り栄えるのをためつすがめつしている鼻と同じ鼻ではありますまいか。
いずれにしてもスフィンクスに呪われているには違いないので、ヒョットコの鼻は免れても、おかめの鼻は免れませぬ。
一方にスフィンクスから動物式に呪われている鼻では、こんなのが眼に付きます。
「俺はそんな外面的の誇り、植物式の生活には囚われないのだ。俺を束縛し得るものは無いのだ。おれは物質的に死ぬるとも精神界に活躍したいのだ」
と宗教界、芸術界、哲学界や他の思想界なぞいう様々な霊界に飛び出してはねまわります。鳥のように天空を翅り、獣のように猛威を競います。そうして分相応の地歩を占めつつ、これが安全第一だと草葉にすだき、これが最高の自由だと雲に啼き渡り、これが最大の真理だと曠野に吼えまわります。それぞれに露を吸い、果を食い、又は草を噛み、血を啜って持ち前の声を発揮しております。或は鼻の頭からやさしい長い触覚を出して、ソロリソロリと動かしながら、リンリンと人を哀れがらせ、嘴と鼻を兼帯にして阿呆阿呆と鳴き渡り、又は百獣を震い戦かせんと鼻息を吹き立てております。
こんなのはヒョットコやおかめの鼻は免れても、天狗たる事は免れませぬ。もちろんスフィンクスから動物式に呪われている事は間違いないので、よく天狗の身体が鳥や獣になぞらえてあるのも、こうした感じを象徴したものではあるまいかと考えられるのであります。
但しこんなのは端した天狗で、もっと上等の天狗になると、ちゃんと人間の形をして鼻ばかり高いのが出て来るのであります。これは精神的にも物質的にも囚われていないと自惚れた天狗様で、なかなか気の利いた通力を持っているものであります。
「外面的の生活に囚われた奴は人間の形をした植物である。又内面的な生活に囚われた奴は人間の心から動物に退化した奴である。何ものにも囚われぬ人間たる乃公の支配下に属すべきものである。
彼等は皆悉くおれの用を達しに来た者である。そうしてみんなおれの厄介にならなければ、何の役にも立たない奴ばかりである。生まれた甲斐の無い奴ばかりである。こんな天狗たちは元来おれの同胞であり後輩である。弟子たちである。同時にこんな後輩たちは、それぞれその囚われた鼻の表現で、おれに囚われてはいけない事を身を以て教えてくれたものである。或る意味から云えばおれの家族、分身である。恐ろしく心配をかける奴ばかりである。
けれ共また、飽く迄も可愛い奴である。
此奴等がいないと、此方輩は早速困る事になるのだ。
沙漠の中の一人ぼっちになるのだ。自滅する外はないのだ。此奴等がいるので、吾々も生き甲斐があるというものである。
それにしても此奴等がみんなおれ位にまでなり得たら、おれもどれ位気が楽になるか知れないがなあ。
――やれやれ――」
と世界を見渡して、羽団扇か何かで鼻の下を煽ぎながらニコニコと笑っております。
こんな大々的の天狗様になると、もう無暗にそこいらにはおりません。鼻も当り前よりはすこし高くて大きい位で、顔もそんなに恐ろしくはありませぬ。その代り正体もなかなか見せませぬので、草になったり木になったり、土百姓に化けたり、旅僧の姿をしたりして、方々の小天狗共を凹ませては、大天狗道に入らせようと努力しております。
……いつの間にか世界は、天狗様ばかりになってしまいました。
中でも天狗の原産地たる吾国では、到る処の高山深谷に住んで、各雄名を轟かしております。先ず天狗道の開山として、天孫を導き奉った猿田彦の尊の流れとしては、鞍馬山の大僧正が何といっても日本天狗道の管長格でありましょう。九州では彦山の豊前坊、四国では白峯の相模坊、大山の伯耆坊、猪綱の三郎、富士太郎、大嶺の善鬼が一統、葛城天狗、高間山の一類、その他比良岳、横川岳、如意ヶ岳、高尾、愛宕の峯々に住む大天狗の配下に属する眷属は、
中天狗、小天狗、山水天狗、独天狗、赤天狗、青天狗、烏天狗、木っ葉天狗
といったようなもの共で、今日でも盛んに江湖専門の道場を開いて天狗道を奨励し、又は八方に爪を展ばし、翼を広げて、恰も大道の塵の如く、又は眼に見えぬ黴菌の如く、死ぬが死ぬまでも人間に取り付いております。否、死んでも銅像や記念碑、爵位勲等、生花、放鳥又は坊主の頭数、会葬者の人数、死亡広告の大きさやお墓の高さなぞに取り付いて行こうとするのであります。
世界のある限り、人間のある限り、天狗の取り付き処はなくなりそうに見えませぬ。
無限大の呪い
――運命と鼻の表現(八)
世界はいつになったら、これ等の呪われたる鼻の表現から救われる事が出来るでありましょうか――
いつになったら馬鹿囃子が止む事でしょうか――
スフィンクスはいつ迄も知らぬ顔をして、茫々たる沙漠を見つめております。
その上には日月星辰が晴れやかにめぐりめぐっております。その下には地球が刻々に零下二百七十四度に向って冷て行きつつあります。
四時が徐ろにそのまわりに移り変って行きます。風雨がこれを洗い、雷電がこれにはためきかかり、地震がこれをゆすぶりつつ、これを楽しませ、威かし、励ましております。万有はこれに和して、ドンドン進化の道程を進めて行きます。
――獣から――人間へ――
――人間から……?
スフィンクスは矢っ張り鼻の表現を見せませぬ。依然たる「謎語」の姿を固持しております。
吾々人類はどちらに向って進化したらいいでしょうか。
どうしたらいいでしょうか? この驚くべき大きさ――限りない長さを。この美しさ、楽しさ――この不思議さ、怪しさを。この騒々しさ、可笑しさ――この淋しさ、悲しさを。
この長たらしい馬鹿囃子――無味単調な茶番神楽を如何に踊ったらいいでしょうか。
矢っ張りすべてはおかめとヒョットコと天狗の面を離れませぬ。吾々は皆スフィンクスに呪われております。
こうなっては仕方がありませぬ。
吾々は自分の鼻の表現を研究するより他に方法がありませぬ。自分の鼻の表現の起こる源に探りを入れて、その根本を明らめて方向をきめる。そうしてその方向に時々刻々に油断なく進むよりほかに致し方ありませぬ。
うっかり立ち止まったり、屁古垂れたりしてスフィンクスに呪われないように――天狗かおかめかヒョットコなぞいうような馬鹿なお化けに取りつかれないように――人間一代の恥辱の姿にならぬように――
獣から人間へ――
物質界から精神界へ――
そうして人間から……?……へ
さて又精神界から……?……へ
自分自身がスフィンクスになって――
自分の鼻の表現を研究し完成して――
鼻の表現研究の必要がなくなっても――
これを超越してしまっても――
「アハハハハハハハハハ」
……まだ天狗様が笑っております。
――自覚――自覚――飽く迄も――
――いつ迄も――
そうして、生命のある限り――
地球の冷尽す限り――
鼻の表現を――新しく――新しく――
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