輪廻転生
――運命と鼻の表現(一)
その人の個性及び、その個性がその人の修養と経験とで研き上げられた人格とが、鼻の表現の変化の根柢を作っている事は、今まで研究して参りましたところに依って最早充分に了解の事と信ぜられます。鼻の表現に現われた喜怒哀楽の基調が卑しいものであるか、高尚なものであるか、又は狡いものであるか、正直なものであるかという事は、その底に表現されている、その人間の性格を見れば一目瞭然するのであります。
勇者の鼻は鉄壁をも貫く気合を見せております。智者の鼻は研磨まされた心鏡の光を現わしております。仁者の鼻は和かい静かな気持を示しております。聖者の鼻からは上品な清らかな霊感を受るのであります。
さもない凡人たちの鼻でも、つつましやかな人の鼻はしおらしく控えております。高ぶった奴の鼻はツンと済ましております。意久地なしの鼻は高くても低く見え、図々しい奴の鼻はヒシャゲていてもニューと上わ反りになっているかの表現をしております。
これに対する相手の感じよう、又は世間の反響は、直にその鼻の持ち主の運命となって来るのであります。即ち鼻はその持ち主の運命を支配していると云っても差し支えないのであります。
これを逆に観察致しますと、こうした運命に支配されて、或は悲観し、或は楽観し、又はこれに対抗して行く意志や感情や信念は積り積って行く中に、更にその人の性格を作って行くものであります。即ちその人の性格は、その人の経歴の縮図で、その性格をすっかり見せている鼻の表現は、その人の将来の運命と共にその持主の経歴も象徴しているのであります。
その人の性格の基礎となるべき個性の中には、先天的の分子、即ち遺伝に依って稟け継いだ性質が多分に含まれている事は学者の証明するところであります。その先天性の中には、動物性もあれば人間性もあります。動物性というのは吾々の祖先が猿か猫か何かであった時代に体験して来た性質で、子供の時に只わけも無く木に登って見たり、動物を生殺しにして玩弄にして見たり、又は無意味に暗黒を恐れたりするのは、この性質の発露だそうであります。
人間性というのは、これが洪積世以後人間にまで進化してから各種の体験に依って作り上げた特性で、こんなのが通有性と固有性とを問わずゴチャゴチャと遺伝されている事は申すまでもありませぬ。そうしてその固有性を基礎として築き上げられたその人の性格は、その鼻の表現に依って他人に反映して、その人の将来の運命を支配すると同様に、その通有性はその人の属する国家、民族の各個人の個性に含まれている通有性と共鳴して、その通有性に適合した社会を組織し、これにふさわしい宗教、芸術、学術、技術を生み、そうしてその国の民族の盛衰消長を支配して行くのであります。
動物性と人間性……固有性と通有性……ただ個性というものの中にも、これだけの複雑広大な因子が含まれております。これがオギャーと生れてから後の修養や経験に依って整理淘汰されたものが、その人の性格となり、これが向上洗練されたものが、その人の人格となる。そうして子孫に伝わるとでも申しましょうか。
顔面中央の一肉団……本来不動、無表現の鼻柱はかくしてその人の個性、性格、人格を表明すると共に、父母未生以前の因果、弥勒の出世以後の因縁までも同時に眼の前に結び止めて、輪廻転生のあらたかさをさながらに拝ませているのであります。吾々の生涯に積んだ悪業善行は、こうして子々孫々の後までも鼻の表現の中を流転して、その運命を支配して行くのであります。
ずっと前に研究を致しました……
「鼻の表現能力は、その無表現のところに在る……
無から有を生ずるところに在る……
不変不動のまま千変万化するところにある……
造化の妙理、自然の大作用はここにも窺う事が出来る……」
という事実が如何に驚異に値するか……ただ言語道断。気を呑み声を呑で「鼻」の前に低頭平身する他ありませぬ。
昔から偉人とか傑士とか、又は苦労人と呼ばれる人々は、多少に拘らず無意識の裡にこの間の消息を飲み込んでおったもののようであります。
「人品骨柄卑しからぬものと見えた。召し抱えよう程に名を問うて参れ」
といったような話があります。この人品骨柄卑しからぬという見処は、その鼻の表現にあるので、眼や口が如何に清らかであっても鼻の表現が卑しかったら落第であります。
如何に経歴を偽っても、又は柔和な人相をしていても、
「此奴油断のならぬ奴」
と思わせるのは、その胡乱な経歴から来た性格が鼻に現われているからであります。
戦場場数の豪の者、千軍万馬を往来した驍将の鼻には、どことなく荒涼凄惨たる戦場の殺気を彷彿せしむべき或るものがあります。
泥水商売に身も心も浸して来た鼻には、血も涙も褪せ果てた見すぼらしい本心の姿が見えるというのは、さもあるべき事でありましょう。
この故に大聖孔子は、一野翁老子の前に頭が上らなかったのではありますまいか。
かかるが故に、歴山大王は一乞食学者ダイオゼニアスを奈何ともする事が出来なかったのではないでしょうか。
賤が伏せ屋の見すぼらしい母子が只の人でないと眼をつけられ、綾羅錦繍の裡に侍ずかるる貴婦人がお里を怪しまるるそもそもの理由も、亦ここにあるのではありますまいか。
骨相学者や運命判断の原理は別としましても、その人の経歴と性格と運命とが、鼻の表現を中心として循環転変して行きつつある事は疑う余地ありませぬ。
この道理は歴史の上にも現われて、成る程と思わせられる事が甚だ多いのであります。
歴史上に活躍する人物の性格と、これに対する群集心理との結合は何に依って成り立っているか。何に依って認められ、何に依って反響を招きつつあるか。
思うてここに到る時、鼻の表現の権威の偉大さに驚かざるを得ないのであります。
世界の歴史は誇張した意味でなしに、鼻の表現の歴史と見て差し支えないのであります。
人類文化の推移は掛け引き無しのところ、鼻の表現の推移と考えられるのであります。
スフィンクス
――運命と鼻の表現(二)
世界歴史の表面に鼻を向けるに先立って、是非一度研究しておかねばならぬのは、前に御紹介致しました世界最古の文明国エジプトはナイル河畔に、数千年の昔から横たわっているスフィンクスの鼻の表現であります。
青藍色に澄み切った大空の燦爛たる烈日の下に燃え上る褐色の沙漠の一端、暗黒の大陸を貫いて南から北へ流るるナイル河の氾濫に育まれたエジプトの文化は、実に奇怪を極めたものでありました。
滴るばかりの緑の野に金光赫々として輝くファラオの武威は、各王の死後の住家である三角塔と、その功績を地表高く捧ぐる方光塔と、迷い入ったら最後、容易に出口を発見し得ぬという螺堂を生みました。又不可思議をそのまま神として崇拝する万有神教は、輪廻転生の説と木乃伊とを生みました。その中にわけても不可思議の建造物として、今日迄全世界の学者に首をひねらしているスフィンクスの大石像を生み出したという事は、エジプトの文化の奇怪さを一層強く裏書きしているものではありますまいか。
この石像の不可思議が今日迄解決されないままに「謎語」の象徴として中学校の教科書にまで載せられている事は、あまりに知れ渡り過ぎている事実であります。その「謎語」の「謎語」たる所以は、その姿が人面獣身であるところにあるという事も亦あまりに有名な事実であります。
然るにここに注目すべきは、そのスフィンクス像の鼻は偶然か天意か知らず、いつの間にか欠け落ちている事であります。その欠け落ちたのは勿論後世の探検家に発見される以前の事で、本来高かったものか低かったものか、又はどんな恰好をしていたものか、今日からは全く見当のつけようがないのであります。
鼻の表現の研究が世界歴史に触れるに当っては、是非ともこの事実を問題としない訳には参りませぬ。スフィンクスの鼻が欠け落ちているために、如何にそのスフィンクスたる表現を強めているか。スフィンクスの象徴している意味が、如何にスフィンクスられているかということは、「鼻の表現」に与えられた一つの謎語として……人類に与えられた永久に新しい、そうして永久に古い「謎語」として深い注意を払わない訳には参りませぬ。
人類の作った宗教的、哲学的、又は芸術的の芸術品には、そのいずれの一つとして意味の無いものはありませぬ。その中にただ一つ「謎語」と名付けられて残っている、世界最大最古の象徴的芸術品――「彼は彼自身である」という解釈より外に適当な解釈を下された事の無い「謎語」の像――その「謎語」たる彼自身の真面目を標榜しているべきスフィンクスの鼻の表現が、何故とも何事とも知らず欠け落ちている。「謎語」の二乗になっているという事は、「世界歴史が鼻の表現の歴史である。人類の文化が鼻の表現の表現である。それを人類は知らないでいる」という天の啓示ではありますまいか。
一方から見ますと、人類進化の道程は先ず獣から発している事を証せられております。同様に人類文化の推移は、獣心から人心に進むところに在ると解かれております。数千年前にこの意味を象徴し得たエジプトの万有崇拝教が作った文化は、そのスフィンクスの鼻の表現に於てもこれを象徴し得なかった理由はありませぬ。
しかし同時に、このデザインを建てた程の芸術家ならば、キットこのスフィンクスの鼻の表現を残しておく事が、永久に人類を鼻の表現に対して無自覚に終らしむる所以である事を考え得ぬ筈はありませぬ。
ここに於てかその芸術家は、この大作品を当時の埃及王の御覧に供した後、或る夜窃に梯子を持って行って、その鼻の表現を自然の作用であるかのように欠き落したのではあるまいかとも考えられます。
いずれにしてもスフィンクスのスフィンクスたる所以は、その鼻の表現が無くなっているところにあります。そこにあらゆる芸術的判断、又は宗教的哲学的の思索を超越した「謎語」としての価値が感得されるのであります。
折れたビナス像の腕を再造するという事は、芸術上の大問題になっております。それ程の文化程度に進んだ現代の人類が、スフィンクスの鼻に対し何等の問題を起こさないという事は更に更に大きな「謎語」ではありますまいか。
スフィンクスは世界の終りまで、鼻を再造してもらう事は出来ないでありましょうか。
クレオパトラ
――運命と鼻の表現(三)
鼻の欠け落ちた大怪像スフィンクスの傍に住んでいた女王クレオパトラの鼻が、世界の歴史を支配したという事も亦、何等かの暗示を人類に与えずには措きませぬ。些くとも鼻の表現の研究上、かのスフィンクスと相対して、最も奇抜な、そして興味津々たるコントラストを見せている事を否定する訳に参りませぬ。
「彼女――クレオパトラの鼻が、今些し低かったならば、羅馬の歴史を通じて世界の歴史に変化を与えたであろう」
という云い伝えが、もし彼女の鼻の静的表現の高さに就いてのみ解説されたものであるとするならば、どうしても鼻の表現の真相を穿ったものとは考えられませぬ。少くとも近所にスフィンクスが控えている以上、今些し意味深長な理由があるものと考えたいのであります。
クレオパトラは美人の代名詞として今日迄も謳われている位の容色の持ち主であったそうであります。その女性としてのプライドが如何に高かったかは想像するに難くありませぬ。同時に世界文化の先進国たるエジプトの女王たるプライドが、如何に極度以上にまでその鼻の表現を高潮しおった事でありましょうか。彼女の鼻が今些し低かったならば云々という言葉は、この場合精神的方面からの批判と見るが至当ではあるまいかと考えられます。
シーザーは、はるばる羅馬から彼女を見物に来て、この超世界的の女王の鼻の表現を見ると、そのまま黙って羅馬に帰ってしまったと伝えられております。
傲岸不屈、世界を眼下に見るシーザーの鼻の表現が、如何なる男性をも自己の美と女王としての権威の膝下に屈服せしめなければ措かぬというクレオパトラの鼻の表現と相容れ得なかった事は、想像するに難くありませぬ。
こうして世界の運命は、男性と女性の最高のプライドの鉢合せに依って決せられたのであります。
これに反してアントニーは、彼女の鼻の外面的美的条件を見ただけで、これに惑溺したのだそうであります。そうして引き続いてクレオパトラに愛せられたところを見ると、アントニーの鼻の表現は余程のお人好しか好色漢の色彩を帯びたものであったろうと想像されます。
男性の性格の両面とも云うべき「愛」と「功名」――これを代表したこの二つの鼻の表現が、彼女の鼻に対して結んだ因果関係――それに依って支配された二英雄の運命――それに依って支配された羅馬の将来――それに依って運命づけられた世界の今日――。
それは世界歴史の頁の大部分を犠牲とし、不可思議の国埃及の王宮を舞台面として演出された、至大至高の鼻の表現劇ではなかったでしょうか。今日の人類の文化は、未だこの鼻の表現劇の影響から免れ得ていないのではありますまいか。
クレオパトラとアントニーは、各自分の鼻の表現に依って支配された運命に従って、スフィンクスの膝下に斃れたと伝えられております。
一方シーザーは、羅馬に於てブルタスの刃に刺されました。これはその鼻の野心満々たる表現が、識らず識らずの裡に民衆の反感を買っていたのではないかと想像する事が出来るのであります。
人類史と謎語
――運命と鼻の表現(四)
こうして世界歴史の表面を飾る人々の鼻の表現は、人類進化の道程に於ける何等かの意義を象徴して、その時代の人々を導きました。それ等の人々の盛衰興亡に一新紀元を劃し、それ等の人々が作る文化の栄枯消長に一転機を与えました。そうして後世の人々に、何等かの霊的又は物的の暗示を残して行きました。
骸骨の塔の高さを誇る鼻の種族は、敵を見る事草木の如き剽悍無残の鼻を真っ先に立てて、毒矢毒槍を揮いました。
版図の大を誇る鼻の一団は、智勇豪邁、気宇万軍を圧する鼻に従ってこれに殉じました。
石から大理石に、大理石から銅に、銅から金銀に、その文化の光明を誇る鼻の群れは、公明聡慧一世に冠たる鼻を仰いでその徳を讃美しました。
現界の富強を希わず、神界の福楽を欣求する鼻を貴ぶあつまりは、崇高幽玄、霊物を照破する鼻に帰依して財宝身命を捧げました。
吾れに従う人々の安息の地を求むべく、燦たる北斗星の光を心あてに、沙漠をうれいさまようた鼻がありました。
精神的にも物質的にも茫々たる不毛の国土を開拓して、隆々たる文化を育みつつ、世界を併呑すべく雄視した鼻がありました。
高潔沈毅な鼻の表現に万軍の信頼を集めつつ、天地を震撼する大魔王の鼻を一撃のもとに打ち砕いた英雄がありました。
文化的爛熟期に入った列国代表者のデリケートな鼻の表現の間を、新興民族の蛮勇を象徴した鼻の表現で、片っ端から押しわけて行った巨人がありました。
吾民族の文化的実力を過早に自惚れて大戦争を起こし、遂に滅亡に近い運命を招いた帝王の鼻がありました。
断頭台上に端然として告別の辞を述べ、信念と慈愛の表現を万世に残して、人々の涙を絞らせる美人の鼻がありました。
出しゃばりたい一パイの鼻の表現をふりまわして、数十万の生命を弄び殺した女王の鼻がありました。
戦争の惨禍を坐視し得ぬ鼻の表現から、世界的の博愛事業を生み出して、今日まで幾千万の人々をして人類愛に感泣せしめつつある婦人がありました。
天体の推移を睨み詰めつつ、古井戸に落ちた鼻の表現がありました。
徳業にいそしんで九年面壁した鼻がありました。
寡頭政治から民衆政治へ移すべく、街頭に怒号する鼻がありました。
宗乗の誤謬を匡すべく、火に灼かれる迄も正理を標榜した鼻がありました。
形式を破って自由の天地を打開すべく熱狂した鼻がありました。
伝統の文化から個性の文化へ導くべく悶死した鼻がありました。
高い鼻を見ると、無意識にこれを礼拝しました。
大きい鼻に出合うと、無条件でその庇護を受けようとしました。
強い鼻にぶつかると、訳も無くこれに服従しました。
その代り些しでも弱い鼻は圧倒しよう、小さい鼻は併呑しよう、低い鼻は蹂躙しようと、互に押し合いへし合いました。
こうして世界の歴史は芋を洗うように転変し、その文化は雑草のように興亡しました。
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テン テレツク テレツク ツ
テン テレツク テレツク ツ
という囃子に連れて、恐ろしく高い鼻と、無暗に低い鼻と、全く開け放しの鼻と、三種の鼻が現われてヒョコリヒョコリと踊りまわる。
世界歴史の表面を見渡していると、どことなくこんな感じがします。
現代の人類社会の生活を見渡しても、こんな気持ちがして仕方がない時があります。
何だかタヨリナイような――可笑しいような――自烈度いような――のんびりしたような――面白いような――馬鹿馬鹿しいような――有意義なような――無意義なような――。
世界はどこまで行っても、おかめとヒョットコと天狗の踊りに過ぎないものでしょうか。
人類の生活はどこ迄行っても、馬鹿囃子位のものなのでしょうか。
そうして人類の鼻の表現は、行き詰まったところがこの三つの鼻の表現のうちどれかになってしまうよりほかに、仕方がないものでしょうか。
人間というものは、そんなつまらない使命のために生れて来ているものでしょうか。
これは一つの大きな謎語であります。
万有進化と鼻
――運命と鼻の表現(五)
「謎語」という言葉はかの埃及の大怪像スフィンクスを呼び出す言葉であります。
世界中の鼻の表現のうちで、この鼻の表現研究上の根本的疑問を解決する事が出来るものは、かの鼻の欠け落ちたスフィンクス像よりほかにありませぬ。
スフィンクスは黙ってこの疑問を解決しております。
――頭は人間――身体は獣――と。
スフィンクスが出現してから二千年以上経って後、人間はやっとこの暗示を解決する事が出来ました。そうしてこう云いました。
――獣から人間へ――
この理屈を説き証したものが進化論と名付けられております。
進化論の説くところに依りますと、この――獣から人間へ――という事は、天地間、ありとあらゆる森羅万象が進化しているという事実の一端を示した事になるのであります。
――無生物から生物へ――
――生物から植物と動物へ――
――植物は――苔から草へ――草から木へ――
――動物は――虫から魚へ――魚から鳥獣へ――鳥獣から人間へ――
皆進化している――
この進化の原動力は「自己の愛護と向上発展」云々――
何だか中等学校のお講義めいて来ましたが、この証明に依ると、何だか宇宙自身にも本来の「自己の愛護と向上進展」があるそうであります。そうしてその進化の方向は、矢張り進化論の説明と同じ方向であるスフィンクスの暗示、
――獣から人間へ――
というのに一致しているのではないかと考えられます。これが宇宙進化の鼻の向うところで、これがスフィンクスの鼻に依って表現されていたのではありますまいか。
昔は交通が不便でありましたために、お釈迦様やイエス様は、その当時の文化の先進国たる埃及へ洋行された事はなかったものと見えます。もしあんな頭のいい人が一度でも埃及へ行ってスフィンクスを見ましたならば、あんな説法の仕方をしなかったであろう、その流れを汲む人々が今日になってあんなに進化論と喧嘩をしなくてもよかったろうにと、今更遺憾に堪えませぬ。
しかしその上に今一つ遺憾な事を云えば、その進化論も、獣から人間が出て来たところまでしか証明しておりませぬ。人間からこんどは何になるかという事に就いては少しも説明を加えておりませぬ。
……スフィンクスもここまでしか暗示しておりませぬ。
「それから先は説明の限りに非ず」
というのか、
「それから先はわからぬ」
というのか、それとも又、
「それから先はおしまい」
というのかわかりませぬ。鼻の表現を隠して知らん顔をしております。そうしてこれを永久の謎語として人類に暗示しつつ、沙漠の方を向いております。
そこでおかめとヒョットコと天狗様とが飛び出して、馬鹿囃子を初めなければならぬ事になります。
スフィンクスから欠き落とされた表現は、数千里を隔てた日本に吹き散って来ました。
そうしてその中からヒョットコとおかめと天狗様が生れたのではないかと思われる位、スフィンクスと馬鹿囃子の関係は密接なものがあるのであります。
まことに突飛といって、これ位突飛な対照はありませぬ。しかし何しろ古今独歩の鼻の表現の中に現われた、最も偉大不可思議なる神様達の因縁事でありますから、とても人智の及ぶところではありませぬ。只謹んで神意を伺い奉るよりほか致し方ないのであります。
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