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鼻の表現(はなのひょうげん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 10:08:05  点击:  切换到繁體中文


     何となき疑い
       ――悪魔式鼻の表現(七)

 悪魔はあらゆる霊智の存在を無視し、世間人間を馬鹿にしております。その無視しているところにその本性を看破される原因が存在し、その馬鹿にしているところに馬鹿にされる原因がひそんでいるのであります。
 更にこれを名優の鼻の表現と比較すれば一目瞭然であります。名優の鼻の表現の根本基調をしているものはその芸術に対する熱誠只一つでありますが、悪魔の鼻の表現の基調をなしているものは、大胆さ、図々しさ、冷淡さ、狡猾さなぞで、決して澄み切った明るい表現とは見えないのであります。してやその表現の根底が仮りの本心、仮りの性格であるに於てをやであります。
 鼻の表現はこれ等を飽く迄も如実に写し出します。それは如何に上等の硝子ガラスで張った鏡でも、横から見れば必ず硝子の厚みがわかると同時に濃淡二様の二重映像が見えるのと同じ道理であります。如何なる悪魔の二重三重の底意でもさながらにその鼻に写し出されるのであります。
 更にこの事実が相手方の共鳴又は反響の程度に依ってありありと証拠立てられるに到っては、鼻の表現研究に対して無限の興味を感じないわけには参りませぬ。
「人民保護の警官が人民を斬るとはなに事ぞ」
 と大道演説壇上で男泣きに泣く人を民衆は神様として担ぎ上げます。しかしこの人のためなら生命いのちを捨ててもと思うものはただの一人も無いのであります。
 天下を窺う奸物の部下に就くものは、恩賞に眼がくれた欲張りか情誼じょうぎにほだされた愚物か、又は奸物を承知でくっ付いた奸物かに限られているようであります。聡明敏慧びんけい抜群の士でも、権謀術策を以て人を率いようとする限り、その部下に心服されないという実例は、昔から数多く伝えられているようであります。
「添われぬ位なら一層死にます」
 と親には云いながら、女には土壇場で、
「お前はおれを欺すのじゃあるまいね」
 と今一度念を押したくなるのは、その女の鼻の表現の底に横たわる冷やかな或るものに感じている証拠ではありますまいか。
 云い寄る男に心は引き付けられながら、親しい学友にそっと手紙を見せて、
「あたしどうしようかと思っているのよ」
 と相談をして見るのは、相手の言葉と鼻の表現とにそぐわないところがあるのにいつとなく感じた不安からでありましょう。
 悪魔式鼻の表現の苦手は、いつでもおとなしい正直な人間か又は数等上手うわてを行く明眼達識の士かであります。このような人々の無欲な静かな、そうして澄み切った眼は、悪魔式鼻の表現家の最も忌み嫌うところであります。
 うっかりするといたいけな小児たちまでも、恐るべき苦手となる事が些なくないのであります。家内眷族がことごとく信用し切っている叔父さんや伯母さんを、お嬢さんや坊ちゃんがどういう訳だか好かない事があるのであります。
「あの人は嫌い」とか「あの人は嘘き」とか、別にだましもしないのに平気で宣告する事があります。これはその純潔な澄み切った心の鏡に、愛想のいい相手の鼻の表現の底に横たわる或るものがチラリチラリとうつるからで、いくら御機嫌を取っても誠意を示してもますます反感を買うばかりとなる事すら珍らしくないのであります。
 偽った鼻の表現の価値がどれ位のものであるか、同時に鼻がその人の二重三重の底意までも如何にデリケートな程度にまで写し出すものであるかという事は、今まで挙げました例証で最早もはや充分に御了解出来た事と思います。

     記憶と鼻
       ――悪魔式鼻の表現(八)

 更にこの鼻の表現の邪道――掴ませものの鼻の表現――悪魔式鼻の表現を根本的に裏切り得る一種の鼻の表現があります。
 それは人間の記憶に対する鼻の表現であります。
 心に暗い記憶が浮かめば、その人の鼻の表現は自然と暗くなって来るものであります。快濶な輝きが見えなくなって、しまいには黙り込んでしまうようになります。甚だしくなると眼までも閉じて、これを打ち消そうと試みる位になります。しかもそうすればする程ますますその記憶がありありとなって来る。同時に鼻の表現は益暗くなって来るのであります。
 明るい記憶が浮んだ場合は、又これと正反対の結果を鼻の表現に現わすという事は、誰しも容易に認め得る事実であります。
 鼻はその記憶の深浅、大小、濃淡から、これに対する良心の反映の明暗、厚薄まで一々残る方なく写し出すのであります。
 その結果が如何に恐るべき影響を自分以外の者に及ぼし、その影響が如何に自分に反射して来るものであるか、十目の見るところ十指の指すところ、如何に隠しても隠し切れぬものであるか、神様は見通しという因果関係が如何にして出来て来るものであるかという研究は、さらに鼻の表現に新生面を与えるものでなければなりませぬ。
 ここに男性というものがあると仮定します。
 その男性なるものは極度に婦人を侮辱し蹂躙する事を得意とする性格を持っていると仮定します。その鼻の表現が如何に記憶に支配されて相手の婦人に影響して行くか……。
 昨日は女優、今日はウエイトレス、明日あすは女学生、明後日あさっては交換嬢と、到る処に手を握り締め涙を流して、
「あなたは僕の未来の妻です」
 と身をふるわせ得る鳥打帽……。
「きっと身受けして本妻に」
 と行く先々で嬉しがらせる金鎖……。
 或いは又、吾が家の前で今一度口を拭って、
「ああくたびれた。どうも用事が長引いてね……」
 と鞄一パイのお土産をかつぎ込む中折れ……。こんな方々が如何に色男で才子で信用があっても、変態心理の所有者でない限りその心に残っている記憶の影を踏み消す訳に参りませぬ。如何に相手に真剣の愛を注いでいる如く如何にたくみに装っているにしても、同時に一方に一件の事を思い出さぬわけには行きませぬ。
 すべて知られてならぬ事は、知られてならぬ場合に限って特別にハッキリと心に浮かむものであります。長い事忘れていた借銭でも、貸した奴の顔を見ると忽ちに思い出すようなもので、まことに生憎千万なものであります。
 色事なぞは取りわけても左様さようなので、隠そうと思えば思う程ハッキリと思い出します。
 真剣になろうとすればする程アデな調子になります。
 そこでそこいらが何となくクスグッタクなる、コソバユクなる。「ウフン」とか「エヘン」とか「オホン」とか「ウニャムニャ」とかいう誤魔化し気分、又はその当時のモテ加減なぞを思い出してっかり出た「ニヤニヤ」とか「ウフウフ」とかいう気持ちが、鼻の表現のうちを往来明滅するのを禁ずる事は出来ないのであります。
 このような場合には相手の婦人が鼻の研究者でない限り、又は余程の明眼達識の女性でない限り、もしくは特別の注意を男性の表現に払っていない限り気が付かないのが普通であります。しかしこれは有意識にそれと突き止め得ないだけで、無意識的には必ずこの男性の鼻の表現の裡面を往来する怪しい気分に感付いているものなのであります。女がゾッコン惚れ込んでいればいるだけ、この方面に対する神経は緊張しているものであります。

     偽表現の影響
       ――悪魔式鼻の表現(九)

 旦那様を信用し切っている奥様でもいつの間にか一件を感付いて御座るというのは、こんな消息があるからであります。
 男性が念には念を入れてその隠し事の気ぶりをくらまし、又は知恵の限りを絞ってその秘密の足跡を掻き消していればいるだけ、それだけその努力と苦心の痕は鼻の表現の底に暗い影となって残っているものであります。極めてヒステリックな婦人又は極めて順良な女性には又特にこのような点に敏感なのが多いようであります。
 このような女性はややもすると理屈なしの不意打ちに男性の言葉を「ウソ」だと否定し、男性が隠し切っている心理状態を思いも寄らぬ方面からえぐり出して痛烈な攻撃を加えることがあります。又は眼の前ではさり気なく男の言葉にうなずいていても、いつかどこかで人知れずそでを噛みしめていることなぞがあります。
 二人切りになった時、妙にしおれた様子をしていて、
「どうしたのか」
 と尋ねても理由を云わない。あれかこれかと問い詰めた揚句ワッとばかりに泣き出すので、やっとわかるなぞいうのがあります。
 もっとヒステリーなのになると、夫の顔を見るたんびに何だか淋しくたよりなくなる。男の顔を見るのが物悲しく心苦しくなる。理屈も何も無いままにこの世が心細くわびしく思われて来て、
「あたしこの頃何だか変なの。あたし一人でいたくて仕様がないの。どうぞ構わないで頂戴」
 なぞ云いながら、自分でも何故そんな気もちになるのだかわからない。身に余る晴れやかな男の親切のうちに、たよりなさ、わびしさがますます深く感ぜられて来る。
「これがヒステリーというものでないかしら」
 なぞ考えているうちに、とうとう本物のヒステリーにかかってしまう。かかってから初めて潜在意識を意識して、
「あなたは妾を欺していらっしゃるでしょう」
 と正面から開き直り得るような事になるのであります。
 こんなのになると、いくら云いわけをしてもあやまっても頑として聴き入れないようであります。眼玉が灰落しのようにへこみ、胸が洗濯板のようになって、怨み死にに死ぬまでもであります。
 鼻の表現の影響の深刻さ、ここに到って実に身の毛も竦立よだつ位であります。
 一方にこうして女性に図星を指された場合、男性はその面目上おこるのが十中八、九のように見受けられます。ジロリと睨んだだけで相手を押え付けてしまう千両役者もありますが、大抵の場合それだけでは気が済みませぬ。
「そんな卑しい男と思うか」
 とか何とか眼も口も頬も額も、身体からだ中の表現をむずつかして自分の心底の公明正大を証明しようとします。その中には世間の習慣に楯つこうとする女性の生意気さに対する憤り、今までに与えた恩誼に対する相手の無自覚さに対する不満なぞいう良心の錯覚もまじっているのであります。その錯覚の勢いで相手を圧倒すると同時に、自分の正しからぬ鼻の表現を誤魔化そうと試みるのであります。
 しかし生憎あいにくにも鼻はいつもこの表現を裏切っているのであります。その暗い記憶に対する気の引け加減は、眼や口が怒りの表現で大車輪になってるさなかにも、鼻の表現にちゃんと居残っているのであります。

     馬鹿にされる
       ――悪魔式鼻の表現(十)

 少々余談に亘りますが、男性の中でも夫と名付くる種類のうちには、どうかすると吾家わがやに帰って来るたんびに、初めから怒鳴り込んで来るのがあります。
 さもなくとも何か知ら機嫌が悪くて、事毎ことごとに難癖をつける。まごまごすると烈火のように爆発するなぞいう難物があります。この心理状態を解剖すると非常に複雑になりますが、要するに吾が家に近付くに従って、前に述べました原則に従って暗い記憶が鮮かに解って来る。それにつれてかかあや子供の何も知らぬ顔付きが、あたかも良心の刺激その物のように腹立たしいものにかわって行く。その罪の無い鼻の表現に対する自分の暗い鼻の表現が、無意識のうちに気がかりになって、苛立たしい不愉快な気持ちになって行く。それをそうとは自分でも意識し得罪も無い枕を投げるような事にもなる。又はこのような心理状態を自分で認めていながらのテレ隠しもあるという次第で、鼻の表現がその暗さと空虚さを使いわけて、このような怒りの表現を一々裏切って行く点に変りは無いのであります。
 ですからしまいには女子供にまで馬鹿にされて、「ソラお帰りだ」とか「又初まった」位にしか扱われぬ事になります。本人もこの程度の成功に満足して、「とにかく一件がバレなければいい」というような情ない日を送る事になります。自分の鼻の表現に呪われた男ほどミジメなものはありませぬ。
 その他、自分の良心に対する女性の正面攻撃に出合った場合、男性の執る態度や手段はいくらでもあります。利口なのや馬鹿なの、気の長いのや短いのなぞに依って種々雑多に千変万化しますが、いずれにしても鼻の表現に裏切られる事は免れ得ませぬ。本当に前非を後悔して、悄然しょうぜんとして異性の膝の前に「お許し」を哀願しない限り、自分自身の鼻の表現の根底を作っている本心の「お許し」も出ませぬ。鼻の表現の底を往来する「暗い記憶の影」は除かれない事になります。
 ありとあらゆる男性は、皆申し合せたようにこのお許しの哀願を忌避します。忌避するためにジタバタ致します。知恵のあらん限りを絞って、掛引きのあらん限りを試みます。芝居や小説のタネが尽きませぬ。鼻の表現研究の興味も尽きない事になるのであります。
 しかし又世間は御方便なもので、一方から見るとこの鼻の表現の影響は、こう迄厳密に男女関係に当てはまって行きませぬ。
 つまり男性ばかりでなく相手の女性の鼻の表現――本心や性格にもいろいろな条件が付いていて、男性の鼻の表現に対する感覚が鈍っているのであります。惚れた弱味や惚れない強味、先入主や後入主、自惚うぬぼれや贔負ひいき目、身の可愛さや子の可愛さなぞいう物質的や精神的な条件が、底も知れぬ位入れまじって淀みつ流れつしております。その上をその日その日の気分の風が吹き、その時その時の感情の波が立ち騒ぐといった調子で、相手の鼻の表現を底の底まで映し出しながらも、風に吹かれ波に消され、又は流れに引かれて、思うがままの態度を取りにくいのが普通であります。そのために笑って済ます切なさもあれば、泣き寝入りのあわれさもあります。一方には女郎の千枚起請きしょうや旅役者の夫婦約束が、何の苦もなく相手を自殺させるなぞいう奇蹟が続々と起って来ることになるのであります。
 悪魔式鼻の表現はこの間に活躍して縦横無礙むげにその効果を挙げるので、鼻の表現研究の必要もここに到って又ますます甚だしくなるのであります。

     貞操と鼻
       ――悪魔式鼻の表現(十一)

 近来「男子の姦通罪を認めよ」とか「認めるな」とかいう問題が次第に八釜やかましくなって、議会にかけるとかかけぬとか騒がれているようになりました。
 現代の社会組織とか、この中に行われる習慣とか、又は一般道徳とかいうものを標準にされる法律では、こんな問題が問題になるかも知れませぬ。市役所に出す婚姻届が絶大の権威を持つ法律では、こんな研究が八釜しい研究材料となるかも知れませぬ。しかし鼻の表現研究の原則から見れば全く問題とするに足りませぬ。研究する事すら馬鹿馬鹿しい位であります。
 妻は常に夫に対して純真純美な鼻の表現を見せていなければならぬと同時に、夫は常に妻に対して公明正大な鼻の表現を示していなければなりませぬ。めにも鼻の表現に暗い影響を及ぼすような、暗い心理的経過を持ってはなりませぬ。これは誰にでもわかり切った問題で、又それだけの事であります。
 法律の御厄介にならねばならぬような貞操関係を持つ夫婦は、世間的には夫婦かも知れませぬが、人間的には夫婦でありませぬ。市役所の戸籍面では夫婦かも知れませぬが、鼻の表現上の夫婦関係は消滅しているのであります。そんな事ならば初めから夫婦にならぬ方がよろしい。否、初めから恋をせぬ方がよろしい。生涯たがいに独身主義を守って只一時限りの……又は売り物買い物の低級な性愛や性欲で満足を買って行くがよろしい……と云いたくなりますが、これは机上の空論で実際はなかなかそうは行きませぬ。
 世間に習慣というものを生み出した人間が、その習慣の根本原理に対する無理解のある限り――社会というものを組織した人類が、その社会組織の原則に対する無自覚のある限り――又は異性同士が、「性欲」と「恋」と「愛」とに対して無区別、無分別である限り――さらに突込んで云えば、相手の本心の動き方や性格のかたまり方の美しさよりも、肉体や容貌や挙動なぞの美醜――さらに今一つ突込んで云えば、鼻の表現よりも、鼻以外の表現の方が愛の対象としての価値を定める条件としてより多く重んぜられている限り、男女関係の悲喜劇は永久に地球表面上から絶滅しないのであります。警察に出る捜索願いが絶えないわけであります。船板塀に見越しの松や、売れなくともよい小売店の影は決して世の中から消え失せない道理であります。下等のところでは肉の切り売りをする五燭光の影、上等なのでは良心の卸問屋に輝く百燭光のきらめきが夜の世間から退散しない筈であります。
 つまるところ遺憾ながら、問題は矢張り法律の必要な世界に逆戻りして来るので、結局原則は原則、実際は実際という事になります。親同志で勝手に取り決めた不見転式みずてんしき許嫁いいなずけが幸福やら、合わせ物、離れ物式が真理やら、今の世の中ではわからない事になって来ます。
 日本ではまだ戦国時代の婦人邪魔物的観念、封建時代の人間の消費経済や血統保存、又は家庭経済の成り立ちから来た道徳的習慣なぞが残っております。そのために婦人は多少に拘らず束縛されて、貞操を破り難い立場に置かれておりまして、その貞操に対する道徳的習慣は、殆どその良心の鋭敏さ――純潔無垢な恋の発露と一致せねばならぬ位に切り詰められております。道徳の方からは、「貞女両夫にまみえず」なぞと睨み付けられているし、習慣の方からは世間の口端くちはという奴が「女にあれがあってはねえ」と冷たい眼で見詰められております。女性の良心はこの点では、すぐに行きづまらせられるのであります。
 一面から見れば日本の文化程度は、形而上だけでも婦人の貞操に就いて進歩している、純愛の原則に合致し得る迄に突きつめられ、理想化されていると云ってよろしいでしょう。
 これに対して男性の貞操はさほどに切り詰められておりませぬ。理想化されておりませぬ。道徳も習慣も男性の貞操に関しては、明瞭はっきりした定義を下しかねているようで、かえって「男の働きだから仕方がない」なぞと女性の方を押え付けるような傾向さえある位であります。そうして男性の貞操はいつ迄も非文化的、利己的、動物的であるままに放任されているかの観があります。従って男性は神聖なる恋、又は純粋なる愛を婦人と共に享楽する機会を永遠に奪われているかのように見えます。
 これに対して近頃「男子の貞操」が問題になりかけて来たのは、誠にさもあるべき事であります。太平楽の並べ合いをする「男女同権」の意味からでなく、家庭和楽のすすめ合いをする「男女同義務」の上から見て――鼻の表現研究の行き方である恋愛至上主義、即ち文化生活向上の意味から見て、取り敢ず大白たいはくを挙げて慶賀すべき現象と考えられるのであります。
 ところが男性の貞操に対する道徳観念、又は性的欲求に対する習慣は、なかなかこれ位のおどかしで改良されそうな気色はありませぬ。「男性の貞操に関する法律」が婦人議会で可決されて、婦人の司法官に依ってビシビシ執行されない限り、一般の男性は依然として旧来の道徳と習慣のうちに活躍するものと考えるのが至当でありましょう。そんな法律を男性は一笑に付して、ますますつけあがるでありましょう。自分の良心の許可まで受けている気になって――否、良心の批難の方が時代遅れの世間知らず位に考えて――甚だしきに到っては男性の愛と女性の愛とはその根本の要素に格段の相違があるものなぞと悟りを開いて、盛んに性欲の漏電や性愛の混線をやるに決っております。
 さながらに漬物の味見でもするように、異性の性愛の芽立ちからとう立ち迄、又はなまなれからほんなれへとあさり歩きます。デカダンの非道ひどいのになると、腐りのまわった捨てものが一番いいなぞと云い出す位で、どこ迄行っても男性の良心は行き詰まりませぬ。真の愛を味覚する機会を見出だしませぬ。
 こうして男性なるものは、その愛の第一義を二方面にも三方面にも、あるいは二重にも三重にも使いわけて当り前だという顔をしております。そうしなければエラくないのだという、生存競争場裡の虚栄心までこれに手伝って、そればかりのために死に物狂いに働くはまだしも、不義理、不人情、不道徳はまだしも、詐欺、横領、泥棒なぞまでしても各方面の第一義に入れ上げようとします。
 イヤハヤまことに御盛んな事で、容易に寄りつける沙汰ではありませぬ。法律で禁止しようが、社会課で宣伝しようが、救世軍が我鳴がなり立てようがビクともしませぬ。天の岩戸の昔よりという意気組であります。
 只ここに鼻の表現なるものが存在して、かような人類文化の頽廃を随所随時に喰い止めて、悪魔式の表現を片っ端から裏切っているのであります。人間の表現を純真にして、社会生活を純美に導くべく、悪魔式鼻の表現を絶滅すべく、鼻という鼻の一つごとに活躍を続けているのであります。
 ずっと前にも研究致しましたように、鼻の表現なるものはその持ち主の意志、感情、信念等の変化を表すと共に、その誠意の充実の程度迄も一々細やかに写し出すものでありますが、これが女性に対するとどうなるか。
 実意のある無しが、鼻の表現にすっかり現われるという事になります。事実上口先でどんなにうまい事を云っても、実意のある無しは鼻の表現に依ってチャンと相手に感じているので、只相手の神経の鋭敏さ、又は気持ちの静かさに依って、その感じ方に早し遅しがあるだけの違いであります。
 如何に大勢の女性を同時に愛し得る男性でも、その相手の一人と差し向いでいる間は常に第一義の愛を求めているものであります。相手が純真純美の愛を捧げて身も魂も打ち込んで来る事を望んでいるものであります。
 これは人情の自然、まことに止むを得ないところで、エイ子にはビー子とシー子の存在を秘密にして偕老同穴かいろうどうけつを誓っている。ビー子にはエイ子とシー子の事に就いて口を拭うて共白髪ともしらがを誓う。シー子の前では又、お前こそ俺のいの一番のシー子さんだと言明する。いずれも注文に応じて即座に情死を承知する位の第一義を挑発しようと努めているのであります。
 もっとも中には「情夫があったら添わしてやろう」式に恐ろしく大きく世話に砕けたのもあります。しかしこれは相手の第一義式の性愛が望まれないために、思い切ってその第二義第三義以下の愛に対する期待までも捨ててしまって、性愛とは方面違いの人類愛的精神状態に入ったものと見るべきであります。しかも普通の場合に於ては、わざとそういう気前を見せて、せめて相手の深い感謝の念だけでもつなぎ止めようという、一種の未練や負け惜しみから来ております。又は周囲に対するテレ隠しや、相手に対する面当つらあてなどの意味も含まれていない事は無いと考えられます。すくなくともこの言葉が第一義式性愛から出たものでない事は、こうした種類の黒焼の元祖、大星由良之助氏も承知の前であったであろう事を疑い得ないのであります。
 要するにこの種の男性は、自分の第二義第三義以下の性愛を以てしても、相手の女性に求むるところのものは、常にその第一義の性愛であります。そのためには自分の愛が、第一義もしくはそれ以上に高潮したものである事を、相手の女性のそれぞれに対してふんだんに示さなければなりませぬ。男性の本心はそこに大きな空虚を感じない訳には行かないのであります。
 この空虚が鼻の表現に顕われて、その実意のある無しを証明するのであります。
 仮令たとえその相手が貞操の切り売りをする女性であっても、多少に拘らず本心に眼ざめる力を持っている限り、又は世間というものに対して幾分でも眼醒め得る理智的の力を持っている限り、この種の鼻の表現に対する感得力は持っているものであります。仮令それが惚れたはれたの真只中まっただなか、浮いた浮いたの真最中でも、相手の女性はこの感得力だけは別にチャンと取っておいて、暗黙の裡に男性の心理状態を研究し続けているものであります。
 殊にこの傾向は、意地で世間を振り切ったというような、一種緊張した境地を歩む女性、又は男に飽き果てたという極度の濁りから出た、一種の澄み切った気分を楽しむ婦人、あるいは又全く何にも知らぬポッとした女性に最も甚だしいのであります。こんなのになると金にあかし、望みに明かしてもうんと云わない。「殺す」とおどしても、勝手にしろと鼻であしらうようなのすら見受けられるのであります。
 ここまで来ると鼻の表現の価値の神聖無上さは実に天地の富にも換え難い位で、女性は只男性の鼻の表現のために生きていると云っても差支えないのであります。
「何の二千石君と寝よ」という凄いのが出て来るのもこの理由からであります。
身体からだは売っても心は売らぬ」という篦棒べらぼうなのが出て来るのもこの意義からであります。
 ここに到っては如何なる悪魔式表現も倒退三千里――七里ケッパイの外ないのであります。

     記憶と鼻
       ――悪魔式鼻の表現(十二)

 人間に記憶というものが存在する限り、如何に古い出来事でも必ずその鼻の表現に影響を与えずにはかぬ。同時に人間に鼻というものが存在する限り、その誠意の有無、虚実の程度は証明されずに済まぬ。鼻の使命はそこに在るという事は、ここまで鼻の表現を研究して来られた方が信じて疑われぬところであろう事を信じて疑いませぬ。
 然るに一般の人々はこんな事を夢にも気付きませぬ。すべての人は他人に見られさえしなければ、どんな悪い事をしてもわからぬものと考えておられるようであります。もっと端的に云えば、世間では腹の悪いものがかちだという意見の方が昔から勝を占めているようであります。
 これは至極もっともな話であります。
 少くとも現在の社会では心からの正直者が大抵の場合、損をしているように見えます。それと同時に現在偉くなっている人々は、大抵他人を見殺しにしたり、又は他人の精神上や物質上の損害を自分の出世の犠牲にして知らぬ顔をする事の上手な人ばかりであるように見受けられます。だから俺もそうしないと損だというように考えられているようで、男のなぞは小説などを読み得る年頃になると、ボツボツこんな迷いを起こす。そうして三十か四十になると、吾が児の純な鼻の表現を見て、
「まだ世間知らずだなあ」
 なぞと悲観するという。悪魔式鼻の表現研究者の卵は、こうして人間到る処に孵化ふかしつつあるのであります。
 これを防止するためには「鼻の表現」の価値と権威とを宣伝するのが一番の近道であります。大きな鼻の絶頂に意志や感情を象徴した五色の旗を立てたポスターなぞは、最も眼新しくて面白かろうとさえ考えられる位であります。いずれにしてもその人間の腹の底にあるものは必ず鼻の表現に現われるのであるという事を、出来るだけ深く明らかに全世界の人類に知らせるのが何より急務であろうと考えられます。
 善因善果、悪因悪果、悔い改めよの、心を入れ換えよの、やれ神罰の、仏罰の、天の怒り地のたたり、親罰、子罰、嬶罰かかあばちのと、四方八方からの威し文句の宣伝ビラが昔から到る処ふりかれておりますが、近頃の人間はとんと相手にしなくなりました。あたかも往来のちり同様、ハイカラ風の吹き散らすに任せ、文化の雨がタタキ流すに任せております。
 しかし鼻の表現ばかりはそうは行かぬ。「天に口なし、鼻を以て云わしむる」という事を覿面てきめんに証拠立てるものであるという事が、もし本当に人類全体にわかったらどうでしょう。今云っている言葉、今やっている表現が、本当に心から出たのであるかどうかという事を即座に判決する裁判官が、自分の顔の真中に控えているという事が真実に一般に自覚されたらどうでしょう。
「そんな事があるものか」と笑う人の鼻の表現にはきっと負けおしみの色が動いているものであるという事が判明したら、そもそもどんな事になるでありましょうか。
 鼻の無い方が世間に何人おられるか存じませぬが、そんな方はお気の毒ですからここではイジメませぬ。さもない限りすべての鼻の持主は、正に人類文化の大革命、表現界の大恐慌として狼狽されるに違いありませぬ。

     鼻と文化生活
       ――悪魔式鼻の表現(十三)

 悪魔式鼻の表現の弱点をここ迄えぐり付けて来ますと、きっと次のように反対論者が世界中から攻撃の矢を向けるに違いありません。

鼻の表現は人の心をアケスケに見せるという事はよくわかった。それが又人類文化向上の原動力だという理屈もよくわかった。しかしこの道理を人類全体が自覚したとしたら変な事になってしまいはしないか。
第一自分の鼻がそんな物騒なものだとわかったら、うっかり口も利けなくなる。人類文化の改良どころか社会生活の破滅になりはしないか。
たった一度しか買わぬのに「毎度有難う」と云う商売人、又かと思ういやなお客に「ホントニお久し振りね」と云う芸者、「貴国の軍備縮小に満腔の敬意を払う」と云う外交官、「とんだ御不幸で」と駈け付ける新聞記者、その他到る処の御世辞や御愛嬌は片っ端からフン詰まりになって、人間到る処、篦棒とブッキラ棒のたたき合いになってしまう。そうなれば人類文化の運のつきではないか。これを以てこれを見れば、鼻の表現の研究宣伝は不可能である。可能であっても不賛成である。

 ……と……。
 ……まことに事理明白な次第でありますが、幸か不幸かこの御心配は御無用である事を、横町よこちょうの黒犬と竪町たてちょうの白犬とが往来の真中で証明してくれるのであります。
 横町の黒犬と竪町の白犬とは初めて曲り角で出会うや否や、俄然がぜんとして態度を緊張させます。ソロソロと近寄って、ウンウンと嗅ぎ合ってその同性同志である事がわかる……何等の利害関係のない赤の他犬である事が判明すると、憤然として鼻に皺を寄せます。やおら白い眼と白い牙をむいて「何だ貴様は」という表現をします。甚だしきに到っては、何等の理由なしに大怒号大叫喚の修羅のちまたを演出したりします。
 これは畜生同志が初めて出会った時の心理状態を有りのままに見せた表現でありますが、遺憾ながら万物の霊長たる人間にも、この性質を発見する事が出来るのであります。子供ならば、学校が違ったり部落が違ったりすると、ただ訳もなく睨み合います。大人になってもこの心理作用はなかなか消え失せないので、電車の中や汽車の中、その他到る処にこの気分の発露を見受けられますようで……尤も理由なしに咬み合いは始めませんが、一寸足でも踏むか横っ腹でも突くと、何だこの野郎、失敬な奴だという気持になります。甚だしいのになると、それをきっかけに電車の二三台位は訳なく止めるような事になるので、その云い草や理屈が如何に文化的であっても、要するに野蛮時代から潜在的に遺伝して来た動物性の暴露である事は疑いを容れませぬ。
 ですから……これでは人類の共同的文化生活は永久に覚束おぼつかない……とあって発明されたのが儀礼とかお世辞とかいう奴であります。さすがに吾々の祖先は万物の霊長だけあって、途中で出会うたんびに一々尻を嗅ぎまわってイガミ合っていては、手数が大変だという事を直ぐに覚ったのでありましょう。
 そこで「ウヌが人間ならオレも人間だ。向うへ行きたけりゃ手前の方からよけて通れ」という鼻の表現をやわらげて、「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「御免遊ばせ」「失礼を」で行き違います。奇特な人は他家のお葬いにでも帽子を脱ぐといった塩梅あんばい式になります。
 これを以てこれを見れば、礼儀作法とか御愛嬌や御挨拶なぞというものは、共同生活の本義から割り出された四海同胞主義、それからまた煎じ出された博愛の精神を標準目標として出来たものと考えられます。商売上の掛引にせよ何にせよ、相手に好感を与えねばならぬという人類共通の本心から出たものである事は間違いないようであります。
 同時に精神上から見ても物質上から云っても、世間はだんだん実質本位になって来ます。お世辞でも中味のある方がいい。礼式でも無駄なのは廃してしまえというので、精神上物質上充実されたものでなければ人が相手にしなくなるのは当り前であります。
 これが次第に拡充されて来ると、当世流行の人類愛迄漕ぎつけます。赤の他人にでも奉仕する。知らぬ人間でも尊敬をする。何人なんびとも欺し得ず、何ものも傷付け得ぬところまで行き付くのであります。つまり現在の人間がやっているおべっかやお追従ついしょうは、人間が動物から進化して純愛の一大団結たるべき下稽古――霊的文化の世界を組織すべき手習いをやっているものと見るが至当でありましょう。
 鼻の表現研究の主目標は、ここにあるのであります。
 この光明に達し得る最上の近道が、鼻の表現の研究に外ならないのであります。
「イヤアどうも。一度是非お伺いしなければならぬとはいつも考えながら、ついどうも」
 という鼻の表現の内容が如何に充実していないものであるかという事は、本人自身もよくわかっている筈であります。
「アラチョイト。旦那にはどこかでお眼にかかったようだわ。わたしこんや嬉しいわ」
 という鼻の表現が如何に三十円に値せぬかは、通人ならぬ御客様でも一眼でおわかりの事と存じます。
「お蔭様で助かります」
 という仏面ほとけづらと、
「抵当が欲しけりゃ持って行け」
 という閻魔面えんまづらとのどちらにも、横着を極めた鼻の表現が共通して存在している事は誰しも認め得るところでありましょう。
 鼻の表現はこうして常にその誠意の有無を裏書して、相手の警戒心を挑発します。「嘘から出たまこと」でも「真事まことから出たウソ」でもそのままソックリ写し出して、鼻の表現の邪道の研究範囲を狭くして行きます。三千年前から聖人が心配していた世道人心が、今日迄も案外すたれ切らないのは、ひとえにこの鼻の表現の御蔭ではありますまいかと考えられる位であります。
 親の罪を引き受けて「私が致しました」というしおらしい孝子の鼻の表現と、自分の罪を他人になすり付けて「一向に存じませぬ」としらを切る悪党の済まし切った鼻の表現は、どうしても違わなければなりませぬ。同時にあらゆる証拠が揃っていながら「冤罪むじつだな」と名奉行が心付き、又はなんの証拠もなくて反証ばかりあがっていながらテッキリ此奴こやつと名判官が睨むのは、その無私公明、青空止水の如き心鏡に、被告人の鼻の表現がありありと映ったものに違いありませぬ。
 かようにして鼻の表現は、人間に記憶力なるものが存在する限り法律上の罪悪をも映し出すので、こうなると現代の証拠裁判なぞいうものは甚だ不確ふたしかなものとなります。指紋などの研究よりも何よりも、先ず鼻の表現の研究の方が刻下の急務ではあるまいかと考えられる位であります。
 かようにして法律上の罪悪、又は道徳上の汚行は、その犯行者本人の鼻の表現に依って呪われて行くのであります。この境界を超脱した純正純美なる鼻の表現の持ち主こそ真の紳士、真の淑女と呼ばるべき人々で、人類文化生活の共同的向上は、このような人々に依ってこそ達成せらるべきであります。学識財産、身分の高下、服装の如何等に依ってこの尊号を奉る事が人類堕落の原因である事は説明する迄もないのであります。

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