馬鹿囃子
――鼻の動的表現(四)
昔から認められている「鼻の表現」の数々をここまで研究して参りますと、どうしても問題にしない訳に参りませぬのは、「おかめ」と「ヒョットコ」と「天狗」のお面であります。
いずれも子供衆のお相手位のもので、真面目腐って研究するのは馬鹿馬鹿しいようでありますが、お伽噺の中に人生の大問題が含まれているように、この三通りのお面にもなかなか容易ならぬ意味が含まれているのであります。
これ等のお面の表現の中心になっておりまする三様の鼻の表現は、人間の性格を三つの方面に分解して、その一つ一つの方面を芸術的に誇張された鼻の表現に依って代表させたものと見るのが最も早わかりで面白くて、しかも意味が深長なようであります。
「天狗」はその才能、通力なぞいうものに対する極度の誇りを、その素破らしく高い鼻に依って表明しております。そうして鼻以外の処は眼を怒らし歯を噛みしめ顎鬚を翻して、
「何が来ても恐れ入らないぞ、何を持って来ても満足を与えないぞ、おれ様がどんなに豪いか知らないのか」
と、虚勢を張った表現をしております。
「おかめ」はこれと正反対に、普通以下に低いその鼻の形でそんなプライドが少しもない心を見せております。同時にその眼は細く波打ち口はすぼまり頬ペタは笑くぼを高やかに盛り上げて、
「すっかり満足致しておりまする。何もかも勿体ない位面白くておかしい事ばかり。只もう嬉しくて嬉しくて」
という表現を作っております。その表現はそのチョッピリとした鼻の背景として、そうした気分を弥が上にも引っ立てているかのように見えます。「おかめ」の一名をお多福というのは、こうして現在のすべてに満足している気持ちを云ったものと推察されるようであります。
畢竟するところ、この二つの鼻の表現は人間の性格の両方向の行き詰りで、「天狗」は極度の増長と高慢を――又「おかめ」は極度の謙遜と無知無能とを表現しているのであります。
然るに「ヒョットコ」となると、その高慢も謙遜もありませぬ。全く明け放しの鼻の表現をしております。
すべてに対して驚いております、不思議がっております、ビクビクしております、うろたえております、ヒョットコヒョットコしております。只色気を見せる鼻毛と、喰毛を見せる口だけが並外れて長いという、つまり極度に文化程度の低下した無知無能な性格を表わしております。地方に依りまして「ヒョットコ」の一名を「モグラ」というのは、土から顔を出して眼をパチクリさせるなり慌ててもとの土にもぐり込む※鼠[#「鼠+(偃-イ)」、482-17]の鼻の表現に似た表現だからではありますまいか。
この三種の仮面はかようにして、いずれもその思い切り誇張された鼻の形に依って、一時的もしくは永久的に現われる人間の性格の三つの傾向を代表させております。
この三種類の鼻の表現が代表する人間の性格の三つの傾向は、大きく云うと人類の文化――小さく云えば個人の性格と非常に深い関係があるのであります。即ち人間の性格は、この三つの中どちらに傾いてもその向上発展は望まれなくなるのであります。その代りこの三つのお面が自覚さえすれば直に進歩発達の道に入ることが出来るのであります。「天狗」の自慢が消え、「おかめ」の無知無能が眼覚め、「ヒョットコ」がその色気と喰気から救われるのであります。
この三つの傾向を自覚というものに依って取り纏めて行くところに人間の性格の向上進展があるので、この三種類の鼻の表現を取り合わせて人間らしい高さと恰好に加減して行くところに、鼻の表現の根本原理が含まれているのではないかと考えられます。その証拠には人間が無自覚であればあるだけこんな鼻の表現に陥り易い。同様に国家や民族がこの三つの傾向のうちのどれかに囚われた時、その国家や民族の運命は下り坂となるのであります。
こんな風に観察して参りますと、この三つのお面が活躍する「お神楽」というものは、鼻の表現によって象徴された無自覚な性格の分解踊りとも見られるようであります。同時に馬鹿囃子という音曲の名前も、まことにふさわしいものとなって来るのであります。
かの三つの鼻の表現が、この馬鹿囃子に連れて動きまわる。極めて低級な芸術的価値しかない伝統的な踊りをおどる。そのつまらない単調子さのうちにどことなく騒々しいような、淋しいような――面白いような、自烈度いような気がする。人生の或る基調に触れて人の心をひきつけるようなところがある。
……実は永遠に無自覚な人類生活の悲哀を「鼻の表現」と「馬鹿囃子」に依って象徴した最も哲学的な舞踊劇である、人生もしくは宇宙その物の諷刺である……という事を、舞っているものも見ている人も、知らずにいるのではあるまいかと考えられて来るのであります。
本来無表現
――鼻の動的表現(五)
この他古今の文献、詩歌小説、演劇講談、落語俗謡、その他の言語文章、絵画彫刻なぞいうもの、又は外国語等にも亘って調べましたならば、随分沢山の鼻の表現が現われて来るであろうと想像されます。しかし以上述べましただけでも「鼻の表現」は存在するものである、就中その動的表現は意想外に夥しいもので、しかも顔面の表現の中で最も偉大な役割を勤めているものであるという事があらかた御諒解出来たであろう事を信じます。
しかし或る一部にはまだこの鼻の表現について疑いを有しておられる方が無いとも限りませぬ。
「それはそんな気がするだけで、コジ付けと云えば云われぬ事もないが」
と考えられる方がおられる事と思います。これはかような方面にあまり興味を持たれぬ方々の云い草でありましょうが、同時に「表現」とか「表情」とかいう方面に特殊の注意を払っておられる人々はかような疑問を挿まれはしまいかと推測されるのであります。
「鼻の表現というのは一種の錯覚に過ぎぬ。顔面の他の部分の表現が鼻を中心として飛び違うために、その十字線が丁度鼻の上に結ばって一種の錯覚を起すものである。強ちに鼻ばかりが本心の動き方を表現し得るものでない。寧ろ鼻というものは舞台の中心に置かれた作り物と見るべきが至当で、その場面の表現は他の役者が遣るからその作り物にも意義が出て来るのと同じわけのものではないか」
この二つの疑問や反駁は詰るところ同じ意味で、誠に御尤も至極な理屈と申し上げなければなりませぬ。
事実上鼻はヒクヒクと動いたり、時々赤くなったり白けたりする外何等の変化も見えませぬ。
仮りに「鼻の表現というものがあると云うから一つ正体を見届けてやろう」という篤志家があって、他人と向い合った時なぞに相手の鼻ばかりをギョロギョロと見詰めておられたとします。生憎な事にはそんな場合に限ってかどうかわかりませぬが、とにかく相手の鼻は何等の表現を見せませぬ。色や形を微塵もかえませぬ。
これに反して眼や口や眉は盛んに活躍します。その表現はその変化の刹那刹那に悉く鼻を中心として焦点を結んで、こちらの顔に飛びかかって来るように思われます。
しかし鼻はそんな場合でも吾不関焉と済ましております。まるで嵐の中に在る鉄筋コンクリートの建築物のようで、只風景の中心の締りにだけなっているかの観があります。意志のお天気の変り工合や感情の風雲なぞの動き工合で色や形の感じが違って行くように見えるだけであります。
……矢っ張り鼻には動的の表現は無い……変化の出来ないものに表現力のあろう筈がない
……あっても他動的で自動的ではないにきまっている……
という事になります。
この観察は悉く中っているのであります。鼻は本来自動的には極めて単純な表現力しか持たない……本来無表情と見られても差し支えない事を鼻自身も直に肯定するに吝なるものでないと信じられるのであります。
ところがその本来無表現を自認している鼻が、その本来無表現をそのままにあらゆる自動的表現をするから奇妙であります。有意識無意識のあらゆる方面に於ける内的実在もしくはその変化を、如何なる繊細深遠な範囲程度迄も自在に表現し得るから不思議であります。
人間のあらゆる表現を受け持つ顔の舞台面に於て眉や眼や唇なぞが受け持つ役は実に無限と云ってもよろしい程であります。しかしその中にはどうしても鼻でなければ受け持ち得ない役が又どの位あるか判らないのであります。鼻が登場しなければ眼や口がいくら騒いでも象徴し躍動せしめ得ない表現が、矢張り無限と言ってもいい位にあるのであります。
手近い例を挙げましても今までに出て来た……
……鼻をうごめかす……
……鼻にかける……
……鼻じろむ……
……鼻であしらう……
……鼻っ張りが強い……
……鼻毛が長い……
というような感じの中一つでも眼や口に出来るのがありましょうか。
眼尻を下げても鼻毛はよまれぬ人が沢山にあります。腮が突張っているのは受け身に強い表現で、働きかけの烈しい鼻っ張りとは場面が違います。鼻であしらうのと腮でしゃくるのとは、初対面の軽蔑と旧対面の傲慢程感じが相違しております。眉をひそめて唇を震わしただけでは「鼻じろむ」の感じは出せませぬ。殊に自慢高慢に到っては、鼻にかけてうごめかすより他にかけてうごめかし処が無いのであります。これ等の事実を考え合わされましたならば、鼻の表現の可能不可能問題は自ら解決されるであろうと考えられます。
鼻の審判
――鼻の動的表現(六)
時は紀元前千二百三十四年、埃及はナイル河の上空に天地の神々が寄り集って、物々しい光景を呈しました。これはこの時に死亡しました埃及王ダメス二世の鼻の裁判が開かれるためでありました。
埃及国の慣わしと致しまして、人間は死にますとすぐに神の法廷に召されて審判を受けます。即ちその心臓を秤にかけられて罪の軽重を秤られ、罪無き者は神と合し、罪の軽いものは禽獣草木に生れ換り、悪業の深い者は魔神のために喰ってしまわれる事になっておりました。
ダメス王はその統治する埃及国に於きまして、世界最初の文化の真盛りの時代を作った名王でありました。従ってその鼻の高さは世界最初のレコードを見せておりましたために、特別に天地の諸神の注意を惹きまして、扨こそかような御念入り裁判が開かれたものと察せられました。
その時の裁判の情景は、その法廷の記録係タータというものに依って詳細に記録されて今日に伝えられております。これに依って見ますと、鼻の表現的使命は、既に紀元前一千二百余年前に於て明確に決定されているのであります。
タータの記録した象形文字は、次のごとく訳されております。
……………………………………………………
正面中央の高座、白雲黒雲の帳の中には、太陽を象徴した天地諸神の主神ホリシス神が、風雨雷電の神を従えて座を構えておる様子であります。
その左右中段には四十二人の判官が、笏形の杖を持って整然と着席しております。
下段右側には動的表現界の代表者、犢、犬、猫、鷹、甲虫、鰐、紅鶴等の神々が列座し、左側には静的表現界の代表者、月、星、山、川、木、草、石等の神々が居流れております。
その中央に黄金の鼻輪に繋がれて引き出されたのが、今日の被告ダメス王の鼻で、その背後には同じ王の眉と眼と口と耳とが証人として出廷着座しております。
ダメス王の鼻の前には一基の天秤がありまして、豹の頭を持ったマスピス神が鼻の罪量を計るべく跪き、その直ぐうしろには記録係タータが矢立てを持って、眼を瞠り耳を澄まして突立っております。その又うしろには頭が鰐、身体が獅子、尻は河馬という奇怪な姿の魔神ラマムが、罪の決定し次第に鼻を喰べさせてもらおうと待ち構えております。
これ等はすべて、この空前絶後の鼻の裁判開始前の光景であります。
やがて正面上段の白雲黒雲の帳が開かれますと、水晶の玉座の上に朝の雲、夕の雲、五色七彩の袖眼も眩く、虹霓の後光鮮かにホリシス神が出現しまして、赫燿たる顔色に遍く法廷を白昼の如く照し出します。同時に正面中央の二名の判官が立ち上って、「鼻の裁判開廷の理由書」を同音に読み上げます。
「被告ダメス王の鼻は、王の顔面の静的動的両表現界の中央に位し、王の存命中傲然として何等の動的表現をなさむ。王の眼、眉、口等が無量の動的表現を以て王の知徳を国民に知らしむべく努力したるにも拘らず、国民の尊信は悉く王の鼻にのみ集中せり。その状恰も王のすべての表現の功を奪えるに似たり。凡そ無為徒食して他の功労を奪う者は重罪者たるべき事、神則人法共に知るところなり。依ってこの裁判を開き、ダメス王の鼻の罪の有無を諸神の批判に措き、ホリシス神の御名に依って処断せむと欲するものなり」
読み終った判官の一人は厳然としてダメス王の鼻に問いました。
「被告ダメス王の鼻よ、汝に於て弁疏せむと欲するところあれば速に述べよ」
ダメス王の鼻は面倒臭そうに唯一言、
「弁疏無し」
と答えました。
この態度を見た満廷の諸神は、皆驚きの評を発しました。今まで死後の裁判に引き出されて、怖れ戦きつつ自分の善行を陳べ立てぬものは只の一人も無かったのであります。既に木乃伊にされたダメス王自身でさえも、一平民と同様に法廷の甃にひれ伏した位でありました。然るにその鼻ばかりが王の生前の威儀を保ち、神々を恐れる気ぶりも見せぬという事は、実に前代未聞の事であったからであります。
顔を見合わせた判官たちは、次々に立ってダメス王の鼻の訊問を初めました。
問…被告ダメス王の鼻よ、汝は汝自身に静的と動的の両表現界のいずれに属するものと信ずるや。
答…予は両表現界の代表者なり。
問…王の眼、口、眉等は王の生前、各独立してその固有の動的表現をなし得たり。汝は独立して何等かの表現をなし得たる記憶ありや。
答…無し。
問…被告ダメス王の鼻よ。汝は汝自身に非ざればなし得ざる表現として他に認められたるものありや。
答…無限にあり。
問…そは他の顔面表現係の補助を受けてなし得たるものに非ざるなきか。
答…記憶せず。
問…この事に就いて考えたる事なきや。
答…考えてなし得る表現は尽く虚偽なり。生命は刻々に流転す。予はその真実を知るのみ。
問…知りしのみにて表現はせざりしか。
答…記憶せず。
問…王の眼、口等は王の命に依ってその敵手たるキタ人、エチオピア人、アッシリア人、リビア人、又はその愛する女性等に対し屡虚偽の表現をなせり。而して屡その虚偽なる事を看破されたり。王の本心を知り得る汝は窃にこれを表現したる事なきや。
答…記憶せず。
問…然からば汝は如何なる能力を自信して王の表現のすべての代表者なりと云うか。
答…予はダメス王の鼻なり。
問…王の動作もしくは静的表現の成果のすべてを盗みしに非ざるか。
答…知ってこれを代表せしのみ。
問…ダメス王は汝が王のすべてを知れる事を知れりや。
答…知らず。
問…何故に知らざるか。
答…自惚れのために。
問…汝の知り且つ代表せる範囲とは、王自身の有意識界、無意識界、動的表現界、静的表現界のすべてを意味するか。
答…それ以上。
問…王の生前死後の総てを含むか。
答…それ以上。
問…王を中心とする自界他界、宇宙万有、地獄天堂の過去現在未来までもか。
答…それ以上。
問…叱! 汝はホリシス神の御前にある事を忘れたるか。
答…ホリシス神が予の前に在るを知るのみ。
問…咄! 然らば汝は神なるか。
答…人間の鼻なり。
問…汝の答弁は尽くその真なる事をホリシス神に誓い得るか。
答…誓うに及ばず。
問…言語道断! 何故に。
答…ダメス王の鼻、神の鼻に非ず。
独立不羈、神を神とも思わず、ダメス王の鼻はこうして遂に神の法廷を威圧して終いました。その答弁は一つ一つに諸神を驚かすばかりでありました。真実か虚偽か、本気か冗談か、平気か狂気か、イカサマ師か怪物か、そうして有罪か無罪か判断に苦しむ大胆さ、しかも生前の主人ダメス王の真価値は勿論、神の権威の軽重までも計りそうな意気組を示しております。
只ホリシス神の御機嫌のみは益麗しいと見えまして、その顔色は益晴れやかに輝き渡りました。
これに力を得た判官の一人は立ち上って、眉と眼と口と耳の四人の証人に向って、鼻の言葉の真実であるか否やを問いました。然るに驚くべし、眉は最前から逆立ちをしております。同様に眼は色が変り果てております。口は顋が外れたと見えまして開きっ放しになっております。耳は大熱に浮かされて火のように赤く燃え上っております。今まで友達と思っていた鼻が、生前の温柔さにも似ず余りに無法な方言をするのに驚かされて、巻き添いを喰いはしまいかという極度の恐怖から、かように正気を失ったものと察せられました。命に依って現われた法廷の掃除人、蟻の神は四人の証人をそのままにダメス王の木乃伊の寝棺に返してしまいました。
判官は仕方なしに仮りに鼻の答弁を真実と認めて、これに依って検事と弁護士とに罪の有無を論争させる事にしました。
権威と使命
――鼻の動的表現(七)
検事の役目を承わった動的表現界の代表者、犢の神は鼻息荒く立ち上って、劈頭左の如く論じ出しました。
「被告ダメス王の鼻には動的表現があったと認めなければなりませぬ。動的表現界に於ける詐欺行為者と認める訳には参りませぬ。ダメス王の鼻は王の生前に於て眼や口その他の動的表現係より受けたる恩義に酬ゆるために王の死後、『動的表現をなしたる記憶無し』と主張している者である事を先程よりの答弁の中に充分に認める事が出来たのであります」
この言葉は又法廷の全部をどよめかすに充分でありました。検事が真先に被告の無罪を主張するという事も空前絶後の一つに数えられたからであります。しかも後半の議論に依って、犢の神が果してダメス王の鼻の弁護をしているものか、していないものかがわからなくなってしまいました。これこそ世界最初の詭弁ではあるまいかと、益一同の耳を引っ立てさせたのであります。
「ダメス王の鼻の無罪を主張する理由は、左の三ヶ条に尽きております。
第一には、王の鼻が何等かの理由無しに王の顔の真中に存在する筈がないのであります。眼や口なぞいう動的表現役者の真中に取り囲まれながら、悠然として静的表現を守っていられる筈はない。矢張り何等かの動的表現の使命を持っているものと認められなければなりません。
第二には、鼻という言葉を用いなければ説明の出来ない表現が沢山に存在する事であります。便宜上だけでもよろしい。鼻という文字を使わなければ受け取れない表現の形容が頗る多いので、どうしても鼻の動的表現を認めなければならぬ事になるのであります。
第三には、錯覚でも何でもよろしい、鼻というものの動的表現の可能性を認めなければ、社会風教上その他万事につけて不都合なのであります。すべての鼻に絶対に動的表現が無いとすると、眼や口だけで表わしている意志や感情、性格なぞが全然虚偽であっても、その虚偽である事が永久に判明しないで済む事になるのであります。どんな悪心を蔵している奴でも顔付がニコニコしている以上、その悪人である事が永久に露顕しないで終る事が無いとも限りませぬ。ダメス王の虚偽の表現は、その鼻に依って裏切られていたものと認めた方が、神の戒め、人の恐れとして誠に結構な実例を残すことになるのであります。さもない限り世間は虚偽の表現のみに埋め尽されて、世道人心は忽ちに腐敗し去るのであります。神は地上に何等の神的表現を見せませぬ。けれども下界の人間は、天体地上の万象を悉く神として尊信しております。さらに恐れ多い事ながら、それ等のすべての主宰として、これ等のすべてを知ろし召す唯一神の神的御在位をも信じ奉っているのであります。況んやこの明知赫燿たる神の法廷に於て、ダメス王のすべてを知っている鼻が、その有意識界無意識界の変化に対して、何等かの表現能力を持っている事を認め得られない筈はありませぬ」
果せる哉、検事の論告は、矢張り検事の役目に背いたものでありませんでした。この三ヶ条の議論は表面上、鼻の動的表現能力存在の可能性を極力主張しているようでありますが、よく考えて見ると左様でないのでありました。いくら鼻が動的表現に埋もれていても、何ぼ形容詞が沢山にあっても、何程都合がよくっても、又は鼻が神様と同格のものであるとしても、眼や口と同じような表現を鼻に押しつけるのは無理であるという事を、深く深く認めさせようという議論の立て方でありました。
「動的表現界に於ける鼻の詐欺行為」は、こうして尽く肯定本料に依って埋めつくされそうに見えました。
この巧妙なる論告に対して静的表現界の代表者、月の神は立上りました。冷やかな態度でかような弁護をしました。
「私は鼻の動的表現を認める事が出来ませぬ。最前の審問に於て、ダメス王の鼻は――記憶せず――と云い抜けて、暗にその無能力を認めております。
すべて動的表現をするものは、色か形か何かを動かしていなければなりませぬ。波を切りわけて行く船の舳は、動的表現をしていなければなりませぬ。嵐の前に黒ずんで行く海も同様であります。船も海も生命があります。動的表現は悉く生命を持っているものでなければ出来ないのであります。
色も形もかえ得ないものは、総て静的表現しか持たないものと考えなければなりませぬ。死物と同様に見なければなりませぬ。牛の鼻も人間の鼻もこの意味に於て死物同様であります。静的表現ばかりしか持ちませぬ。
ダメス王の鼻も同様でなければなりませぬ。王の鼻の表現は、死んでも生きても何等の変化も無い筈であります。色彩を施された王の木像の鼻とすこしも変りが無い筈であります。仮令ダメス王の鼻が、その生前に於て眼に止まらぬ位の僅かな変化で、その本人や性格を極めて微弱に表わしておったとしても、眼に見えぬ変化が人に感動を与える筈はありませぬ。鼻の動的表現は悉く錯覚であります。ダメス王の鼻は、王の顔面に築かれたピラミッドに過ぎませぬ」
この強い、そうして静かな議論は、その一言一句が悉く生と死――動と静の反語ばかりで成り立っている事を並いる神々に認めさせました。同時に鼻は生き物である、神秘世界の産物である、鼻の動的表現は理屈では認められぬ、ただ事実上にのみ存在し得るという事を深く深くうなずかせました。
法廷のそこここに溜息の評が洩れました。月の神はさらに議論を続けました。
「但し、これだけの事実は認められます。ダメス王の鼻が王自身の表現界の王であった事は、恰もダメス王が埃及国の王であったと同様でありました。王の顔面の表現機関は王の鼻の左右大臣であり、その他の全身各部の表現作用は、その召使であり奴隷でありました。しかしこれ等の事実は、そのままに動的表現が不可能である事を証明していたのであります。王の鼻はこれ等の表現の補助を受けなければ、何等の動的表現もなし得なかったのであります。そうしてこれ等の補助機関が細かに動き得れば得る程、王の鼻の表現は殖えて行ったのであります。
ダメス王の鼻は、王の意志、感情、性格、その他王自身に就て、王の知らない事共までも存じていると申します。しかし、知っているということは、表現し得るという事ではありませぬ。
王の鼻は、その知っている事、感じている事をその臣下たる動的表現係の各大臣に申し付けて表現させました。そうして自分自身の表現であるかの如くに装いました。眼や口には出来ぬ、鼻でなくては到底ここまで深く現わし得ぬものと見られていた表現でも、それは王の鼻が他の表現機関を巧に使い別けて、二重三重の表現をさせて、その表現の中心に結ばった感じを自分の表現と見せかけたものであります。人々はこれ等はすべてを王の鼻の表現と認めまして、これに嘆服し、これを崇拝しました。しかし実は王の鼻は、何等の表現をもしないのでありました。只顔の真中の王座に反り返っているのでありました。
王の顔面の総ての表現が、その鼻の表現と認められていた事、恰も埃及国内のすべての出来事が王の責任と認められていた如くでありました。王の全身の表現が、その鼻に依って代表されて他人に受け渡しをされていた事、恰も埃及国の全権が、ダメス王に依って掌握され、ダメス王の名に依って他国と批准交換されていた如くでありました。しかも王は太平楽の裡に無為徒食しておりました。
王の鼻が総ての表現を代表する事が出来たのは、その鼻自身が無表現だからでありました。
王の鼻の動的表現の可能性は、その絶対不動のところにあったのであります。
すべて動的活社会の統一的代表者は、不動的人格の所有者でなければなりませぬ。
同様に動的表現の支配的象徴者は、不動的表現の具有物でなければなりませぬ。
ダメス王の王座はこの如くにして、埃及の国家組織の中心に自ら胚胎した事でありました。
王の鼻の座もこの如くにして、王の顔面の中央に天然自然と開設されたものに相違ありませぬ。
王の鼻の動的表現が無から有を生じた事は、かようにして遺憾なく証明されるのであります。その動的表現の存在はかようにして否定され得るのであります。
その間に何等の不可思議もありませぬ。
何等の予質もありませぬ。
人間の知識では驚異に値するかも知れませぬ。しかし神の国に於いては、不可解の存在は許されませぬ。予質の神秘は認められませぬ」
月の神はかようにしてダメス王の鼻の動的表現能力を絶対に否定して、席に着きました。同時に並居る諸神は悉く絶対に、鼻の動的表現能力を認め得たのでありました。そうしてこの時、月の神と犢の神とが人知れず顔を見合わせてニッコリと笑いました。これを気付いていたのは只記録係タータの神ばかりでありました。
ここに於て四十二名の判官は別室に退いて、一つの判決文を作りました。そうして再び打ち揃って着席の上、中央の二名が立ち上って同音に読み上げました。
「ダメス王は無為徒食せるが故に国家の罪人とは認められざりき。王の鼻も又何等の動的表現を有せざりしという理由のもとに、動的表現界の罪人として認めらるべきものに非ず。その表現界統一の功績は、埃及に於けるダメス王の沿蹟と等しく万人の敬仰礼讃を受くべきものに属す」
次いで鼻はその黄金の鼻輪を除かれまして、正面の天秤の一方に載せられました。マスピス神はその反対の秤に、誠実を表す鳥の羽根を載せて罪の軽重を計量しましたが、左右の秤は物の見事に平均して、今の判決の真実である事を証明しました。
ダメス王の鼻は、ロルス神に導かれて正面の上段、ホリシス神の御前に進み寄りました。ホリシス神はこれを掌の上に招き載せて一同に見せながら、玉音朗かに宣言をされました。
「鼻は人間の神である。人界の動静両表現界を主宰させるために余が代理として遣わしたものである。
独立不動と不羈の向上――は余が秘密に授けた鼻の使命であった。
ダメス王の鼻が、この使命を最もよく発揮して、ここに人類界最高の記録を破り得た事を嘉する。さらにその死後に於ける裁判に於ても、この本領を空前絶後にまで発揮し得た事を嘉する。
人類の文化は最早絶頂に達した。最早鼻の神秘は破れて差し支えない時が来た。ダメス王の鼻に依って月の神と犢の神がこれを破った。ダメス王の鼻以前にダメス王の鼻無く、ダメス王の鼻以後にダメス王の鼻は無いのである。
ダメス王の鼻は、魔神ラマムに与えらるべきものでない。
余――ホリシスに与えらるべきものである」
と云ううちにホリシス神はダメス王の鼻を口に入れてムシャムシャと喰ってしまいました。
最前から秤の傍に待っていたラマムはこの様子を見ると、ベロベロと舌なめずりをしながら他の鼻を探しに暗黒世界に去りました。
満廷の諸神は開いた口が塞がりませんでした。
……………………………………………………
これは三千年前の神の裁判の判決でありますが、これを二十一世紀の今日に於ける鼻の表現の実際に徴して見ると、どんな事になるでありましょうか。
無意識の表現
――鼻の動的表現(八)
三千年前の「タータの記録」に依りますと、鼻は絶対不動という事になっておりますが、今日では多少動いたり色が変ったりする鼻も珍らしくないようであります。これはタータの記録があまりに哲学的に論じてあるためか、又は今日の人類がそれだけに進化したためか、どちらかでなければなりませぬ。
しかしいずれにしましても、鼻が独力を以て動的表現をなし得ない事は先ず事実と認めて差し支えありますまい。鼻がたった一人で如何に色を換え、形を換え、手を変え品をかえて見ても、結局それは何を意味しているのか判然しませぬ。眼だけが細く波打って笑いを見せ、口だけがへの字になって怒りを見せるのとは同日の論でないのであります。
しかし同時に鼻が些しでも鼻以外の表現能力の補助を受けると、直ちに驚くべき表現力を発揮し得る事は、事実が証明しているのであります。さながら竜の水を得たるが如く、又は虎の山に凭れるが如く無辺際に亘って活躍して、鼻以外の表現能力が発揮し得ない範囲にまでも遠く深く及ぶものであります。
ここに於て鼻の表現能力は如何なる哲学、如何なる宗教、如何なる芸術も解決し得ない不可思議その者となって来るのであります。
永久に解決出来ない神秘で、しかも眼前にある明白な事実となって来るのであります。
所詮、鼻は表現界中央の重鎮……表現界のドミナントであります。
偉い人はたった一人でいる時は、宿賃の工面は愚か車の後押も出来ません。しかるにこれにいったん有意有能な同志や乾児がくっつくと、無限不動の裡にその同志や乾児の総ての能力以上の価値を示す事が出来るのであります。又鼻は、顔面表現の舞台面に於ける千両役者とも見る事が出来るのであります。
……御注進御注進、一大事一大事……ナ、何事じゃ……と慌てふためく動的はした役者よりも、舞台の真中に神色自若としている千両役者の方が、はるかに深い感動を見物に与えるようなものであります。
鼻は云わずして云う者以上に云い、泣かずして泣く者以上に泣き、笑わずして笑う者以上に笑い、怒らずして怒る者以上に怒る好個の千両役者であります。
同時に鼻は、他の動的表現係がいくら騒いでいる場合でも、その騒ぎが本物でない限り一切これに関係しない。却ってその騒ぎの裡面の真相を、不変不動の中に発表して行くという英雄的真面目さを持っているのであります。
眼が表す悲しみや怒り、口が示す喜びや悲しみ、そんな通り一遍、一目瞭然の表現は、鼻には無いと云ってもいい位であります。
鼻の表現はもっと深刻であります。
もっと真率であります。
もっとデリケートであります。
それだけに有意識的に相手に認められ難い。
それだけに無意識的に相手に深い感銘を与えるのであります。
眼や口がその人間の感情や意志を現わして相手の感情を刺激するものならば、鼻はその魂を表して相手の魂に感じさせるものであります。世に云う以心伝心という事は、鼻の存在に依ってその可能性を裏書きされると云っても決して過言ではあるまいと考えられます。
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