鼻と諦め
――鼻の静的表現(三)
以上は人体に於ける鼻の位置、高低、恰好等から見た鼻の表現の研究でありますが、この種の表現は元来固定的且つ先天的なもので、人間の力で変化させる事は先ず出来ないものとなっております。蓮切鼻の人は死ぬまで蓮切鼻でいる。希臘型のを授かった人は睡っている間も希臘型というのが原則として認められております。
そのために又ここに一つの鼻の表現に対して大きな誤解を持っている人が頗る多い事になって来ております。
即ち鼻は絶対に静的なもので、眼や口なぞのように動的な表現力は全然持っていない。耳と同様に一種の飾りに過ぎぬものと昔から認められている事であります。逆に云えば、人間の意志や感情又は性格なぞいうものは何の影響をも鼻に与え得ないという事になります。
これは一般の人々ばかりではありませぬ。かなり進んだ頭を持った芸術家でも同様であります。芝居のお化粧なぞを見ましても鼻の動的表現の方は初めから問題にしないで、只鼻の恰好に現われる感じばかりを活かすべく苦心されてあるように見えます。
喜怒色に現わさずという事をすべての修養の根本、社交の第一義とまでに尊重して来た東洋の人々を相手とする芸術家の間に「鼻の動的表現」が問題とならぬのは、無理からぬと云えば云えぬ理由もあります。しかしこれと反対に表情を極度に誇張しようと努めている西洋の芸術家や婦人達の間にも「鼻の動的表現」、言葉を換えて云えば「鼻の表情」とでもいうべきものが独立して研究されたという事を未だ嘗て一度も承わった事が無いのであります。
活動やお芝居なぞを見ておりましても一層この感じを深く裏書きされるのであります。世界を挙げて人類は鼻の表現を一切打ち忘れて、鼻以外の表現法ばかりを研究しているものときめかかって差し支えないようであります。
大袈裟なところでは眉が逆立ちをしたり、眼が宙釣りになったり、口が反りくり返ったりします。デリケートなところでは唇がふるえたり、眼尻に漣が流れたり、眉がそっと近寄ったりします。その他頬がふくれたり、顳がビクビクしたり、歯がガッシガッシしたりする。しまいには赤い舌までが飛び出して、上唇や下唇をなめずりまわし、又はペロリと長く垂れ下ったりします。
その上に足の踏み方、手の動かし方、肩のゆすぶり方、腰のひねり方、又はお尻の振り方なぞいう、顔面表現の動的背景ともいうべき大道具までが参加して、縦横無尽千変万化、殆ど無限ともいうべき各種の表現を行って着々と成果を挙げているのであります。
然るにその中央のお眼通り正座に控えた鼻ばかりはいつも無でいるようであります。只のっそりぼんやりとかしこまったり、胡坐をかいたり、寝ころんだりしております。精々奮発したところで暑い時に汗をかいたり、寒い時に赤くなったりする位の静的表現しか出来ない。たまに動的表現が出来たかと思うと、それは美味しいにおいを嗅ぎ付けてヒコ付いたのであったなぞいう次第であります。どちらにしても恐ろしく低級な、殆ど無いと云ってもいい位な表現力しか持たぬものとして、人類の大部分に諦められているようであります。
その中でもこの鼻の表現力に対する女性たちの諦め方は、特にお気の毒とも何とも申し上げようが無い位であります。
容色の美醜は特に鼻の静的表現、即ち鼻の恰好に依って大変な違いが出来て来ますので、鼻に動的の表現が無い限りどうにも誤魔化しようが無いのであります。然るに天はなかなかこの鼻を思う通りの美的条件に合わせて生み付けてくれませぬので、たった鼻一つで売れ口の遅れるような実例が方々に出来て来るのであります。このような女性は毎日鏡を見るたんびに、遺伝という学問を編み出した学者を呪ったり、自分の鼻に似た恰好の鼻を持っている肉親の方を怨んだりしておられます。又は白粉の濃淡や頬紅の掛け引きなんぞでせめて正面から見た感じなりと誤魔化そうと、明け暮れどれ位苦心惨憺しておられるか知れませぬ。
隆鼻術は、こんな方々のこんな心理状態が社会に鬱積して生み出した医道の副産物であります。もしこれが百発百中粉細工のように人間の鼻を改造し得る迄に発達致しましたならば、それこそ副産物どころでない、仁術中の仁術と推賞しても差し支えないであろうと考えられます。
動的表現能力
――鼻の動的表現(一)
これを要するに、眼や口と同様に数限りない表現が鼻にも存在するということを、確信を以て断言し得る人はあまりあるまいと考えられます。
しかし又それと同時に、鼻というものは絶対に動的表現の能力を持たぬものと断定し得る人もあまり沢山はありますまい。つまるところ、あると云えばあるような、無いと思えばないような位のところが最も常識的な考え方であろうと思われます。
ところでそれはそれでいいとして、もしこの鼻の動的表現、即ち「鼻の表情」と名付けられるものが実際に於て絶対に無いものとしたらどんな事になるでしょうか。
怒った鼻を持った人はどんなに柔和な表情をして見せても、鼻だけはいつも顔の真中でこれを裏切って「怪しからん奴だ」という感じを相手に与えるもの……又貧相な鼻の人は如何に脂切った景気のいい人相をしていても内実はいつもピイピイ風車と他人に見られるものと思い諦めている人がもしあったとしたら、その鼻は如何に呪わしいものでありましょうか。
これに反して鼻の表情なるものがもし存在するとなりましたならば、そんな人にとっては実に天来の福音として歓迎されるに違いありません。
同時に女神像のような恰好の好い鼻やエジプト犬のようなとおった鼻すじを持っていて、自分の鼻はいつも大得意で鏡を覗いている時の通りの感じを他人にも与えているものと信じていた人々にとっては、この「鼻の表現」の存在は実に青天の霹靂とも言うべき不安と脅威とを齎すものでなければなりませぬ。
鼻にも表情がある。
美しい鼻でも心掛けようでは醜く見える。見っともない恰好の鼻でも了簡一つでは美しい感じを他人に与える。うっかり出来ないと思われるに違いありませぬ。
さらに一歩を進めて、この鼻なるものは断じてそんな表現界の死物ではない。又は中風病みか鉛毒に罹った役者位にしか顔の舞台面の表現に役に立たぬものではない。他の眼や口なぞいう動的役者以上に多くの表現をそれ等以上に深刻に表現するものである。顔面表現の大立物である。
しかも顔面表現のみならず、その人の全身の表現と深厚なる関係を持っているものである。もしこの鼻の表現と鼻以外のすべての表情とが一致しない時は、その人の表現は全然失敗となる。その人の表情は尽くその純な美しさを失って決して相手に徹底せぬ。
もし又この鼻の表現を自由に支配して他の各部の表現と一致共鳴させる事が出来たならば、二重、三重、否、数重の意味を同時に表現することが出来る。芸術的の表現の場合なぞは殊にそうで、この技術を体得した人は千古の名優と称して差し支えない。又この事実を認めぬ時は如何に表情が巧みであっても後代に感銘を残す程の役者には絶対になり得ないものである事がわかったら、どんな事になるでしょうか。
更に更に一歩を進めて、この鼻の表現を研究し練磨し修養をするということが人生終極の目的と一致するものである。大は歴史の推移転変から小は個人同士の離合集散まで、殆どこの「鼻の表現」に依って影響され支配されぬものは無いときまったら、そもそもどんな騒ぎが持上るでしょうか。
鼻に表情があるということすら信じ得ない程に常識の勝った人々には、とてもこんな事は信ぜられますまい。要するに一種の詭弁か又は思い違いの深入りしたものに過ぎぬ。邪宗信者の感話位のねうちしか無い話である。現代の文明社会に生きて行く人々又は芸術家なぞが真剣に頭を突込むべき問題でない。肩の表現すら西洋人に及ばぬ日本人が「鼻の表現」なぞ云い出すのは、一種の負け惜しみか山っ子ではないか位にしか考えられぬであろうと考えられます。
古人の研究
――鼻の動的表現(二)
鼻の表現の存在、表現の方法、及びその価値に就いての研究応用、及びその影響は昔から鼻が閊える程存在している事は前に申述べた通りであります。
その権威は厳として宇宙に磅し、その光輝は燦として天地を照破し、その美徳は杳として万生を薫化しております。唯これ等の事実が無意識の裡に認められて、無意識の裡に行われておりまするために、今日鼻の表現なる言葉を標示する事が、甚だ事新しい奇異な感じをそそるに過ぎないのであります。
事実上鼻の表現なるものに就いて真正面から堂々と論じてある例はあまり見当らないようであります。
しかしそれでも鼻という文字や言葉を使って鼻の表現の存在、方法、価値なぞいうものを端的に裏書してある実例はかなり発見する事が出来るのであります。
劈頭第一に掲げなければならぬのは、能楽喜多流の『舞い方及び作法の概要』と名づくる心得書の中に示されてある「鼻の表現」に関する一齣であります。
既に人が舞台に立って舞いを舞うという場合にその姿勢をどうしたら乱さずに保てるか、その眼や口の表現は如何なる心の落ち着きに依って正しく発露する事が出来るかという事から芸道の活き死にを説明してある中で「鼻」という項にこんな事が書いてあります。
鼻は不動のものなれば心するに及ばざる如くなれども、鼻うごめかすと俗にも云ふ如く心の色何となく此処に映るものなり、心に慢りある時の如き最もよく鼻にて知らるゝものなれば意を止む可し(下略)
この能楽というものはその開祖以来代々の名人が受け継いでは演練し、演練しては研究して些しずつ改良を加えつつ次の代に残して行ったもので、つまり時代とか流行とかを超越した民衆最高の芸術的良心を対象物として永久に亘って完成に近付けて行かるべき民族的芸術だそうであります。それゆえにこれに就いて云い残された言葉は、いずれも数代を隔てて現出した名人たちが如何にもとうなずき合ったものばかり、一寸手軽く云っている一句でも、よく穿鑿して見ると非常に深遠重大な意義を含んでいるのだそうであります。
鼻の表現に就いての心得もその通りで、これだけの言葉のうちに代々の舞台上の聖人の惨憺たる研鑽の結果が籠められている事は申すまでもないのであります。
「心の色が鼻にうつる」
という事は取りも直さず鼻の表現の事であります。ここで成る程と早くも膝を打たれる人はやがてこの「心」と「鼻」とが如何に密接な「表現の関係」を持っているかという事を、如々実々に了解されるお方であります。
第一今の「鼻うごめかす」という事は、内心大得意の場合に「どうだ、おれはえらいだろう」という気持から鼻をうそうそさせる、又は「オホン」とか「ウフン」とかいう気分が鼻の頭の処に浮き出して来る事を云うので、別嬪の奥様御同伴の時、競技で勝った場合、試験に及第した時、わけても芸自慢の方が舞台に立たれる時なぞによく見受けられる表現であります。
勿論この際その鼻の色合いや恰好は別にどうといって変化する訳ではありませぬ。眼や口とても格別鼻の表現に加勢をする訳ではないので、只チンと済ましてニッコリともしないのであります。そのままにこの気分がどことなく鼻の頭に浮き出して来るので、
「心の色が鼻にうつる」
とは如何にもよくこの間の兼ね合いを云い現わしてあると、今更に感心させられるのであります。さらに、
「心の底の慢りが最もよく鼻に現われる」
という事は、本来この鼻の静的表現の中に自己の存在的価値を代表する意味がある。もしくは前に掲げました一説「人類文化向上のプライドを標示したいという内的刺激に依って出来た」という「鼻の進化論」なぞと関連しているように思われる。即ち鼻柱出現の第一の使命がその辺にあるために、こうした気分が動もすれば高潮して表現され易いのではないかと考え合わされまして、古人の研究の微妙さ又は鼻の表現研究の面白さに思わず一膝進めたくなる位であります。
意志、感情、性格
――鼻の動的表現(三)
しかし「鼻の表現」の実例はなかなかこれ位のものではありませぬ。小説、講談、文芸物、その他普通世間に云い伝えられていながら、鼻の表現としてはっきりと認められていない文句や言葉だけでもかなりの数に達するのであります。
「鼻にかける」という表現は、前の「鼻うごめかす」というのと同じような心理状態から出て来るものであります。「天下の色男は吾輩で御座い」なぞいうのがそれであります。持参金付きのお嫁さんなぞにもよくこの気持が出ているものだそうで、そのほか身分、容色、家柄なぞ、何でも本人の腹にあるものがこの気持ちの根拠地となるものらしく見受けられます。
「お天狗――鼻高々」なぞいうのは、この気持ちが今一層高潮して現われた場合の形容詞で、鼻が高かろうが低かろうがそんな事は些しもこの気持ちの表現に影響しませぬ。
これに反して「鼻じろむ」というのは、強敵にぶつかって「到底叶わぬ」と気が付いたり、又は物の見事にしくじったりした場合なぞに心の底の悲観や落胆が鼻に現われたもので、何だか鼻の頭の油の気や毒気がスーッと抜けて行くような気がするものだそうであります。
古い文章なぞに「鼻うちかむ」という言葉があります。これは何かに非道く感激同情した涙ぐましい鼻の表現を形容したものらしく思われます。涙というものは沢山に出ると涙管から吸い込まれて鼻の方へ抜けて来るものだそうで、その辺からこんな言葉が出たものかも知れませぬ。お芝居で孝行者に同情した近所の者なぞは矢鱈に鼻をこすり上げます。又忠臣を手討ちにする殿様やそれを憐れむ奥方なぞがそっと鼻の下に手を当てます。つまりこうしてこうした舞台上の鼻の表現を補けるためではないかと考えられます。
「鼻であしらう」というのは頗る簡短明瞭で、相手を頭から相手にしない軽蔑し切った表現を云ったものでありましょう。
「鼻つき合い」というのは、これが両方からブツカッてスパークを発した場合で、局外者から見るとハラハラするような、面白いような表現を双方から見せ合っているものであります。
「鼻につく」という言葉は、始めのうちは珍らしさに紛れていた臭味がだんだんとわかって来てうんざりした、嫌になった、飽き飽きしたという、多少前の「鼻白む」というのと似通ったような表現であります。これが極端になると普通の嫌なものに出合った時と同様に「鼻をしかめる」、もっと高潮すると「鼻をそむける」なぞいう表現にかわります。又同じような表現で「鼻をつまむ」というのは臭いという意味から転化したもので、「鼻もちならぬ」という表現に手の表現を添えたものであります。尚「鼻つまみ」というのは、主として人物に対してのみ用いられる形容詞で鼻の表現ではありませぬが、鼻の表現から転化したものである事はいう迄もありませぬ。
尚これは少々コジ付けの嫌いがありますが、「鼻ぐすり」という言葉があります。この種の薬を用いるのに何も特別に鼻という文字を担ぎ出さなくともよさそうに思われるのでありますが、実はしっかりした拠り処があるのであります。
つまり相手が兼ねてから見せていた「不賛成」とか「怪しからん」という不快な鼻の表情が、このお薬を用いると遠からずか忽ちにかボヤケてしまって、曖昧な表現にかわります。トドのつまり、まあ考えて見ようから「止むを得ぬ」程度までに変化して終うから、かように名前をつけたものと推察されるのであります。つまりこの薬が如何に相手の感情に利いて、その鼻の表現に如何に芽出度い変化を及ぼすかという事が、無意識の中に一般に認められているからでありましょう。
以上は主として感情から来た鼻の表現の中で昔から言い慣らわして来た言葉を拾い出したものでありますが、またこの他に刹那的又は半永久的もしくは永久的に現われる意志や性格又はそれ等のすべてを綜合した鼻の表現として認められているものも些くないのであります。「鼻を明ける」とか「鼻を明けてくれる」とかいう言葉なぞはその代表的なものの一つで、一方の決然たる意志を示すと共に、相手方の高慢チキな鼻の表現が引くり返って「アッケラカン」と空虚になった鼻の表現を期待した言葉であります。
「鼻を折る」とか「折られる」とかいうのもこれと同様の意味で、こちらの「どうするか見ろ」とかかって行く意気組と共に、先方の同じような突張り返った鼻の表現がタタキ落とされるかヘシ曲げられるかして、「もう堪忍」とか「無念」とかいうセンチメンタルな表現になるのを形容した言葉であります。
「鼻息が荒い」というのは、決して凹まないという猛烈な意気組が鼻の先に横溢して、意志や感情の風雨雷電をはためかしているのを鼻息になぞらえたものでありましょう。
「鼻っ張りが強い」という言葉は、「五分も引かぬ」「理が非でも勝つ」という意志が鼻っ柱に充実している場合を指す事は明らかであります。見様に依ってはこの表現が如何なる場合にも連続して発揮されるため、その本人の性格の象徴として認められているものとも考えられるのであります。
「鼻息を殺す」という形容詞も同様に鼻の表現の一つとして認められ得るのであります。これは「息を凝らす」とか「詰める」とかいう言葉の代りに用いられるので、それよりももっと緊張した感じを見せる表現として認められているようであります。即ち「息を殺す」という方は他人の武術や運動の勝敗なぞを見る時に主として用いられるようでありますが、「鼻息を殺す」という気分は直接自分に利害関係のある問題に対して現わす事が多いようであります。つまり形勢奈何とか様子如何にというような場合に自分の意志、感情、妄想なぞいうものをピタリと押え付けた気持ちを云ったものであります。かようするとその気持ちは平生とはまるで違って、眼はあらゆる注意力を奥深く輝かせ、口はあらゆる意志を一文字に啣え込む。耳はすべての響に対して底の底まで澄み渡る。同時に鼻の頭のすべての表現は八方に消え失せて、只無暗に強く深く冴え渡った緊張味だけが全身の気組を代表して残っているという事になるのであります。
泥棒や掏摸、刑事、巡査、その他の司法官又は武術家、運動家なぞの鼻の頭には、この気分がコビリ付いてふだんに緊張した表現を見せているのがあります。
「鼻息を窺う」というのもこれに似た気分であります。但しこれは相手が人間であって、しかも自分よりも上手に対して「鼻息を殺した」場合の形容詞と認めて差し支えありません。
自分の鼻の表現を一切引き締めて、相手の気分の虚実に乗じてやろう、弱味があったらつけ込もう、強味があったら受け流そう、笑ったら笑ってやろう、泣いたら泣いてやろう、そうして相手を動かしてやろうというので、前に述べました「鼻ぐすり」の代りに掛け引き一つで行こうとする極めて徳用向きな――同時に千番に一番の兼ね合迄に緊張した鼻の表現であります。
この表現を高潮させるには、先ず自分の性格、意志、感情なぞと同時に阿吽の呼吸までも相手にわからぬようにソーッと殺して終うので、この辺は自分の「鼻息を窺っ」ているようにも見えます。同時に無意識にせよ有意識にせよ、相手の鼻の表現に対して極めて刹那的且つ連続的な注意力と理解力とを同時に集中して働かせていなければなりませぬ。それ程さようにデリケートな、そして或る一面から見れば暗い感じを持った鼻の表現で、時勢が進むに連れまして生存競争に打ち勝とうとするものは何人も是非共この表現の方法を一応は心得ていなければならぬものだそうでございます。
主として性格を表わす分では、前に挙げました「鼻つまみ」の外にもっと主観的な形容の方では「鼻下長」とか「鼻毛が長い」という言葉もあります。もあります位ではない、随分と方々で承わるようであります。
御知合いの中においでになるかも知れませぬが、お美しい夫人を持たれて内心恐悦がっておられるお方や、すこし渋皮の剥けた異性さえ見れば直ぐにデレリボーッとなられる各位の鼻の表現を指したもので、何も必ずしも具体的に鼻の下や鼻毛が長いという意味ではありません。唯そうした方々のそういったような心理状態を鼻が表現しているために、こういったような形容詞を用いたものらしく考えられるのであります。
その証拠には事実上の鼻下長の方でも、随分鼻の下や鼻毛の切り詰まった方が多いのであります。これに反して鼻の下がレッテルの落ちたビール瓶のようにのろりとしていたり、鼻毛が埃を珠数つなぎにする程長かったりする人でも、猛烈に奥様を虐待される方があります。
つまり異性に対して恍惚としていられる方の気持はともかくもダレていて、天下泰平ノンビリフンナリしているところがあります。そのために鼻の付近に緊張味が無くなって、鼻の穴が縦に伸びて中の鼻毛でも見えそうな気分を示すので、これは誠に是非も無い鼻の表現と申し上ぐべきでありましょう。
「鼻毛をよむ」というのは、こうした鼻の表現と相対性を持った言葉であります。但し鼻という言葉が使ってはありますが鼻の表現とは認めにくいので、先ず鼻の表現の副産物といった位の格でありましょう。ただその態度のうちに相手をすっかり馬鹿にし切って鼻毛までも数え得るという冷静さと同時に、上っ面だけは甘ったれたのんびりした気分から鼻毛でも勘定して見ようかという閑日月が出て来る。その気持ちを代表した睡そうな薄笑いがそうした場合の女性の鼻の表現に上ってはいまいかと想像し得る位の事であります。
これに反して純然たる性格を代表した鼻の表現の批評に「意地悪根性の鼻まがり、ぬかるみ辷ってツンのめろ」という俚謡があります。「ぬかるみ辷って」云々は余計な言葉のようでありますが、実は左様でないので、相手があまり嵩にかかって意地悪を発揮して来る、こちらを圧倒すべく鼻がイヤに下を向いて折れ曲って来るような感じを与える、此奴がツンノメッテヒシャゲてしまったら嘸いい心持ちであろうという心を唄ったもので、小供が大人にいじめられて安全地帯まで逃げ出した時なぞによくこんな事を云ってはやし立てているのを見受けます。
「鼻がつまったような奴」という形容詞は一寸珍らしく感ぜられるかも知れませぬが、あるにはあります。これも前のと同様に純然たる性格の表現で、一寸当世向きしないような感じを与えるものであります。
相手が茫々たる無感覚でちっとも鼻の表現をしない、時々腹の底で薄笑いしているようにも見える、この方を馬鹿にしているようにも見えるし尊敬しているようにも見える、わかったのやらわからぬのやら賛成やら不賛成やらサッパリ判然せぬ、大人物やら小人物やら大馬鹿やら大利口やらそれすら見当が付かない、無意味か有意味か知らず、ただ空しく有耶無耶としているもののように見える場合に云うので、極端にえらい人やえらくない人、大人物を装うものや負け惜しみの強い卑怯者、又はいくらか頭のわるい人の鼻によく現われるニューッとした表現であります。
蓄膿症や鼻加答児なぞで鼻の中が始終グズグズして、判断力や決断力の鈍った人なぞにも多く見受けられるようであります。
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