「いいや失敬する。安閑と君等の尻拭いを研究している隙はない。……何よりも気の毒なのは死んだ二人の芸者だ。林友吉や、お互いの災難は一種の自業自得に過ぎないが、芸妓となるとそうは行かん。何も知らないのに巻添えを喰わされたばかりじゃない。面倒臭いといって沖に放り出されて鯖の餌食にされたんだから、気の毒も可愛想も通り越している。君等には関係のない事かも知れんが、これから行って大いに弔問してやらなくちゃならん。……もっとも今更、線香を附けてやったって成仏出来まいとは思うがね。ハッハッハッハッハッ……」
といった調子で、今まで溜まっていた毒気を一度に吹っかけながら退場してくれた。……ハハハハ。イヤ。痛快だったよ。何の事はない役人連中、蚊を突っついて藪を出した形になった。おまけにアトから聞いてみると、当日来なかった連中の中の十人ばかりが風邪を引いて、宿屋に寝ていたというのだから吾輩イヨイヨ溜飲を下げたもんだよ。
とはいうものの……白状するが吾輩は、そのアトから直ぐに有志連中が調停に来るものと思って、実は手具脛を引いて待っていたもんだ。……来やがったらドウセ破れカブレの刷毛序でだ。思い切り向う脛を掻っ払ってくれようと思って、一週間ばかり心待ちに待っていたがトウトウ来ない。可怪しいと思って様子を探っていると、これも慌てて海に飛び込んだ頭株の四五人が、ヒドイ風邪を引いて寝てしまった。しかも、その中の一人は急性肺炎……モウ一人は心臓麻痺でポックリ死んでしまったので、それやこそ……死んだ友吉の祟りだ。友吉風友吉風というので何ともない奴までオゾ毛を慄って蒲団を引っ冠っているという……実に滑稽なお話だが、とにかくソレくらい恐ろしかったんだね。友吉たるもの以て瞑すべしだろう。……もっとも一方から考えてみると有志連中は懲役に行っても職業を首にされる心配はない。だから役人連中に泣き付かれない限り調停に立つ必要もない。又、泣き付かれたにしたところが、二度と吾輩を丸め込む見込みはない……というないないの三拍子が揃っているんだから、知らん顔をして寝ていたんだろう。……但新聞社には遺憾なく手を廻わしたものと見えて、一行も書かなかった。だから結局、死んだ奴が死に損という事になった訳だ。
不人情なものさね。
しかし真剣なところが「友吉風邪」ぐらいの事で癒える吾輩の腹ではなかった。
芸者や友吉は成仏しても、吾輩が成仏出来ない。吾輩が観念しても五十万人の怨みを如何せんだ。……ドウするか見ろ……というので事件の翌る日から毎日事務所に立て籠もって向う鉢巻でこの報告書を書き初めたもんだが、サテ取りかかってみるとナカナカ容易でない。演説の方なら十時間でも一気呵成だが、文章となると考えばかりが先走って困るんだ。おまけに唯一の参考書類兼活字引ともいうべき友吉おやじが居ないんだからね。ヤタラに興奮するばかりで紙数がチットも捗どらない。
その間に有志連中の方では如才なく事を運んだらしい。吾輩との妥協を絶望と見て取って暗々裡に事件を揉み消すと同時に、同じような手段でもって総督府の誰かを動かしたものと見える。吾輩の本官を首にした上に、各道で好意的に手続きをしていた組合費の徴収をピッタリと停止してしまった。実に陰険、悪辣な報復手段だ。山内さんが生きて御座ったらコンナ事にはならないんだがね。せめてもの便りになる、藁塚産業部長までも中風で、郷里の青森県に寝て御座るんだから吾輩、陸に上った河童も同然だった。もっとも恩給を停止されなかったのが、せめてもの拾い物だったかも知れないが……ハッハッ……。
そこで吾輩は断然思い切ってこの絶影島の一角にこの一軒屋を建てて自炊生活を初めた。妻子を持たない吾輩にとっては格別の苦労じゃないからね。ここで本腰を入れて報告を書く決心をしたもんだが、書けば書くほど、朝鮮官吏の植民地根性が癪に障って来る。同時にこの素晴らしい爆薬の取次網を蔽うべく、内地、朝鮮の有力者連中が、如何に非国家的な黒幕を張り廻わしているかが、アリアリと吾輩の眼底に映じて来た。友吉おやじの云い遺した言葉が、マザマザと耳に響いて来て、ペンを持つ手がブルブルと震え出すようになった。……そうだよ。或は酒精中毒から来た一種の神経衰弱かも知れないがね。しまいにはボンヤリしてしまって、ワケのワカラナイ泪ばかりがボロボロ落ちて来るんだ。コンナ事ではいけないと思って、焦せれば焦せるほど筆がいう事を聞かなくなるんだ。呑兵衛老医も心配して、
「そいつは立派な動脈硬化じゃ。萎縮腎も一所に来ているようじゃ。漢法に書痙という奴があるがアンタのは酒痙じゃろう。今に杯が持たれぬようになるよ。ハハハハ。とにかく暫く書くのを止めた方が宜え。そうなるとイヨイヨ気が急くのが病気の特徴じゃが、そこで無理をしよると脳髄の血管がパンクする虞れがある。そうなったら万事休すじゃ。拙者もアンマリ飲みに来んようにしよう」
といったアンバイで、気の毒そうに威かしやがるんだ。
そこで吾輩も殆んど筆を投ぜざるを得なくなった。刀折れ、矢竭きた形だね。
……蒼天蒼天……吾輩の一生もこのまんま泣き寝入りになるのか。回天の事業、独力を奈何せん……と人知れず哀号を唱えているところへ又、天なる哉、命なる哉と来た。……彼の林青年……友吉の忰の友太郎が今年の盂蘭盆の十二日の晩に、ヒョッコリと帰って来たのには胆を潰したよ。
ちょうどその十二日の正午過ぎの事だった。友吉の大好物だった虎鰒を、絶壁の下から投上げてくれた漁師があったからね。今の呑兵衛老医と、非番だった慶北丸の来島運転士を、その漁師に言伝て呼寄せると、この縁側で月を相手に一杯やりながら、心ばかりの弔意を表しているところだった。何とかカンとか云っているうちに呑兵衛ドクトルもずるずるべったりに座り込んだ訳だ。
むろん話といったら外にない。友吉おやじで持ち切りだ。
「結局、友吉おやじは諦めるとしても、あの忰の友太郎だけは惜しかったですね」
と来島が暗涙を浮かめて云った。
「……ウン。吾輩も諦らめ切れん。あの時に櫓柄へヘバリ付いていた肉の一片をウッカリ洗い落してしまったが、あれは多分、友太郎のだったかも知れない。今思い出しても涙が出るよ」
呑兵衛ドクトルも眼を赤くして関羽鬚をしごいた。
「……ハハア……それは惜しい事じゃったなあ。あの子供の親孝心には拙者も泣かされたものじゃったが……その肉を拙者がアルコール漬にして保存しておきたかったナ。広瀬中佐の肉のアルコール漬がどこぞに保存して在るという話じゃが……ちょうど忠孝の対照になるからのう……」
「飛んでもない。役人に見せたら忠と不忠の対照でさあ。僕を社会主義者と間違える位ですからね……ハハハハ……」
「ウン……間違えたと云やあ思い出すが、吾輩に一つ面目ない話があるんだ。あんまり面目ないから今まで誰にも話さずにいたんだが……ホラ……吾輩と君とで慶北丸の横ッ腹を修繕してしまうと、君は直ぐに綱にブラ下ってデッキに引返したろう。吾輩は沖の水舟を拾うべく、抜手を切って泳ぎ出した……あの時の話なんだ。実際、この五十余年間にあの時ぐらい、ミジメな心理状態に陥った事はなかったよ」
「……ヘエ。溺れかかったんですか」
「……馬鹿な……溺れかかった位なら、まだ立派な話だがね……」
「……ヘエッ。どうしたんですか……」
「……その小舟に泳ぎ付く途中で、何だか判然らないものが水の中から、イキナリ吾輩の左足にカジリ付いたんだ。ピリピリと痛いくらいにね」
「……ヘエ。何ですかそれは……」
「何だかサッパリわからなかったが、ちょうどアノ辺に鱶の寄る時候だったからね。ここへ来たら大変だぞ……と泳ぎながら考えている矢先だったもんだから仰天したよ。咄嗟の間にソレだと思って狼狽したらしい。ガブリと潮水を呑まされながら、死に物狂いに蹴放して、無我夢中で舟に這い上ると、ヤット落付いてホッとしたもんだが……」
「……結局……何でしたか……それあ……」
「……ウン。それから釜山の事務所に帰って、銭湯に飛込むと、何か知らピリピリと足に泌みるようだから、おかしいなと思い思い、上框の燈火の下に来てよく見ると……どうだ。その左の足首の処に女の髪が二三本、喰い込むようにシッカリと巻き付いて、シクリシクリと痛んでいるじゃないか……しかも、そいつを抓み取ろうとしても、肉に喰い込んでいてナカナカ取れない。……吾輩、思わずゾッとして胸がドキンドキンとしたもんだよ。多分、水面下でお陀仏になりかけていた芸者の髪の毛だったろうと思うんだが、今思い出しても妙な気持になる。……女という奴は元来、吾輩の苦手なんだがね。ハハハハ……」
といったような懐旧談で、頻りに悽愴がってシンミリしている鼻の先へ、庭先の月見草の中から、白い朝鮮服を着て、長い煙管を持った奴がノッソリと現われて来たもんだ。
三人はその時にハッとさせられたようだった。しかし、そのうちに長い煙管が眼に付くと、
……ナアンダ朝鮮公か……コンナ処まで浮かれて来るなんて呑気な奴も在るもんだ。アッチへ行け。何も無い何も無い。
というので手を振って見せたが動かない。そのうちに気が付いて見るとそれが擬いもない友太郎だったのにはギョッとさせられたよ。噂をすれば影どころじゃない。テッキリ幽霊……と思ったらしい。三人が三人とも坐り直したもんだ。
……ハハハ……ナアニ。聞いて見たら不思議でも何でもないんだ。
何よりも先に××沖で例の一件を遣付けた時の話だが……慶北丸に引かれた小船で、沖へ揺られて行く途中で早くも親父の顔を見て取った友太郎がハッとしたものだそうだ。そこでもしやと思って親父の図星を刺してみると果して「その通りだ。モウ勘弁ならん」と冷笑している。……これはいけない。こうなったら取返しの附かない親父だと思うには思ったが、何ぼ何でも吾輩の一身が案じられたもんだから一生懸命に親父の無鉄砲を諫めにかかったが……モウ駄目だった。
「……ナアニ。心配するな。轟先生の泳ぎは神伝流の免許取りだから一所に沈む気遣いはない。アトで拾い上げて大急ぎで釜山に帰るんだ。そのうちに先生を説伏せて組合の巡邏船、鶏林丸に食糧と油を積んで、その夜の中にズラカッてしまう。真直に露領沿海州へ抜けて俺の知っている海岸で冬籠りの準備をする。春になったら砂金採りだ。誰も寄り付けない絶壁の滝壺の中に一パイ溜まっているのを、お前と二人で見た事が在るだろう。……あすこへ行くんだ……あの瀑布の上の方を爆薬でブチ壊して閉塞いでしまえばモウこっちのもんだ。儲かるぜそれあ……轟先生は元来、正直過ぎるからイカン。役人の居る処はドウセイ性に合わん事を御存じないんだ。あんな人を一生貧乏さしといては相済まん。……朝鮮はモウ嫌じゃ嫌じゃ。西比利亜が取れたら沿海州へ行くと口癖に云うて御座ったから、コレ位、宜え機会はない。モウ西比利亜には日本軍がワンワン這入っとるから喜んで御座るにきまっとる……それでも嫌なら今の中に貴様もデッキに上っとれ。……俺が一人で遣っ付けてくれる。轟先生の演説ぐらいで正気附く野郎等じゃない……」
という見幕だったのでトテも歯の立てようがなかった。しかし、それでも折角の先生の苦心がこれで打切りになるのか……親父の一代もコレ切りになるのか……といったような事を色々考えているうちに胸が一パイになってしまった。
ところが虫が知らせたのであろう。そう思っているうちにその言葉が遺言になってしまった。自分も一所に海へタタキ込まれてしまったが、間もなく正気に帰ってみると、水船の舷側にヘバリ付いてブカブカ遣っていることがわかった……ちょうど向側だったから甲板の上から見えなかったんだね。おまけにどこにも怪我一つしたような感じがしない。
そこでコンナ処に居ては険呑だと気が付いたから、出来るだけ深く水の底を潜って、慶北丸の左舷の艙口から機関室に潜り込んだ。そこいらに干して在った菜ッ葉服を着込んで、原油と粉炭を顔に塗付けると知らん顔をしてポンプに掛かっていたが、混雑のサナカだったから誰にもわからなかった。スレ違った来島にも気付かれないで、無事に釜山へ帰り着いた……そこで又、吾輩の処へ帰ったら物騒だと考えたから、そのままドン仲間に紛れ込んで、海上を流浪する事十箇月……その片手間に親の讐敵だというので、潜行爆薬の抜け道を探るべく、あらん限りの冒険をこころみていたが、お蔭で字が読めるようになっていた上に、朝鮮語と、柳河語と、東京弁が自由自在に利いたので非常に便利な事が多かった。
すると又そのうちに吾輩がタッタ一人で、淋しい絶影島の離れ家に引込んだ話を風の便りに聞いたので、これには何か仔細が在りそうだ。まだ帰るにはチット早いが、ソーッと様子を見てやろうと思って、一番お得意の朝鮮人に化けて帰って来てみると、なつかしい三人の声が聞こえて来る。それが一つ残らずあの世から聞いているような話ばかりなのでタマラなくなってここへ出て来ました。こうなったら、愈々先生と死生を共にするばかりです。朝鮮人に化けていたら一所に居ても大丈夫でしょう。親父と同様に使って下さい。ドンナ事でも致しますから親父の讐仇を討たして下さい……という涙ながらの物語りだ。どうだい。今時には珍らしい青年だろう。
この青年と、吾輩の半出来の報告書を一所にして提供したら、いい加減お役に立つだろう。この二つを拠所にして君が霊腕を揮ったらドンの絶滅期して俟つべしじゃないか。
ウンウン。彼の青年を君が引受けてくれると云うのか。ウンウン。そいつは有難い。東京の夜学校に通わしてくれる。……死んだ親父がドレ位喜ぶか知れないぜ。
この密告書はアイツの筆跡に相違ないよ。ここに来て吾輩の窮状を見ると間もなく書上げて、識合いの船頭に頼んで、呼子から投函さしたものに違いないんだ。コイツが君の手にかかって物をいうとなれば、友吉おやじイヨイヨ以て瞑すべしだ。コレ位大きな復讐はないからね。
ああ愉快だ。胸が一パイになった。アハハハ。笑わないでくれ。吾輩決して泣き上戸じゃないつもりだが……オイオイ友。友。友太郎……そこに居るか。チョット出て来い。遠慮する事はない。来いと云うたらここへ来い。アトを閉めて……サア来た……どうだい。立派な青年だろう。今では吾輩の忰みたようなもんだ。御挨拶しろ。御挨拶を……この人が吾輩の親友……有名な斎木検事正だ。ハハハハ。驚いたか。貴様の血で書いた手紙が御役に立ったんだ。そのためにわざわざ斎木君が来てくれたんだ。貴様の親父の仇敵を討ちに……。
……何だ何だ。泣く奴があるか……馬鹿……いくつになるんだ。……サア。こっちへ来てお酌をしろ。笑ってお酌をしろといったら。貴様も日本男児じゃないか……アハハハ……。
斎木君……一杯受けてくれ給え……吾輩も飲むよ。……風速実に四十米突……愉快だ。実に愉快だ。飲んで飲んで飲み死んでも遺憾はないよ……。
「今日、君を送る、須く酔いを尽すべしイ……明朝、相憶うも、路、漫々たりイ……じゃないか、アハハハハ……」
●表記について
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