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爆弾太平記(ばくだんたいへいき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 10:06:33  点击:  切换到繁體中文

 ……ああ……酔うた酔うた。
 ……どうだ斎木さいき……モ一つ行こう。脊髄癆カリエスぐらい酒を飲めば癒るよ。ちょっとも酔わんじゃないか君は……。
 ナニ……恐ろしい暴風雨しけだ?……。
 ウン。近来珍らしい二百二十だよ。夜半よなか過ぎたら風速四十米突メートルを越すかも知れん。……おまけにここは朝鮮最南端の絶影島まきのしまだ。玄海灘と釜山ふざんの港内を七分三分に見下ろした巌角がんかくの上の一軒家と来ているんだからね。一層風当りがヒドイ訳だよ。……世界の涯に来たような気がする……ハハハ。しかしこのうちなら大丈夫だよ。その覚悟で建てた赤煉瓦れんが温突おんどる式だからね。はばかりながら酒樽と米だけは、ちゃんとストックして在るんだ。十日や十五日シケ続けたって驚かないよ。ハハハ……。
 イヤ。よく来てくれた。吾輩の竹馬の友といったら、今では君一人なんだからね。もう一人居た福岡県知事の佐々木が、ツイこの間死んでしまったからね……ウン。太っ腹ないい男だったが、可愛相な事をしたよ。何でも視察旅行の途中で、自動車もろ共、谷へ落ちたというんだが、人間、何で死ぬか知れたもんじゃないね。……しかも、その跡に残ったタッタ一人の君が二十年振りに、貴重な静養休暇を利用して、この天涯の素浪人、轟雷雄とどろきなるおの隠れ家を叩きに来ようとは思わなかったよ。
 イヤ……実に意外だった。君の顔を見た瞬間に、故郷の禿山はげやま彷彿ほうふつとして眼前に浮んだね。イヤ。禿げているから云うんじゃない……アハハハ。今夜はこの風をさかなに飲み明かそうじゃないか。お互いに「頭禿げてもお酒は止まぬ」組だったじゃないか。ハッハッハッ。風がいだら一つ東莱とうらい温泉へ案内しよう。あすこでモウ一度俗腸ぞくちょうを洗って、大いに天下国家を……。
 ナニ……吾輩が首になった原因を話せと云うのか……。
 ハハハハ。それあ話してもえ。吾輩としては俯仰ふぎょう天地にじない事件で首を飛ばされたんだから、イクラ話しても構わんには構わんが、しかしだ。君はホントウに吾輩の云う事を事実と信じて聞いてくれるかね。エエ……?……。
 イヤ。失敬失敬。それはわかっとる。重々わかっとる。君が吾輩を信じてくれる事はトコトンまで疑わんが、しかしそれでも吾輩の休職の裏面に潜む事件の真相なるものが、到底、常識では信ぜられんくらい悽愴せいそう惨憺さんたん、醜怪、非道を極めたものがあるから、特に念を押す訳だよ。
 手早い話が、吾輩の首をフッ飛ばした事件の真相を突込んで行くと一つのスバラシイ復讐事件にブツカッて来るんだ。しかもその事件の主人公というのは、吹けば飛ぶような貧乏老爺おやじに過ぎないのに、その相手というと南朝鮮各道の検事、判事、警察署長、その他の有力者六十余名というのだから容易じゃないだろう。……のみならず、その復讐事件の真相なるものをモウ一つ奥の方へ手繰たぐって行くと、現在、内地朝鮮の官界、政界、実業界に根強い勢力を張り廻わしている巨頭株の首を珠数じゅず繋ぎにしなければならぬという、日本空前の大疑獄が持ち上って来る事、請合いだ。……しかもソイツが又、全国の爆薬取締に関する重大秘密から、社会主義者、不逞鮮人の策動に引っかかって行く。もしくは張作霖ちょうさくりん段祺瑞だんきずいを中心とする満洲、支那政局の根本動力にまで影響するかも知れんという……実に売国奴以上に戦慄すべき彼等、巨頭株連中の非国家的行為が、真正面から蜂の巣を突っついたように、曝露ばくろして来るかも知れないんだが……それでも構わんか……君は……。
 もちろんこれは吾輩一流の酔った紛れの大風呂敷じゃないんだぜ。相手が普通の人間なら兎も角だ。農商務大臣と製鉄所長官の首を一度に絞めて、前内閣を引っくり返した堅田かただ検事総長から、懐刀ふところがたなと頼まれている斎木検事正のお耳に、この話が這入はいったとなると問題だろう。メッタにお聞き棄てにならん事を、知って知り抜いて饒舌しゃべりよるのじゃがえか。
 アッハッハッハッハッ。イヤ。決してオベッカじゃないよ。持ち上げよるでも何でもない。シラ真剣の打明け話だ。……フウン。多分ソンナ事じゃろうと思うてワザワザ訪ねて来た……ウンウン。流石さすがは商売人だけある。アハハハ。イヤ。馬鹿にしとる訳じゃない。そんなら尚の事、話し甲斐がいがあるんだ。……実は吾輩もこの問題にいては千秋の遺恨を含んでいるんだからね。今云った朝野の巨頭連は、馬鹿正直な吾輩一人を蹴落して、自分等の不正事実を蔽い隠そうと試みているのだ。吾輩の事業の隠れたる後援者であった山内正俊閣下が、去年の十一月に物故されて以来、吾輩が木から落ちた猿同然、手も足も出なくなっている事を、彼奴あいつ等はチャンと知っていやがるんだ。彼奴きゃつ等の肉を裂き、骨をしゃぶっても飽き足りない思いを抱きながら吾輩は、この釜山港口、絶影島まきのしまの一角に隠れて、自分の食う魚を釣っていたんだ。
 ナニ……何だって。君の今度の旅行は、そのための秘密調査が目的だ……? 温泉巡りとは真赤な偽り……脊髄カリエスの静養休暇は検事総長と打合わせた芝居に過ぎん……?
 ……エエッ……何という。ホントウかいそれあ。ヘエ――ッ……。
 こいつは一番、驚いたね。いくら何でも、チイット炯眼けいがん過ぎやせんか……それは……。
 何を隠そう吾輩は現在、この事件に関する詳細な報告書をあの机の上に書きかけとるんだ。しかしこれほどの怪事件はチョイトほかに類例が無いし、問題が又ドエラク大きいもんだから、あの報告書が出来上っても、どこへ出したらえかチョット見当が附かんで困っておったところだが……まさかソコを探知して受取りに来たんじゃあるまいな……君は……。
 フウン。そうだろう。そこまでは知らなかった筈だ。
 ……フウン……しかし奇怪な投書が検事総長の処へ来ている……ヘエ。どんな投書だ……。
 何だ。持って来ているのか。ドレドレ見せ給え……。
 ……ヤッ……これは血書じゃないか。しかも立派な美濃紙が十枚以上在る。大変な努力だぞ。これは……投函局が佐賀県の呼子よぶこか……おかしいな。あすこにも吾輩の乾児こぶんが居るには居るが……大正九年八月十五日……憂国の一青年より……堅田検事総長閣下……フーム。無論、吾輩が書いたんじゃないよ。書体を見ればわかる。……ウーム……と……。
「私ハ貴官ノ正シイ御心ヲ信ジテコノ手紙ヲ書キマス。
 水産翁、轟雷雄先生ガ免職ニナリマシタ裡面ニハ、国家ノタメニナラヌ重大秘密ガアリマス。大正八年十月十四日ノ午後一時カラ二時ノ間ニ、××デ警察署長ガ三人ト、判事ヤ検事ガ四人ト、松島見番けんばん芸妓げいしゃ二名ガ殺サレタ事件ノ原因ヲ調ベテ下サイ。貴官ノホカニ、コノ真相ヲ調ベ切ル人ハアリマセン。
 貴官ガコノ事件ヲ、本気デ調査サレタ事ガワカリマシタラ私ガ貴官ノ御宅ニ出頭シテ、真相ヲオ話シシマス。何トナレバ右ノ九人ノ人間ガ死ンダ事件ノ裏面ニ潜ム恐ロシイ爆弾売買ノ真相ヲオ話シ出来ルモノハ、私一人シカ居リマセンカラ。
 モシ貴官ガ今年一パイ、コノ問題ヲ調ベズニ打チ棄テテオカレタナラバ、貴官モ爆弾売リノ仲間ト認メマス。ソウシテ私ハ別ノ手段デ、モットモット皆サンニ、思イ知ラセマス。ドウゾドウゾ国家ノタメニ御調ベヲ願イマス」
 ウーム。検事総長を威嚇した訳だな。
 ……成る程……この投書は二十歳内外の不規則な学問をした青年が、字引引き引き一生懸命に書いたものらしいという見込だね。ウム。「芸妓」とか「爆弾」とかいう難しい文字が特に、活字の通りに正しく書いてあるので推定した……成る程なあ。感心なもんだな。ウーム……それからタッタ一語だけ使ってある「調べ切る」という言葉が「調べ得る」という意味で使った九州北部の方言であるところから察すると、この青年は国家問題に昂奮し易い福岡県下の出身かも知れぬと云うんだね。……賛成だ。吾輩双手もろてを挙げて賛成するね。お互いに福岡生れだから、こうした青年の気持ちがよくわかるんだよ。とにかく生命いのちがけのスゴイ奴に違いない。そこでこの投書を信用して、君が出張して来たという訳か、吾輩の心当りを探るべく……。
 何……まだ話がある……。ハハア……書いた奴の詮索は後廻しか。事実の有無が何より先に問題だと云うんだね。如何にも如何にも……そこで朝鮮総督府へ公文書で問合わせた。成る程……そういった司法官や芸妓が同月、同日の殆んど同時刻に死傷する程の事件ならば、総督府でも知らない筈はないからな。面白い面白い……そうしたらドンナ回答が来た……。ナニ……。
「管轄違いだ。返答の限りにあらず」
 と突放して来た。しからんじゃないか。……回答した奴は何者だ。フウン。わからんというのか。ただ総督府の太鼓判がベッタリとしてあるだけだ。……いよいよもって怪しからんじゃないか。
 ハハア。その手が例の「朝鮮モンロー主義」だというのか。ハッハッ。「朝鮮モンロー主義」はよかったね。……フーン……朝鮮の奴等はそんなに威張るのかなあ。燈台もと暗しで知らなかった。……フーン……内地の官庁から朝鮮に這入って来たものは、いつもこの式で、書類でも人間でもピンピン撥ね付ける。事務上の連絡が全く取れないが、総督府が独立した官制になっているのだからドウにも手のつけようがない……ヘエー……そうかなあ。……吾輩なんかは絶対にソンナ方針じゃなかったよ。内地から来たものは特に優遇する方針だったから、チットモ気が付かなかったがね……だから首になったんだ……成る程。そうかも知れん。ハッハッハッ……。
 それあ君等としちゃしゃくさわったろう。特に司法関係の仕事は内鮮ないせんまたがった問題が多いんだからね。一々その手で撥ねられちゃあ遣り切れないだろうよ。成る程。……債券や紙幣の偽造が、朝鮮に逃げ込むと捕まらなくなるのはそのためだ。遺恨骨髄に徹している……成る程。それあそうだろう。
 そこでこっちもグ――ッと来たから、
「内地に於ける銃砲火薬類取締上、調査の必要あり。至急回答ありたし」
 と当てズッポーでおどかしてやったら、今度は方向を違えた釜山警察署から報告が来た。……ハハア……総督府の奴、物騒と見て取って責任を回避しおったな。卑怯な奴だ。……その報告書がコレか……成る程。総督府宛の内容のものを、そのままコッピーにして送って来た訳だな。ウンウン。朱線を引いた処が要点か。
「……如何なる方面より風聞せられしものなるや判明せざれど、右類似の事件は当署管内に於て確かに発生せし事有之これあり……」
 ……いかにも、コイツは多少名文らしいね。チョイト絡んで来たところが気に入ったよ。
「去る大正八年十月十四日、午後一時頃、釜山公会堂に於て、轟総督府技師の「爆弾漁業」に関する講演中、同技師が見本として提出したる二個の漁業用爆弾が過って炸裂し、傍聴者たりし判検事、署長等(氏名を略す)七名の死者を出したる事件あり。(芸妓げいしゃ二名の死傷は訛伝かでん也)……」
 プッ……馬鹿な。朝鮮官吏の低能と来たら底が知れない。コンナ事でお茶が濁せたらお慰みだ。警察の発表なら誰でも信用すると思っているんだから恐ろしい。そこで……と……。
「……右は前記轟技師の不注意より起りしものなりしと同時に、当局の威信に関する事故なりしを以て、秘密裡に善後の処置をし、轟技師の休職を以て万事の落着を見たり。……右御回答申上候」
 アッハッハッハッハッ。イヤたくんだりこしらえたり。インチキ、ペテン、ヨタもまた、甚しい。朝鮮官吏の腐敗堕落が、ここまで甚しかろうとは……ナニ。そんな事情もアラカタ察していた。なるほど……総督府が、釜山署と慣れ合いで事実を隠蔽すると同時に、責任を回避しているものとにらんだ……従ってこの事件は、総督府にもコタエル程度の重大事件だったに相違ない……その通りその通り。命中率、まさに百二十パアセントだよ。朝鮮モンロー主義をギューといわせる事この一挙に在りか。ハハハハ。愉快愉快。そう来なくちゃ面白くない。
 そこで直ぐに君の部下を釜山に密行さした。ウムウム。その部下が釜山に着くと、何よりも先に松島遊廓に上って散財した。ハハハハ。ナカナカ洒落しゃれとるじゃないか……成る程。それからそのあくる日、帰りしなに、コッソリ公会堂に立寄って、内部の様子を一眼見ると、その朝の連絡船で東京に引返して、釜山署の報告はインチキに相違なしという復命をした……ヘエッ……こいつは驚いた。どうしてわかったんだ。タッタそれだけの仕事で……。
 ハハア。その男の調査によると松島見番けんばんで二人の芸妓げいしゃが変死したのは事実だった……正にその通りだ。それを警察が強制して失綜届を出させている。葬式も法事も許さない。芸妓屋おきやと親元は泣きの涙で怨んでいるが、泣く地頭じとうに勝たれない。ソレッキリの千秋楽になっている……ソイツも正にその通りだ。……のみならず問題の公会堂を覗いてみると建った時のまんま修理した形跡が無い。十人近くの人間が爆死する位なら建物の損害が出ない筈はなかろう……というのか。
 ……ウム。エライッ……。
 えらいもんだなあ。そんなにも頭が違うものかなあ内地の役人は……そこで検事総長と打合わせた結果、ごく秘密裡に君が遣って来て、直接、吾輩の口から真相を聴く段取りになった……ウムッ。有難いっ。痛快だっ。イヤ多謝コウマブソ……多謝コウマブソ……とりあえず一杯こう。
 君の着眼は正に金的きんてきだったよ。
 朝鮮モンロー主義……売国巨頭株の一掃……手に唾して俟つべしだ。とりあえず前祝まえいわい大白たいはくを挙げるんだ。

 ナニ……その売国巨頭株の姓名を具体的に云ってくれ……よし云おう。ビックリするな。
 貴族院議員、正四位、勲三等、子爵、赤沢事嗣あかざわことつぐ……これが金毛九尾の古狐で、今度の事件の一番奥から糸を操っている黒頭巾くろずきんだ。君等がよく取逃がす呑舟どんしゅううおという奴だ。……ハッハッ知らなかったろう。彼奴きゃつの若い時は例の郡司大尉の隠れたる後援者で、東洋切っての漁業通だという事を、誰にも感付かせないように、極力警戒しているんだからね。北洋工船、黒潮漁業の両会社は彼奴あいつ臍繰へそくがねで動いていると云っていい位だ。……その次が現在大阪で底曳大尽そこひきだいじんうたわれている荒巻珍蔵あらまきちんぞう……発動機船底曳網の総元締だ。知っているだろう。それから京城の鶏林けいりん朝報社長、林逞策りんていさく。あれで巨万の富豪なんだよ。代議士恋塚こいづか佐六郎……三保の松原に宏大な別荘を構えている……アレだ。お次は大連たいれんの貿易商で満鉄の大株主股旅由高またたびよしたか。それから最後の大物が、現民友会の幹事長、兼、弗箱どるばこと呼ばれている釜松秀五郎かままつひでごろう、逓信次官、雲田融くもたとおる……と……まあザットこれ位にしておこう。どうだい。驚いたか。
 こいつ等の仕事の正体かね。無論、話すとも。話さなくてどうするもんか。君は吾輩唯一の竹馬の友だ。廃物同様の吾輩の話が、君等の仕事の参考になるのは、吾輩の無上の光栄とし、且つ欣快とするところだ。いわんや君の手によって、極度の乱脈に陥っている現下の銃砲火薬取締が廓清されると同時に、今云った連中にこの遺恨を報ずる事が出来たとすれば、吾輩の本懐、何をかこれに加えんだ。吾輩の一身なんかドウなったって構わない。
 ウンウン。実にお誂向あつらいむきのところに来てくれたよ。註文したって無い大暴風雨おおしけに取巻かれた一軒屋だ。聴いている者は飯爨めしたきのりんだけだ。ウン。あの若い朝鮮人だよ。彼奴あいつなら聴いても差支えないどころか、吾輩の話のタッタ一人の証人なんだ。吾輩が死んでも、彼奴あいつの報告を聞けば一目瞭然なんだ。年は若いが、なまやさしい奴じゃないんだよ彼奴あいつは……追々おいおいわかるがね……ウン。
 ところでドウダイ。モウ一パイ……ウン話すから飲め。脊髄癆カリエスなんてヨタを飛ばしたばちだ。落ち付いてくれなくちゃ話が出来ん。
「酒を酌んで君に与う君自らゆるうせよ
 人情の翻覆はんぷく波瀾に似たり」
 だろう……お得意の詩吟はどうしたい。ハハハハ。お互いに水産講習所時代は面白かったナア……。
 ウン面白かった。
 しかし君は途中で法律畑へ転じたもんだから、吾輩がタッタ一人、頑張って水産界へ深入りした。……少々脱線するようだがここから話さないと筋道が通らないからね……しかも内地の近海漁業は二千五百年来発達し過ぎる位発達して、極度の人口過剰に陥っている。残っている仕事はお互い同志の漁場の争奪以外に無いというのが、維新後の水産界の状態だった。
 しかるにこれに反して朝鮮はどうだ。南鮮沿海の到る処が処女漁場で取巻かれているじゃないか。況んや露領沿海州えんかいしゅうに於てをやだ。……これに進出しないでドウなるものか。日本内地三千万の人口過剰を如何いかんせん……というのが吾輩の在学当時からの持論だったが……ウン。君も散々さんざん聞かされた……そこで卒業と同時に、火の玉のようになって日本を飛び出して朝鮮に渡ったのが、ちょうど水産調査所官制が公布された明治二十六年の春だったが、その時の吾輩の資本というのが、牛乳配達をして貯蓄した十二円なにがしと、千金丹せんきんたん二百枚の油紙包みと来ているんだから、正に押川春浪おしかわしゅんろうの冒険小説だろう。
 ……ウン……そこでモウ一つ脱線するが、その頃の朝鮮人が千金丹を珍重する事といったら非常なものだった。君は千金丹を記憶しているだろう。甘草かんぞうに、肉桂粉にっけいふん薄荷はっかといったようなものを二寸四方位の板に練り固めて、縦横十文字に切り型を入れて金粉や銀粉がタタキ付けてある。無害無効の清涼剤だが、その一枚を三十か四十かに割った三角の一片を出せば、かなりの富豪が三拝九拝して一晩泊めてくれる。一枚の三分の一でも呉れようもんなら、その頃の郡守といって、県知事以上の権威を持った大名役人が、逆立ちをしながら沿岸を案内してくれるというのだから、まるでお伽話とぎばなしだろう。おまけに吾輩は内地の騎兵軍曹の古服を着て、山高帽に長靴、赤毛布ゲット仕込杖しこみづえ……笑っちゃいけない。ちょうどその頃、先輩の玄洋社連が、大院君を遣付やっつけるべく、烏帽子えぼし直垂ひたたれ驢馬ろばに乗って、京城に乗込んでいるんだぜ。……その吾輩が長髯ちょうぜんしごきながら名刺を突き出すと、ハガキ位の金縁を取った厚紙に……日本帝国政府視察官、医典博士、勲三等、轟雷雄チョツデヨンウウン……と一号活字で印刷してある。意訳すると豪胆、勇壮、この上なしの偉人という名前なんだから、大抵の奴が眼をわしたね。最小限華族ヤンパンぐらいには、到る処で買冠かいかぶられたもんだ。
 この勢いで北は図満江とまんこうの鮭から、南は対州つしまぶりに到るまで、透きとおるように調べ上げる事十年間……今度は内地に帰って、水産講習所長の紹介状を一本、大上段に振りかぶりながら、沿海の各県庁、水産試験場、著名の漁場漁港を巡廻し、三寸不爛ふらん舌頭ぜっとうを以て朝鮮出漁を絶叫する事、又、十二年間……折しもあれ日韓合併の事成るや、大河の決するが如き勢をもって朝鮮に移住する漁民りょうみんだけが、前後を通じて五十万という盛況を見つつ今日こんにちに及んだ。歴代の統監、総督の中でも山内正俊大将閣下は、特に吾輩の功績を認めて、一躍、総督府の技師に抜擢ばってきし、大佐相当官の礼遇を賜う事になった。いやしくも事、朝鮮の産業に関する限り、米原まいばら物産伯爵、浦上水産翁といえども、一応は必ず、吾輩、轟技師に伺いを立てなければ、物を云う事が出来ないという……吾輩の得意想うべしだったね。
 ところでここまではよかった。ここまではトントン拍子に事が運んだが、これから先が大変な事になった。引くに引かれぬ鞘当さやあてから、日本全国を潜行する無量無辺の不正ダイナマイトを正面に廻わして、アアリャジャンジャンと斬結きりむすぶ事になった。しかもソイツが結局、吾輩タッタ一人の死物狂い的白熱戦になって来たんだから遣り切れない。
 或は吾輩一流の野性がたたったのかも知れないがね。
 そのソモソモのめというのは、実につまらないキッカケからだった。
 今も云う通り吾輩は、総督府のお役人になってしまった。一介の漁師としては正に位、人臣を極めるところまで舞い上って来た訳だが、サテ、そうなってみるとドウモ調子が面白くない。朝鮮おどしの金モール燦然さんぜんたる飴売あめうり服や、四角八面のフロックコートを一着に及んで、左様さよう然らばの勲何等かぜを吹かせるのが、どう考えても吾輩の性に合わなかったんだね。正直正銘のところ山内閣下から轟……轟といって可愛がらるよりも、五十万の荒くれ漁夫りょうしどもから「おやじおやじ」と呼び付けられる方が、ドレ位嬉しいかわからない。この心境は知る人ぞ知るだ。トウトウ思い切ってこうした心事を、山内さんの前で露骨に白状したら、山内さんあのビリケン頭に汗を掻いて大笑おおわらいしたよ。……あんなに笑ったのを見た事が無いと、同席の藁塚わらづか産業課長が云っておったがね。
 その結果、現官のままの吾輩を中心にして東洋水産組合というものが認可されて本拠を釜山ふざんの魚市場に近い岩角がんかくの上に置いた。費用は五十万の漁民りょうみんから一戸当り毎年二十銭ずつ、各道の官庁から切ってもらって、半官半民的に漁民の指導保護、福利増進に資すると同時に北は露領沿海州から、西は大連たいれん沖、支那海まで進出して宜しいという鼻息を、総督から内々ないないで吹き込まれた……というと実に素晴らしい、堂々たる事業に相違ない。吾輩の生命いのちの棄て処が出来たというので、躍り上って喜んだものだが、サテ実際に仕事を初めてみると、何より先に驚ろかされたのは組合費が集まらない事だった。
 アタジケナイ話だが、一年の一戸当りがタッタ二十銭とはいうものの、税金と違って罰則が無い。おまけに遣りっ放しの海上生活者が相手なんだから徴収困難は最初てんから覚悟していたが、半分以下に見て七千円の予算が、その又半分も覚束おぼつかない。吾輩の本俸手当を全部タタキ込んでも建物の家賃と、タッタ一人の事務員の月給と、小使の給料に足りないのだから屁古垂へこたれたよ……実際……。
 ところが一方に吾輩が総督府を飛出して、水産組合を作ったという評判は、たちまちの中に全鮮へ伝わったらしいんだね。到る処から「おやじおやじ」の引張りだこだ。……行ってみると漁場りょうばの争奪、漁師の喧嘩、発動機船底曳そこひき網の横暴取締り、魚市場の揉め事、税金の陳情なぞ、あらん限りのイザコザを持ち掛けて来る上に、ついでだからというので子供の名附親から、嫁取り、婿取りの相談、養子の橋渡し、船の命名進水式、金比羅こんぴら様、恵比須えびす様の御勧請ごかんじょうに到るまで、押すな押すなで殺到して来る。そのせわしい事といったらお話にならない。

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