「シッ。大きな声を出しちゃ嫌よ。外に聞こえるから……ホントなのよ。間違いないのよ。あの女(ひと)は、妾と近しくなりたいために、お兄さんと心安くしていらっしゃるのよ。あの女(ひと)がお兄さんを見送っている眼と唇に気をつけていると、トテモ他所他所(よそよそ)しい冷めたさを含んでいるのよ。お兄さまを冷笑しているとしか思えない事さえあるわ。あたし何度も何度も見たわ」
兆策は血の気(け)の失せかけた頬と額を、新しいハンカチでゴシゴシと力強く拭いた。
「フーム。それじゃ、お前を好いている事は、どうしてわかったんだい」
「あたし、お兄さんの前ですけどね。あの女(ひと)がこの頃、怖くて仕様がないのよ。……あの女(ひと)はね。妾を好いていると云った位じゃ足りないで、心の底から崇拝しているらしいのよ。トテモおかしいのよ。妾がズット前にあの女(ひと)の部屋に忘れて行った黄色いハンカチを大切に仕舞(しま)っておいて、何度も何度も接吻してんのよ。妾が偶然に行き合わせた時に、周章(あわ)てて隠しちゃったんですけど、そのハンカチにあの人の口紅のアトが残ってベタベタ附いているのが見えたわ」
「ウフッ。気色の悪(わ)りい……ホントかいそれあ」
「お兄さんに嘘を吐(つ)いたって仕様がないじゃないの。いつでもあの女(ひと)の妾を見ている眼の視線は、妾の横頬にジリジリと焦げ付くくらい深刻なのよ」
「ヘエッ。驚いたね。それじゃ……つまり同性愛だね」
「そんなものらしいのよ。持って生まれた性格を舞台の上でイタメ附けられている荒(すさ)んだ性格の人に多いんですってね。呉羽さんなんか尚更(なおさら)それが烈しいのでしょう。ですから妾……お兄さんの事さえなけあこの家(うち)を逃出そうと思った事が何度も何度もあるくらい気味が悪かったんですけどね……ロッキー・レコード会社から専属になってはドウかってね、或る親切な人から何度も何度も云って来ているんですけど、断っちゃってジイッと我慢し通してんのよ」
「馬鹿……何だって断るんだ。そんな美味(うま)い口を……」
「だって妾が二百円取ってお兄様を養うよりも、妾がお兄さまの百円の御厄介になっている方が嬉しいんですもの……」
「うむ。そうかッ……感謝するよ……」
兆策はモウ眼を真赤にしていた。
「でも……トテモ息苦しいのよ。だって同性愛なんて日本にだけしかない事でしょう。朝鮮(おくに)ではソンナ話、聞いたこともないんですから、ドウしたらいいのかわかんないんですもの。呉羽さんと同じ位に妾が呉羽さんを好きにならない限り、どうする事も出来ないじゃないの。女蛇に魅入られたようなタマラナイ気持になるだけよ。それがトテモ底強い魅力を持って迫って来るんですから尚更(なおさら)、息苦しくなって来るのよ」
「手紙も何も来ないのかい呉羽さんから……」
「イイエ。そんなもの一度も来たことないわ。妾が現実にそう感じているだけなの」
「フ――ム。そうすると……どうなるんだい……ボ……僕は……」
「アラ泣いていらっしゃるの……お兄様は……」
「泣いてやしないよ。怖いんだよ。僕は……」
「チットモ怖いことないわ。お兄様はただあの女(ひと)に欺されていらっしゃればいいのだわ。あの女(ひと)は、まだ轟さんを殺した犯人について疑っていらっしゃるのでしょう……ね……そうでしょう。ですから貴方に頼んで探してもらおうと思っていらっしゃるんですから、その通りにしてお上げになったらいいでしょう」
「何だか訳がわからなくなっちゃった。つまり僕はあの女(ひと)の云うなりになっていればいいんだね」
「ええ。そうよ。こっちがあの女(ひと)を疑っているソブリなんかチットも見せないようにしてね。そうしていらっしゃる中(うち)にはヒョットしたらあの女(ひと)だって、お兄様をお好きにならないとも限らないわ」
「タヨリないなあ。お前の云う事は……モット確(しっか)りした事を云っとくれよ」
「だって将来(さき)の事なんかわかんないんですもの……貴方みたいに正直に、何もかも真(ま)に受けて、青くなったり、赤くなったり……」
「オイオイオイ。電話で顔色がわかるかい」
「アラッ。バレちゃったのね。トリックが……」
「トリック。何だいトリックって……」
「ホホホ。何でもないのよ。あたし今夜あなたのアトから直ぐに家(うち)を閉めて出かけたのよ。だってコンナ時にはトテモたった一人でお留守番なんか出来ないんですもの。家(うち)の中には貴方の原稿以外に貴重品なんか一つも無いでしょう。……それからね。序(ついで)に途中で寄道をしてロッキー・レコードへ寄って契約して来ちゃったわ。一個月二百円で……」
「ゲエッ。ほんとかい……それあ……」
「ええ。だって轟さんが死んじゃったら妾たちだって相当の覚悟をしなくちゃならないんでしょう。契約書見せましょうか……ホラ……」
「ウウムム。ビックリさせるじゃないかヤタラに……」
「世話してくれた人トテモ喜んでたわ。妾の声は西洋人がヤタラに賞めるんですってさあ。この間テストした時に……ですからモウ誰の世話にならなくとも大丈夫よ。轟さんから受けた御恩を呉羽さんにお返しするだけよ」
「お前はたしかに俺より偉いよ。今夜という今夜こそ完全にまいった」
「ホホホ。まだエライとこ在るのよ」
「ナナ何だい一体……」
「当てて御覧なさい」
「わからないね」
「さっきの電話の話ウソよ」
「ヘエッ。何だって……」
「アラッ。まだわかっていらっしゃらないのね」
「だって、まだ何も聞きやしないじゃないか、トリックの事……」
「自烈度(じれった)いお兄さんたらないわ。あのね……あたし今夜貰った契約の前金で変装して今夜のお芝居見に行ったのよ。そうして貴方と呉羽さんのアトを跟(つ)けてアルプスへ行って、お二人の話を横からスッカリ聞いてたの……鳥打帽を冠って色眼鏡をかけて、レインコートの襟を立てて煤(すす)けたラムプの下にいたから、わからなかった筈よ。あすこのマダムはやっぱり朝鮮(おくに)の人で、ズット前から心安いのよ。ロッキー・レコードの支配人の第二号なんですからね。今度の話もあのマダムが世話してくれたのよ」
「驚いた……驚いた……驚いた……」
「まだビックリなさる事があってよ。あの笠っていうお爺さんね」
「可哀そうに、お爺さんは非道(ひど)いよ」
「あの笠圭之介って人を貴方はホントの犯人と思っていらっしゃる?」
「さあ。わからないね。当ってみない事には……」
「そう。それじゃ当って御覧なさい。あの人ならお兄様に対して無暗(むやみ)な事はしない筈ですから……」
「何だいまるで千里眼みたような事を云うじゃないかお前は……事件の真相を残らず知ってるみたいじゃないかお前は……」
「ええ。知ってるかも知れないわ……でも、それは今云ったら大変な事になって、何もかもわからなくなるから、云わない方がいいと思うわ」
「ふうむ。そんなに云うなら強(し)いて尋ねもしないが、しかしそのわかったって云うのは、犯人に関係した事かい……それとも事件全体に……」
「ええ。そう事件全体の一番ドン底に隠されている最後の秘密よ。トテモ神秘的な……そうして芸術的にも深刻な秘密よ。それさえハッキリとわかれば妾は自分の一生涯を棄てても、その秘密の犠牲になって上げていいわ」
「オイオイ。物騒な事を云うなよ……オヤッ。美(み)いちゃん……泣いているのか」
「……だって……アンマリ可哀そうなんですもの……その秘密の神秘さと、芸術的な深さの前には妾の一生なんか太陽の前の星みたいなんですもの……」
「いよいよ以(もっ)て謎だね」
「ええ。どうせ謎よ。この世の中で一番醜い一番美しい謎よ。それさえ解れば今度の事件の真相が一ペンにわかるわ」
「いよいよわからないね。何だか知らないけど、わからない方がよさそうな気がする」
「ええ。妾もよ。わかったら大変よ」
「いったいいつからソンナ事を感付いたんだい」
「ヤット今夜感付いたのよ。あの女(ひと)と貴方のお話を聞いているうちに……」
「……ど……どんな事だい。それは……」
兆策が突然に立上った勢がアンマリ凄まじかったので、妹の美鳥も思わず立上ってしまった。そうして少し涙ぐんだまま頬を真赤に染めた。
「あの女(ひと)がね……貴方と向い合って話している横顔を、暗いところからコンパクトの鏡に写してジイッと見ている中(うち)に、妾、胸がドキドキ[#底本では「ドキドキドキ」と誤記]して来たのよ……鏡ってものは魔者ね……やっぱり……」
兄妹は見る見る青ざめて行く顔を見合わせた。
「ふうん。どうして胸がドキドキしたんだい」
美鳥はいよいよ涙ぐんだようになって、うつむいた。紅茶を入れかけたままの白いエプロンの端を弄(もてあそ)び弄び耳まで赤くなってしまった。口籠もり口籠もり云った。
「呉羽さんはアンマリ……アンマリ美し過ぎると思ったの……」
あくる日も引続いた上天気であった。
夜が明けると、思い切って早起して、いつもの通りに凝(こ)った和装の身支度を済ました女優呉羽嬢は、直ぐに轟家の顧問弁護士、桜間法学士を呼付けた。既に自分の名前になっている自宅の建築と地面を抵当に入れて堀端銀行から一万八千円の金を引出し、その中(うち)から三千円を分けて江馬兄妹(きょうだい)を呼出し、桜間弁護士立会の上で手渡ししてキチンとした受取を入れさせた。それから弁護士を除いた三人で桐ヶ谷の火葬場にタクシーを乗付け、轟九蔵氏の遺骨を受取って来て故人の自室に安置し、附近の寺から僧侶を招いて読経してもらった。
焼香の時に一番先に仏前に立った呉羽は、長い事手を合わせて、何か口の中でブツブツと祈りながら肩を震わして泣いていたが、その態度がアンマリ真剣だったので江馬兄妹(きょうだい)は勿論、女中のおヨネまでも眼を潤ませていた。ところが故意か偶然かわからないけれども、そのおしまいがけになって呉羽の祈っている呟やき声に、何とも云えない気味の悪い底力が這入って来て、シンとした西洋室(ま)の中にハッキリと沁(し)み透り初めたので皆真青になって顔を見合わせた。
「……何もかも……貴方も……わたくしも……二十年前から間違って来ておりました……わたくしは、それを自分の手で公表さして頂きとう御座います……正しい姿に改めさせて頂きとう御座います……すべての間違った恩も怨みも……一掃さして頂きとう御座います……どうぞ成仏なすって下さい……南無阿弥陀仏……」
それから彼女は、まだ僧侶達が帰らない中(うち)に呼びつけのタキシーの高級車を呼んで、弦(つる)を離れた矢のように飛出て行った。一直線に帝国ホテルに乗付けて、東洋一の興行師と呼ばれているトキワ興行社長の段原(だんばら)万平氏に面会し、呉服橋劇場をタッタ五万円で来る九月十日限り売渡す約束をしてしまった。
それから呉羽は又一直線に自宅に引返して桜間弁護士を自分の寝室に呼寄せ、留守の事や契約の事なぞを色々と細かに頼んで後(のち)、呉服橋劇場専属の俳優二十七名の中(うち)から選出(よりだ)した男女優僅に十余名を眼立たぬように変装させて、コッソリと上野駅を出発し、どこへか姿を消してしまったという事が、轟氏殺害犯人の逮捕に引続いて各新聞に報道され、満都の好奇心を聳動(しょうどう)した。しかし、それもホンノちょっとの間の事で、世間の人はいつの間にかそんな事を忘れるともなく忘れていた。
とはいえ呉服橋劇場の探偵劇と異妖劇の味を心から愛好していた一部の尖端都会人は、事実、火の消えたような淋しさを感じていたらしい。折ふし場末の活動館にかかった面白くも何ともない独逸(ドイツ)の怪奇映画「笑う心臓」というのが連日、割れるような大入りを占めたのを見ても、そうした怪奇モノに飢えている都会人の心裡がアリアリと裏書きされていた。実際、敏感な文壇の人々や劇評家、芸術家の中(うち)には「呉服橋劇場を救え」とか「邪妖劇と都会人」とか「怪奇劇と女優」とかいったような「クレハ嬢礼讃」を中心とする文章を来月号の雑誌に投稿すべく、熱心に執筆していた人々も、実際に居たのであった。ところが、こうした一種の純真な意味の都会人の憂鬱は、それから間もない一箇月目に物の美事に粉砕されてしまった。東京市中でも有力な十大新聞の九月四日の朝刊の全面広告を見た人々は皆アッと驚かされたのであった。
その全面広告の中央には五寸四方ぐらいの呉羽嬢の丸髷姿の写真が、薄い小さな唇の片隅から白い歯をすこしばかり洩らした、妖美な笑いを凝固させており、その周囲に一寸角から初号、一号活字ぐらいの赤や黒の大活字が重なり合って踊りまわっていた。「呉服橋劇場蘇える」「新劇場主[#底本では「王」と誤記]天川クレハ嬢主演」「邪妖探偵劇――二重心臓」「原作エドガア・アラン・ポーの秘稿」「最近仏国巴里(パリー)市場に於て二百万法(フラン)を以てグラン・ギニョール座専属パオロ・オデロイン夫人の手に落札せられしもの」「斯界第一人者江馬兆策先生翻案脚色」「凄絶、怪絶、奇絶、快絶、妖美無上」「九月七日午後五時開場六時開演」「特等(指定)十円」「普通五円、三円、前売せず」等々々……それから中一日置いて六日と七日の朝刊には又、奇妙な事に、都下著名新聞の「轟氏殺害事件」に関する記事を一々抄録して掲載し、その最下段に四号活字で次のような説明を付けていた。
[#ここから1字下げ]
「諸君はこの劇を見る前に想起して頂きたい。今日から約一箇月前の八月三日の夜、前当劇場主を殺害した不思議な犯人のことを……。その当時、敏捷なその筋の手配により、事件後数時間を出でずして捕まった犯人生蕃小僧こと、本名石栗虎太は、まだ轟氏殺害の理由について一言も供述せず、従って一切はまだ巨大な疑問符の蔭に蔽い隠されている現情であるが、偶然にも当日興行される大天才ポー原作の『二重心臓』に用いられている物凄いトリックは、創作後百年を経過した今日に於て、この満天下を震駭した犯行の大疑問符を、遺憾なく抹消するに足る意外千万な鍵を指示している事を筆者は明言して憚らない者である。復活呉服橋劇場第一夜の演題にこの神秘邪妖探偵劇『二重心臓』を筆者が推選した理由は実に懸ってこの一事に潜在しているので、現代社会の裏面の到る処に波打っているであろう邪妖怪『二重心臓』の鼓動が、如何にしてこの奇怪なる大犯罪事件を描き現わしたかという真相、経過を諸君の眼前に展開しあらわす時、諸君の脈搏を如何に乱打させ、諸君の血管を如何に逆流させ、全身を粟立たせ、頭髪を竦立(しょうりつ)せしめるであろうか。凄愴感、妖美感に昏睡せしむるであろうかは、筆者の想像の及ぶところでないであろうことをここに謹んで付記しておく。九月 日 江馬兆策識」[#『江馬兆策識」』は地付き]
[#ここで字下げ終わり]
なおそうした記事の中央に在る血潮の滴る形をした真赤な?符(ぎもんふ)[#ルビは「?符」に掛かる]の輪の中に髪を振乱した呉羽嬢がピストルを真正面に向けて高笑いしている姿が荒い網目版で印刷してあった。
「まあ。お兄さま」
「おお。美鳥(みいちゃん)。御機嫌よう」
「まあ……今夜の入場者(いり)タイヘンじゃないの。コワイみたいじゃないの――」
「ウン。呉服橋劇場空前のレコードだよ」
「あたし此席(ここ)へ来るのに死ぬ思いしてよ。正面の特等席て云ったんですけど、入口から這入ろうとすると押潰されそうになるんですもの。ヤット寺本さんに頼んで楽屋口から入れてもらったのよ……ああ暑い……ずいぶんお待ちになって……」
「イヤ。ツイ今しがたここへ来たんだ」
「あら。お兄様ずいぶん日にお焼けになったのね」
「ヤット気が付いたのかい。フフフ。これあ温泉焼けだよ。紫外線の強いトコばかり廻っていたからね。お前は元気だったかい」
「ええ。モチよ。あたし四五日前から神戸に行ってたのよ。そうして今朝(けさ)、家(うち)へ帰ってから、貴方の電報を見てビックリしてここへ来たのよ」
「神戸へ何しに行ったんだい」
「それが、おかしいのよ。六甲のトキワ映画ね。あそこから大至急で秘密に来てくれってね。あのアルプスの主婦(ママチャン)の妹さん……御存じでしょう。会計をやってらっしゃる貴美子さん……いつも妾達(わたしたち)によくして下さる。ね……あの人に頼まれたもんですからね。貴美子さんと二人で行ってみたらトテモ大変な目に会わされちゃったのよ」
「何か唄わせられたのかい」
「それが又おかしいのよ。着くと直ぐに美容院の先生みたいな人が妾を捕まえて、お湯に入れて、お垂髪(さげ)に結わせて、気味の悪いくらい青白いお化粧をコテコテ塗られちゃったのよ」
「ハハア。スクリン用のお化粧だよ。それじゃあ……エキストラに雇われたんだね」
「ええ。そうらしいのよ。筋も何もわからないまんまに、美術学校のバンドを締めさせられて、学校の教壇みたような処へ立たされて『蛍の光』を日本語で歌わせられたの……そうして三分ばかりして歌が済んじゃったら監督みたいな汚ない菜葉(なっぱ)服の人が穴の明(あ)いたシャッポを脱いでモウ結構です。アリガトウ……って云ったきりドンドン他の場面を撮り初めるじゃないの。おまけに皆(みんな)して妾をジロジロ見ているでしょう。貴美子さんはソコイラに居ないし、帰り道は知らないし、妾、どうしていいかわからなくなっちゃって、モウ些(すこ)しで泣出すところだったのよ」
「馬鹿だね。エキストラなんかになるからさ」
「そうしたらね。その中(うち)にどこからかヒョックリ出て来た貴美子さんが、妾をモウ一度お湯に入れて、身じまいを直させている中(うち)に、頬ペタに赤痣(あざ)のある五十位の立派な紳士の人が、セットの中で、妾に近付いて来てね。妾に名刺を差出しながら、どうも飛んだ失礼を致しました。こちらへドウゾと云ってね。妾と貴美子さんを自動車へ乗せてミカド・ホテルへ連れて行ってサンザ御馳走をして下すった上にね。京都や大阪や奈良あたりを毎日毎日、御自分の高級車で同乗して、見物させて下すったのよ。どこか貴方とお兄様とで、別荘をお建てになりたい処があったら、御遠慮なく仰言って下さいって……トテモお兄さまの脚本を賞めてらしたわ」
「オイオイ。お前ドウカしてやしないかい」
「イイエ。ほんとの話なのよ。そうして帰りがけにトテも立派なリネンの洋服と、ダイヤの指輪と、舶来の帽子とハンドバッグと、靴と、トランクと、一等寝台の切符と……」
「チョット待ってくれ美鳥(みいちゃん)……イヨイヨおかしい。美鳥(みいちゃん)は僕の留守に、竈(へっつい)の神様へ唾液(つばき)を吐きかけるか何かしたんだね」
「アラ。そんならお帰りになってから品物をお眼にかけるわ。また、そのほかにお金を千円頂いたのよ」
「タッタ三分間でかい」
「ええ。ここに持ってるわ」
「馬鹿。いい加減にしろ」
「あら。お聞きなさいったら……それから帰って来てロッキーの支配人にお眼にかかって、そんなお話をしたら……貴美子の奴、飛んでもないイタズラをしやがる……ってね。真青になって聞いてらしったわ。そうしてイキナリ私の前に手を突いて、どうもありがとう御座いました。よく帰って来て下さいました。あの人にかかっちゃ叶いません。どうぞ、これから後(のち)トキワ映画へお這入りになるような事がありましても、私の方の契約だけは、お約束通りにお願い致します……ってペコペコあやまってんの。ツイ今サッキの事よ。あたし何の事だか、わかんなくなっちゃったわ」
「その名刺、ここに持ってんのかい」
「ええ。ここに在るわ。段原っていう人よ。あたしどこかで聞いた事があるように思うんですけど……」
「エッ……段原……それあお前アノ興行王じゃないか……東洋一の……」
「アラッ。そうそう……あたし写真ばっかり見てたから気が付かなかったんだわ。あの人に妾見込まれたのか知ら……」
「……ウーム。大変な事になっちゃったね」
「あたしドウしましょう」
「ところで本職のロッキー・レコードの方の成績はドウダイ……」
「それが又おかしいのよ。故郷(おくに)の小唄ばかり入れさせられるのよ。故郷(おくに)の発音を西洋人が聞くとトテモ音楽的なんですってさあ。他の人が歌ったんじゃ駄目なんですって……」
「妙だね。ウッカリすると、そいつもやっぱりメード・イン・ジャパンのお蔭かも知れないぜ」
「そうかも知れないわ。でもね、妾の唄った『島の乙女』の裏表が七千枚ずつ二度も亜米利加(アメリカ)へ出たそうよ。ですから妾、今月はトテモホクホクよ」
「……驚いたね。アンマリ早くエラクなり過ぎて恐しいみたいじゃないか」
「そうしてお兄様の方の成績はドウ?」
「お前とウラハラだ。何もかも滅茶滅茶さア」
「まあ。でも無事にお帰りになってよかったわ」
「いや。まだわからないよ。無事だかどうだか」
「どうしてコンナに早くお帰りになったの……九月の十日過に帰るって仰言ったのに……」
「どうしてってあの今月四日の新聞を見たからさ。急に心配になって来たからね」
「……アラ……妾もよ。ずいぶん心配しちゃったわ。だってお兄様が熱海からお送りになった、今度のお芝居の脚本を弁護士の桜間さんにお渡しする前にチョット盗み読みしていたでしょう。あの脚本でアンナ大袈裟な広告をするなんて、ずいぶんヒドイと思ったわよ。呉羽さんの身上話(みのうえばなし)まる出しなんですもの。ポーの原作でも何でもありゃしない」
「ウン。僕が心配したのもソレなんだよ。立派な広告詐欺だからね。おまけにお前、あの脚本は呉羽さんの命令で全部骨抜きだろう。今度の事件の核心に触れているところなんかコレンバカリもありあしない。何でもカンでも上演脚本(アゲホン)がパスさえすれあ、それでいいって云うんだからその通りに書いておいたのさ。それから直接に桜間弁護士に立山から長い電報を打って様子を聞いてみると、あの脚本にはロクに眼も通さないまま、呉羽さんが出発しちゃったという返事だろう。弱ったよ全く。ドンナ本読みをしてドンナ稽古を附けているんだか丸きり見当が付かないんだからね。笠のオヤジの生蕃小僧問題なんかホッタラかしちゃって、座員の寺本に電報を打って、この特等席を二つ取ってもらって、その返事を見てから大急ぎで帰って来たんだがね。その途中で美鳥(みいちゃん)にあの電報を打ったのさ」
「道理で……あたし、ちょっと意味がわからなかったわ。だって『スグテラモトニデンワセヨ』っていうんですもの。あたしアンナ女たらしの役者の人に会わなくちゃならないのかと思ってヒヤヒヤしちゃったわ」
「美鳥(みいちゃん)は相変らずお固いんだね」
「笠さんは今、どこに居らして?」
「モウ帰って来ている筈だがね。越中の立山に居たんだが」
「アラ。マア。あんな処へ……」
「ウン。どうやらお前の予言が当ったらしいんだ。俺は呉羽さんから良(い)い加減ドンキホーテ扱いにされていたらしいんだ」
「まあ……どうして……」
「どうしてって馬鹿な話さ。笠支配人は何でもないんだよ。僕があの脚本を書上げると直ぐに、彼奴(あいつ)に取りかかってやったんだ。犯人は貴様だろう……って威嚇(おどか)し付けてやったら、一ペンに青くなっちゃってね。色々弁解しやがるんだ。下らないアリバイなんか出しやがってね……そのうちにドウモ此奴(こいつ)は生蕃小僧なんて恐れられるようなスゴイ人物じゃないらしいって感じがして来たんだ。しかし、それでも猫を冠っているんじゃないかと思って、色々変相して附け狙っていると、彼奴(あいつ)め殺されるとでも思ったのか、素早く俺の変装を看破して、アッチ、コッチの温泉を逃げまわりやがるんだ。アイツは余っ程、温泉が好きなんだね。しかも行く先々で彼奴(あいつ)の狒々老爺(ひひおやじ)振りを見せ付けられてウンザリしちゃったよ。まったく……」
「妾も大方ソンナ事でしょうと思ってたわ」
「そのうちに今月の五日になって、立山温泉で東京の新聞のアノ広告を見ると正直のところ、二人ともビックリしちゃったんだね。これは大変だ。飛んでもない事が初まらなけあいいがと気が付くトタンに、二人とも何となく呉羽さんに一パイ喰わされて、睨めっこをさせられているような気がし初めたんだね。そこでドッチからともなく二人が寄り合って、ザックバランに膝を突き合わせて話合ってみると、ドウモ呉羽さんの二人に云った言葉尻が怪しい。これはこの興行の邪魔にならないように、吾々二人を東京から遠ざける計略じゃなかったのか……呉羽さんは、こうして吾々二人が承知しそうにない無鉄砲な興行を、自分一人でやっつける了簡(りょうけん)じゃないのか……という事になって来ると、まさかとは思いながら二人とも急に不安になって来たもんだから、大急ぎで勝手な汽車に乗って帰ることに話をきめたもんだ」
「ずいぶん鈍感ねえ。お二人とも……」
「そう云うなよ。呉羽さんの腕が凄いんだよ」
「それからドウなすって……」
「ところがサテ……帰って来てみると俳優たちは一人残らず口止めをされていると見えて、芝居の筋なんか一口も洩らさない。それから考えて楽屋裏の大道具を覗いてみると、まだハッキリはわからないが、ドウモ僕の註文した場面とは違うような道具が出て来るらしいので、イヨイヨ心配になって来た。だから藪蛇かも知れないとは思ったがツイ今しがたの事だ。此席(ここ)へ来る前に警視庁の保安課へ寄って、興行係の片山っていう心安い警部に会って、済まないがモウ一度あの上演本(あげほん)を見せてもらえまいかって頼むとドウダイ。イキナリ僕の手をシッカリと握って離さないじゃないか……あの筋書はどこから手に入れた……って眼の色を変えて聞くんだ。俺あギョッとしちゃったよ。まったく……」
「……そうでしょうねえ……ホホ……」
「片山警部の話はこうなんだ……あの二通の上演脚本(あげほん)は八月の十五日に願人(ねがいにん)の桜間っていう弁護士から受取って、九月の三日に許可したものだが、その九月六日……昨日(きのう)の朝の事だ、新聞の広告を見た大森署の司法主任の綿貫警部補っていうのがヒョッコリと警視庁へ遣って来て、あの『二重心臓』の上演脚本(あげほん)を見せてくれと云うのだ。お安い御用だというので見せてやると、読んでいる中(うち)に綿貫警部補の顔が真青になって来た。……済まないが、ほんのチョットでいいからこの脚本(ほん)を貸してもらえまいかという中(うち)に、引ったくるようにポケットに突込んで、無我夢中みたいに自動自転車(オートバイ)に飛乗って帰った」
「……まあ怖い……」
「それから夕方になって汗だくだくの綿貫警部補が、礼を云い云い返しに来た時の話によると大変だ……あの筋書は、この間死んだ轟九蔵氏と、犯人以外に一人も知っている筈がない。きょうが今日まで犯人に、あの筋書と同じような事実について口を割らせようと思って、どれ位、骨を折ったかわからないんだが、あの上本(あげほん)が手に這入ったお蔭で犯人がヤット口を割った。多分作者が、死んだ轟氏から秘密厳守の約束か何かで聞いていた話だろうと思って、まだ大森署に置いてある犯人に、あの筋書を読んで聞かせて、間違っている処を訂正させた序(ついで)に、呉羽さんの興行の話を聞かせてやったら、ドウダイ突然に顔色を変えて、その興行を差止めて下さいと怒鳴り出したもんだ。折角の私の苦心が水の泡になりますと云うんだそうだ」
「生蕃小僧がそう云うの……」
「ウン。怖い顔から涙をポロポロこぼして泣きながら、私の一生のお願いで御座います。ドウセ死刑になります身体(からだ)に思い残す事はありませぬが、こればっかりはお情です。どうぞやドウゾお助けを願います。さもなければここで舌を噛んで死にます……と云って、しまいにはオデコを板張に打ち附けて、顔中を血だらけにして、キチガイのように暴れまわりながら哀願するんだそうだ」
「……まあ……何て気味の悪い……」
「……だから綿貫司法主任が、そんならその貴様の苦心というのは何だって聞いてみたら、こればっかりは御勘弁を願います。とにかくそのお芝居ばっかりは、お差し止めにならないと大変な事になります。さもなければ、そのお芝居の初まる前にモウ一度天川呉羽さんに会わして下さい。お願いですお願いですと滅法(めっぽう)矢鱈(やたら)に駄々(だだ)を捏(こ)ねて聴かないのには往生した。死刑囚にはよくソンナ無理な事を云って駄々(だだ)を捏ねる者が居るそうだがね。それにしても何が何だか訳がわからないもんだから、昨日(きのう)から大騒ぎをして僕の行衛(ゆくえ)を探していたところだった……という、その保安課の片山警部の話なんだ」
「まあ……それからドウなすって……」
「僕も何が何だか、わからなくなっちゃったからね。ナアニ、あの脚本はやはりお察しの通り轟さんから生前に聞いた通りの事を勧善懲悪式に脚色しただけのものなんです。それじゃ今から大森署へ行って、司法主任に会って、よく相談して来ましょう……と云って、逃げるように警視庁を飛び出して来たのがツイ二時間ばかり前なんだ。それから危ないと思ってここに来て、楽屋裏に隠れていたんだ。ウッカリ捕まると、芝居が見られなくなると思ったからね」
「まあ。それでヤット訳がわかったわ。あのね、警察の人にはドンナ事があっても呉羽さんから聞いたって仰言っちゃ駄目よ」
「勿論さ。轟さんから直接に聞いた事にするつもりだが、それでも今夜、この芝居を見たら直ぐにも大森署へ行ってみなくちゃならん。犯人にも会わなくちゃなるまいかとも思っているんだが、とにかくこの芝居の演出を見た上でないと、カイモク方針が立たないんだ」
「どうして犯人がソンナにこの芝居を怖がるのでしょう。どうせ死刑になる覚悟なら、それより怖いものはない筈でしょうに……」
「さあ。ソンナ事はむろん、わからないね」
「それにしても今夜の場内(いり)スゴイわね。この中に生蕃小僧の人気が混っていると思うと、妾何だか気味が悪いわ。みんな死刑を見に来たような顔ばかり並んでいるようで……」
「ウン。これが又、僕の心配の一つなんだ。あの広告じゃ、たしかにインチキの誇大広告だからね。第一ポオの原作っていうのからして大ヨタなんだから……僕が夢にも思い付かなかった作り事なんだからね。今夜の演出がわかったらキット興行差止(チリンチリン)を喰うにきまっている」
「アラ。今夜のお芝居も駄目になるの」
「イヤ。そんな事はないだろう。ドンナに無茶な芝居を演(や)ったって、思想や風教や政治向に関係してない限り、その場で臨席の警官から差止められるような事は、今までに一度も例がないんだからね……問題は明日(あす)の芝居なんだが」
「呉羽さんは今晩一晩でウント売上げようと思っていらっしゃるんじゃないの。罰金覚悟で……」
「そうかも知れんね」
「そんならトテモ凄い興行師じゃないの」
「ウン。しかも、そればかりじゃないんだよ。あの女(ひと)は世界に類例のない偉大な女優であると同時に、劇作と犯罪批評の天才だよ。……同時に悪魔派の詩人かも知れないがね」
「あたし何だかドキドキして来たわ」
「暑いからだろう」
「イイエ。呉羽さんの天才が怖くなって来たのよ。ドンナ演出をなさるかと思って……」
こんなヒソヒソ話が進行しているのは一階正面中央の特等席であった。旅疲れのままで、一層、醜くくなった職工風の江馬兆策と、青白いワンピースに、タスカンのベレー帽をチョッと傾けた、女学生みたいに初々(ういうい)しい美鳥の姿は、世にも微笑ましいコントラストを作っているのであった。
呉服橋劇場内は、文字通りの殺人的大入であった。あまりの大入りなので観客席の整理が不可能になったらしい。外廊(そとろう)から舞台の直前まで身動き出来ない鮨詰(すしづめ)で、一階から三階までの窓を全部明放(あけはな)し、煽風機、通風機を総動員にしても満場の扇(うちわ)の動きは止まらないのに、切符売場の外ではまだワアワアと押問答の声が騒いでいるのであった。
定刻の六時に五分前になると場内から拍手の洪水が狂騰した。その真正面の幕前の中央に、若い背の高い燕尾服の男が出て来て、恭(うやうや)しく観客に一礼して後(のち)、何事か喋舌(しゃべ)り出したからであった。それも最初の間はさながらにこうした未曾有(みぞう)の満員状態を面白がっているような盲目的な拍手に蔽われて、言葉がよく聞き取れなかったが、その中(うち)に群集のドヨメキが静まると、やがて若々しい朗らかな声が隅々までハッキリと反響し初めた。
「あら。アレ寺本さんじゃない?」
「ウム。以前(もと)はロッキー専属のテノルで相当のところだったよ」
「いい声ね……」
「ええ。ところで早速では御座いますが、今晩のお芝居の興味の中心と申しますのは、広告にも掲載致しました通り、前の当劇場主、故、轟九蔵氏を殺害致しました犯人の、まことに古今に類例のない恐ろしい心境を脚色し、的確にして且つ、意外千万な真犯人を指摘致しますところに在りますので、特に、最後の一幕と申しまするのは、このたび新しい当劇場主と相成りました天川呉羽嬢の独白、独演と相成っているので御座います。ふつつかながら斯界(しかい)に於きまして、仏蘭西(フランス)のパオロ・オデロイン夫人と相並んで、邪妖探偵劇の二明星(みょうじょう)とキワメを附けられております天才女優、天川呉羽嬢が、その最後の独白、独演において、どのような物凄い演出を行い、この二重心臓の舞台面を、どのように戦慄的なクライマクスにまで導きますかという筋書は、遺憾ながら当の本人の天川呉羽嬢以外に、作者、座員一同の誰もが一人として存じておりませぬ事を、前以てお含みまでに申上げておきます。……すなわち今晩御来場の皆様は、過般、満都の諸新聞に報道されました探偵劇王、轟氏の遭難の実情を、一方(ひとかた)も残らず御存じの事として演出致しますので、従ってその遭難の実情に関する説明は、勝手ながら略さして頂きます。そうしてここにはただ斯様(かよう)な、予期致しませぬ過分の御ひいきのために、万一プログラムを差上げ落しました方が、おいでになりはしまいかと存じますから、そのような方々の、単なる御参考と致しまして、極めて心理的に構成されております各幕の内容を短簡に申上げさして頂くに止めます。
第一幕……探偵劇王殺害事件の遠因――兇賊生蕃小僧と等々力久蔵親分活躍の場面。二場。
第二幕……探偵劇王殺害の動機、及、殺害の現場(げんじょう)。二場。
第三幕……探偵劇王の後継者、天川呉羽嬢、独白、独演。真相説明の場。一場。――以上――」
満場割れむばかりの拍手が起ったが今度は直ぐにピッタリと静まった。舞台の片隅で冷たいベルの音が断続する中(うち)に、幕が静かに揚り初めたからであった。
一階から三階までの窓は全部、いつの間にか閉されていた。場内はたまらない薄暗さと、蒸暑さに埋もれていたが、それでも何千の人が作る氷のような好奇心が、場内一パイに冴え返っていたせいであったろう。扇(おうぎ)の影一つ動かない深海の底のような静寂さが、一人一人の左右の鼓膜からシンシンと沁(し)[#底本では「泌」と誤記]み込んで来るのであった。
第一幕、第一場は、静岡県見付の町外れの国道に面する草原(くさはら)の場面であった。その草原の中央の平石に腰をかけている若親分、等々力久蔵の前に、金モール服の薬売人(オッチニ)に化けた生蕃小僧こと、石栗虎太が胡座(あぐら)をかいて、ポケットの中からピストルを突付け、等々力久蔵の妻君の不行跡を曝露し、嘗て、或る処で、自分が等々力の妻君から貰ったという紫水晶の簪(かんざし)を見せびらかしつつ、甘木柳仙宅襲撃の仕事を見逃がしてくれるように頼み込む。等々力久蔵は暫く考えてから承諾の証拠に、紫水晶の簪を受取り、生蕃小僧と別れる。それから生蕃小僧が立去って後(のち)に、妻と世話人を草原に呼んで来て、証拠の簪を突付け、厳そかに離別を申渡し、涙を払いながら決然として立去る。木立の蔭からその光景を窺っていた生蕃小僧が立出で、腕を組んだまま物凄い冷笑を浮かべて等々力久蔵の後姿を見送り、
「トテモ追出しゃあしめえと思ったが……この塩梅(あんばい)では愚図愚図しちゃいられねえぞ」
と独りでうなずきながら立去る場面(ところ)であった。
続いて舞台がまわると甘木柳仙自宅の場で、等々力久蔵が柳仙夫婦から娘の三枝を借受け、それとなく三枝に左様ならを云わせ、思入れよろしくあって退場する。そのままの場面で日が暮れると生蕃小僧が忍び入り、柳仙夫婦を惨殺し、家(うち)中を探しまわって僅少の小遣銭を奪い、等々力久蔵に計られたかなと不平満々の捨科白(すてぜりふ)を残して立去るところであった。
幕が締ると皆ホッとして囁き合った。
「ねえお兄様。イクラか書換えてあって?」
「ウン。それが不思議なんだ。この幕は大体から見て僕が書下した通りなんだ。あんな大道具をどこに蔵(しま)って在ったんだろう……ただ柳仙夫婦の殺されの場がすこし違うようだね。あんな風に老人の柳仙が頭からダラダラ血を流して拝むところなんぞはなかったよ。キット睨まれると思ったからカゲにしておいたんだがね」
「警察の人は来ているんでしょうか」
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