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二重心臓(にじゅうしんぞう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 10:00:52  点击:  切换到繁體中文


「意外ですなあ……どこに……」
「どこに在ってもいいじゃないの……とにかく貴方は今度だけ御客様よ。招待券の二三枚ぐらい上げてもいいわ……ホホ……神戸の後家さん親娘(おやこ)でも引っぱってらっしゃい」
「ジョ……冗談じゃない」
「そうよ。冗談じゃないのよ。真剣よ……妾……それまで処女を棄てたくないんですからね」
「ショ……ショジョ……」
「まあ何て顔をなさるの。妾が処女じゃないとでも仰言るの。ずいぶん失礼ね」
「イヤ。ケ……決してソンナ訳では……」
「そんなら温柔(おとな)しく妾の云う事をお聞きなさい。そうしてモウ時間ですからこの室[#「この室」に傍点]を出て行って頂戴……」

 事件当夜……八月四日の呉服橋劇場は、非常な不入りであった。その日の夕刊を見た人々は皆、当然の休場を予想していたらしく、毎日の定収入になっている[#底本では「よっている」と誤記]御定連の入りすらも半分以下で、最終幕(オオギリ)の前に「当劇場主轟九蔵氏急死に就き勝手ながら整理のため向う一箇月間休場いたします」の立看板を舞台中央の幕前に出した時には、無礼にも拍手した奴が居た。
「ああ。もうこの芝居も、これでおしまいか」と云って今更名残(なごり)惜しげに表の絵看板を振返る者さえ居た。
 その時にスター女優天川呉羽は、劇作家、江馬兆策と一所に銀座裏のアルプスという山小舎式の珈琲(コーヒー)店の二階で、向い合っていた。白ずくめの洋装をした呉羽は中世紀の女王のようにツンとして……。タキシードの兆策はその従僕のように、巨大な木の切株を中に置いて竹製の腰掛にかかっている。帳場の煤(すす)けたラムプを模した電燈の蔭に、向うむきに坐った見すぼらしい鳥打帽の男がチビリチビリとストローを舐(しゃぶ)っているほかには誰も居ない。部屋の中をチラリと見まわした呉羽は、切株のテーブルの上に肘を突いて兆策の耳に顔を近付けた。兆策も熱心にモジャモジャの頭を傾けた。低い声が部屋中にシンシンと途切(とぎ)れ散る。
「江馬さん。よござんすか。これは妾の一生の秘密よ。今度、轟さんが殺された原因がスッカリわかる話よ」
「えッ。そ……そんな秘密が……まだあるんですか」
「ええ。トテモ大変な秘密なのよ。今月の十五日迄にこの秘密をアンタに脚色してもらって、来月の初め頃にかけて妾自身が主演してみたいと思っているんですから、そのつもりで聞いて頂戴よ」
「……かしこ……まりました」
「ですけどね。この話の内容は、芝居にすると相当物騒なんですから、警視庁へ出すのには筋の通る限り骨抜きにした上演脚本(あげほん)を書いて下さらなくちゃ駄目よ。興行差止(チリンチリン)なんかになったら、大損をするばかりじゃない。妾の計劃がメチャメチャになってしまうんですからね。是非ともパスするように書いて頂戴よ。もちろん日本の事にしちゃいけないの。西洋物の飜案(やきなおし)とか何とかいう事にして、鹿爪(しかつめ)らしい原作者の名前か何か付けて江馬兆策脚色とか何とかしとけばいいでしょ。その辺の呼吸は万事おまかせしますわ」
「……しょうち……しました」
「出来たら直ぐにウチの顧問弁護士の桜間さんに渡して頂戴……」
「支配人じゃいけないんですか」
「ええ。妾の云う通りにして頂戴……笠さんじゃいけない訳は今わかりますから……」
「……で……そのお話というのは……」
「……もう古い事ですわ。明治二十年頃のお話ですからね。畿内の小さな大名植村駿河守(するがのかみ)という十五万石ばかりの殿様の御家老の家柄で、甘木丹後(あまきたんご)という人の末ッ子に甘木柳仙(りゅうせん)という画伯(えかき)さんがありました」
「どこかで聞いた事があるようですな」
「ある筈よ。ホホ。柳遷(りゅうせん)とか柳川(りゅうせん)とか色々署名(サイン)していたそうですが、その人が御維新後のその頃になって、スッカリ喰い詰めてしまって、東海道は見付(みつけ)の宿(しゅく)の等々力(とどりき)雷九郎という親分を頼って来て、町外れの閑静な処に一軒、家(うち)を建ててもらって隠棲しておりました。静岡、東京、名古屋、京阪地方にまでも絵を売りに行って相当有名になっておりましたが、その中でも古い錦絵の秘密画とか、無残絵とか、アブナ絵とかを複写するのが上手で、大正の八九年頃には相当のお金を貯めて、小さいながら数奇(すき)を凝らした屋敷に住むようになっていたそうです」
「それで思い出しました。僕はその絵を見た事があります。たしか四条派だったと思いますが……」
「ね。あるでしょう……その柳仙夫婦の間に、その頃三つか四つになる三枝という女の児(こ)がありました。父親が五十幾つかの老年になって出来た子供なのでトテモ可愛がって、ソラ虫封じ、ソラ御開運様といった風に色々の迷信の中(うち)に埋めるようにして育てたものだそうですが、それがアンマリ利き過ぎたのでしょう。今の妾みたいな人間になってしまったのです」
「結構じゃないですか」
「……まあ聞いて頂戴……その大正の十年ごろ静岡あたりを中心にして東海道から信州へかけて荒しまわっていた殺人強盗で、本名を石栗虎太、又の名を生蕃(せいばん)小僧というのが居りました。生蕃みたいに山の中へ逃込むとソレッキリ捕まらない。人を殺すことを何とも思っていないところから、そう呼ばれていたのだそうです。その生蕃小僧がこの柳仙の一軒屋に眼を付けたのですね。……どうしてもモノにしようと思って色々様子を探ってみたんだそうですが、その柳仙の一軒屋というのは、見付の人家から二三町も離れていて、呼んでも聞こえないばかりでなく、四方八方に森や、木立や、小径がつながり合っていて、盗賊(かせぎ)には持って来いの処だったのですが、しかし、何よりもタッタ一つ、一番恐ろしい番犬がこの柳仙の家をガッチリと護衛(まも)っている事が、最初から判明(わか)っているのでした。……その番犬というのは見付の町で、土木の請負をやっている等々力親分の一家でした。
 その頃見付の宿で、等々力雷九郎親分の後を嗣(つ)いでいたのが等々力久蔵という、生蕃小僧と同じ位の年頃の若い親分でした。もっとも大正十年頃の事ですから、昔ほどの勢力はなかったのでしょう。そこいらの田舎銀行や、大百姓の用心棒ぐらいの仕事しかなかったのでしょう。その上に、その若親分の久蔵というのも、昔とは違った帝大出の法学士で、弁護士の免状まで持っていたインテリだったそうですが、乾分(こぶん)に押立てられてイヤイヤながら渡世人の座布団に坐り、新婚早々の若い、美しい奥さんと二人で、街道筋を見渡していたものですが、この若親分の久蔵というのが、十手捕縄を預っていた雷九郎親分の血を引いたものでしょう。親分生活は嫌いながらにあの辺切っての睨み上手の、捕物上手で、云ってみれば田舎のシャロック・ホルムズといったような名探偵肌の人だったのでしょう。すこし手口の込んだ泥棒でも這入ると、警察より先に久蔵親分の処へ知らせて来るというのです。流れ渡りの泥棒なんぞは、みんな等々力親分の縄張りを避けて通った。ウッカリ久蔵親分の眼の届く処で仁義の通らぬ仕事なんかすると、警察よりも先に手を廻されて半殺しの目に会わされるという評判で、生蕃小僧にとっては、この久蔵親分の眼がイの一番に怖くて怖くてたまらなかったのだそうです。
 そこで生蕃小僧は意地になってしまって、どうしてもこの等々力巡査をノックアウトしてやろうと思って色々と智恵を絞ったのでしょう。とうとう一つのスゴイ手を考え付いたのです……ちょっと生蕃小僧という名前だけ聞くと人相の悪い、恐ろしい人間に思えるようですが、それは刃物(ドス)が利くのと、脚力(ノビ)が利くところを云ったもので、実は普通の人とチットモ変らない男ぶりのいい虫も殺さない恰好で、おまけに腰が低くて愛嬌がよかったもんですから行商人なんかになるとマルキリ本物に見えたそうです。ですから生蕃小僧はそこを利用してその頃流行(はや)っていた日本一薬館の家庭薬売(オッチニ)に化けて大きな風琴を弾き弾き見付の町を流しまわっているうちに、等々力の若親分の身のまわりをスッカリ探り出してしまいました。
 ……何でも等々力若親分の若い奥さんというのは、近くの村の百姓の娘で、持って生れた縹緻美(きりょうよ)しと伝法肌(でんぽうはだ)から、矢鱈(やたら)に身を持崩していたのを、持て余した親御さんと世話人が、情(じょう)を明かして等々力の若親分に世話を頼んだものだそうですが、何ぼ等々力の親分のお声がかりでも、こればっかりは貰い手がないので、何となく顔が立たないみたいな事になって来たものだそうです。そこで……ヨシキタ……そんなら一番俺がコナシ付けてくれよう。俺の傍(そば)へ引付けておいたら、そう無暗(むやみ)に悪あがきも出来ないだろうというので、乾児(こぶん)たちの反対を押切って、立派な婚礼の式を挙げたものだそうですが、これが等々力親分の一生の身の過(あやま)りでした。というのは、その若い奥さんの伝法肌というのが、若い女のチョットした虚栄心が生んだ浅智恵から来たものだったのでしょう。若親分から惚れられているなと思うと、早速亭主を馬鹿にしちゃって、主人の留守中に、何かしら近所の噂にかかるような事をしていたのでしょう。ですから、そんな事を聞き出した生蕃小僧はスッカリ喜んじゃったのですね。大胆にもオッチニの金モール服のまま、他所(よそ)から帰って来る若親分を、町外れの草原(くさはら)で捕まえて面会したのだそうです。そうして奥さんの不行跡(ふしだら)を自分一人が知っている事のように洗い泄(ざら)い並べ立てて脅迫しながら、済まないがここのところを暫くの間、眼をつむってもらえまいか。稼ぎ高を山分けに致しますから……とか何とか厚顔(あつか)ましい事を云って、柔らかく固く相談をしますと、不思議にも若親分が、青い顔をして暫く考えた後(のち)に、黙って承知したんだそうです。モトモト久蔵親分は、好きで渡世人になった訳じゃないし、法律の一つも心得ているだけに、東京へ出て一旗上げたい上げたいと思いながら、因縁に引かれ引かれて足を洗いかねているところへ、最愛の女房(おかみさん)から踏み付けにされちゃったのですからスッカリ気を腐らしたのでしょう。そうして生蕃小僧に別れると直ぐに久蔵親分は、甘木柳仙の処を尋ねて、すみませんがモウお雛様がお片付きのようですから、御宅のお嬢さんを又、暫く私に貸して頂けますまいか。久し振りに抱(だ)っこして寝たいですからと申込みました……久蔵親分は若い人に似合わない子供好きで、見付の子供は皆オジサンオジサンと云って懐(なつ)いていたそうです。わけてもこの柳仙の処の子供は、特別に可愛がっていたせいでしょう。まるで親のように懐(なつ)いておりましたし、それまでにも度々そんな事がありましたので、柳仙夫婦は快く子供の着物を着かえさしたりお菓子や寝床まで風呂敷に包んで、若親分に渡してやったそうです。
 ……それから若親分は自宅へ帰ると、直ぐに乾児(こぶん)どもを呼集め、その大勢の眼の前に、若い奥さんと世話人を呼付けてアッサリ離別を申渡しましたので、二人ともグーの音(ね)も出ないで荷物を片付けてスゴスゴと田舎へ帰りました。それを見送った若親分は……ほんとに済まない事をした。俺の顔ばかりでなくお前たちの顔まで潰してしまった。俺はモウ決心を固めているのだからこの際何も云うてくれるなと云って乾児(こぶん)の中(うち)の一人に自分の席を譲り、その場で、お別れの酒宴を初めました。
 ……一方に柳仙夫婦の一軒屋へ生蕃小僧が忍び入って、夫婦と女中の三人を惨殺し、家中(うちじゅう)を引掻きまわして逃げて行ったのは、ちょうどその暁方(あけがた)の事だったそうです。ところで生憎(あいにく)か仕合わせかわかりませんが、その時に柳仙の手許に在ったお金はお小遣の余りの極く少しで、銀行の通帳や貴重品なんかは見付の町に在った心安い貯蓄銀行の金庫に預けてありましたので、お金以外の品物を決して盗らない事にしている生蕃小僧にとってはトテも損な稼ぎだったのでしょう。ところが、それとはウラハラに久蔵若親分はステキに、うまい事をしてしまいました。多分柳仙の家(うち)に残っていた印形(いんぎょう)を利用するか何かしたのでしょう。それにしてもドンな風に胡麻化(ごまか)したものか知りませんが、当然、その娘のものになる筈の何万かの財産と、かなり大きな生命保険を受取ると、そのまま行衛(ゆくえ)を晦(くら)ましてしまったものだそうです。
 ……ね……もうおわかりになったでしょう。柳仙夫婦がこの世に残したものの中でも一番大きい、美味(おい)しいことは、みんな久蔵若親分のものになってしまったのですからね……あとからこの事を知った生蕃小僧が、それこそ地団太を踏んで今の轟九蔵を怨んだのは無理もありませんわね。ですから轟がドンナに巧妙に姿を晦(くら)ましても生蕃小僧はキット発見(みつけ)出して脅迫して来るのでした。俺が捕まったらキット貴様も抱込んで見せるとか、当り前の復讐では承知しないぞ……とか何とか云っていたそうですが、しかし轟はセセラ笑っておりました。彼奴(きゃつ)の怨みは藪睨みの怨みだ。俺は別に生蕃小僧をペテンにかけるつもりじゃなかったんだ。ただお前が可愛くてたまらなかったばかりに、万一の事が気にかかってアンナ事をしただけの話なんだ。もちろん生蕃小僧がアンナに早く仕事にかかろうとは思わなかったし、奥さんの事を片付けてサッパリしてから柳仙に注意もしようし、手配もするつもりでいたんだから、柳仙夫婦が、あのまんま無残絵になってしまったのはヤハリ天命というものだったろう。
 ……柳仙が国禁の絵を描いている事はトックの昔から睨んでいた。しかしイクラ忠告をしても止めないばかりでなく、県内の有力者の勢力なんかを利用して盛んに高価(たか)い絵を売り拡げて行くので、俺は実をいうとホントウに柳仙の厚顔(あつかまし)さを憎んでいた。ナンノ柳仙を見付から追出すくらい何でもなかったんだが、ただお前の可愛さにカマケていたばかりなんだ。それから先の事は自然の成行(なりゆき)で、大和の国に居る柳仙の親類なんかは一人も寄付かなかったんだから仕方がない。生蕃小僧から怨まれる筋合いなんか一つもないばかりでなく、俺はお前を無事に育て上げるために、生命(いのち)がけで闘わなければならない身の上になってしまった。俺が朝鮮に隠れてピストルの稽古をして来た事を、生蕃小僧が知っていなかったら、俺もお前もトックの昔に生蕃小僧にヤッツケられていたろう。
 ……ところが、それから後(のち)、四五年経つと流石(さすが)の生蕃小僧も諦らめたと見えて、バッタリ脅迫状を寄越さなくなった。彼奴(あいつ)から脅迫状が来るたんびに俺はすこしずつ金を送ってやる事にしていたんだから不思議な事と思ったが、もしかすると自分の怨みが藪睨みだったのに気付いたのかも知れない。それとも病気で死ぬかどうかしたのじゃないかと思うと、俺は急に気楽になって本当の活躍を初め、今の地位を築き上げたものなんだが、その十幾年後の今日(こんにち)になって突然に又生蕃小僧から脅迫状が来はじめたのだ。しかも俺にとっては実に致命的な意味を含んだ脅迫状が……」
「エッ……チョチョチョット待って下さい」
 江馬兆策は感動のあまり真白になった唇を震わした。
「そ……それもホントなんですか」
「ホホホ……みんな真実(ほんとう)なのよ。最初から……まだまだ恐ろしい事が出て来るのよ。これから……」
「……………」
「シッカリして聞いて頂戴よ。是非とも貴方に脚色して頂いて、大当りを取って頂きたいつもりで話しているんですからね」
「……………」
「……その脅迫状というのは、最初は極く簡単なものだったのです。一週間ばかり前に来たのは普通の封緘葉書で金釘流で『大正十年三月七日を忘れるな……芝居じゃないぞ』といっただけのものだったそうですが、それから後に二三回引続いて来たものは、相当長い文句のチャンとした書体で、とてもとても恐ろしい……私達の致命傷と云ってもいい文句でしたわ」
「……ど……ど……ドンナ……」
「ホホホ。アンタ気が弱いのね。そんなに紙みたいな色にならなくたっていいわ。あのオ……チョイト……ボーイさん。ウイスキー・ソーダを一つ……大至急……」
 江馬兆策はホッと溜息をした。顔中に流るる青白い汗をハンカチで拭いた。
「ホホホ。落付いてお聞きなさいよ。モウ怖いことなんかないんですからね。犯人が捕まって片付いちゃったアトなんですから……」
「でも……でも……まだ疑問の余地が……」
「ええええ。まだまだ沢山に在るのよ。モットモット大きな、深い疑問が残っているのを誰も気付かずにいるのよ。轟さんの心臓にあのナイフが突刺さったホントの理由が、わかる話よ」
「エエッ。それじゃホントの犯人が……別に……」
「居るか居ないかは貴方のお考えに任せるわ。そこがこの脚本のヤマになるところよ。いい事……その長い脅迫状の文句はこうなのです。その脅迫状はあたし自分の部屋の鏡台の秘密の曳出(ひきだし)にチャント仕舞っているのですから、あとからお眼にかければわかるわ……轟九蔵と甘木三枝は、戸籍面で見ると親子関係になっていない。女優の天川呉羽は轟九蔵の養女でも何でもないのだから、つまるところ轟九蔵は甘木三枝の財産を横領している事になる。それのみか、轟九蔵と天川呉羽とは事実上の夫婦関係になっている事を、俺は最近になって探り出しているのだ。その上にその呉羽こと三枝という女は、ズット以前から劇作家江馬兆策と関係している……」
「ワッ……ト飛んでもない……アッツ……」
 江馬兆策は突然真赤になって手を振ったトタンに、たった今来たウイスキー・ソーダの飲みさしを切株のテーブルの上に引っくり返した。それを給仕が急いで拭こうとしたナプキンを慌てた兆策が引ったくって拭いた。
「ホホホ。馬鹿ねえ貴方は……わかり切っている事を妾の前で打消さなくたっていいじゃないの……ホホ……」
 兆策はモウすっかり混乱してしまったらしい。濡れたナプキンで上気した自分の顔を拭き拭き給仕にソーダのお代りを命じた。しかし給仕は笑わないで、腰を低くして、恭(うやうや)しくナプキンを貰って行った。
「……ね。ですから妾あなたに考えて頂こうと思ってお話するのよ。貴方はいつもソンナ問題ばかりを研究していらっしゃるんですから、妾の話をお聞きになったらキット犯人を直覚して下さると思うのよ。轟九蔵を殺したのは生蕃小僧じゃない。あの支配人の笠圭之介……」
「エッ……ナ何ですって……そんな事が……」
 江馬兆策が中腰になった。しかし呉羽は冷然と落付いていた。
「あたし……それが今日わかったのよ。あの笠圭之介がね。ツイ今さっきの夕方の幕間に妾をあの五階の息つき場へ呼んでね。よもや誰も知るまいと思っていた脅迫状の中味とおんなじ事を云って妾を脅迫したのよ。轟さんと妾の関係や貴方と妾の関係を疑ったような事を云ってね……ですから妾ヤット気が付いたのよ、今捕まっているのはホンモノの生蕃小僧じゃない。ドッサリお金を掴ませられているイカサマの生蕃小僧で、公判になったらキット供述を引っくり返すに違いない。だから本物の生蕃小僧はアノ支配人の笠圭之介……」
「フ――ム――」
 江馬兆策が頭を抱えて椅子の中に沈み込んだ。眼をシッカリと閉じて、モジャモジャした頭の毛の中へ十本の爪をギリギリ喰い込ませた。
「……ね……こんな事があるのですよ。今もお話した通り、生蕃小僧の脅迫状が来なくなってから轟がホントウに活躍を初めたのが大正十四年頃でしょう。それからあの呉服橋劇場を買ったのが昭和三年の秋ですから、その間に三四年の開きがあるわけでしょう。その間に生蕃小僧が悪い仕事をフッツリと止めて、あの呉服橋劇場の支配人になり済ますくらいの余裕はチャントあるでしょう。生蕃小僧があんなにムクムクと肥って、丸きり見違えてしまっている事も、考えられない事じゃないでしょう。そこで生蕃小僧は上手に轟さんに取入るか、又は影武者の生蕃小僧に脅迫状を出させるか何かしてあの劇場(こや)を買わせたのよ。そうしてあの劇場の経営を次第次第に困難に陥れて、轟さんの爪を剥いだり、骨を削ったりしながら待っている中(うち)に、妾が年頃になったのを見澄まして轟さんを片付けて、タッタ一人になった妾を脅迫して自分のものにしようと巧(たく)らんだ……と考えて来ると、芝居としても、実際としても筋がよく透るでしょう。何の事はない新式の巌窟王よ……ね……」
「……………」
「その中(うち)でタッタ一つ邪魔気(じゃまっけ)なのは貴方です。江馬さんです……ね。貴方は天才的な探偵作家ですから普通の人だったら夢にも想像出来ない事をフンダンに考えまわしておられる方です。ですから万一、今のようなお話をお聞きになった暁には、いつドンナ処から自分の正体を看破(みやぶ)られるかわからない。警戒の仕様がないでしょう」
「……………」
 江馬兆策は頭の毛を掴んだままソッと両眼を見開いた。その両眼は重大な決心に満ち満ちた青白い、物凄い眼であった。わななく指をソロソロと頭から離して、そこいらを見まわすと、ウイスキー曹達(ソーダ)に濡れた切株の端に両手を突いて立上った。呉羽の希臘(ギリシャ)型の鼻の頭をピッタリと凝視して徐(おもむ)ろに唇を動かした。
「……貴女は名探偵です……」
 呉羽も調子を合わせるようにヒッソリとうなずいた。大きな眼をパチパチさせた。
「……ですから……貴方にお願いするのです。今から笠支配人の様子を探って下さい。そうしてイヨイヨ生蕃小僧の本人に違いないという事がわかったら……」
「……コ……殺してしまいます」
 江馬兆策の両眼が義眼(いれめ)のように物凄くギラギラと光った。
「イケマセン」
 呉羽は真剣に手を振った。
「……ナ……ナゼ……何故ですか」
「復讐の手段は妾に任せて下さい。両親の仇(かたき)……轟の仇です……」
「……………」
「それでね貴方にその脅迫状の束を全部(みんな)さし上げます。それをイヨイヨとなったら笠に突付けて云って御覧なさい。お前はお前の書いた文句を忘れてやしまい。呉羽さんを脅迫した言葉も忘れてやしないだろうって……ね……」
「……………」
「それからね。貴方の活躍の期限を来月の十日までに切っておきます。来月の十日になっても笠に泥を吐かせる事が出来なかったら一先ず帰っていらっしゃい。よござんすか。費用は脅迫状の束と一緒に、明日(あす)の午後に差上げます」
「イヤ。費用なんか一文も要りません」
「いいえ。いけません。他人の間は他人のようにしとくもんです」
「エッ……他人……」
「ええ。そう。今じゃ全くの赤の他人でしょう。ですからそのつもりでいらっしゃい。それからの御相談は、何もかも来月の十日過(すぎ)にお願いしますわ」
 ハッと感激に打たれた江馬は深海魚のように眼を丸くして呉羽の顔を凝視した。口をアングリと開けて棒立ちになっていたが、やがてクシャクシャ頭をガックリとうなだれると、涙をポトポトと落しながら口籠もった。
「かしこ……まりました」
 そうして、なおも感激に堪え切れないらしく、兵隊のようにクルリと身を飜すと、非常な勢いでホールを出て行った。百雷の落ちるような凄じい音を立てて階段を駈け降りて行った。
「……ホホ……確証を掴んだシャロック・ホルムズ……義憤に駈られたアルセーヌ・ルパン、ホホホホホハハハハハ……」

 星だらけの空を真黒く区切った樫の木立の中に燈火(ともしび)を消した轟家は人が居るか居ないか、わからない位ヒッソリとしている。表門に貼付けた「不幸中に付家人一切面会謝絶」と書いた白紙が在るか無いかの風にヒラヒラと動いているきりである。
 これに反してお庭の隅の常春藤(きづた)に蔽われたバンガロー風の小舎には燈火(ともしび)がアカアカと灯(とも)って、しきりに人影が動いている。
 非常な勢いで帰って来た江馬兆策が、妹の出したお茶も飲まない無言のまま、ガタンピシンと戸棚を引開けて、あらん限りの服、帽子、靴、ズボン吊、トランクを引ずり出して旅支度を初めたのを、妹の美鳥(みどり)がしきりに心配して止めているのであった。
「まあ……お兄様ったら……気でもお違いになったの……」
感謝(コオマプソ)感謝(コオマプソ)。心配しなくたっていいんだ。気も何も違ってやしない」
「だってイツモのお兄様と眼の色が違うんですもの……まるで確証を握ったシャロック・ホルムズか義憤に猛り立つアルセエヌ・ルパンみたいよ。ホホホ。どうなすったの……一体」
「黙って見てろったら。非常な重大事件だから……お前が関係しちゃイケナイ問題なんだから絶対に局外中立の態度で、黙って見てなくちゃイケナイ重大事件なんだからね」
「わかっててよ。それ位の事……轟さんのお家(うち)の事でしょう」
「そうなんだよ。ホントの犯人がわかりそうなんだよ。そいつを僕が突止める役廻りになったんだよ」
「だからウイスキー曹達(ソーダ)を、お引っくり返しになったの……」
「ゲッ……お前見てたのかい」
「ホホホホ。ビックリなすったでしょ」
 兆策は自然木の椅子にドッカと尻餅を突いた。気抜けしたように溜息をして取散らした室内を見まわすと、醜い顔に不釣合な大きな眼をパチパチさせた。
「……ど……どうして聞いたんだい。タッタ今帰って来たばかりなのに……」
 美鳥は淋しく笑いながら向い合った椅子に腰を降ろした。
「何でもないことよ。妾だって今度の轟さんの事件ではずいぶん頭を使っているんですもの。ホントの犯人が誰だか色々考えているうちに、万一貴方が疑われるような事になったらドウしようと思って一生懸命に考えまわしていたのよ」
「フーン。どうして二人に嫌疑がかかるんだい」
「お兄さん御存じないの。昨夜(ゆんべ)十二時頃、轟さんと呉羽さんとが、支配人の眼の前で大喧嘩をなすった事を……」
「知らなかったよ。俺はその頃お前と二人で、ここで茶を飲んでいたんだから」
「ええ。そうよ。ですから妾も知らなかったんですけどね。小間使のイチ子さんが今朝(けさ)になって、その事をおヨネさんに話したんですって……そうしたらおヨネさんがビックリしちゃってね。その喧嘩の話は決して喋舌(しゃべ)っちゃイケナイって云ってねあの女(ひと)、自分がオセッカイのお喋舌(しゃべり)のもんですから、イチ子さんにシッカリと口止めをしといてから、わざわざやって来てソッと私に知らしてくれたのよ。こちらでも気(け)ぶりにも出さないようにして下さいってね。おかアしな女(ひと)よ。おヨネさんたら……ホホホ。あたし最初、何の事だかわかんなかったわ」
「ああ。その話かい。今朝(けさ)、台所で暫くボソボソやっていたのは……一体何の喧嘩だい。轟さんと呉羽さんと言い争った原因というのは……」
「妾たち二人を追い出すとか出さないとかいう話よ」
「ナニ……俺たちを追い出す……?……」
「ええ。そうなんですって。何故だかわかんないんですけど」
「……ケ……怪(け)しからん。俺は今まであの轟をずいぶん助けてやっているのに……」
「……そんな事云ったって駄目よ。御恩比べなんかすると馬鹿になってよ」
「馬鹿は最初から承知しているんだ。向うはホンの些(ちっ)とばかりの金を出してくれただけだ。それに対してこちらは、お金で買えない天才を提供しているじゃないか。しかも有らん限りの生命(いのち)がけで……」
「お兄さん馬鹿ね。そんな事云ったって誰も相手にしやしませんよ」
「一体ドッチが俺たちを追い出すと云うんだ」
「轟さんが追い出すって云うのを呉羽さんが、理由なしにソンナ事をしてはいけないってね。泣いて止めていらっしたそうよ」
「当り前だあ」
「当り前だかドウだか知りませんけどね。もしソンナ話があったのを妾たちが聞いたって事が警察にわかったら大変じゃないの。お兄さんの極端に激昂し易い性格は、みんな知っている事だし、あの家(うち)の案内は残らず御存じだし……万一、疑いがかかったら大変と思ってね妾ずいぶん心配したのよ」
「馬鹿な……俺はソンナ馬鹿じゃない」
「だって今みたいに昂奮なさるじゃないの……話がわかりもしない中(うち)に……」
「……ウウン……それあ……そうだけど……」
「……ね……ですから妾は直ぐにアリバイの説明の仕方や何かについて考えたわ。……ずいぶん苦心したことよ」
「そんな事は苦労する迄もないじゃないか。昨夜(ゆうべ)はチャントここに寝てたんだから……」
「まあ。そんなアリバイが成立する位なら苦心しやしないわ。お兄さんたら探偵作家に似合わない単純な事を仰言るのね。でもその寝ていらっしゃるところを誰か他所(よそ)の人が夜通し寝ないで見ていなくちゃ駄目じゃありませんか。妹の妾が証明したんじゃ証明にならないんですからね。それ位の事は御存じでしょう。貴方だって……」
「ウム。そんならドンナアリバイを考えたんだい」
「それがなかなか考えられないのよ。ですからね。今夜、貴方がお帰りになったら、よく相談しましょうと思って待っていたら、イツモの十一時になってもお帰りにならないでしょ。劇場(こや)の方へ電話をかけてみたら、もうお芝居はトックにハネちゃって、呉羽さんと二人でお帰りになったって云うでしょう。ですからテッキリあのアルプスに違いないと思って電話をかけたらテッキリなんでしょう。ですからその電話に出たボーイさんに頼んであすこの受話機を……ちょうど貴方の背後(うしろ)に在る木の空洞(うつろ)の中の卓上電話を外しっ放しにして受話機を貴方の方に向けておいてもらったのよ。ですから貴方と呉羽さんのお話が何もかも筒抜けに聞えたのよ。あの家(うち)はいつもシーンとしているんですからね」
「エライッ。名探偵ッ……握手して下さいッ」
「馬鹿ね。お兄さま……あの女(ひと)の云う事、信用していらっしゃるの……」
「あの女(ひと)って誰だい」
「誰って彼女(あのひと)以外に誰も居なかったじゃないの……」
「呉羽さんが僕と結婚してもいいって話かい」
「ええ。あれは絶対に信用なすっちゃ駄目よ」
「エッ……どうして……」
「どうしてったって呉羽さんは、お兄さんと結婚してもいいって事をハッキリ仰言りやしなかったわ」
「……………」
 兆策は額を押えて椅子に沈み込んだ。
「フ――ム。そうかなあ……」
「そうよ。彼女(あのひと)の話は陰影がトテモ深いんですから、用心して聞かなくちゃ駄目よ。たといソンナ事をハッキリ仰言ったにしても、それあ嘘よ……キット……」
「どうしてわかるんだい。そんな事が……お前に……」
「女の直感[#底本では「直観」と誤記]よ。……第三者の眼よ……」
「それだけかい……」
「それだけでも十分じゃないの。あたし……あの呉羽って女(ひと)……キット深刻な変態心理の持主だと思うわ」
「直感でかい」
「いいえ。色んな事からそう思えるのよ。第一あの女(ひと)は貴方がホントに好きなんじゃない。妾が好きなのよ……それも死ぬほど……」
「ナ何だって……真実(ほんと)かいそれあ……」
 兆策は飛上らんばかりにして坐り直した。

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