不明の兇漢に[#1回り大きな文字]
探偵劇王刺殺さる[#2回り大きな文字]
孤児となった女優天川呉羽(あまかわくれは)哭(な)いて復讐を誓う
[#次3行は、文字はゴシック体、罫線は全て波線]
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│ 秘密を孕む怪悲劇 │
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市内大森区山王×××番地轟(とどろき)九蔵氏(四四)は帝都呉服橋電車通、目貫(めぬき)の十字路に聳立(しょうりつ)する分離派式五層モダン建築、呉服橋劇場の所有主、兼、日本最初の探偵恐怖劇興行者、兼、現代稀有の邪妖劇名女優、天川呉羽(あまかわくれは)嬢の保護者として有名であったが、昨三日(昭和×年八月)諾威(ノルエー)公使館に於ける同国皇帝誕辰(たんしん)の祝賀莚(えん)に個人の資格を以(もっ)て列席後、大森山王×××番地高台に建てられたる同じく分離派風の自宅玄関、応接間に隣る自室に於て夜半まで執務中、デスク前の廻転椅子の中で、平生同氏が机上にて使用していた鋭利な英国製双刃(もろは)の紙切ナイフを以て、真正面より心臓部を刺貫され絶命している事が、今朝十時頃に到って発見された。急報により東京地方裁判所より貝原検事、熱海(あたみ)予審判事、警視庁の戸山第一捜索課長以下鑑識課員、大森署より司法主任綿貫(わたぬき)警部補以下警察医等十数名現場(げんじょう)に出張し取調(とりしらべ)を行ったが、発見者である同家小間使市田イチ子の報告により真先に死骸の傍へ駈付けた天川呉羽嬢が慟哭して復讐を誓ったにも拘わらず、犯人の目星容易に附かず。目下同邸を捜索本部として全力を挙げて調査中である。
[#ここから1字下げ]
因(ちなみ)に轟九蔵氏の原籍地は神奈川県鎌倉町長谷(はせ)二〇三となっているが、同所附近で氏の前身を知っている者は一人も居ない。大正十年頃より三四歳の娘(今の天川呉羽嬢、本名甘木(あまき)三枝(一九)本籍地静岡県磐田(いわた)[#底本では「盤田」と誤記]郡見付(みつけ)町××××番地)を連れて各地を遍歴したる後(のち)上京し、株式に手を出して忽ち巨万の富を作った。その中(うち)に三枝嬢が成長し、人も知る如き美人となったのを手中の珠と慈(いつく)しみ、同嬢のために小規模ながら大森に現在の豪華な住宅を建ててやって同居し、毎日のように同嬢を同伴して各種の興行物を見に行く中(うち)に、同氏自身、興行に興味を覚え、昭和五年の春、呉服橋劇場が不況に祟られて倒産したものを、同劇場の支配人笠圭之介(りゅうけいのすけ)氏に勧められるまにまに買収し、甘木三枝嬢こと女優天川呉羽をスターとする一座を組織し、且、新進探偵小説家江馬兆策氏を自宅の片隅に住まわせて、同氏に同劇場の脚本を一任し、巴里(パリー)グラン・ギニョール座に傚(なら)い探偵趣味、怪奇趣味の芝居で当てるつもりであったところ、当初の三四回の成功を見たのみで爾後一向に振わず、一部少数ファンの支持を除き、一般人士には早くも飽かれてしまったらしい。そのために財産の大部分を喪い四苦八苦の状態に陥ったまま今回の兇変に遭ったもので、兇行の原因等の一切も同時に秘密の奥に封殺された形になっている。勿論、遺書等も無いらしく、劇場の権利等の遺産は多分天川呉羽嬢のものとなる模様であるが、気の毒にも同嬢は肉親の父親と同様の保護者を喪い、手も足も出ない天涯の孤児となってしまったので一般の同情を集めている。
惜しい好敵手[#2回り大きな文字]
段原興行王 談[#ゴシック体、地付き、地より2字あげ]
それは意外な事です。気の毒な事でしたね。私にとっては唯一の好敵手を死なしたようなものです。どうしてどうして。素人上りとは思えませんよ。あの種類の芝居を、あそこまでコナシ付けて来るのは尋常一様の凄腕で出来る事ではありません。私も内心で兜(かぶと)を脱いでおりました。元来轟君は金持に似合わない精悍(せいかん)な、腕力と自信の持主で、株式界にいた頃でも百折不撓の評判男だったそうです。劇界に転じても商売柄、各種の暴力団等に脅やかされた事が度々であったのをその都度、自身で面会して武勇伝式の手段で追っ払って来た位で、強気一方の人物でしたが惜しい事でしたな。天川呉羽さんの芸ですか。あれは大した天分ですね。あんな人は二人と居りませんよ。とにも角にもあの芝居だけは止めてもらいたくないものです。仏蘭西(フランス)と日本だけですからね。大東京の誇りと云ってもいいものですからね。云々。
[#ここで字下げ終わり]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~[#波罫線]
八月四日の午後四時頃、大森山王の一角、青空に輝く樫(かし)の茂みと、ポプラの木立に包まれた轟邸の玄関の豪華を極めた応接室で、接待用らしいMCCを吸いながら、この夕刊記事に額を集めていた二人の巡査が、同時に読終ったらしく顔を上げた。どちらも大森署の巡査であるが、一人は猪村(いむら)といって丸々したイガ栗頭。大兵(たいひょう)肥満の鬚男(ひげおとこ)で、制服が張千切(はちき)れそうに見える故参(こさん)格である。これと向い合って腰を卸(おろ)した文月(ふづき)というのは蒼白い瘠せこけた、貧弱そのものみたいに服のダブダブした新米巡査で、豊富な頭髪を綺麗に分けていたが、神経質な男らしくタッタ今読棄てた夕刊の記事を今一度取上げて、最初から念入りに読直し初めた。
猪村巡査はそうした若い巡査の熱心な態度を見ると何かしらニヤリと笑った。腮(あご)一面の無精鬚をゴリゴリと撫でまわして腕時計をチョット覗いたが、やがてブカブカした緞子(どんす)張りの安楽椅子に反(そ)りかえって長々と欠伸(あくび)をした。
「ア――ッと……ここが捜索本部と発表しとるのに、新聞記者が一向遣って来んじゃないか」
「モウ朝刊の記事を取りに来る頃ですがね」
「司法主任はここを本部と見せかけて新聞記者を追払わんと邪魔ッケで敵(かな)わんというて、そのために僕をここによこしたんじゃが、サテは感付かれたかな。近頃の新聞記者はカンがええからのう」
「司法主任は、よほどこの事件を重大視しておられるのですね」
「むろん重大だよ。被害者が被害者だし、事件の裏面によほど深い秘密があるものと睨んでいるのだからね」
「それにしては新聞記事の本文がアンマリ簡単過ぎやしませんか」
「ナアニ。新聞記者にはソンナ気ぶりも匂わしちゃおらんよ。この前よけいな事を素破抜(すっぱぬ)きやがった返報に、絶対秘密を喰わせている。二三人来た早耳の連中が、夕刊の締切が近いので、それ以上聞出し得ずに慌てて帰って行った迄の事よ。しかしそれにしては良く調べとる。コチラの参考になる事が多いようだねえ」
「ヘエ。つまりこの新聞記事以外の事は、わかっていないんでしょうか」
「馬鹿な。まだまだ重大な秘密がわかっているんだよ」
文月巡査の眼がキラキラと光った。
「……ソノ……僕はツイ今しがた、非常で呼出されて来たばっかりで何も知らないんですが。来ると同時に署長殿からモウ帰っても宜しいと云われたんで、実は面喰(めんくら)ったまま貴方(あなた)に従(つ)いて来たんですが」
「見せてやろうか……現場を……」
「ええ。どうぞ……」
「絶対に喋舌(しゃべ)っちゃイカンよ。誰にも……」
「ハイ……大丈夫です」
「よけいな見込を立てて勝手な行動を執(と)るのも禁物だよ」
「……ハイ……要するに知らん顔しておればいいのでしょう」
「……ウン……新米の連中は警察が永年鍛え上げて来た捜索の手順やコツを知らないもんだから、愚にも付かん理屈一点張りで行こうとしたり、盲目滅法(めくらめっぽう)にアガキ廻って却(かえ)ってブチコワシをやったりするもんじゃよ。こっちへ来てみたまえ。ドウセイ退屈じゃからボンヤリしとったて詰まらん。将来の参考に見せてやろう」
「ありがとう御座います」
二人は丸腰のまま応接間をソッと出て、直ぐ隣室になっている廊下の突当りの轟氏の居室(いま)に這入(はい)った。流石(さすが)に豪華なもので東と南に向った二方窓、二方壁の十坪ばかりの部屋に、建物の外観に相応(ふさわ)しい弧型(こけい)マホガニーの事務机(デスク)、新型木製卓上電話、海岸傘(ビーチパラソル)型電気スタンド、木枠正方型巻上(まきあげ)大時計、未来派裸体巨人像の額縁、絹紐煽風機、壁の中に嵌め込まれている木彫(きぼり)寝台の白麻垂幕(ドロンウォーク)なぞが重なり合って並んでいるほかに、綺麗に拭き込んだ分厚いフリント硝子(ガラス)の窓から千万無数に重なり合った樫の青葉が午後の日ざしをマトモに受けてギラギラと輝き込んで来る。盛んに啼いている蝉(せみ)の声も、分厚い豪奢な窓硝子(ガラス)に遮られて遠く、微(かす)かにしか聞こえず、壁が厚いせいであろう、暑さもさほどに感じられない。近代科学の尖端が作る妖異な気分が部屋の中一パイにシンカンとみちみちしている感じである。
「この家(うち)の中は随分涼しいんですね」
「どこかに冷房装置がしてあるらしいね……ところで見たまい。被害者はこの事務机(デスク)の前の大きな廻転椅子に腰をかけていたんだ。コレ。この通り、椅子の背中に少しばかり血が附いとるじゃろう。被害者轟九蔵氏が、昨夜遅く机にかかって仕事をしている最中に、犯人が背後から抱き付いて、心臓をグッと一突き殺(や)ったらしいんだ」
「仲々手練(てだれ)な事をやったもんですなあ」
「ピストルを使わぬところを見ると犯人も何か後暗い疵(きず)を持っていたかも知れんテヤ」
「さあ。どんなものでしょうか」
「とにかく尋常の奴じゃないよ。急所を知っとるんじゃから」
「兇器は……」
「兇器は今、署へ押収してあるが、新聞にも掲(で)ている通りこの机の上に在った鋭い、薄ッペラな両刃(もろは)のナイフだよ。僕もその死骸に刺さっとる実況を見たがね。左の乳の下から背中へ抜け通ったままになっていた。ホラこの通りこの血の塊(かた)まりの陰にナイフの刺さった小さい痕(あと)があるじゃろう」
「刺し方が猛烈過ぎやしませんか」
「むろんだとも。相当、兇悪な奴でも不意打にコレ程深くは刺し得ない筈だよ。それに死骸の表情が非常に驚いた表情じゃったし……」
「ヘエ。殺された当時の表情は、やっぱり死骸に残るものですかなあ。よく探偵小説なんかに書いてありますが」
「残るものか。僕の経験で見ると死んだ当時の表情はだんだん薄らいで、一時間も経つとアトカタもなくなるよ。僕の見た轟氏の死相(しにがお)はスッカリ弛んで、眼を半分伏せて、口をダラリと開けたままグッタリとうなだれて机の下を覗いていたよ。僕の云うのはその手足の表情だ。ハッとして驚くと同時に虚空を掴んだ苦悶の恰好が、そのまんま椅子の肱(ひじ)で支えられて硬直しておったよ。新聞記者には向うの寝台へ寝かしてから見せたがね」
「ナイフの指紋は……」
「無かったよ。犯人は手袋を穿めていたらしいんだね。それよりも大きな足跡があったんだ。モウ拭いてしまってあるが、向うの北向きの一番左側の窓から這入って来たんだね。ところでこの辺では昨夜の二時ちょっと前ぐらいから電光(いなびかり)がして一時間ばかり烈しい驟雨(しゅうう)があったんだが、その足跡は雨に濡れた形跡がない。ホコリだらけの足跡だからツマリその足跡の主は推定、零時半乃至(ないし)一時四十分頃までの間にあの窓から這入って来た事になる。ところで又その足跡が頗(すこぶ)る珍妙なんで、皆して色々研究してみたがね。結局、地下足袋か何かの上から自動車のチュウブ類似のゴム製の袋をスッポリと穿めて、麻糸らしい丈夫なものでグルグルと巻立てた頗る無恰好な、大きな外観のものに相違ない。それもこの家の向う角の暗闇の中で準備したものに違いない事が、そこに落ちていた麻糸の切屑で推定される……という事にきまったがね」
「手がかりにはなりませんね。それじゃあ」
「ならんよ。よく郊外の掃溜や何かに棄ててある品物だからね。なかなか考えたものらしいよ。探偵劇の親玉の処へ這入るんだからね。ハハハ……」
「最初に発見したのは小間使の……エエト……何とか云いましたね……」
「市田イチ子だろう。まだ十七八の小娘だがね。サッキ僕等を出迎えていたじゃないか……気が附かなかった……ウン。その市田イチ子が今朝(けさ)十時半過ぎだったと云うがハッキリしたことはわからん。毎朝の役目で今這入って来た扉(ドア)をたたいて主人の轟氏を起しにかかったが、何度たたいても、声をかけても返事がない。部屋の中が何となく静かで気味が悪いので、台所女中の松井ヨネ子[#底本では「子」が脱落]という女から合鍵を貰って扉(ドア)を開いてみるとイキナリ現場が見えたのでアッと云うなり扉(ドア)を閉めると、その把手(ハンドル)に縋り付いたまま脳貧血を起してしまった。そいつを朋輩の松井ヨネ子[#底本では「子」が脱落]が介抱して正気付かせて、サテ、扉(ドア)の内側を覗いて見ると、思わず悲鳴を挙げたと云うね。しかも、これは気絶するどころじゃない。キチガイのように喚(わ)めき立てながら二階へ駈上って、女優の天川呉羽に報告した……というのが、あの新聞記事以前の事実なんだがね」
「それからその天川呉羽が泣いて復讐云々の光景をドウゾ……」
「ああ。あれかい。あれは今の松井という台所女中の話が洩れたもので、多少、新聞一流のヨタが混っているよ。第一呉羽嬢は泣きもドウモしなかったというんだ」
「ヘエ。泣かなかった」
「ウン。それがトテも劇的な光景なんで、傍(そば)に立って見ていた今の松井ヨネ子は自分が気絶しそうになったと云うんだ。……ちょうどその時に天川呉羽嬢はチャント外出用の盛装をして二階の自分の部屋に納まっていたそうだが、ヨネ子の報告を聞くとソッと眼を閉じて眉一つ動かさずに聞き終ったそうだ。それから幽霊のような青い顔になって静かに立上ると、音もなくシズシズと階段を降りて、まだ倒れている市田イチ子をソッと避(よ)けながら轟氏の居間に消え込んだ。あとから松井ヨネ子が、又気絶されちゃ困ると思ってクッ付いて這入るのを、呉羽嬢は見返りもせずに死骸に近付いて、血だらけの白チョッキに刺さっている短剣の※(つか)の処と、轟氏の死顔を静かに繰返し繰返し見比べていた……」
「スゴイですね」
「ウン。流石は探偵劇の女優だね。大向うから声のかかるところだよ」
「冗談じゃない……」
「それから今度は今の奇怪な足跡を、自分の足の下から這入って来た窓の方向までズウッと見送ると、轟氏の魂が出て行ったアトを見送るように恭(うやうや)しく肩をすぼめて、心持ち頭を下げた」
「ヘエ。少々変テコですね」
「まあ聞き給え。それからタシカな足取で二三歩後に退(さが)って轟氏の屍体に正面すると両手を合わせて瞑目し、極めて低い声ではあったがハッキリした口調でコンナ事を祈ったそうだ。……轟さん。妾(わたし)が間違っておりました……」
「妾が間違っていた……」
「ウン……「この敵讐(かたき)はキット妾の手で……」と……それだけ云うと又一つ叮嚀に頭を下げてから傍(そば)に立っている松井ヨネ子をかえりみた。普通の声で「お前。支配人の笠(りゅう)さんと大森の警察署へ知らして頂戴ね。御飯はアトでいいから……」という中(うち)に淋しくニッコリ笑ったという」
「ヘエエッ。豪(えら)い女があるものですね。まだ若いのに……」
「ハハハ。感心したかい」
「感心しましたねえ。第一タッタそれだけの間に、犯罪の真相を見貫(みぬ)いてしまったのでしょうか。そんな事を云う位なら警察なんか当てにしなくともいいだけの自分一個の見解を……」
「アハハ。何を云ってるんだい君は……これは彼女の手なんだよ。宣伝手段なんだよ」
「宣伝手段……何のですか」
「プッ。モウすこし君は世間を知らんとイカンね。俳優生活をやっている連中は代議士と同じものなんだよ。ドンナ不自然な機会を捉(とら)まえても自分の名前を宣伝しよう宣伝しようとつとめるのが、彼等の本能なんだ。彼等は舞台や議会だけでは宣伝し足りないんだ。所謂(いわゆる)、転んでも只は起きないというのが彼等の本能みたいになっているので、この本能の一番強い奴が名を成すことを、彼等は肝に銘じているんだよ」
「驚きましたね。そんなに非道(ひど)いものでしょうか」
「論より証拠だ。天川呉羽がコンナ絶好のチャンスを見逃す筈がないんだ。果せる哉(かな)、新聞屋連中はこうした呉羽嬢の芝居に百パーセントまで引っかかってしまって、まるで呉羽嬢の宣伝のために轟氏が殺されたような記事の書き方をしているが、吾々警察官は絶対にソンナ芝居やセリフに眩惑されちゃいけないんだよ。下手な探偵小説じゃあるまいし、名探偵ぶった天川呉羽の御祈りの文句なんかを考慮に入れたり何かしたら飛んでもない間違いを起すにきまっているんだからね。誰も相手にしてやしないよ」
「成程(なるほど)ねえ。わかりました。しかし、それにしても、まだわからない事が多いようですね」
「何でも質問してみたまえ。現場に立会ったんだから知ってる限り即答出来るよ」
「第一……にですね。あの窓を明(あ)けて這入って来た犯人が、どうしてわからなかったのでしょう被害者に……」
「ウム。豪(えら)い……そこが一番大切な現実の問題なんだよ。同時に司法主任、判検事も、首をひねっているところなんだよ。あの通り窓の締りは、捻込(ねじこ)みの真鍮棒になっとるし、あの窓枠の周囲には主人の轟氏以外の指紋は一つも無い。しかも、それがあの窓に限って念入りに、ベタベタと重なり合って附いているのだから変梃(へんてこ)だよ。よっぽど特別な……或る極めて稀な場合を想像した仮説以外には、説明の附けようがないのだ」
「ヘエ。轟氏がお天気模様か何かを見たあとで締りをするのを忘れていたんじゃないですか」
「どうしてどうして。被害者は平生から極めて用心深くて、寝がけに女中に命じて水を持って来させる時に、一々締りを附けさせるし、そのアトでも自分で検(あらた)めるらしいという厳重さだ」
「それじゃ家内の者が開けて、加害者を這入らせたとでもいうのですか」
「つまりそうなるんだ……という理由はほかでもない。この事務机(デスク)の右の一番上の曳出(ひきだし)に一梃のピストルが這入っていた。それも旧式ニッケル鍍金(めっき)の五連発で、多分、明治時代の最新式を久しい以前に買込んだものらしい。弾丸(たま)も手附かずの奴が百発ばかり在ったが、それを毎日毎日手入れをしておった形跡があるのじゃから、被害者の轟氏はズット以前から何か知ら脅迫観念に囚(とら)われておったことがわかる。それが仮りに他人から怨(うらみ)を受けているものとすれば、やはりピストルと同じ位に古い因縁であったばかりでなく、毎日毎日手入れをしておかなければならぬ位ヒドイ怨みであった事が想像出来るじゃろう。ところでその轟氏が恐れている相手が、向うの窓を轟氏の手で開けさせて這入って来たのに、轟氏はそのピストルを手にしておらぬのみならず、自分で窓の締りをあけて導き入れたものとすれば、その人間は被害者の轟氏にとって、よっぽど恐ろしい人物であったという事になる」
「そんなに恐ろしい脅迫力を持った人間が、この世の中に居るものでしょうか。自分を殺しかねない相手という事が、被害者にわかっていれば尚更じゃないですか」
「そこだよ。そこに何となく大きな矛盾が感じられるからね。判検事も司法主任も相当弱っていたらしいんだが、間もなくその矛盾が解けたんだ」
「ほう……どうしてですか」
「わからんかい」
「わかりませんねトテモ。想像を超越した恐ろしい事件としか思えませんね。これは……」
「ナアニ。それ程の事件でもなかったんだよ」
「ヘエ。どうしてわかったんです」
「その事務机(デスク)の曳出(ひきだし)を全部調べたら、右の一番下の曳出から脅迫状が出て来たんだ」
「ホオー。何通ぐらい出て来たんですか」
「それがソノ……タッタ一通なんだ。僕はよく見なかったが、司法主任の横からチョット覗いてみると普通の封緘(ふうかん)ハガキに下手な金釘(かなくぎ)流でバラリバラリと書いたものじゃったよ。表書(うわがき)は単に大森山王、轟九蔵様と書いて、差出人の処書(ところがき)も日附も何もない上に、消印(スタムプ)がドウ見てもハッキリわからん。一時は良かったが近頃の郵便局の仕事はドウモ粗慢でイカンね。司法主任はスッカリ憤(おこ)っとったよ。当局に申告して消印(スタムプ)のハッキリせぬ集配局を全国に亘って調べ出してくれると云っておったが……」
「中味にはドンナ事が書いてあったんですか」
「ただコレだけ書いてあった。大正十年三月七日……芝居ではないぞ……と……」
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