チャッカリ小僧
「……ウヌ……逃げたナ……」
と云ううちに交通巡査も、物蔭に隠しておいた自働自転車を引ずり出して飛乗った。爆音を蹴散らして箱自動車の跡を追った。見る見るうちに街路の向うの……ズウット向うの方へ曲り曲って見えなくなってしまった。
呆気に取られて見送っていた野次馬連は、そこでやっと吾に帰ったらしく、顔を見合わせてゲラゲラ笑い出した。吾輩も可笑しくなったので、血を滴らし始めている貴婦人の鼻の頭を、運転手が置いて行った小さなノートブックの間から出て来た二三枚の名刺で押えてやりながらアハアハアハと笑い出した。
「奥さん奥さん。いい加減に起きて歩いたらどうです。いつまでもここに寝てたって際限がありませんよ」
と片手で貴婦人の肩を揺り動かしてみた。
「無理だよソレア……先生。死んでんだもの……」
皆がドッと笑い出した。貴婦人の両眼から涙がニジミ流れ始めた。人生コレ以上の悲惨事は無い。自分の死骸に対して世間の同情が全く無い事を知った美人の気持はドンナであろう。どうも弱った事になって来た。そのうちにどこかの茶目らしいクリクリ頭に詰襟服の小僧が、群集の背後から一枚の紙片を拾って来て、吾輩の眼の前に突出した。
「先生。これあ今の紙じゃないですか」
「ウン吾輩が書いてやった処方だ。運転手が逃げがけに棄てて行ったものらしいな。交通巡査は流石に眼が早い」
「だって先生。名刺の挟まったノートを落して行ったんじゃ何にもならないでしょう」
鳴りを鎮めていた群集が又笑い出した。
「ウーム。豪いぞ小僧。今に名探偵になれるぞ」
「……そ……そんなんじゃありません」
「そんなら済まんがお前、その薬を買って来てくれんか。そこに落ちているこの奥さんのバッグに銭が這入っているだろう」
「だって……だって。そんな事していいんですか」
「構わないとも。早く買って来い。奥さんが死んじゃうぞ」
と背後の方から野次馬の一人が怒鳴った。しかし小僧はなおも躊躇した。
「ちょっと待って下さい。何と読むんですか。この最初の字は……」
「うん。それはトンプクと読むんだ」
「トンプク……ああわかった。頓服か……ええと……メートル酒十銭……」
「馬鹿。メントール酒と読むんだ。早く行かんか」
「待って下さい。薬屋で間違うといけねえから、その次は?」
「ナカナカ重役の仕込みがいいな貴様は……チャッカリしている。それは硼酸軟膏と万創膏と脱脂綿だ。薬屋に持って行けばわかる。早く行け、この奥さんの鼻の頭に附けるんだ」
「オヤオヤア。いけねえいけねえ。これあ駄目ですよ先生……」
「何が駄目だ」
「チャアチャア。このバッグの中には銭なんか一文も無えや。若い男の写真ばっかりだ。ウワア……変な写真が在ライ」
と云いも終らぬうちに塵埃だらけになって転がっていた狸婦人が鞠のように飛上った。茶目小僧の手から銀色のバッグを引ったくるとハンカチで鼻を押えたまま一目散に電車道を横切って、向うの角のサワラ百貨店の中に走り込んで行った。アトから犬が主人の一大事とばかり一直線に宙を飛んで行ったが、その狸婦人の足の早かったこと……。
野次馬がドッと笑い崩れた。
「ナアンダイ。聞いてやがったのか」
「向うの店で又引っくり返りゃしねえか」
「行って見て来いよ。小僧。引っくり返えってたらモウ一度バッグを開けてやれよ。中味をフン奪くって来るんだ。ナア小僧……」
「なあんでえ。買わねえ薬が利いチャッタイ」
ワアワアゲラゲラ腹を抱えている中を、吾輩は悠々と立去った。全く助かったつもりでね。
ところが助かっていなかった。女の一念は恐ろしいもんだ。それから間もなくの事だ……。
混凝土令嬢
「アラッ。鬚野さん……鬚野先生……センセ」
どこからか甲高い、少々媚めかしい声が聞こえて来た。吾輩はバッタリと立止まった。バッタリというのは月並な附け文句ではない。吾輩が立止るトタンに両脚を突込んでいる片チンバのゴム長靴が、実際にバッタリと音を立てたのだ。序に水の沁み込んだ靴底に吸付いた吾輩の右足の裏が、ビチビチと音を立てたが、これは少々不潔だから略したに過ぎないのだ。
吾輩は空気抜の附いた流行色の古山高帽を冠り直した。裸体一貫の上に着た古い二重マントのボタンをかけた。
通りがかりのルンペンを呼ぶのに最初「サン」附けにして、あとから一段上の先生なんかと二た通りに呼分けるなんて油断のならぬ奴だ。況んやそれが若い、媚めかしい声なるに於いてをや……といったような第六感がピインと来たから、特別に悠々と振返った。
それはこの町の郊外に近い、淋しい通りに在る立派なお屋敷であった。主人はこの町の民友会の巨頭株で、市会議員のチャキチャキで、ツイ四五週間前のこと、目下百余万円を投じて建設中の、市会議事堂のコンクリートを噛り過ぎた酬いで、赤い煉瓦の法律病院に入院して、新聞と検事に背中をたたかれたたかれ財産と臓腑の清算、尻拭い中である。その奥さんは、その亭主の尻拭い紙である色々な重要書類を紛失したのを苦にして、発狂して死んでしまった……と云ったら誰でも「ああ。あの混凝土野郎か」と云うであろう。
その混凝土氏こと、山木勘九郎氏邸の前を通ると、鬱蒼たる樫の木立の奥に、青空の光りを含んだ八手の葉が重なり合って覗いている。その向うにゴチック式の毒々しい色硝子を嵌め込んだ和洋折衷の玄関が、贅沢にも真昼さなかから電燈を点けて覗いているもう一つ向うに、コンクリートの堂々たる西洋館が聳えているところを見ると、如何にも容易ならぬ金持らしい。ちょっと忍び込んでみたくなる位である。多分、あの樫の木の闇がりが御自慢なのであろうが、混凝土を喰った証拠に混凝土の家を建てるのはドウカと思う。……なぞと詰まらない反感を起しながら門の前を通り過ぎようとしているところへ、その鬱蒼たる樫の木闇がりの奥から聞こえたのが今の呼声だ。
コンナ立派な家の中から、あんな綺麗な声で呼ばれるおぼえは無い。間違いではなかったかなと思っているところへ、門の中から花のような綺麗な、お嬢さんの姿があらわれた。
年の頃十八九の水々しい断髪令嬢だ。黒っぽい小浜縮緬の振袖をキリキリと着込んで、金と銀の色紙と短冊の模様を刺繍した緋羅紗の帯を乳の上からボンノクボの処へコックリと背負い上げて、切り立てのフェルト草履の爪先を七三に揃えている恰好は尋常の好みでない。眼鼻立が又ステキなもので、汽船会社か、ビール会社のポスター描きが発見したら二三遍ぐらいトンボ返りを打つだろう。
そいつがニッコリ笑うには笑ったが、よく見ると顔を真赤にして眼を潤ませている。まさか俺に惚れたんじゃあるまいが……と思わず自分の顔を撫でまわしてみたくらい、思いがけない美しい少女であった。
「何だ……吾輩に用があるのか」
「……エ……あの。ちょっとお願いしたい事が御座いますの」
と云ううちに、しなやかな身体をくねくねという恰好にくねらせた。しきりに顔を真赤にして自分の指をオモチャにしている。
「……ハハア。犬が欲しいんか」
まさかと思って冷やかし半分に、そう云ってみたのであったが、案外にもお合羽さんが、如何にも簡単にうなずいた。
「ええ……そうなんですの」
「ほオ――オ。お前が動物実験をやるチウのか」
「……アラ……そうじゃないんですの……」
「ふむ。どんな犬が欲しい」
「それが……あの。たった一匹欲しい犬があるんですの」
「ふむ。どんな種類の……」
「フォックス・テリヤなんですの。世界中に一匹しか居ない」
「ウワア。むずかしい註文じゃないか」
「ええ。ですからお願いするんですの」
「ふうん。どういうわけで、そんなむずかしい仕事を吾輩に……」
「それにはあの……ちょっとコミ入った事情がありますの。ちょっとコチラへお這入りになって……」
と云ううちにイヨイヨ真赤になった。今度は平仮名の「く」の字から「し」の字に変った。打棄っておくと伊呂波四十八文字を、みんな書きそうな形勢になって来たのには、持って生れたブッキラ棒の吾輩も負けちゃったね。今に「へ」の字だの、「ゑ」の字だのを道傍で書かれちゃ大変だと思ったから、悠々と帽子を取って一つ点頭いてみせると、お合羽さんは振袖を飜えして門の内へ走り込んだ。お尻の上の帯をゆすぶりゆすぶり玄関の扉を開いて、新派悲劇みたいな姿態を作って案内したから吾輩も堂々と玄関のマットの上に片跛の護謨靴を脱いで、古山高帽を帽子掛にかけた。お合羽さんが自分の草履と、吾輩の靴を大急ぎで下駄箱に仕舞うのを尻目に見ながら堂々と応接間に這入った。
「失礼じゃがマントは脱がんぞ。下は裸一貫じゃから」
「ええ。どうぞ……」
廃物豪華版
応接間の構造は流石に当市でも一流どころだけあって実に見事なものであった。天井裏から下った銀と硝子の森林みたような花電燈。それから黒虎斑の這入った石造の大煖炉。理髪屋式の大鏡。それに向い合った英国風の風景画。錦手大丼と能面を並べた壁飾。その下のグランド・ピアノ。刺繍の盛上った机掛。黄金の煙草容器。銀ずくめの湯の音をジャンジャン立てているサモワルに到るまで、よくもコンナに余計な品物ばかり拾い集めたものである。乞食の物置小屋じゃあるまいし……とすっかり軽蔑してしまったが……もっとも余計な品物を持っている点に於ては吾輩も負けないつもりだ。冠っている山高から、ボロ二重マント、穿いている長靴は勿論の事、その中に包まれている吾輩、鬚野房吉博士の剥身に到るまで一切合財が天下の廃物ならざるはなし。コンナ豪華な応接間の緞子と真綿で固めた安楽椅子の中に坐らせるのは勿体ないみたいなもんだが、しかし、その贅沢品の豪華版の中から生まれ出たような断髪の振袖令嬢が、その廃物ずくめのルンペンおやじに、大切な用があると仰言るんだから世の中は不思議なもんだ。一つ御免蒙って御神輿を卸してみよう。そうして銀のケースの中から葉巻を一本頂戴してみる事にしてみよう。
断髪令嬢が素早く卓上のライタを取上げて器用に火をつけてくれた。その物腰をみるとチョット珈琲店の女給さんみたいな気がして、手が握りたくなったが止した。
それから断髪令嬢は卓上のサモワルから馴れた手附で珈琲を入れて、吾輩にすすめてくれたが、その容器を見ると、ここが断然カフェーでない事を覚らせられた。そこいらにザラにある珈琲茶碗じゃない。舶来最極上の骨灰焼だ。底を覗いてみると孔雀型の刻印があるからには勿体なくもイギリスの古渡りじゃないか。一つ取落しても安月給取の身代ぐらいはワケなく潰れるシロモノだ。吾輩はルンペンではあるが、有閑未亡人の侍従をやっていたお蔭でソレ位のことはわかる。亜米利加の名探偵フィロ・ヴァンスみたいな半可通とはシキが違うんだ。
「……わたくし……父が御承知の通りの身の上で御座いまして……わたくし迄も世間から見棄てられておりまして……お縋りして御相談相手になって下さるお方が一人も御座いませんの」
「フムフム……尤もじゃ」
「みんな世間の誤解だから、心配する事はないと、父は申しておりますけど……」
吾輩は鷹揚にうなずいて見せた。誤解にも色々ある。とんでもない売国奴が、無二の忠臣と誤解されている事もあれば、純忠、純誠の士が非国民と間違えられる事もある。警察に引っぱられたカフェーの女給が、華族の令嬢に見られる事もあれば、いい加減な派出婦が万引したお蔭で、貴婦人と間違えられる事もある世の中だ。吾輩なんかは乞食以下の掻攫いルンペンと誤解されている世界的偉人だ……と云ってやりたかったが、折角、花のような姿をして葉巻や珈琲を御馳走してくれるものを泣かしても仕様がないと思って黙っていた。
「世間ではナカナカそう思ってくれないので御座いますの」
吾輩は今一つうなずいた。そう云う令嬢の眼付を見ると、どうやら父親の無罪を確信しているらしい態度である。吾輩はグッと一つ唾液を嚥み込んだ。
「いったいお前の父親は、ほんとうに市会議事堂のコンクリートを噛ったんか」
「いいえ。断然そんな事、御座いません。この家を建てた請負師の人が、偶然にかどうか存じませんが、市会議事堂を建てた人と同じ人だったもんですから、そんな誤解が起ったんです。ですから妾、口惜しくって……」
「成る程。そんならお前の父親が、この家の建築費用をチャント請負師に払うた証拠があるんかね」
「ええ。御座いましたの。そのほかこの応接間の品物なんかを買い集めた支払いの受取証なぞを、みんな母が身に着けて持っていたので御座いますが、それがどこかで盗まれてしまいまして、その受取証や何かがみんな反対党の人達の手に渡ったらしいんですの。ですから反対党の人達は大喜びで、そんな受取証を握り潰しておいて、父がそんなものを賄賂に貰ったように検事局に投書したらしゅう御座いますの。ですから検事局でも、その受取証を出せ出せって責められたそうですけど、父はその事に就いて一言も返事をしなかったもんですから、とうとう罪に落ちてしまいました」
「成る程、わかった。堕落した政党屋の遣りそうな事だ」
「父は、それですから、母にその証文を入れたバッグを出せ出せって申しますけども、どうしても母が出さなかったので御座います」
「成る程。それは又おかしいな」
「ええ。でもおしまいには、とうとう母が白状致しましたわ。亡くなります二三日前の晩に、すこし気が落ち附きますと、それまで肌を離さずに持っていたバッグを父に渡しました。けれども中味は空っぽで御座いました。その時から一週間ばかり前にどこかで自動車に突飛ばされて倒れた拍子に、そのバッグの中味を誰かに見られて奪られてしまったらしいんですって……その人が反対党の手先か何かだったに違いないって母は申しておりましたが……ほんとに申訳ない、口惜しい口惜しいって申しておりましたが……」
そう云って吾輩を見上げた令嬢の眼に一点の露が光った。ナカナカ親孝行な娘だ。今度は抱上げて頭を撫でてやりたくなった。
「そこでアンタはそのお父さんに対する世間の誤解を晴らそうと思うているわけじゃね」
「そうなんですの……駄目でしょうかしら……」
なかなか大胆な娘らしい。決心の色を眉宇に漲らしている。
犬のダニ
「さあ。ちょっとむずかしいなあ。世間の誤解という奴は犬のダニみたいなものじゃから……」
「まあ……犬のダニ……」
「そうじゃ。犬のダニみたいに、勝手に無精生殖をしてグングン拡がって行くもんじゃからね。皮膚の下に喰込んで行くのじゃから一々針で掘った位じゃ間に合わんよ。ウッカリ手を出すとこっちの手にダニがたかって来る」
「まったくですわねえ」
「ジャガ芋の茹で汁で洗うと一ペンに落ちるもんじゃが」
「まあ。ジャガ芋をどう致しますの」
「アハハ。それは犬のダニの話じゃ。鉄筋コンクリートなんぞに喰い込んだダニなんちいうものはナカナカ頑強で落ちるもんじゃない。七十五日ぐらいジッと辛抱しているとダニの方がクタビレて落ちてしまう事もあるが……」
「それがその七十五日なんか待ち切れないので御座いますの。その中でも或るタッタ一人の方の誤解だけは是非とも解いてしまいませんと、わたくしの立場が無くなるんですの。……でも……それがタッタ一匹の犬から起った事なのですから……スッ……スッ……」
令嬢の眼からポロリポロリと光る水玉が辷り落ち初めた。
どうも考えてみると変った娘があればあるものだ。通りがかりのルンペン親爺を応接間に引っぱり込んで最極上の葉巻と珈琲を御馳走して、生命よりも大切な涙をポロポロ落して見せるなんて、だいぶ常識を外れている。ことによるとこの少女はキチガイの一種である早発性痴呆かも知れないと思った。
「ハハア。面白いワケじゃな……一匹の犬に関係している。タッタ一人の誤解が……」
「そうなんですの……そのタッタ一人の方に誤解される位なら妾死んだ方がいいわ……スッ……スッ……」
「ちょっと待ってくれい。もうすこし落付いてユックリ事情を話してみなさい」
お惚気豪華版
それから断髪令嬢がシャクリ上げシャクリ上げ話すところを聞いているうちに、やっと事情が判明って来た。この断髪令嬢は本名を山木テル子さんという山木氏の一人娘で、エース女学校を去年卒業したばかりの才媛である。二年前に前外務大臣唖川伯爵の令息で、唖川歌夫という外務省情報部勤務の青年と婚約が出来ているのが、父親山木混凝土氏の疑獄事件で、そのままになっているという。
ところで、その唖川歌夫という青年外交官は、嘗てその婚約時代に和蘭、独逸、瑞西を遊学してまわった事があるが、その帰朝土産に仏蘭西は巴里の犬の展覧会から、何万法か出して買って来た世界第一、無類飛切というフォックス・テリヤのお手本みたような仔犬を一匹持って来て令嬢に与えた。
「式を挙げるまで、これを僕と思って可愛がって下さい」
という婚約者のお手本みたいな甘ったるい文句附きであったが、その犬の特徴というのは、ピアノを弾き初めると妙に眼を白くして天井を見てアクビみたいな声を出して、アウーアウーと合唱する。そのほかABCのカード拾いだの、十以下の計算の答えをカードで出したりするので、令嬢はそれこそ有頂天になって、名前をUTAと名付けて、手の中の玉みたいに可愛がって夜は一緒に抱いて寝る。眼が醒めると、
「サア。ウーちゃん御飯をお上り」
と頭を撫でてやる。お客様が来ると直ぐに連れて来て芸当をやらせる。お客様が感心すると抱き寄せて頬ずりをしてやる。
「ねえ、随分怜悧でしょ。これ唖川小伯爵から頂いたのですよ。ねえねえウーちゃん。アラアラ眼脂が出ているわよ」
なんかと云って嘗めてやらんばかりにして見せるので大抵のお客が驚いて帰ってしまう。夜となく昼となく甘ったるい言葉ばかりかけるので実の両親までもが、朝から晩までエヘンエヘンと云っていたという。
ところが、その父親に対する妙な風評が、次第に高まって来て、門の表札が引っぺがされたり、二階の硝子窓から石が飛込んで来たりし始めると間もなく、突然にそのUTA君が行方を晦ました。むろん逃げたものだか殺されたものだか見当が附かない。門の外に出さないのだからといって鑑札を受けていなかったのが、運の尽きであったのかも知れない。
テル子さんはキチガイみたいになった。むろん警察に頼んだ。私立探偵も雇った。自分でも男装して父親のパッカードのオープンを運転しながら、市中を駈けまわって探したものであるが、そのうちに世間の父親に対する憎しみがだんだん高まって来ると、とうとうそのパッカードにまで石を投げる奴が出て来た。しまいには壮士みたいな奴が五六人、大手を拡げて行手に立塞がったりするようになったので、流石の断髪、男装令嬢も門外へ一歩も出られなくなってしまった。おまけに「非国民の断髪令嬢、大威張りでパッカードを乗廻す」という新聞記事で止刺刃を刺されてしまった。
ところが間もなく更に、それ以上の打撃がテル子嬢の上に落ちかかった。
その頃既に父親の山木コンクリート氏は、世間の風評に対して極度の神経過敏症に陥っていたらしい。そのUTAが居なくなったのは婚約者の唖川小伯爵がコッソリ盗み出したものに違いないと云い出した。俺みたいな奴の娘を名門の息子が貰う訳に行かないというので、父親の唖川前外相の指令か何かを受けた小伯爵が、人を頼んでか、又は自分自身でか盗み出したものだ。今の華族なんて奴は妙に家柄や何かを振まわすが、その振まわす根性といったら実に軽薄なものなんだ。よしんば親は泥棒にしても子供同士は清浄無垢なものなんだ。況んや俺の心境は明鏡止水、明月天に在り、水甕に在りだ。そんな軽薄な奴の息子にかけ換えのないお前を遣る訳に行かん。
あの医学士の羽振菊蔵を見よ。彼奴の親爺の羽振菊佐衛門は貴族院議員のパリパリで、日支銀行の頭取という財界の大立物なんだが、そんな名門面を一度もして見せた事がないばかりでない。俺に対する世間の疑惑が高まれば高まるほど熱心に俺の世話をしているだろう。毎日のように俺に秘密の電話をかけて俺を慰めていたではないか。その伜の菊蔵でも同じ事。親の光りで暇潰しの外交官なんかやっている青二才とは育ちが違う。俺の悪評が高くなったこの頃になって平気でお前に婚約を申込んで来るところを見ると相当の苦労人だ。あの男は目下大学で博士号を取る準備をしているそうだから。近いうちに博士になるだろう。博士になったら、お前の婿として恥かしくないのみならず、彼の精神が実に見上げたものだ。
第一唖川歌夫という奴は、外交官の癖に、親譲りの無口でブッキラボーで、刑事みたいな凄い眼付きをしているから、到底外交官なんかに向かない事が、わかり切っている。これに反して羽振菊蔵の方は弁舌が爽かで、男ぶりがよくて世間の常識に富んでいるから、俺みたいな年寄と話してもチットモ退屈させないから感心してしまう。だからお前も、いい加減に諦めて、羽振の方に婚約を切りかえろ、俺は一生懸命で、お前のためばかり思っているんだぞ……とか何とかいったような訳で、混凝土氏は或る夕方のこと、涙を流さむばかりにしてテル子嬢の手を握っているうちに、突然に検事局に引っぱられて、そのまま未決へ放り込まれてしまった。そのアトは父の気に入りの津金勝平という執事みたいな禿頭の老人と、親よりも誰よりも八釜しい古参の家政婦で、八木節世という中婆さんが、家中の事を切まわしているので、テル子嬢は全然手も足も出なくなっているという。
「唖川歌夫さんは、それっきりお手紙を一本も下さらず、お電話もおかけになりません。おかけになっているかも知れませんけど、電話はイツモ家政婦の八木さんか、津金爺さんが聞いてしまって、私には知らせませんし、お手紙だって私が見る前に二人して隠しているらしい様子ですから……あたし……情なくて……悲しくて……スッ……スッ……」
吾輩はそういう令嬢の泣声を聞きながら茫然として相手のお合羽頭を眺めていた。
「フーン。で、その犬がアンタの手に帰ったらアンタはどうするつもりかね。参考のために聞いておきたいのじゃが」
「だって、そうじゃ御座いません? その犬が居ないと歌夫さんに、直ぐ来て下さいってお手紙が上げられないじゃ御座いませんか。いつでも速達を上げると直ぐに飛んで来て下すったんですからね。そうしてお出でになると直ぐに犬の事をお尋ねになるんですからね」
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