しかしストーン氏はそんな事は知らない。唯この驚く程聡明で、呆れるほど無鉄砲で、手のつけられぬ程純情な、芸術家肌の美少女が、唯一筋の恋の糸に操られて、自分達に云い知れぬ大きな迫害を加えつつ、その当の相手の前に坐って、平気ですらすら事実を告白している事実を知っているだけであった。ストーン氏は最早(もう)、この女に何の罪もない事を悟ったらしい。そうして愛のために盲目になって、常識を失っているこの女に対して、却(かえ)って云い知れぬ憐れみの情を動かしたらしく、今までよりも亦、ずっと砕けた、親し気な風付(ふうつ)きに変った。そうして卓子(テーブル)に半身を凭(もた)せて、両手で手紙を弄びながら、更に女に向って言葉をかけた。その顔付きには今までの悪感情は影も形もなく、その音調にはヤンキー一流の平民的な、朗かな真情がみちみちていた。
「……お嬢さん。貴女(あなた)は大変賢い人です。大変に美しい心を持った人です。女神のような人です。貴女のような人初めて見ました。貴女のような人亜米利加(アメリカ)に居りません。貴女のような恋する人は亜米利加に居りません。……けれども貴女は悪魔に欺されました。そうして私に悪い事しました。しかし私は憤(おこ)りません。貴女は知らないのですから。警察にも云いません。安心して下さい。
私はジョージに棄てられた貴女お気の毒に思います。私は貴女を助けて上げたいと思います。私貴女の叔父様ミスタ・サヤマに話して亜米利加に連れて行ってあげる事出来ます。私の親友の米国大使にお世話させます。亜米利加第一の金持、政治家皆(みな)私の友達です。皆貴女のお世話させます。亜米利加の美術世界一です。亜米利加の音楽世界一です。亜米利加の流行世界一です。活動写真(ムービー)、レヴュー、芝居皆世界一です。そんなもの皆貴女のものにして上げます。けれどもジョージの事忘れなければいけません。ジョージに欺された事口惜しいと思わなければいけません。ジョージとジョージの新しい女に讐敵(かたき)を打たなければ駄目です。私が手伝って上げます。
あの悪少年(ラスカル)は恐ろしい毒蛇(コブラ)です。人を欺して血を吸います。あれは魔神(デビル)が化けた豹(ひょう)です。どこに居るかわかりません。けれどもどこからか出て来て悪い事をします。あの悪少年(ラスカル)は南部亜米利加(サウザンアメリカ)に来れば石油を掛けて焼かれます。そんなにジョージは悪い人です。貴女(あなた)を本当に愛しているのではありません。
貴女は愛(ラブ)のためにジョージが入り用でした。けれどもジョージは悪い仕事をするために貴女が入り用だったのです。貴女を使ってミスタ・サヤマを困らせて、おしまいにミスタ・サヤマを欺して、遠い処へ逃げるために貴女を欺したのです。
貴女は最早(もう)ジョージの事を忘れなければいけませぬ。ジョージより他に貴女を幸福にする者沢山居ります。わかりましたか……」
ストーン氏の説教は子供を賺(すか)すように親切であった。その眼は人種の区別を忘れた友情に輝き、その口元は熱誠のために微かに震えて、自分の心持をどうしたら相手の胸の中に注(つ)ぎ込もうかと苦心しているようであった。
すべて男がこうした態度を執る時……殊にストーン氏のような男らしい風采と、溢るるばかりの野性的な元気に充ち満ちた男性が、このような敬意と熱誠を示す時、相手の女性は最も甚だしく心を掻き乱され、引き付けられるものである。けれども彼女は何等の感動をも受けた模様はなかった。最初の通りの固くるしい姿勢に返って、膝の上のハンカチを凝視(みつめ)ているきりであった。
この体(てい)を見ていたストーン氏は、やがて駄目だという風に椅子に背を凭(も)たして、残り惜しそうに女を見つつ、そっと眼を閉じて眉を寄せた。
その時にストーン氏の背後にかかっている柱時計が余韻の深い幽玄な音を立てて、ゆっくりと時を報じ初めた……一ツ……二ツ……三ツ……四ツ……五ツ……六ツ……七ツ……。
……八ツの音を聞くとストーン氏は驚いたように眼を挙げて時計を見た。そうして少し慌てたように胴着から太い白金の懐中時計を出して見たが、落ち着いてそれを仕舞い込んで、最初の礼儀正しい紳士の態度に帰りつつ口を啓(ひら)いた。
「……お嬢様……私はもう帰らなければなりません。けれどもまだ一つ、貴女(あなた)にお尋ねしたい事があります」
「はい。何なりと……」
女の返事は何だか男のように響いた程、明晰であった。屹(きっ)と顔を上げて相手を見た。ストーン氏はその顔をしげしげと見ていたが、やがて、事務的な……しかし極めて丁寧な口調で問うた。
「ジョージ……さんは貴女に、この室(へや)を飾るわけを話しませんでしたでしょか」
「はい。申しました」
「何のためにですか」
「嬢次様は今日の夕方にきっと貴方がここへお出でになるに違いないと云われました」
ストーン氏は女の言葉の意味を考えるように、暫く沈黙していたが、やがて静かに声を落して云った。
「その通りです」
女もストーン氏の真似をするように、何か考えているらしかったが、やがて独言(ひとりごと)のように言葉をつづけた。
「……ですけども夕方から横浜からお出でになるのですから六時か七時頃になるでしょう。ですから九時まで四時間の時間を取っておけば大丈夫と嬢次様は云われました」
「その四時間は何をなさるためです」
「貴方を欺すためです」
「え……何ですか……」
「貴方をお欺し申すのでございます。妾(わたくし)はこうして米国暗黒公使(メリケン・ダーク・ミニスター)、J・I・Cの団長ウルスター・ゴンクール氏をお欺し申しました」
……表情が粉砕された……と形容すべきはこの時のウルスター・ゴンクール氏であろう。眼の前に火薬庫が破裂したかのように、思わず両手を顔に当てて丸卓子(テーブル)の前に仰(の)け反(ぞ)った。眼にも止まらぬ早さで椅子を蹴飛ばして立ち上ると同時に、腰のポケットから真黒な拳銃(ピストル)を掴み出して、女の眉間(みけん)に狙いを附けながら距離を取るために二歩ばかり後に退(さが)った。……その素早かったこと……そうして、その態度の見事であったこと……最早(もう)こっちの物……という風に軽く唇を噛んだまま、眉一つ動かさず、最新式大型拳銃(ピストル)の白光りする銃口を構えて毅然としている有様は、一個の拳銃(ピストル)と一挺の短刀(ダガー)とを以て我意の法律を貫徹して行く、野性亜米利加人そのままの気魄を遺憾なく発揮したものであった。
しかしこれに相対した女の態度も亦、たしかに歎美に値した。
女は、いつの間にか椅子を離れて、恰(あたか)も相手の狙いを正しくしてやるように、電燈の側近く立っていた。そうして両手の指をしなやかに組んで観念した心を見せている。その影法師は大きく室(へや)の半分を区切っていて、ゴンクール氏の姿は、その中から浮き出したように見える。
ややあって軽いけれども底力のある英語がゴンクール氏の唇を洩れた。
「名を云え(ユアネーム)[#「名を云え」のルビ]」
「……………」
女は答えなかった。ただ徐(しず)かに眼を上げて、鼻の先に静止している銃口越しにゴンクール氏の顔を見た。
ゴンクール氏の顔は見る見る緊張した。その皮膚は素焼の陶器のように、全く光沢(ひかり)を失って、物凄い、冷たい眼の光りばかりがハタハタと女を射た……。
何秒か……何世紀か……殆んど人間の力には堪えられぬ程の恐ろしい沈黙が、空しく室(へや)の中を流れて行った。
それは崇高な静寂……息苦しい空虚であった。……間一髪を容れぬ生死の境がじりじりと、涯てしもなく継続して行く……手に汗を握る……死んだ画面であった。
その中に唯独り正面の時計の振り子は、硝子(ガラス)の鉢に水銀の波を湛えて、黄金の神殿の床を緩やかに廻(めぐ)って行き、又、ゆるやかに廻りかえって来た。そうして、やがて場面とおよそ調和しない閑静な響を唯一つ打った。
……八時十五分……。
女は突然に身を反(そ)らして高らかに笑い出した。
「ホホホホホホ。ヒヒヒハハハホホホホホホホホホホホ……」
その甲走(かんばし)ったヒステリカルな声は、絶え間なく、次から次へ響き渡って、室(へや)の中に充ち満ちし電燈の光りを波のように打ち震わしているかのように思われた。……但し……その声は明かに作り笑いとしか聞えなかった。けれども、それが作り笑いであるだけ、それだけ一層冷やかに物凄く感ぜられた。
ゴンクール氏の眥(まなじり)はきりきりと釣り上った。女の笑い声の一震動毎(ごと)にビクビクと動いた。髪の毛は逆立ち、唇を深く噛み締めて、拳銃(ピストル)の柄を砕くる許(ばか)りに握り締めつつじりじりと後退(あとじさ)りをした。その顔面の皮膚の下から見る見る現われて来た兇猛な青筋……残忍な感情を引き釣らせる筋肉……それは宛然(えんぜん)たる悪魔の相好であった。
神も恐れぬ。人も恐れぬ。法律も道徳も、人情も……血も涙も知らぬ。唯死を恐れぬ者のみを恐るる悪魔の表情であった。悪魔が頼みにしている最後の威嚇手段……死の宣告……に対して平然としているのみならず、これを軽蔑し、これを嘲り笑っている驚くべき霊魂に対して、必死の勇気を絞り集めつつ対抗しようと焦躁(あせ)っている魔神の姿であった。
女はやがてピタリと笑い止んだ。よろよろとよろけて机に後手を突いて、自分の眉間に正対して震えている白い銃口を見、又、ゴンクール氏の顔を見た。悲し気な笑(えみ)を片頬に浮かめた。そうして淋しい訴えるような口調で物を云い初めたが……その言葉は思いもかけぬ流麗な英語であった。さながらに名歌手の唇と情緒を思わせるような……。
「お撃ちなさい……撃って下さい……ゴンクール様。妾(わたし)はもうこの世に望みのない身体(からだ)でございます。妾の一生涯はもう過ぎ去ってしまっているのでございます。……ですからもう何もかも本当の事を申上げてしまいます。そうして貴方の御勝手になすって頂きます。
……最前からわたくしが申しました事は、みんな真実でございます。……けれども……その中(うち)にたった一つ嘘がございました。それは妾が狭山の姪という事でございます。妾は狭山様と縁もゆかりもない者でございます。
……妾が狭山様のお宅に伺いましたのは今日が初めてでございました。それまではただお顔とお名前を新聞で存じておりましただけでございました。
……わたくしたち三人……志村のぶ子様と、呉井嬢次様と、わたくしとの三人は、狭山様のお手を借りないで、あなた方に復讐をするために、わざと狭山様のお家を拝借したのでございます。そうして貴方以外の方々への復讐は完全にもう遂げられているのでございます。その事を貴方がお気付きにならないように貴方をここへ引き止める役目を妾が受持ちまして、ここにお待ちしていたのでございます。
……お二人は、ですから最早(もう)安心して天国へお出でになった事と思います。貴方がここへお出でになる事を警視庁に知らせて、警視庁のお手配りがすっかりこの家のまわりを取り巻くまで、妾が生命(いのち)がけで貴方をお引き止めしている事を、お二人とも固く信じて、妾があとから参りますのをあの世で待っていて下さる事と思います。
……志村様母子(おやこ)に、そんな怨みを受ける覚えがないとは申させませんよ。わたくしは何もかも存じておりますよ。嬢次様は日本にお着きになりますと間もなく、お父様の志村浩太郎様が或る弁護士に預けておかれた遺言書を受取っておいでになるのですよ。貴方が志村様一家に、どのような非道(ひど)い迫害をお加えになったかを詳しく書いてあります。長い長い狭山様宛てのお手紙を……。自分の死後の敵ウルスター・ゴンクールを是非とも斃(たお)して下さい……という文面を……。
……ゴンクール様……貴方は何故わたくしをお撃ちにならないのですか。わたくしは貴方の秘密をすっかり存じているのでございますよ。只今帝国ホテルにおかけになった貴方のお電話の意味も一つ残らず記憶(おぼ)えているのでございますよ。私は貴方に殺される覚悟で貴方をお欺し申したのですよ。今の中(うち)ならまだ警視庁の手がまわっていないかも知れないではございませんか。貴方は今日横浜にお出でになって、メキシコ石油商会の競走用モーターボートをお買求めになって芝浦にお廻しになるのと一緒に、横浜を今夜の十時までに出帆する亜米利加(アメリカ)と加奈陀(カナダ)と智利(チリー)通いの船の名前をすっかり調べておいでになるではございませぬか。それは万一嬢次様が曲馬団の内情を警視庁にお訴えになった時に自分一人で外国にお逃げになる御用心のためではございませぬか。今ならまだ、お間に合うかも知れないではございませんか。
……わたくしは死ぬのはちっとも怖ろしくはございませぬ。妾は嬢次様にお別れした時から死んでいるのですもの……。御覧なさい。この絨毯(じゅうたん)は狭山様のお宅の床が、妾の血で穢(けがさ)れないように敷いたのです。壁紙も、窓かけも、何もかも妾の死に場所を綺麗(きれい)にしたいために新しく飾り付けたのです。
……こう申しましたら貴方はあの時計と髑髏(どくろ)が、何のために飾り付けてあるかという事が、おわかりになるでしょう。この二つのものは、わたくしが死を覚悟致しておりました事を、あとで狭山様におしらせするために飾り付けたのです。
……さ……お撃ちなさい。貴方のお手にはその撃鉄(ひきがね)を引くお力がないのですか。貴方のお心の力は、そのバネの力よりもお弱いのですか。貴方は今まで、何でもない事で、度々そんな事をなすった事がおありになるではございませぬか」
女の声は、その態度と共に益々冷やかに落ち着いて来た。これに反してその言葉は一句毎(ごと)に烈しい意味を含んで来た。その一語一語は悉(ことごと)く一発の尖弾……死に値するものであった。
しかしその言葉が進むに連れて……否……女の言葉が烈しくなればなる程、室(へや)の中に充ち満ちていた殺気――間一髪を容れぬ危機は次第に遠退(とおの)いて行った。そうして女の冷やかな言葉の切れ目切れ目毎(ごと)に、この世のものとも思われぬ深刻な淋しさが次第次第に深くなって来た。
「……貴方は、どうしても妾をお撃ちになりませぬね。……それではもっとお話し致しましょう。
……ゴンクール様……貴方は、わたくしが只、愛に溺れたために、嬢次様に欺されてこのような事をしていると思っておいでになるでしょう。私の生命(いのち)はただ嬢次様にだけ捧げているものと、お思いになっているでしょう。
……ですけど……お気の毒ですけど、それは違います。それは大変な貴方のお考え違いです。わたくしの生命(いのち)は、嬢次様を通じてもっともっと大きな事のために捧げているのでございます。わたくしから進んでその仕事をお引き受けした位でございます。
……その仕事とは何でございましょうか。
……日本のためにならぬJ・I・Cの秘密結社を打ち壊す事でございます。この仕事は、亜米利加を怖がっている日本政府のお役人たちには出来そうにない仕事です。又、他人の狭山様に後で迷惑がかかるような事になっても困るから自分一人で片付けるつもりだと嬢次様は云っておられましたが、わたくしは無理にお願いして、その中(うち)でも一番おしまいの仕事を受け持たして頂いたのでございます。それは妾のように、まだ貴方にお眼にかかった事のない、若い女でなければ出来にくい仕事でございましたから……。
……その仕事とは何でございましょうか……。
……貴方を殺す事です。……世界中で一番浅ましい人間を集めて、世界中で一番憎らしい仕事をする者を亡ぼして終(しま)うことです。表面(うわべ)に正義とか人類のためとか云って、蔭では獣(けもの)や悪魔の真似をするウルスター・ゴンクールを生きながら殺して終(しま)うことでございます」
見よ……見よ……見よ……。
指が白くなる程固く握り詰めているウルスター・ゴンクール氏の拳(こぶし)は、自然自然と紫色に変って、微かにふるえ出して来た。ゴンクール氏は、それを尚も力を籠めて握り締めようとした。けれどもその拳も指先も最早(もう)すっかり痺れたらしく、次第に垂れ下って床に近付いて来る。
その代りに呼吸は眼に見えて荒くなって来た。その胸と肩は大波を打ち、その膝頭はわなわなと戦(おのの)き出した。憤怒の形相(ぎょうそう)は次第に恐怖の表情に変って、頬や顳※(こめかみ)の筋肉はヒクヒクと引き釣り、その眼と口は大きく開いて凩(こがらし)のような音を立てて喘(あえ)ぎに喘いだ。
ゴンクール氏は今や正(まさ)しく、その鉄をも貫く連発の銃弾が、何の役にも立たない事を知ったのである。この世にありとあらゆる威嚇の中(うち)でも唯一無上の「死の威嚇」が、この女に限っては何等の効力も示し得ない事を覚ったのである。眼の前に立っている美しい幻影が、恰(あたか)も影法師か何ぞのように生命の価値を知らぬ存在である事を知ったのである。
ゴンクール氏の意識から見ると「死」は凡(すべ)ての最後であった。しかし女にとっては「死」が仕事の出発点であった。ゴンクール氏の仕事は生きた人間の世界で価値をあらわす仕事であった。これに反して女の仕事は死んだ人間にとってのみ価値あるものであった。死んで行く人……もしくは死んだ人のために死を覚悟して……言葉を換えて云えば死の世界から死の仕事をしに来ているのであった。それはゴンクールが生れて初めて聞いた仕事であった。実際に見た事のない異国人の愛国心であった。事実にあり得ないと考えていた白熱愛のあらわれであった。かくして以前(もと)のロッキー山下の禿鷲(コンドル)。殺人請負(ガンマン)の大親分(ボス)。今の米国の暗黒境王(ギャングスター)。ウオール街の暗黒公使(ダーク・ミニスター)、J・I・Cの団長ウルスター・ゴンクール氏は、この女が顔を見合わせた最初から、自分と全然違った世界に居た者である事を拳銃(ピストル)を突き付けてみた後(のち)にやっと気付いたのであった。
その世界……女の居る世界は、氏がまだ見た事も聞いた事も……想像した事すらない……この世のあらゆるものの権威……あらゆるものの価値を認めぬ……すべての光明……すべての感情を認めぬ、静かな、淋しい、涯てもない暗黒の世界であった。この無名の女の姿はその中から自分を脅かし、自分の旧悪を責めるために現われた一つの美しい幻影に過ぎなかった。
氏は驚き、恐れ、眼を※(みは)り、口を開いて喘(あえ)いだ。頬や首すじを粟立たせ、五体をわななかせて震え上った。
けれども女の声は、闇黒の底を流れて、人の心を誘う水のように、どこまでも冷たく、清らかに続いて行った。
「……けれどもゴンクール様……。嬢次様のお怨みは、それだけではなかったのでございます。貴方がたを日本の警視庁の手で片付けて頂いた位では嬢次様の御無念は晴れなかったのでございます。
……貴方は二年前に志村様がお亡くなりになった時の事を御記憶になっているでございましょう。その時の志村浩太郎氏のお心持ちが、貴方におわかりになりますか。貴方のために欺されて、楽しい家庭をバラバラにされた上に、J・I・Cの中に捲き込まれて、とうとう責め殺されておしまいになった、その志村浩太郎様の残念なお心持ちが、貴方におわかりになりますか。
……志村様はJ・I・Cの秘密……貴方の秘密をすっかり発(あば)いて、その秘密を微塵に打ち砕いて、奥様や、お子様の生命を貴方の手から救い出して頂きたいために、警視庁の狭山様の宛名にして遺言を書いていられたのでございますよ。嬢次様は日本に来られてその手紙を手に入れてから初めて凡ての事が、おわかりになって、いよいよ曲馬団を逃げ出す覚悟をなすったのでございますよ。
……貴方は仕合わせなお方です。その遺言が宛名のお方の手に渡らずに、嬢次様のお手に這入りましたばっかりに、貴方は御運がよければお助かりになる機会があるかも知れない事になったのでございます。
……その代り貴方は、世界中のどこへお出でになりましても志村浩太郎様の思い残されたお怨みだけはお受けにならなければなりませぬ。嬢次様が私に頼んでおいでになった貴方に対する復讐だけはお受けにならなければなりませぬ。
……その復讐と申しますのは貴方が日本にお出でになった目的が何もかもすっかり駄目になった事を、お知らせする事でございます。貴方が生命(いのち)をかけて愛しておられました志村のぶ子様が、貴方の宝物のようにしておられました呉井嬢次様と一緒に天国へお旅立ちになりました事……それから、まだ御存じない事と思いますが、あなたのお留守中に曲馬団の重立った人々が一人残らず警視庁の手で縛られてしまいました事……それから、これは尚更のこと御存じないと思いますが、露西亜のウラジミル大公のお孫さんでおいでになるカルロ・ナイン嬢が、そのお守役の日本人で、ハドルスキーと名乗っていた樫尾という陸軍大尉と一緒にもうすこし前M男爵のお邸(やしき)に引き取られて、近いうちにセミヨノフ軍の参謀の方とお会いになる手筈がきまっておりますこと……。
……最前貴方がお出でになりますと間もなくかかって参りました電話は、志村のぶ子様から私にこの事を知らせて参りましたものでございます。又、今すこし前貴方から帝国ホテルにおかけになりました時に、すぐにハドルスキーの樫尾様が出て見えましたのは、樫尾様が貴方をお欺しして油断をさせるために、帝国ホテルで待ち構えておいでになったのでしょうと存じます。
……帝国ホテルにはJ・I・Cの人はもう一人も居ない筈でございますから……。
……その証拠はここにあるこの号外でございます。この号外はもう一時間半ばかり前、貴方がこの家にお着きになる前に配って来たものですから、東京市中には残らず行き渡っているでございましょう。貴方は今日の三時過ぎからお忙しかったために、この号外をまだ御覧にならなかったのでしょう。貴方にこの号外を通知する人が、一人残らず警視庁に挙げられたせいでもございましょうけど……」
女の言葉はいよいよ出でて、いよいよ励(はげ)しくなって行った。窓の外で聞いている私でさえも真偽の程を疑わずにはいられない事実……眼を※(みは)り、息を喘(はず)ませずにはいられない恐ろしい大変事を、平気ですらすらと述べて行く……その物凄い光景に肌を粟立たせずにはいられない位であった。
況(ま)してゴンクール氏は全力を尽して女の言葉を遮ろうとしているように見えた。白い銃口を上下にわななかせながら、眼を固く閉じて女の姿を見まいとした。歯をギリギリと噛み締めて女の声を聞くまいとした。両手の拳を砕けよと握り締めて、一発の下に女の息の根を止めようと努力し又、努力した。最後には両脚を棒のように踏み締めて死にかかった獅子のようにぶるぶると身をもだえた。けれどもどうしてもその弾倉撥条(バネ)を握り締める力が出ないらしかった。
その間に懐中から取り出した一枚の四半頁大の号外の折り目を丁寧に拡げ終った女は、もう一度眼の前にわななく銃口を見ながら、ひややかに笑った。
「……ホホホホホホホ。ゴンクール様。貴方はどうしてもその引き金をお引きになる力がおありにならないのですね。
……御尤でございます。
……そのわけは、よく存じております。
貴方はまだ日本の法律に触れておいでになりません。日本人にとって一番憎らしいお方でありながら、日本の法律ではまだ貴方を罰する事が出来ません。けれども万一妾(わたし)をお撃ちになったらその時から貴方は罪人におなりになるのですからね……。私は貴方にそうして頂きたいために、この室(へや)でお待ちしていたのです。貴方の仲よしの××大使様でも、指一本おさしになる事が出来ないようにして貴方を警察の手にお渡ししたいために、生命(いのち)がけでお待ちしておりましたのです。嬢次様の讐討(あだう)ちのために……。そうして嬢次様御一家の限りもない愛国心のために……。
……貴方はそうした妾の心がおわかりになったのでございましょう。
……日本で罪をお作りになりますと、亜米利加のように自由自在にお逃げになる事が出来ないのでございますからね。たとい貴方が妾をお撃ちになって、その拳銃(レボルバ)にわたくしの指紋を附けて、足跡を消しておいでになったとしても、間もなく狭山様がお帰りになって、その銃口の磨(す)れた、新しい拳銃(レボルバ)を御覧になれば、すぐに貴方だという事をお察しになって、貴方のお靴の踵(かかと)が、まだ日本の土を離れないうちにお捕えになる事が解り切っておりますからね。狭山様のお眼には世界中が硝子(ガラス)のように透きとおって見えているのですからね。
……万に一つ……それでも貴方が狭山様に見逃しておもらいになるような事がありましても、死んだ妾達四人の怨みだけはお逃れになる事が出来ないのでございますよ。貴方は今日妾が申し上げた事を死ぬが死ぬまでお忘れになる事が出来ないのですよ。……日本人には死後の執念がある……という事を……。日本人に悪い事をなさると、生き代り死に代り、何人でも何人でも生命(いのち)がけで怨みに来る……ということを……。
……貴方はこれから毎日、生きながら、死刑と同様の苦しみをお受けにならなければなりませぬ。
……眼に見えぬ嬢次様の手に頭髪を掴まれ、眼に見えぬ志村御夫婦の怨みの縄に咽喉(のど)を締められておいでにならなければなりませぬ。
……貴方は、そんなものがこの世にないと思召(おぼしめ)しますか。お国の亜米利加にはありますまい。しかし日本にはございます。その証拠はわたくしでございます。わたくしは亡くなられた志村浩太郎様御夫婦の怨みを貴方に御伝えするお使いの女です。
……わたくしは生きて甲斐(かい)のない身体(からだ)でございます。もう死んでいるのも同然の女でございます。ただ嬢次様の怨みを晴らすために生きているのです。ただこの号外を貴方に読んでお聞かせして、日本民族のためにならぬ貴方の御計画が、二年前にお亡くなりになった志村浩太郎様のお望みの通りにすっかり駄目になった事をお知らせするために生き残っているのでございます」
……この幻影……美しい女の姿……暗い静かな声は、次第次第にゴンクール氏の魂を包んで行った。「死んだ者の怨みの声」を聞き「眼に見えぬ執念の手」に触れられるこの世の外(ほか)の世界へ、一歩一歩引き込んで行く。
抵抗しようにも相手のない「この世の外(ほか)の力」……その力はゴンクール氏の魂をしっかりと握り締めて、次第次第に死の世界へと引っぱり寄せて行く。
手を押えられたのならば振り放す事が出来る。足を捉えられたのならば蹴飛ばす事が出来る。牢に入れられたのならば破ることが出来る、けれども魂を捕えられた者は逃げようがない。仮令(たとえ)宇宙の外に逃げる事が出来ても魂が自分のものである以上、捕えた手はどこまでも随(つ)いてくる。しかもその魂を捉えている手は影法師と同様の力のない手である。……ゴンクール氏の魂は唯、空(くう)に藻掻(もが)くばかりであった。
涯てしもない恐怖によって絞り出された、生命そのものの冷たい汗に濡れた氏の顔面は、蒼白い燐火のような光りを反映し、その赤味がかった髪の毛は、囚われた霊魂の必死の煩悶と苦悩のために一呼吸毎(いきごと)に白く枯れて行くかと思われた。それでも氏はなおも最後の無我夢中の力を振り絞って、無理に眼を見開いて相手の女を見ようとした。疲れ切ってひくひくと引き釣る腕を引き上げて女を狙おうとした。自分を呪うべく突立っている眼の前の美しい幻影に向って、死物狂いの一発を発射しよう発射しようと努力した。
けれどもその力も全く尽きる時が来た。
氏の全身に残っている生命(いのち)は一努力毎(ごと)に弱くなり、一喘(あえ)ぎ毎(ごと)に稀薄(うす)くなって行った。恰(あたか)も室内に籠っている煙がいつの間にか消え失せてしまうように、殆んどあるかないか判らぬ位になってしまった。ぐったりと垂れ下った手の指から拳銃(ピストル)は、おのずと抜け落ちて、床の上に音を立てた。その肩は落ち、腰は砕けて、よろよろとよろめいて室(へや)の隅にたおれかかって、斜にずるずると半分ばかり傾いて、頭をがっくりとうなだれると、支那産の絨毯の上に手と足を投げ出したまま、森閑と動かなくなった。その顔面の筋肉は蝋のように垂れ下って、力なく伏せた瞼の下の青い眼はどこを見ているのかわからぬように、どんよりと白茶気てしまった。死の影は全くゴンクール氏を蔽うてしまった。氏の全身は死相を現じて来たのである。ただその半ば開いた唇の辺が、時々微(かすか)に震えているのが全く死に切れないでいる証拠であろう。
女はそうした相手の姿を冷やかに見下してかすかな笑みを浮かめたようである。大方、ゴンクール氏が、自分の望み通りになったのを喜んだものであろう。いくらか勝ち誇った気持を見せて笑った。
「……ゴンクール様……貴方は最早(もう)そんなに、おなりになりましたか……。お弱いお方ですこと……ホホホホ……。
……けれども妾(わたし)は嬉しゅうございます。これからが妾の世界でございますから。私は嬢次様のお頼み通りに貴方を罰する事が出来るのですから。落ち着いてこの号外を読む事が出来るのですから……。
……ですけどもゴンクール様。わたくしはその前に貴方に申上げておかねばならぬ事があります。それは……この号外を聞いている人が貴方お一人でないという事です。この室(へや)の外で、この号外の読み声を聞いておいでになる方がお二人あるという事です。そのお二人は志村のぶ子さんと呉井嬢次様でございます。お二人は御自分の思い通りの仇討ちが実現されましたこの号外の中の出来事が、貴方のお耳にすっかり這入ってしまうのを見届けてから、わたくしと一緒に自殺なさる手筈になっているのでございます。国賊の妻……売国奴の子としての一生を終って、立派な日本民族としての、死後の魂を復活しようと思って、待ちかねておいでになるのでございます……そうして妾も及ばずながら、淫奔者(いたずらもの)の名を洗い淨めまして、日本人らしい清らかな、魂ばかりの愛の世界に蘇りたいと、あこがれ願っているのでございます。
……わたくし共のこの願いを、お許しにならない方は一人もおいでになりますまい。
……狭山さまも、わたくしどものこうした心をお察しになったものか、まだお帰りにならぬようでございます。九時までにはまだゆっくり時間がございますね。
……まだお眼にかかりませぬが、お父様の志村浩太郎様も、あの世から、わたくしの声をお聞きになっているのでございましょう……」
女がこう云い切った時、室(へや)の中は全く墓場の光景と化し去っていた。ゴンクール氏の眼は空しく女の影を反映し、耳は徒(いたずら)に女の声を反響するばかり……顔面に何等の反応もあらわさない。それと相対(あいむか)って死人の怨恨を述べる女の影。音もなく廻転する時計。ひらひらと瞬く電燈のタングステン。向うをむいて立っている裸体美人の絵像。それを睨み付けている骸骨。机。書物。壁。床。天井。それ等のものの投影……その窓の外に、女の手許の号外の狂人(きちがい)じみた大活字の排列を覗き込みながら、気を呑み、声を呑んで、全神経を凝固させている私……何一つとして生気の通うものはない。
室(へや)の内も外も全く地下千尺の底の墓場の静寂に満たされている。その中(うち)にゆるゆると号外の内容を訳読する女の、冷やかな、物淋しい声も、少しもこの世の響きを止めていない。陰森(いんしん)として肌に迫る冷気の中に投影しあらわれた幽界の冥鬼が、生前の怨み、死後の執念を訴えるもののようであった。
警視庁の精鋭[#大文字、太字]
B・S・曲馬団と戦う[#中文字]
ピストル機関銃の乱射乱撃[#中文字]
警官団員の死傷数十名
帝国ホテル修羅場と化す[#大文字、太字]
―――――――――――――――――――
本日午後四時
熱海検事一行突如[#大文字、太字]
B・S・団員全部に令状を執行す[#中文字]
本日午後三時前後より、丸の内、警視庁内何となく色めき立ち、密かに警官刑事の非常召集が行わるる一方、各首脳部の往来甚しく、総監室に集合して鳩首擬議中であったが、同三時半頃に至り、某国大使館に趣きたる警視総監高星威信(たかぼしいしん)子爵が、外務省機密局長松平友麿男爵、弁護士藤波堅策氏と同車にて警視庁に帰来するや、庁内は俄然(がぜん)として極度の緊張を示し、召集したる私服警官の多数を三々伍々派出して、目下丸の内三菱原に開演中のバード・ストーン曲馬団の内外に配布し、同演技場を包囲する気勢を示せり。そして同四時五分に至り、同曲馬団の最後の演技たる「馬の舞踏会」が終了し、満場の観衆が悉(ことごと)く散出し終るや、検事局熱海弘雄検事は、甲府予審判事平林書記を随え、新任第一捜査課長志免友衛(しめともえ)警視、日比谷署長東馬健児(とうまけんじ)警視、通訳、その他新聞記者と共に同曲馬団を訪い、団長バード・ストーン氏に面会を求め、危険思想者潜入の疑いあるに依り、団員全部を即時、警視庁に同行し取調ぶる旨を申渡し、且つ、取調べに応じたる上は一人も罪人を出さず、無事帰国せしむべき旨を通じたり。然るに同曲馬団にては、団長不在なりしを以て、代理として露人ハドルスキー氏が、曲馬場内広場に於てこれに応接し、謹んで命令に服従すべき旨を承諾し、取あえず、一座の花形カルロ・ナイン嬢をさし招きて熱海検事に引渡し、次いで団員中の有力者カヌヌ・スタチオ(兄)ヤヌヌ・スタチオ(弟)の二人を呼び出してこの旨を通じ、静粛に命令を遵奉すべき旨を申渡したり。
団員廿余名命令に反抗[#大文字]
美人連を人垣に作り[#大文字、太字]
一斉に裸馬に飛乗り[#大文字、太字]
ピストルを乱射しつつ
有楽町大通りを遁逃す[#中文字]
然るにこの命令を聞くやスタチオ兄弟は怫然(ふつぜん)色を作(な)し、自国語を以て強弁し、極力反抗の気勢を示したるが、結局ハドルスキー氏の諭示(ゆし)に服し、団員一同と共に警視庁に出頭の準備すべき旨を答え、一応楽屋に引き取りたるが、そのままスタチオ兄弟は団員中の男子約二十名を楽屋に招集し、何事かを命ずるや、二十名の各国人は、楽屋大部屋に引籠れる二十余名の美人連を呼び出して、楽屋口に整列せしめ、人垣を作り、背後(うしろ)より拳銃(ピストル)を擬して動かせず。その隙(ひま)に乗じ、厩に繋ぎおきたる馬を引き出し、二十余名一斉に裸馬に飛乗り、包囲せる警官を馬蹄にかけ、拳銃(ピストル)を乱射しつつ有楽町大通りを数寄屋橋に左折し、堀端より帝国ホテル方向に逃走せり。
B・S・団員[#大文字]
機関銃拳銃を猛射[#大文字、太字]
帝国ホテル内二室に立籠り[#大文字]
追跡の騎馬巡査二名を射落す[#大文字]
一方帝国ホテル前には、彼等が演技終了後華々しく町巡(まちまわ)りをなして帝国ホテルに引揚ぐべき花飾(はなかざり)自動車が十数台整列しおりしも、時間尚早のため運転手等は一人も乗車しおらず。逃走せる二十余名はここにて馬を乗放ち、この自動車に分乗し、いずれへか逃走せむとせしが、該自動車は皆開閉鍵(スイッチ)を持去りあり。且つ騎馬巡査と警官、新聞記者混爻(こんこう)のオートバイと自動車の一隊が早くも逐い迫り来(きた)れるを見るや彼等二十余名はこれに猛射を浴びせて、二名の騎馬巡査を馬上より射落しつつ、同ホテル内大混乱のうちに、彼等が借切りいる同ホテル東北側の一隅階上二八六、二八二号の二室に逃げ込み、固く扉(ドア)を閉ざし、廊下に面する入口前には携帯機関銃を据え付け、窓を開放して、カーテンの蔭よりピストルを発射し群り寄る警官を寄せ附けず。
双方死傷者数十名[#大文字、太字]
警視総監自身出馬[#大文字]
志免警視とハ氏の殊勲にて落着[#大文字]
宿泊者は日比谷公園に避難[#中文字]
この時自身出馬して現場に駈け付け来(きた)れる高星総監は、部下に命じて帝国ホテル内の宿泊者全部を日比谷公園に避難せしめ、附近一帯の交通を遮断し、二八六、二八二号両室に窓より出ずる者を容赦なく射殺すべきを命じ、一方ハドルスキー氏に依頼してホテル内に入(い)らしめ、彼等を説服せしめんとせしに、彼等は携帯機関銃を連射してハドルスキー氏を廊下に入らしめず、遂に同氏の頭部に負傷せしめたり。ここに於て第一捜査課長志免警視は総監の許可を得、部下数名を率い、同二室の街路に面せるバルコンに登り、窓口より逮捕に向わむとせしに、この状態を察知したる団員の数名は、四個の窓より一斉にピストルを乱射し、警官三名、街路上に残りおりし見物人数名に重軽傷を負わしめたるを以て近寄る能わず。然るにこの時、一時気絶しおりたるハドルスキー氏は、自ら繃帯して街路に出て来りしが、この状勢を見るや、鮮血に染みたるまま続いてバルコンに登り、壁添いに窓に近附きて大声に彼等を説服し初め、彼等のうち二三名が窓より首を出して同氏を狙撃せむとするや、自己の拳銃(ピストル)にて瞬く間に彼等を撃ち竦(すく)め、彼等が窓外に落したる拳銃(ピストル)を拾い取りて単身二八二号室の窓口より躍り入り、窓際に潜みいるヤヌヌ、カヌヌ兄弟を左右に撃ちたおし、デスクを楯に取りて物凄き射撃戦を開始せり。一方志免警視の一隊もこの形勢を見るより一斉に二八六号室の窓口より乱入し、機関銃手二名を射殺し、残余の者を威嚇して手錠を受けしめ、転じて二八二号室の扉(ドア)を背面より破壊し、猛烈に抵抗する二三の支那人を射(うち)たおしたるを以て浴室に逃げ込みたる残余の五六名は再び抵抗せず。一列に手錠を受け警視庁に収容せらるに至りたり。一方死傷者はそれぞれ、丸の内綜合病院、及び帝国ホテル前槻原(つきはら)整形外科病院に収容したるが、警察側死者巡査二名、重傷者四名、軽傷者十二名に及び、外に見物人二三名の重軽傷者あり。曲馬団側の死傷者は判明せざるも死者四名、重傷者六名、軽傷者数名に及びおるものの如し。然れども詳細氏名等はこの稿締切までは判明せず。
流血惨澹たる帝国ホテル[#大文字、太字]
丸の内一帯戦場同様の大混乱[#大文字]
団長B・ストーン氏[#大文字]
逸早くも行方を晦ます[#大文字]
前記の如く帝都空前の大椿事は僅か一時間足らずにて落着せるが、未曾有の事変なるを以てその筋の警戒厳重を極め、且つ、連日の好晴と温暖とにて日比谷より銀座へかけて人の出盛りなりしを以て銃声に驚き、集り来れる生命(いのち)がけの野次馬的見物人は、事件落着後も陸続として押しかけ来り、日比谷より数寄屋橋、虎の門、桜田本郷町へかけて黒山の如く、危険を虞(おそ)れて必死的警戒中の警官と随所に衝突して騒ぎ立て、喧囂雑沓(けんごうざっとう)を極めおり。目下尚、交通途絶中なり。一方流血に彩られたる帝国ホテルは弾痕、破壊の跡瀝然(れきぜん)として蜂の巣の如く、惨澹たる光景を呈しおれるも損害等は目下のところ判明せず。同ホテルを中心とする丸の内一帯は引続き戦場の如き雑沓を極めおり。高星警視総監は事件後直ちに日比谷公園に出張して、避難外人に対し一々失態を謝罪し了解を求めつつあり。尚又、当該曲馬団長バード・ストーン氏は事件前に××大使を訪問後、逸早(いちはや)く行方を晦(くら)ませるが、同じく警視庁飯村刑事課長の一隊は、事件に先立って二台の自動車に分乗し、芝浦方面に出動せる趣なれば、有力なる手がかりを保留しおるべき事推測に難からず。仄聞(そくぶん)するところに依れば団長B・ストーン氏は目下早慶二大学と野球試合のため来朝しおる××軍艦××××号に逃げ込みおる形跡ありとの報あるも、果して事実なるや否や不明なり。
B・S・団員は某国[#大文字、太字]
国事探偵の一団?[#大文字、太字]
狭山前課長の辞職に絡む[#大文字]
右事件の動機となりおれる曲馬団員一同の取調べの内容は判明せず。高星警視総監、松平男爵、藤波弁護士等も固く口を噤(つぐ)んで語らず。又当該関係国たる××大使も病中にて面会を謝絶しおり探索の途(みち)、全くなき如きも、事件前より該曲馬団に関し、本社の探聞し来(きた)れるところに依れば、今回の事件は前警視庁第一捜査課長狭山九郎太氏の辞職と重大関係あり。すなわち右曲馬団員は某国々事探偵の一団にして、欧米各国及び東洋の暗黒街より招集せし無頼漢を以て組織しあり。今回の如き無智にして、且つ兇猛無鉄砲なる反抗を試みたるは、日本の警察を自国のそれと同視したる結果と見るを得べし。又団長バード・ストーン氏は××資本団の手先となりて各国の反乱革命を助長する暗黒公使の名あり。目下進行中の××協商に対し、何等かの暴力的手段に依り障害を与うる目的を以て、曲馬団を装いて渡来せるものの如く、同曲馬団員にてカルロ・ナイン嬢と共に花形役者たりし伊太利(イタリー)少年、ジョージ・クレイの逃亡直後にこの事変の勃発せるより見れば、同少年もこの事件に関係なきを保し難し。而して前課長狭山九郎太氏は、この曲馬団の渡来以前に逸早くこの曲馬団の内容を看破し、総監室に於て総監と高声に激語し合いたる事実あり。同室内の反響甚しかりしを以て詳細の点は聴取し難かりしも狭山課長が日本の某国に対する軟弱外交を非難罵倒せるに対し、総監が極力これを説服せむと試みたるは事実なり。そして狭山課長はその翌日辞表を提出したるものなるが、その後本紙上に於て屡々(しばしば)報ぜし通り、××協商が行悩みとなり、吾国の国防と外交が極度の孤立屏息(へいそく)状態に陥りおりたる折柄、突如としてかかる対×国外交の硬化を象徴する事件の勃発を見たるは右××協商の経過が、外電報ずるところの愛蘭(アイルランド)の独立に関する英米関係の悪化に影響せられて好転し、国防基礎を確立したるものと見るべき理由ありと観測せられつつあり。
狭山氏は今朝より不在[#大文字]
留守宅には盛装の二婦人[#中文字]
因(ちな)みに前記の如く、今回の事件に大関係ありと目さるる狭山九郎太氏は今朝来いずれへか外出しおり柏木の自宅には親戚と称する盛装の二婦人が留守居して長閑(のどか)に紅茶を啜りおるのみ。事件の勃発を全然関知しおらざるものの如し。【狭山註――以上号外原文のまま挿入】
この号外を訳読した女の英語は、恰(あたか)も英国の社交界の婦人のそれの如く流麗で、明晰であった。そうして読み終ると旧(もと)の通りに丁寧に折り畳んで、丸卓子(テーブル)の真中に置いて、その上から角砂糖入れを重石(おもし)に置いた。その前に両手の指を支えて、室(へや)の隅に倚りかかって坐っているゴンクール氏を見下しつつ、謹厳な日本語で言葉をかけた。
「……ゴンクール様。わたくしから貴方に申上げねばならぬ事はこれだけでございます。……おわかりになりますか。わたくしの申上げております事が……。亡くなられましたお父様……志村浩太郎様と、嬢次様母子(おやこ)の貴方に対する復讐はこれでおしまいなのでございますよ。妾(わたし)の役目はもうこれですっかりおしまいなのでございますよ。
……わたくしは皆様に代りまして貴方にお礼を申上げます。よく今まで御辛棒なすって、わたくし達の復讐をお受けになって下さいました。もう決してこの上に御迷惑はかけませんから何卒(なにとぞ)御安心下さいまし。わたくし達はもう死ぬよりほかに仕事が残っていないのでございますから……。その約束の時間は今から……七分……きっちり九時でございます。お喜び遊ばせ。貴方は今から七分経ちますれば、元のバード・ストーン氏にお帰りになる事が出来るのでございます。そうしてもし御運が強ければ無事に本国へお帰りになる事が、お出来になるかも知れないのでございます。
……もし御用でもございましたならば、どうぞ今の中(うち)に仰有(おっしゃ)って頂きとうございます。私はお待ち致しております」
女の言葉はここでふっつりと切れた。
併し相手は動かなかった。殆んど一点の生気もなく横わっていた。
否……唯一度、女の言葉が切れると間もなく、微(かすか)に眼を上げて、女を見ようと努力したようであった。けれどもそれはただそう見えただけで本当は動いたのかどうかわからなかった。
女は身じろぎもせずにそれを見つめている。
室(へや)の中に再び墓の中の静寂が充ち満ちた。
……突然じりっと微かな音がした。
それは時計の時鐘(じしょう)が、九時を打つ五分前に、器械から外れた音であった。
その音を聞いた瞬間にゴンクール氏の全身に、見えるか見えぬ位の微かな戦慄(せんりつ)が伝わったが、直ぐに又静まった。そうしてそのあとから次第次第に氏の呼吸が高まって来るのが見えた。遂には硝子(ガラス)窓の外からでも明らかにその呼吸の音が聞き取れる位になった。
氏は意識を回復し初めたのである。しかもそれは生きた人間としての意識ではないように見えた。逃れようにも逃れられない、広い、淋しい幽冥に引っぱり込まれていた氏の魂が、更に一層深い恐怖に襲われたために藻掻(もが)き初めたものらしい。氏は大浪を打つ呼吸の裡に、光りのない眼をソロソロと開いた。ほとんどあるかないかの努力で、恐ろし気に瞳を這わせつつ、辛うじて左右を見た。恰もそこいらに嬢次親子が立っているかどうかを確かめるように……そうして虫の這うようにそろそろと女を見上げつつ何か云おうとしたが、唯だらりと開いた唇がブルブルと慄(ふる)えるのみで、舌が硬ばっているために声が全く出なかった。それでも氏は云おうと努力した。……一度……二度……三度……目にやっとかすれた声で……殆んど言葉をなさぬ言葉が咽喉(のど)の奥から出た。
「……ア……ア……ナタ……ノ……ナマ……エハ……」
「ホホホホホホ。妾の名前でございますか。貴方はよく御存じでございましょう。ジョージ・クレイでございます」
「……………」
「貴方は最前仰有(おっしゃ)ったでございましょう。わたくしは嬢次様に乗り移られていると……その通りでございます。わたくしは姿こそ女でございますが、心は呉井嬢次でございます。いいえ。身も心も嬢次様のものでございます。わたくしの名は呉井嬢次と思召(おぼしめ)して差支(さしつかえ)ございませぬ。……お尋ねになる事は、それだけでございますか」
「……………」
ゴンクール氏は、なお幾度も何事かを云おうとした。力のない手付きで襟(カラ)を引っぱって、咽喉(のど)を楽にしようとこころみつつ片手を突ついて女の顔を見上げた。そうしてそこで女と顔を見合わせたままピッタリと動かなくなった。死の世界へ陥りかけて、まだ微かに生気を取り残している慌しい「魂(たましい)」と死の世界に生きている静かな「霊(れい)」とはこうして互に顔を見合ったまま何事かを語り合おうとしていた。けれどもゴンクール氏は遂に口を利く事が出来なかった。ただ、片手で髪毛を掻き乱し、頬を撫でて犬のように舌をわななかしたと思うと、それっきり両手を支(つ)いてぐったりとうなだれてしまった。氏の魂は最早(もはや)、驚く力も、恐るる力もなくなったのであろう。
女は冷やかにそうしたゴンクール氏を打ち見遣った。そうして、しとやかに身を返して本箱のうしろから小さな白紙に包んだものを取り出して、静かに丸卓子(テーブル)の上に置いた。大切そうにその包紙を取り除(の)けると、中から現われたものは小さな足付きの硝子(ガラス)コップで、中には昇汞水(しょうこうすい)のような……もっと深紅色の美しい色をした液体が四分目ばかり湛えられてあった。
女はそれを前に置いて立ったまま、心静かに衣紋(えもん)を繕った。帯の間から櫛(くし)を出して後(おく)れ毛を掻き上げた。次には袂(たもと)から白の絹ハンカチを出して唇のあたりをそっと拭いた。そうして最後に、何事かを黙祷するようにうなだれた。
ゴンクール氏の呼吸はいつの間にかひっそりと鎮まっていた。卓上電燈の光りは女と、その投影(かげ)に蔽われた男を蒼白く、ものすごく照し出した。
三十秒……五十秒……あと一分……。けれども影のような女は顔を上げなかった。影のようなゴンクール氏も動かなかった……粛殺(しゅくさつ)……又粛殺……。
やがて女は静かに顔を上げた。卓子(テーブル)の上の洋盃(コップ)をじっと見た。そうしてやおら手に取り上げて眼の高さに差し上げてもう一度じっと透かして見た。
紅(あか)い液体が、室内の凡ての光りと、その陰影を吸い寄せて、美しく燦爛(きらきら)とゆらめいた。
今や室内のありとあらゆる物の価値は、女の手に高く捧げられた真紅の透明な液体に奪われてしまった。時計の価格。裸体画の魅力。髑髏の凄味。机の上に並んだ書物の権威。そうして、その中に相対する男女の肉体、血、骨、霊魂……そんなものまでも今は夢のように軽く、幻のように淡く、何等の価値もない玩具同然に見えてしまった。唯、白い指に捧げられた美しい液体……真紅の毒薬……。すべてのものはその周囲に立ち並んで、自分自身の無力をそれぞれに証明しつつ、その毒薬の威厳を嘆美し、真紅の光明を礼讃するに過ぎないかのように見えた。
ジリッ……と時計が鳴った。……最後の時が迫った。……軽い痙攣が男の横顔を蜥蜴(とかげ)のように掠めた。
九時…………。
……私は見ていなかった。反射的に眼を閉じたから……ただ洋盃(コップ)が絨氈の上に落ちる音を聞いた。何物かに当ってピンと割れる響を聞いた。さらさらという絹摺れの音を耳にした。そうしてその瞬間に吾れにもあらず眼を開いた時に、女は丸卓子(テーブル)から離れて弓のように仰(の)け反(ぞ)っていた。口の中の液体を吐き出すまいとするかのように空を仰いだ顔にハンカチを当てて、その上から両手でしっかりと押えていた。そのハンカチの下から軽い、微かな叫び声が断続して洩れ出した。しかしそれはほんの一秒か二秒の間であった。忽ちよろよろと後方(うしろ)によろめいた瞬間に頭髪の中から眼も眩むばかりのダイヤのスペクトル光が輝き出たが、それもほんの一刹那の事であった。
※(どう)と肘掛椅子の中に沈み込んで、顔から両手を離すとそのままぐったりと横に崩れ傾いた。そのたった今嚥(の)んだばかりの毒液に潤うた唇は、血のようにぶるぶるとふるえつつ、次第次第に傾いて行く漆黒の頭髪(かみげ)の蔭になって、見えなくなって行った。その頭髪(かみげ)の中から、たった一つ生き残った大きなダイヤがもう一度燦然(さんぜん)と輝き現われて、おびただしい七色の屈折光を廻転させつつ、ぎらぎらと眼を射たが、それもやがてゆらゆらと傾いて行く髪毛の雲に隠れて、オーロラのように見えなくなってしまった。
女は死んでしまった……。
……けれど時計はまだ、その閑静な音を打ち止んでいない。霧の中から洩れ出す教会の鐘の音(ね)をさながらに、悠々と……四つ……五つ……六つ……七つ……八つ……九つ……最後のカラ――ンという一つは室(へや)の中の小宇宙を幾度もめぐりめぐって、目に見えぬ音(ね)の渦を立てながら、次第次第に、はるかにはるかに、遂に聞えなくなってしまった。
それと同時に室(へや)の一隅から、不可思議な怪しむべき幻影が、足音もとどろに室(へや)の中央(まんなか)によろめき出た。その乱れ立つ黄色の頭髪……水色にたるんだ顔色……桃色に見える白眼……緋色に変った瞳……引き歪められた筋肉……がっくりと大きく開いた白い唇……だらりと垂れた白い舌……ゆらゆらとわななく身体(からだ)……その丸卓子(テーブル)の上に両手で倚りかかって、女の方を屹(きっ)と覗き込んだ姿……それは最早(もはや)人間でもなく、鬼でもなく、又幽霊でもない。
それは眼に見えぬ暴風に吹きまくられる木(こ)の葉のような魂であった。恐怖の海に飜弄される泡沫(ほうまつ)のような霊であった。自分がどこに居るか。何をしているか。そんな事は全く知らない空虚の生命であった。その生命がこの世に認め得たものは唯「女の死」という一事だけであった。これを確(しか)と見届けた。そうして机に凍り付いたようにぴったりと動かなくなった。
……十秒……二十秒……三十秒……。
……突然……泣くのか笑うのか判らぬ表情が、その顔に動き初めた。その真白く大きく開いた口の下顎が左右にがくがくと動き出した。その白く蠢(うごめ)く舌の尖(さき)から涎(よだれ)がたらたらと滴った。その左右の緋色の眼は代る代るに大きくなり、又小さくなると同時に、眉は毛虫のように上下にのたくった。頬の肉は耳とつながってぴくぴくと上下し、遂には顔中の筋肉が一つ一つ違った方向に動きはじめた。……それは宛然(えんぜん)たる畜生の表情であった。
ゴンクール氏は辛うじて自分が死を免れた事を感ずると同時に、畜生の世界に蘇えり初めたのであった。それもこの世の畜生の世界ではない。その身体(からだ)附き、その表情、その喘ぎ方は全く地獄に住む獣類のそれである。地獄の火を取り巻いている獣類の一匹が「死」以上の恐怖に襲われた姿である。
彼はやがて不意にぶるぶると全身を顫(ふる)わして後退(あとじさ)りしたが又、卓子(テーブル)に両手をかけて女を見入った。女に近づこうとして又立ち竦(すく)んだ。
暫くして彼は又、突然に、思い出したように飛び上った。両足を踏みはだけて床の上に落した。そろそろと手を伸ばして卓子(テーブル)の上の灰色の封筒を取って、素早く握り込んで直ぐに女を見た。眼にも止まらぬ早さで名刺を取った。床に落ちたピストルを拾って又、女を見た。帽子と外套を探すらしく頭を押えながら、猫のように素早く室(へや)の中を見まわした。そうして室(へや)の中に、そんなものがない事がわかると、老人のように腰を屈めたまま、又も、キット女の横頬を見詰めながらじりじりと後退(あとじさ)りをした。うしろ向きに右手の扉(ドア)のノッブに手をかけてそろそろと開いた。そのままくるりと向き直ると、疾風のように外へ飛び出そうとした。
……が……彼はそのままぴったりと石のように凝固してしまった。眼の球を破裂する程剥き出し、口を裂ける程引き開き、両の拳を赤ん坊のように握り締め、膝頭をX形に密着(くっつ)け合わせたまま、床から生えた木乃伊(ミイラ)の姿に変ってしまった。そうして一心に、眼の前の入口の暗(やみ)の中から浮き出している真白い顔と、真黒い着物を凝視した。
それは白襟(しろえり)に黒紋附(くろもんつき)の礼服姿の女が、乱れかかった縮れ毛の束髪をがっくりとうなだれたまま、扉(ドア)の鴨居から床の上まで長々と裾を引きはえて吊り下がっているのであった。扉(ドア)を開けた拍子に動いたらしく、青い静脈を透きとおらした両手を、すこしばかり左右にぶらぶらさせていたが、それも間もなく動かなくなってしまった。
その顔を見上げていたゴンクール氏の舌が微かにふるえ出した。髪毛が一本一本に静電気を含んだかのように立ち上り初めた。その口を開(あ)いたままの咽喉(のど)がひくりひくりと動き出し、やがてぐるぐると上下したと思うと、遠い凩(こがらし)に似た声が、氏の全身の力を絞って戦(おのの)き出た。
「……ノブコ……シ……ム……ラ……」
その声がまだ消えないうちに室(へや)中を震撼する大音響が起った。青ペンキ塗りの扉(ドア)がぴったりと閉まったのだ。ゴンクール氏が閉めたのだ。続いて今一つ別の大音響が起った。女の前の丸卓子(テーブル)がゴンクール氏の足の下で横たおしになった。その上からけし飛んだ珈琲器の一群が、左手の扉(ドア)に跳ねかかって切るような悲鳴をあげた。
その悲鳴を蹴散らしながら、その扉(ドア)を垂れ幕ごと引き開いて、外に飛び出そうとしたゴンクール氏は又も……ウウウ……と締め殺されるような声を出して背後によろめいた。襟(カラ)を引き除(の)け、ネクタイを引き千切(ちぎ)り、辷(すべ)りたおれようとして踏み止まりつつ、もう一度走り寄って、眼の前の物体を覗き込もうとした。夢中になって掴みかかるべく身を藻掻いた。
しかし……氏の眼にはもう何も見えないらしかった。
恐らくそれは氏の最後の努力であったろう……二三度虚空を掴みまわった。天に掻きのぼるかのように身を反(そ)らして爪立ち、又爪立った。そうして空間の何物かをしっかりと掴み締めたまま、次第次第にのけ反(ぞ)って行った。忽ち※(どう)という大音響を室(へや)中にゆらめき起しつつ、椅子の向う側の壁の附け根に長くなった。
……あとには首のまわりに紫の紐を千切れる程喰い込ませた嬢次少年……今日の昼間に見た時の通りの扮装の美少年が、土色に透きとおったまま、入口の闇にぶら下って、きりりきりりと、ゆるやかに廻転し初めていた。
……室(へや)の中は旧(もと)の静寂にかえった。
……私の頭髪がざわざわざわざわと走り出しかけて又ぴったりと静止した。同時に何故ともなく自分の背後を振り返って見た。
月が出ると見えて、門の外の、線路の向う側にある木立が、白み渡った星空の下にくっきりと浮いて見える。
私は茫然とそこいらを見まわした。
……私はこの間、何をしていたか……。
私は面目ないが正直に告白する。……何をしていたか全く記憶しない……と……。否、自分が立っているか、坐っているかすら意識していなかったのである。ただこの時気が付いたのは、額の右側と鼻の頭とが、砥石のように平たく、冷たくなっている事であった。それは室(へや)の中の様子を一分一秒も見逃すまい、聞き逃すまいとして一心に硝子(ガラス)窓に顔を押し当てていたのであろう。そのほかに自分がどんな挙動をしていたか、どんな顔をしていたか、殆んど無我夢中であった。眼と耳以外のすべての神経や感覚が、あとかたもなく消え失せていたのであった。
そう気が付いた時に私は初めてほーっと長い長い溜息を吐いた。そうして直ぐにも室(へや)の中に飛び込もうとしたが、まだ一歩も踏み出さないうちに反対に後退(あとじさ)りをした。何が怖ろしいのか解らないまま全身がぶるぶると震えて、毛穴がぞくぞくと粟立って、頭の毛が一本一本にざわめき立った。
私はまだ半分無我夢中のまま室(へや)の中をそっと覗いて見た。見ると女はまだ椅子の上に横たわっている。今日の午後六時以後、私が眼の仇のように狙って来た疑問の女は、今眼の前に死んでいる。不倶戴天の讐敵と思い詰めて来たウルスター・ゴンクール氏も両手を投げ出したまま長くなっている。台所口の扉(ドア)はひとりでに閉まったらしいが、その二つの扉(ドア)の外にはもう二人の男女の死骸が、向い合って懸かっている筈である。
……私は又も、中に這入っていいか悪いかわからなくなった。
自分の居室(へや)でありながら自分の居室(へや)でない。……前代未聞の恐ろしい殺人事件のあった家……四人の無疵(むきず)の死骸に護られた室(へや)……その四人を殺した不可思議な女の霊魂の住家……奇蹟の墓場……恐怖の室(へや)……謎語(めいご)の神殿……そんな感じを次から次に頭の中でさまよわせつつかちかちと歯の根を戦(おのの)かしていた。
その時に私の背後を轟々たる音響を立てて、眼の前の硝子(ガラス)窓をびりびりと震撼して行くものがあった。それは中野から柏木に着く電車であった。その電車は、けたたましい笛を二三度吹きながら遠ざかったが、あとは森閑としてしまった。……間もなく、
「……柏木イ――……柏木イ――イ……」
という駅夫の声がハッキリと冷たい空気を伝わって来た。
私ははっと吾に帰った。同時に、おそろしい悪夢から醒めたような安心と喜びとを感じた。
……今まで見たのはこの世の出来事ではなかった。死人の世界の出来事であった。死後の執念の芝居であった。死人の夢の実現であった。
けれども私は依然として生きた私であった。生きた血の通う人間であった。電車が通い、駅夫が呼び、電燈が明滅し、警笛が鳴る文明社会に住んでいる文明人であった。……そうして眼の前に展開している死人の夢の最後の場面……四つの死体に飾られた私の室(へや)も、やはり、科学文明が生み出した日本の首都、東京の街外れでたった今起った一つの異常な事件の残骸に過ぎなかった。それは当然私が何とか始末しなければならぬ目前の事実であった。
私はこの時初めて平常の狭山九郎太に帰る事が出来たのであった。
……構うものか……這入ろう……。
と思った。それと同時に青年時代からこのかた約二三十年の間影を潜めていた好奇心が、全身にたまらなく充ち満ちて来るのを感じた。
私は用心しなくともよかろう……とは思いつつ本能的に用心しながら静かに硝子(ガラス)窓を押し明けた。栓が止めてないのでスーウと開(あ)いた。その窓框(まどかまち)に両手をかけて音もなくひらりと中に跳り込んで、改めて室(へや)の中を見渡した。
洋盃(コップ)は床の上に転がっている。絨毯は踏み散らされて皺(しわ)になっている。珈琲碗は飛び散っている。時計は九時五分を示している。
その下にゴンクール氏は黄蝋色に変色した唇を開いたまま、あおむいている。その丈夫そうな歯はすっかり乾燥して唇にからび附いている。
そんなものをすっかり見まわしてから私は静かに眼をあげて女の顔を見た……が……意外な事を発見して思わずたじたじと後退りをした。
……見よ……。
涙が一筋右の顳※(こめかみ)を伝うて流れている。左右の長い睫(まつげ)にも露の玉が光っている。紅をつけた唇の色はわからないが厚化粧をした頬には処女の色がほのめいている。女は死んだ人間のように見えぬ。
この時の私の心持ちは何とも説明が出来ない。嬉しいのか、恐ろしいのか……おそらくその両方が一緒になった気持ちであったろう。私が今まで当の敵として睨んで来た美少女……憎んでも飽き足らぬ奴と思って生命(いのち)がけで追い詰めて来た疑問の女……三人の生命(いのち)を手を下さずして奪ったとも見られる恐るべき怪美人……それが最早(もう)死んだものと思って安心して這入って来た私は、その女がまだ死んでいないのを見て、安心以上の安心ともいうべき一種の喜びを感ずると同時に……扨(さ)ては……扨(さ)ては……と胸の躍るような緊張に全身を引き締められるのを感じたのであった。
その時に女はうっすりと眼を見開いて私の足下を見たようであったが、その眼をそろそろと上げて私の顔を一眼見ると、忽ちその眼を大きく見開いた。
「……あっ……」
と叫んで椅子から跳ね起きて、颯(さっ)と頬を染めながら私を突き除(の)けて逃げ出そうとした。その右手を私は無手(むず)と捕えた。
女は袖で顔を蔽うたまま、二三度振り切って逃げよう逃げようと藻掻いたが無駄であった。私の右手の指は、鋼鉄の輪のように女の右手を締め付けているために、化粧をした手首から爪の先が、見る見る紫色になってしまった。
私は励声(れいせい)一番……、
「何者だ。名を云え」
と大喝した。
この時の女の驚き方は又意外であった。……はっ……と立ち竦(すく)んだまま眼をまん丸にして、私の顔を穴のあく程見たが、返事が咽喉(のど)に詰まって出ないらしく、只呆れに呆れている体(てい)であった。
私はこの時初めて女の顔を真正面から十分に見る事が出来た。百燭の光明に真向きに照らし出された顔は、よく見れば見る程、又とない美しさであった。ことにその稍(やや)釣り気味になった眼元の清(すず)しさ……正に日本少女の生(き)ッ粋(すい)のきりりとした精神美を遺憾なく発揮した美しさであった。私は一瞬間恍惚とならざるを得なかった。けれども直ぐに又気を取り直して、今度は確かな落ち着いた声で云い聞かせた。
「貴女(あなた)のなすった事は初めから残らず見ておりました。私はこの家の主人狭山九郎太です。……お名前を仰言(おっしゃ)い」
女は観念したようにうなだれた。私は手を離してやった。
女は痺れ痛む右手を抱えて撫(な)で擦(さす)りながら、暫くの間無言でいたが、忽ち両手をうしろに廻して、真白な頸筋の処を揺り動かした。それから髪毛の中に指を入れて二三箇所いじり廻した。そうしてその長い鬢(びん)の生え際を引き剥がすとそのまま、丸卓子(テーブル)の上にうつむいて両手をかけて仮髪(かつら)を脱いだが、その下の護謨(ごむ)製の肉色をした鬘下(かつらした)も手早く一緒に引き剥いで、机の上に置いた。
その下の真物(ほんとう)の髪毛は青い程黒く波打ったまま撫で付けにしてあったが、同時に鬘下で釣り上げられていた眉、眼、頬はふっくりと丸くなって、無邪気な、可愛らしい横顔に変ってしまった。最後に女は巧みに貼り付けてあった眉毛を引き剥ぐと、顔を上げて真白に化粧を凝らした少年の顔を百燭の光りに曝(さら)した。
私は眼を剥いてその顔を睨み付けた。
魂がパンクする事を私は生れて初めて経験した。われと吾が肝の潰れる音を聞いた。
「……紫の……ハンカチ……」
という言葉が出かかって、そのまま咽喉(のど)にこびり付いてしまった。外に出たのはその口付きと呼吸(いき)だけであった。
少年はもう一度真赤になって微苦笑した。そうして今朝(けさ)の通りの凜々(りり)しい声を出した。
「あれはカルロ・ナイン殿下から頂きました。藤波弁護士に父の遺言書を渡したという合図に使いました。日本政府の手でJ・I・Cが退治られなければ、僕等の手でやっつける覚悟だったんです」
私はもう驚く力がなくなったらしい。何だか急にがっかりしてしまって、ぶっ倒れそうな気だるさに襲われながらも、きょろきょろと左右の入口をかえり見た。
少年はその意味を覚ったらしく、直ぐに左側の扉(ドア)を開いて、首をくくった自分の死骸を片手で軽々と外して来た。それは紫の紐(ひも)で首を縛った空気入りの護謨(ごむ)人形で、少年が手品に使用したものを油絵具か何かで塗り直して扉(ドア)の上の框(かまち)に突込んだ白箸(しろばし)に引っかけたものらしかった。少年は、その白箸ごと抜いて来て、無気味な恰好の人形を私の眼の前にぶら下げて見せながら、玄関口の扉(ドア)に向って心安げに叫んだ。
「……志免さん……お母さん。もうよござんすよ」
声に応じて待ち構えていたように右手の扉(ドア)が開いた。左腕を繃帯と油紙で釣った志免警視が、白い歯を見せながら、短いサアベルをがちゃ付かせて這入って来た。そのあとから白襟の礼装のまま化粧だけ直した志村のぶ子が、近眼鏡をかけ直しながら、おずおずと這入って来たが、流石(さすが)に云い知れぬ喜びと、初めて私の前に出て来る気味悪さとに包まれているらしく、心持ち顔色を青くしながら、縮れ毛を染めた束髪の頭を下げた。志免警視はにこにこして紹介した。
「……課長殿(志免警視は自分が課長の癖にいつまでも私を課長殿と呼んだ)……志村未亡人です」
二年前(ぜん)の記憶をまざまざと喚び起した私は、顔の皮膚が錻力(ブリキ)のように剛(こわ)ばるのを感じた。お辞儀を返したかどうか記憶しないまま突立っていた。
「いや……面喰いましたよ。ははは。何しろ事が急だったもんですからね。課長殿と打合わせる隙(すき)がなかったんです。……ちょうど三時頃だったと思いますが、藤波君から電話がかかって、嬢次君から志村浩太郎君の遺言書類を受け取ったという概略の報告をして来たのです。それを聞くととても重大問題で、うっかりすると親玉を取り逃がしそうな形勢ですから、総監と打ち合わせをしているところへ、藤波君が飛び込んで来て、総監を引っぱり出して、外務省から内務省、検事局と稲妻みたいに活躍し初めたのです。……一方に私は私で一生懸命に貴方を探したんですけど、その時はどうしても見当らなかったんです。貴方がおいでになれば何でもなく片付いたんでしょうけれども……お蔭ですっかり蜂の巣を突っついたようになっちゃって非道(ひど)い眼に会いましたよ。ははは。しかし課長殿もこれで清々されたでしょう。はははははは」
警官気質(かたぎ)で無遠慮な志免刑事は、紹介とごちゃ交ぜに弁解しながら顔を撫でた。その中を志村未亡人は進み出て、顔も上げ得ないまま、切れ切れに挨拶をした。
「……お顔を合わせます面目もございませぬ。……何から何まで御恩になりまして……お蔭様で、無事に……伜の願いまで叶いまして……もう……思い残しますことは……」
と云ううちに胸が一ぱいになったのであろう。ハンカチを顔に当てて肩を戦(おのの)かした。すると、それを……見っともない。お止しなさい……というかのように嬢次少年が、丸卓子(テーブル)を抱え起したり、毀(こわ)れ物を片付けたり、奥の室(へや)から椅子を持って来たりし初めた。
その時に門の中に敷き詰めた房州石の上をどっしどっしと歩いて来る靴の音と、ちょこちょこ走りに連れ立って来る小さな足音が、入れ交(まじ)って聞えて来た。その足音を聞くと志免警視が急いで玄関に出迎えて、何か二言三言報告じみた言葉を交換しながら請じ入れたが、這入って来た人物を見ると、頭を繃帯で巻き立ててはいるが、さしもに豊富であった黒髯を、見事に剃り落して、軍艦の舳(へさき)のような顎をニューと突き出したハドルスキー……紛う方ない樫尾初蔵氏の堂々たる陸軍大尉の制服姿で、胸に帯びた略綬の中には功四級のそれさえ見える。それからもう一人は白狐の外套に、黒貂(てん)の露西亜(ロシア)帽を耳深に冠った、花恥かしいカルロ・ナイン殿下であったが、急いで歩かれたせいか真赤に上気しておられるのが、又なく美しく、あどけなく見えた。志免警視と嬢次母子(おやこ)は、それとなく壁際に片寄ってゴンクール氏の死骸を隠すように立ち並んだ。
「いや。松平閣下の自動車は大型で淀橋からこっちへは這入らないのでね。うっかりして殿下をお歩かせしてしまいました」
そう云ううちに樫尾大尉は、死骸の方へは眼もくれずにつかつかと這入って来て、私の前で直立不動の姿勢を執ると、恭(うやうや)しく名刺を差出した。そうして心持ち上半身を傾けたまま、如何にも軍人らしい太い声で挨拶をした。
「私は先年御高配を蒙りました樫尾初蔵でございます。その節は失礼ばかり致しましたにも拘らず、御容赦を得ました段、篤く御礼を申上げます。……又、この度は一方ならぬ御配慮を煩わしまして……」
私は何かなしにほっとした気持になりつつ礼を返した。二人は何等隔意のない態度で向い合ったまま、互の顔を正視し合った。
「実は一昨年、志村未亡人と御一緒に日本を出発致します際の御相談では、今度日本に参ります際には、何もかも直接貴方に御相談して致したい考えでおりましたところ、貴下の御辞職の御事情を蔭ながら拝承致しましたので、それではこのような危険な仕事をお願い致す訳には行かぬ。科学の研究以外にお楽しみのない貴方のお身体(からだ)に、万一の事があってはならぬ。失礼ではありますが狭山様は成るべく危険な区域にお近づきにならぬようにしてあげねば……という志村未亡人の御注意がありましたのでその方の手配を嬢次君とお母様の思い通りにして頂く事にして計画を立てました。そうしてJ・I・Cの日本到着後の活躍を見定めて、動かぬ証拠を押えてから、警視庁の御助勢を得まして一挙に撃滅する考えでおりましたところが、嬢次君が思いもかけませぬお父さんの遺書を発見したのみならず、激昂の余り、独断で行動を初めましたために、事件が意外に急速な発展を致しまして、私も面喰いましたような事で、思わぬ失礼を致しました。
……一方に話が相前後致しますが、私共が日本に到着致しますと同時に松平男爵閣下から『構わぬから大ぴらで遣れ。外交上の面倒は引き受ける。日米親善も日仏協商も、日英同盟も気にかける必要はない。飛行機戦と潜水戦を二十年間続け得る準備が出来ているから』……とのお話がありまして、高星総監に御紹介を受けておりましたので、皆様とよくお打ち合わせする隙(ひま)もないまま思いきった御処置を志村さんにお願いする一方に、悪い事とは存じながら嬢次君に色々と芝居をしてもらいまして、却って御心労をかけるような事に相成りまして面目次第も御座いませぬ。何事も私の微力の致しますところと思召(おぼしめ)して平(ひら)にお許しの程をお願い致します。
……しかし幸いに天祐を得ましてこの奸悪団体を二重橋橋下に殲滅(せんめつ)しまして、吾々大和民族の前途を泰山の安きに置くを得ました事は、邦家のため御同慶に堪えませぬ。何卒これを御縁と致しまして何分の御庇護のほど、謹んで希望に堪えませぬ」
私は無言のまま、そんな固くるしい挨拶を受ける器械みたように腰を折り曲げて礼を返した。そうして挨拶を終るや否や、待ちかねたように掌(てのひら)の中の名刺を見たが、その名刺には矢張り「予備役陸軍歩兵大尉……樫尾初蔵」という二年前(ぜん)の変名が使ってあった。
二人はそのままもう一度無言の裡に眼と眼を見交した。その樫尾大尉の艱難(かんなん)に鍛い上げた皮膚の色と、鉄石の如き意志を輝かす黒い瞳を正視した瞬間に、私はすべてを察してしまった。
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……この本名の判らない男こそ真個(ほんとう)の「暗黒公使(ダーク・ミニスター)」である……大和民族の危機を救うべく、世界を跨にかけて活躍奮闘している孤独のダーク・ミニスターである。……今度の事件のからくりは全部この男の仕事なのだ。……この男は嬢次母子や、かくいう私を犠牲にする位の事は、何とも思わないで自由自在にこき使ったのだ……俺は到底この男には適(かな)わない。否々。嬢次母子の気強さにも、志免警視の勇敢さにも俺は到底敵(かな)いっこないのだ。
……早く警察界を引退していてよかった……。
[#ここで字下げ終わり]
……と……。その時に樫尾大尉は、傍(かたわら)のカルロ・ナイン殿下をかえり見て何やら眼くばせをした。殿下は大尉の顔を見て莞爾(にっこり)とうなずかれると、つかつかと私に近寄って、小さな手をさし出された。私は又も文句なしにその手を握らせられた。
「……サヤマ……サン。アリガト。フランス……ノ……チチ……ニ……テガミ……デ……シラセ……マス……」
という無邪気な日本語が殿下の唇から洩れた。私は露西亜の双鷲(そうしゅう)勲章を受けた以上の感激に打たれて、思わず最敬礼をお返ししたのであったが、その瞬間に私は、私の第六感の暗示が一つ残らず鮮かに的中していた事を覚ったのであった。そうして又それと同時に、その第六感の暗示を判断した私の頭が、如何にみじめなあたまと行動であったかを覚らせられて、気が遠くなる程の面目なさを感じさせられつつ恐る恐る机の前に引返したのであった。
……これを仏蘭西のウラジミル大公に報告されてなるものか……。
と吾れにもあらず赤面しつつ……するとその私を追いかけるように樫尾大尉が進み出て私に一通の手紙を渡した。
それは日本封筒に私の名前だけを書いたもので署名は松平友麿となっている。何事かと思って封を開いて見ると、それは明後日の午後六時から、男爵の私邸で小宴を開くから来てくれという意味の、儀礼をつくした案内状で、最後に出席する人々の名前が書いてある。
[#ここから1字下げ]
カルロ・ナイン殿下。高星警視総監。狭山九郎太。志免警視。藤波弁護士。志村のぶ子。呉井嬢次。樫尾初蔵。松平男爵夫妻……以上……。
[#ここで字下げ終わり]
私はすぐにこの招待の意味を覚った。当日一同が打ち解けた席上で、もう一度今日の話をくり返して恥の上塗りをしなければならぬ事を知りつつ、どうしても後へ退(ひ)けない事を覚悟した。
私が承諾した意味を答えると、樫尾大尉は巨大な体躯を傾けて一礼しつつ、辞し去ろうとした。するとその時に嬢次少年は私の背後の机の下の暗い処から、黒いボックス皮の手提鞄を取り出して、中に詰まっている絵葉書を掻き廻していたが、やがてその底の方から、四角に折った薄い新聞包を取り出すと、帰りかけた樫尾大尉を追かけるようにして、無言のまま手渡しした。
受け取った樫尾大尉は、半身を振り返らしたまま不審そうに少年の顔と新聞包を見比べた。
「何ですか……これは……」
少年は化粧したままの顔で微笑した。
「これは米国の参謀本部で作った日本地図の青写真の写しです。秘密の石油タンクのあり家を予想して赤丸を附けてあるのです」
「ホー。どうしてそんなものがお手に入りましたか」
と云ううちに流石(さすが)の樫尾大尉も昂奮したらしく顔を赤くした。
「それを手に入れようと思って随分苦心したのですが……帝国ホテルにも曲馬場にもなかったのですが」
嬢次少年も顔を染めた。
「……バード・ストーン団長が持っているのを、市俄古(シカゴ)から桑港(サンフランシスコ)まで来る汽車の中で盗み出して写したのです。寝間着(パジャマ)を着た貴婦人に化けて寝台車に這入って、団長の化粧品箱の中から盗み出して、便所でレターペーパーを十枚程使って透き写しをしたのですから、とても判然(わか)り難(にく)いでしょうと思うんです。けども専門家の方が御覧になったら、あらかたの見当はお付きになるだろうと思いましたから……」
樫尾大尉は深くうなずきながら、私達を見まわしつつ、新聞包をポケットに納めた。
「しかしその写されたあとの青写真は……」
「又もとの通りに畳んで、化粧箱の中へ返しておきました。けれどもその後船の中でもう一度、もっとハッキリ写そうと思って探した時には、もうどこにもなかったようです。きっと団長が地図を諳記してしまって焼き棄てたのだろうと思うんですが……ですから僕はその地図をとても大切にして、誰にも話さずに鞄の二重底に隠して、その上から絵葉書を詰めて誤魔化しておいたんです。……けれども万一、あの曲馬団がやられる時に、どさくさに紛れて外(ほか)の人間の手に渡って反古(ほご)にされるような事があったら大変と気が付きますと、何でも自分の手に奪い取っておきさえすれば安心と思いましたから、直ぐ狭山さんにお手伝いをお願いして取りに行ったのです。……僕が曲馬団を飛び出す時に、その地図の事を忘れていたのが悪かったんです。御免なさい」
と少年は率直に頭を下げた。樫尾大尉は初めて破顔一笑した。
「あはは……あやまる事はないです。金鵄(きんし)勲章です。もしこの地図が米国の参謀本部で作製されたもので、その中の一枚を団長が貰っていたものの写しとすれば非常なものです。比律賓(ヒリッピン)の飛行隊が日本を襲撃して重爆弾を投下する場所が明瞭にわかる筈ですからね。はははは……」
樫尾大尉のこの無造作な一笑は、聞いている一同の胆を奪うのに十分であった。それは米国何者ぞという日本政府の意気込みを暗示していると同時に、一介の少年呉井嬢次の功績の想像も及ばぬ偉大さを十分に裏書するものであったから……。
その一同の気を呑み、声を呑んだ緊張の裡に樫尾大尉は改めて繃帯をした頭を下げると、傍(かたわら)をかえり見て、睡(ねむ)たそうな顔をしておられるカルロ・ナイン殿下の手を率(ひ)きながら辞し去った。
出て行きがけにカルロ・ナイン殿下は行儀よく頭を下げて、
「……サヨウ……ナラ……」
と云われた。その無邪気さと気高さに、一同は思わず最敬礼をさせられた。志免警視は玄関に詰めている刑事の中の二名に淀橋まで見送らせた。
あとを見送った私は、室(へや)に帰ると、死骸の始末も何も忘れたまま机の前の肘かけ椅子にどっかりと身体(からだ)を落し込んだ。急にぼんやりとなって来た眼の前の空気を凝視しながら、太い溜息と一緒につぶやいた。
「……わから……なかった……」
そうしてうとうとと眼を閉じかけた。たまらなく睡くなって来たので……。
「あっはっはっはっはっはっ」
と志免警視が明るい声で笑い出した。矢張り死骸の事も忘れる位いい心持になっているらしく、私の真向いの椅子にどっかりと反り返りながら……、
「……わっはっはっはっ。流石(さすが)の課長殿も一杯喰いましたね。はっはっ。しかし今度の事件は全く意外な事ばかりだったのです。第一ハドルスキーが樫尾大尉という事は、僕ばかりでなく、松平局長も二三日前まで知らなかったそうですからね。一方に、あの曲馬団をあれ程に保証した××大使が今になって急に、あんなものは知らないとあっさり突き離すだろうとは樫尾大尉も思わなかったそうです。……僕等は又僕等で、あの曲馬団で無頼漢(ごろつき)どもが、日本の警察を紐育(ニューヨーク)や市俄古(シカゴ)あたりの腰抜け警察と間違えるような低級な連中ばかりだろうとは夢にも思いませんでしたからね。新聞記者を連れて行けば、こっちの公明正大さが大抵わかる筈と思ったんですが……何もかも案外ずくめでおしまいになっちまいましたよ。はっはっはっ」
「おかげ様で本望を遂げまして……」
と志村のぶ子が相槌を打った。
「……いやア……貴女(あなた)方の剛気なのにも驚きましたよ」
と志免警視はどこまでも明るい声で調子に乗った。一事件が済んだ後(のち)で私の前に来ると志免はいつもこうであった。
「……ゴンクールはきっと僕が生捕(いけどり)にして見せるからと云って嬢次君が藤波弁護士にことづけたんですけど、何だか不安でしようがなかったんです。……その上に樫尾君が事件の号外は新聞社に出させてもいい。現在の日本の新聞では号外に着手してから刷り出す迄の時間が最少限一時間程度で、横浜はそれから又三十分位遅れて出るのだから、その加減を見て横浜のグランドホテルに居るゴンクールに電話をかければ彼は東京と横浜の号外をドチラも見ないまま狭山さんの処へ来る事になる。一方に狭山さんは号外を見ておられるにきまっているからとても面白い取組になる。又、万一、途中でゴンクールが気が付いて逃げ出したにしても、大抵胆を潰している筈だから二度と手を出す気にはなるまい。あんな奴は国際問題に手を出す柄じゃない。市俄古あたりの玉ころがしの親分が似合い相当だと云うのです。私も成る程とは思いましたが、聊(いささ)か残念に思っているところへ、帝国ホテルで荷物片付の指揮をしながら、私共の通訳をして美人連中を取調べていた樫尾君が、今柏木の狭山さんの処に居るゴンクールから電話だ……と云った時には飛び上りましたよ。天祐にも何にも向うから引っかかって来たんですからね……取るものも取りあえず部下を引っぱって向うの門の処まで来てみたんです。……ところが来てみると課長殿が窓一ぱいに立ちはだかって腰のピストルをしっかり握り締めながら、室(へや)の中を覗いておられるでしょう。そこで此奴(こいつ)はうっかり手が出せないなと思ってそーっと課長殿の背後(うしろ)の椿の蔭から覗いて見ると驚きましたねえ。……あのゴンクールの銃先(つつさき)を真向(まとも)に見ながら、あれだけの芝居を打つなんか、とても吾々には出来ません。扉(ドア)の外で黙って見ているお母さんの気強さにも呆れましたが……手に汗を握らせられましたよ。まったく……」
志免警視は心から感心したらしく眼をしばたたいた。先刻(さっき)からてれ隠しに台所の方へ出たり入ったりしてお茶を入れかけていた嬢次母子(おやこ)は首すじまで赤くなってしまった。
「……いいえ……何でもないんです」
と云ううちに振袖に赤い扱帯(しごき)を襷(たすき)がけにして、お茶を給仕していた少年は、汗ばむ程上気しながら椅子に腰をかけると、手を伸ばして背後(うしろ)に横たわるゴンクールのポケットから巨大なブローニングを取り出した。その銃口(つつぐち)を覗いて見ながら……、
「……何でもないんです。今朝(けさ)早くお母さんに合鍵を渡して、ゴンクールの寝室から生命(いのち)がけでこのブローニングを取って来てもらったのです。僕が行ってもよかったんですけど、母が承知しなかったもんですからね。そうして銃身の撥条(バネ)を墨汁(すみ)で塗ったヒューズと取り換えておいたのです。……ですから撃鉄(ひきがね)を引いても落ちやしないんです。この通りです」
と云ううちにゴンクール氏の心臓に向けて撃鉄(ひきがね)を引いて見せた。
……轟然一発……。
薄い煙がゴンクール氏を包んだ。白いワイシャツに黒い穴が開いて、その周囲(まわり)を焼け焦げが斑々(まだらまだら)にめらめらと焼け拡がった。……と見る間にその下の茶色の毛襯衣(けシャツ)の下から、黒い血の色が雲のように湧き出した。
「……あれっ……」
と母親が悲鳴をあげた。
玄関に残っていた四名の刑事も驚いたらしく、どかどかと這入って来たが、志免警視に支えられたまま一斉に屍体を凝視した。
「むむむむ……うう……」
と呻吟(しんぎん)しつつ屍体が強直したと思うと、起き上るかのようにうつ伏せに寝返ったが、そのまま又べったりと長くなってしまった。ごろごろと咽喉(のど)を鳴らして赤黒い液体を吐き出しながら……。
皆立ったまま顔を見合わせた。一人残らず色を失っていた。
思わず立ち上って屍体をじっと凝視したまま、唇を噛んでいた少年も、全く血の気をなくしていた。そうしてぶるぶると震え出しながら、力なくブローニングを取り落すと、がっくりとうなだれたまま志免警視の方に両手をさし出した。涙がはらはらと床の上に滴り落ちた。
「……縛って……下さい。僕は……人を殺しました」
「あはははははは」
と志免警視は又も制服を反(そ)りかえらして笑い出した。剣の柄をがちゃがちゃと乗馬ズボンの背後(うしろ)に廻しながら、帽子をぐいと阿弥陀(あみだ)にした。
「……ゴンクールの奴、途中で気が付いて取り換えやがったんだ。……あはははははは……自業自得だ……」
皆呆れて志免警視の顔を見た。
「いや……心配しなくてよろしい……君は無罪だ」
「えっ……」
と少年は初めて顔を上げた。意外の言葉に眼を輝かしながら……。
志免警視は一歩進み出て少年の肩に手を置いた。
「……正当防衛にしといて上げる。実はゴンクールの自殺なんだけど……あはははは……ねえ諸君そうだろう」
皆一斉にほっと安堵(あんど)のため息を吐いた。
そのうちに嬢次母子(おやこ)は思わず抱き合って嗚咽(おえつ)の声を忍び合った。一同は粛然と首低(うなだ)れた。
私も椅子に腰をかけたままがっくりとうなだれた。……日本と米国の飛行機が入り乱れて戦う夢を見ながら……。
× × ×
これ位でよかろう。
あとは書いても詰まらない事ばかりだから……。
しかし次の二三項だけはこの事件のお名残(なごり)として是非とも読者諸君に報告しておかずばなるまい。
志村浩太郎氏の遺産は藤波弁護士の尽力で、全部、志村母子(おやこ)からの寄附の名の下に、死傷者の手当見舞、慰労と、帝国ホテルの損害賠償とに費消された。
樫尾大尉は、翌々晩……忘れもしない大正九年三月二日の夜の松平男爵の招宴をお名残として、又も行方を晦(くら)ましてしまった。あたまと体力を使いきれないで困っているのはあの男であろう。
それからカルロ・ナイン殿下はその後ずっと松平子爵の処に居て、西比利亜(シベリア)の形勢を他所(よそ)に益々美しく大きくなっておられたが、セミヨノフ将軍が蹉跌(さてつ)して巨大な国際的ルンペンとなり、ホルワット将軍が金を蓄(た)めて北平(ペーピン)に隠遁したあとは、巴里(パリー)に隠れておられる父君ウラジミル大公……仮名ルセル伯爵の膝下(しっか)に帰って日本名を象(かたど)ったユリエ嬢と名乗り仏蘭西の舞踏と、刺繍と、お料理の稽古を初められた。
伜のミキ・ミキオ……戸籍名狭山嬢次とも大変にお心安くして下さるようである。
底本:「夢野久作全集7」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年2月24日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
ファイル作成:かとうかおり
2000年12月27日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
【表記について】
/\……二倍の踊り字
本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。
大きな眼を※(みは)らせられて 一層大きく眼を※(みは)った 眼を※(みは)っているところであります 眼を※(みは)った 眼を※(みは)り
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第3水準1-88-85
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顳※骨(しょうじゅこつ) 顳※(こめかみ)
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第3水準1-94-6
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※(も)ぎ取られて
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第3水準1-84-80
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※(どう)と
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第4水準2-13-41
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