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暗黒公使(ダーク・ミニスター)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-10 9:48:03  点击:  切换到繁體中文


 ところがその最中(さなか)にも、その私の空っぽのあたまを決定的に支配し指導しつつ、絶えず重大な暗示を与え続けていた、神秘的なあるもの[#「あるもの」に傍点]があった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の洞察力は透徹そのものであった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の記憶は正確そのものであった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]の暗示は霊妙そのものであった。そのあるもの[#「あるもの」に傍点]……すなわち私の第六感はがんがらがんのふらふら状態に陥っている私の全部を支配して、いつの間にか二年前(ぜん)に志村氏が変死したステーション・ホテルの前に行かせた。それから二年前(ぜん)に私が履(ふ)んで来た通りの道筋を、知らず識(し)らずの中(うち)に間違いなく繰り返して辿らせて、カフェー・ユートピアまで連れて来て、その二年前(ぜん)にたった一度しか腰をかけた事のない窓際の椅子にちゃんと腰をかけさせてその上に……志村浩太郎氏が、その死の数時間前(ぜん)に誂(あつら)えた通りの四種の料理を、無意識の裡に註文さした。
 ……お前はもうじきに死刑の宣告を受けるのだぞ……。一人の美しい女から紫のハンカチを貰うのだぞ……。
 ……と明白に予言したではないか。
 何という不可思議な作用であろう。
 何という適切な暗示であろう。
 もし私がこの時に、かような偉大な力の存在を知らないで、唯こうした事実だけを気付いたならば、恐らく奇蹟としか思わなかったであろう。又、もし私が信仰家であって、これだけの暗示を受けたならば、直ぐに上天の啓示と信じて、掌(て)を合わせて謝恩の祈祷を捧げたであろう。
 しかし、これは上天の啓示でも何でもない。人間の持っている偉大な……忘れられた能力の作用である。
 ……と……こう気が付くと同時に、私は椅子を蹴って立ち上ったのであった。そうしてその一瞬間に、二年前(ぜん)から引き続いて来たこの奇怪なJ・I・C事件に対する私の判断を、どん底から引っくり返してしまったのであった。
 ……私はすっかり欺されていた。ただ私の「第六感」だけが欺されなかった……
 と気付いたので……。
 しかも、その私がその「第六感」の暗示を基礎にして、ドンデン返しに建て直してみた事件の真相の如何に恐ろしかった事よ……。
 見よ。
 ――事件の発端となっている志村浩太郎氏の変死は、私の判断も、又は嬢次少年の説明も超越した一種特別の変死である事が、考えられて来るではないか。志村浩太郎は私の第一印象の通りに、その妻の志村のぶ子に殺されたものであるのみならず、二年後の今日(こんにち)に至るまで私を迷わせ、妄動させて、私の生命までも飜弄すべく屍体を仮装させられたもの……という可能性が生れて来るではないか。
 志村のぶ子はJ・I・Cのために現在の夫も殺して、世にも奇怪な死状を装わせて、あのような真に迫った手紙や遺書を残して、まんまと首尾よく私を欺し了(おお)せる一方に、事情を知っている鮮人朴を射殺しながら、情夫の樫尾と共にどこへか姿を晦(くら)ました稀代(きだい)の毒婦であった……という事実が、志村氏の死体のポケットにあった紫のハンカチによって暗示されていた事になるではないか。……志村氏を脅迫した聖書によって裏書されている事になるではないか。
 しかもこの事実を肯定すると、それに連れて、今日私が曲馬場で死ぬ程心配させられた裏面の魂胆も、容易(たやす)く、明白に解決されて来る。
「大馬と小犬」の喜劇が、嬢次少年の予告した時間よりもずっと早く済んだ。そのために馬の舞踏会の開始時間が繰り上げられて、ちょうど舞踏の真最中に馬が暴れ出す事になった。これは嬢次少年の過失か、私の聞き誤りか、それとも何かの手違いかと思っていたが、それはいずれも大勘違いの勘五郎であった。私の第六感の暗示を基礎として判断して行くと、少年はカルロ・ナイン嬢と、女優髷の女を一味とする、J・I・Cの一団と十分の協議を遂げて、私に「四十分乃至(ないし)二十分」の時間を告げたのであった。そうして私をあの曲馬場に引っぱり出して、われと自分の手で作り出させた危機一髪の情景に、われと自分を狂い出させて、そのドサクサに紛れて私を、兇猛なハドルスキーの手にかけて始末させようとした。……けれども、その第一の手段が失敗に終ったと見るや否や、第二の手段として、あの女優髷の女に私を殺させるべく、紫のハンカチを手渡しさせた……二年前の志村のぶ子と同じ役目を受け持たせた……という計画の辻褄(つじつま)がすっかり合って来るではないか。
 すべては虚構(うそ)であった。一切は芝居であった。そうして全部は私の敵に外ならなかった。
 彼等……紫のハンカチを相印(シムボル)とする、J・I・Cの中の美人の一団は、二年前(ぜん)から私一人を目標にして、人の意表に出る素晴しい方法で私を片付けるべく、念入りな計画を立てて来たのだ。そうして二年後の今日に至って、得体のわからない美少年と遺書を私の許に送って、頭の古い私を月並な日本魂(やまとだましい)と、義理人情で責め立てて、木ッ葉微塵に飜弄しつつ、ぐんぐんと死の陥穽(かんせい)の方へ引きずり込みつつあるのだ。
 外面(げめん)如菩薩(にょぼさつ)、内心(ないしん)如夜叉(にょやしゃ)とは彼女等三人の事でなければならぬ。そうしてこの恐ろしい形容詞が、女に限られたものでなければ、彼(か)の呉井嬢次と称する怪少年も、その仲間に数え入れなければならぬ。否……彼(か)の美少年ジョージ・クレイこそ、彼女等三人以上におそろしい夜叉美人でなければならぬ。あの大胆な落ち着きぶりと、あの名優以上ともいうべき巧妙な表情によって、J・I・Cから選抜されて、私を一杯喰わせに来た「死の使者(つかい)」でなければならぬ。
 私は少年の美貌と、その才智と、名優ぶりに、文字通りに一杯喰わされた。まんまと首尾よく彼等の陥穽に落ち込んで行った。
 そこでもう大丈夫と見て取った彼等は互いにハンカチを振り合って成功を祝した。……もしくは準備が整った事を知らせ合ったものに違いないのである。変装を凝らしている私を前後から挟んで……ここにその馬鹿が坐っているとばかりに……。
 さもなければ私の「第六感」が、あの四皿の料理を、私の眼の前に並べて見せる筈がない。私が死と直面している事を暗示する筈がない。
 何という戦慄すべき真相であろう。
 何という想像を超越した計画であろう。
 残るところはこの計画を立てたものが、ハドルスキーか、バード・ストーンか、ジョージ・クレイか……それとも二年前から日本内地に生き残っていたかも知れない、志村のぶ子か、樫尾初蔵か……という疑問である。その上にもう一つ慾を云えば、カルロ・ナイン嬢と、女優髷の女とが、呉井嬢次とどんな関係になっているか……という疑問も、頭の中に閃めかさない訳には行かない。
 しかし、今の場合の私としては、そんな問題は末の末である。何でもかんでもあの女優髷の女を引っ捕えさえすればいいのだ。そうしてすこし違法ではあるが、無理にも志免課長の手に引渡して、有無を云わさず叩き上げさえすれば、一切の真相が判明する筈である。しかもその女はたしかに今私の留守宅に忍び込んで、容易ならぬ仕事をたくらんでいるに違いない事を私の第六感が指し示しているではないか。
 畜生……どうするか見ろ……。外道(げどう)……悪魔……売国奴の群れ……。
 こう思いながら私は自動車に飛び乗ったのであった。
 見す見す彼等の手に乗って、死の運命に引きずり込まれて行くのを自覚しながら……。もう欺されぬぞ。貴様等は俺を見損っているぞ……という自信を固めながら……。
 そんな事を考えながら、新しい、気持ちのいいクッションに身を埋めて、汗ばんだ額を拭こうとすると、その拍子にポケットの中から紫のハンカチと、中に包まった古新聞紙を引きずり出してしまった。それは最前私が結び目を解いたままポケットに押し込んでいたので、ポケットから出すと同時にバラバラになって、フロアの上に落ちて行った。それを慌てて拾い上げようとすると、新聞紙の間から白いカード見たようなものが飛び出しているようである。……おや。何だろう……と思って取り上げて見ると、それは五枚の絵葉書であった。私はすぐに運転手に呼びかけて車内照明(ルーム)を点(つ)けさせた。
 その絵葉書は五枚とも舶来の光沢写真で、材料といい、技術といい、大正十年前後の日本では容易に見られない見事なものであった。写真は五枚とも同じもので真中には風采の堂々とした純ヤンキーらしい鬚のない男が、フロックコートを着て、胸に一輪の薔薇(ばら)の花を挿して、両手を背後(うしろ)に組んだまま莞爾(にこ)やかに立っている。その左側にスカートの短い、白い乗馬服を着て白い帽子を冠(かぶ)って、短い鞭を持って立っているのは最前のカルロ・ナイン嬢で、これもこっちを覗き込むようにして無邪気な微笑を含んでいる。又右手には嬢次少年が、真面目な顔をしてじっと正面を見ながら立っているが、服装はモーニング式の乗馬服で、右手(めて)に山高帽を持ち左手(ゆんで)に手袋と鞭を握り締めている。
 三人の背後(うしろ)には一羽の大きな禿鷹が羽根を拡げた図案を刺繍(ししゅう)した幕が垂らしてあって、その上にB・S・A・Gという四個の花文字がこれも金糸か何かの刺繍になっているが、この幕は最前曲馬場の穹窿(きゅうりゅう)から垂らしてあった大旗と同じ図案であろう。三人の足の下に書いてある名前を見ると、真中のはバード・ストーンとある。なる程団長だけあって五分も隙(すき)のない精力的な物腰である。
 表を返すと一枚目から五枚目まで番号が打ってあって細かい英文字が書き聯(つら)ねてあったが、よく見るとそれは何でもない。処々に英語を交ぜた、日本語の羅馬綴(ローマつづり)であった。

            午後三時四十分
 大正九年二月二十八日  馬場先の柳の下にて認(したた)む
  呉井嬢次[#地付き、地より3字アキ]
 狭山九郎太様[#中文字]

 先程は御心配かけました。あの時間の間違いはマネージャーの命令を、出演者が聞き違えたのでした。しかし詳しい事は申開きをしている隙(ひま)がありませぬ。
 私は貴方の御生命が危険だと思います。
 警視庁では私服を沢山出して曲馬場を取り巻いております。これは私があの父の遺言書を藤波弁護士にお眼にかけたためです。藤波さんが外務省と警視庁とを一緒に動かされたものと思います。
 けれども団長のバード・ストーンはまだ曲馬団が、警視庁に疑われていることを知らないようです。きょう団長は馬が騒ぎ出す前に、ハドルスキーと、こんな打合せをしておりましたから……。
「……ジョージが逃げたのはもしや曲馬団の秘密を知って逃げたのでないかと思うから万一の用心に横浜へ行って、いつでも逃げられるように準備しておく。見物にはジョージを探しに行くように発表させておけ。夕方五時か六時までに変った事がなかったら電話をかけろ。俺はジョージの事にかこつけて狭山をやっつけに行く。あの男が居る間は安心して仕事が出来ない。アリバイは横浜にちゃんとこしらえておくから心配するな。狭山さえ殺せば、あとはアリバイなぞ作らなくともいいようなものだけど……」
 とそう言っておりました。
 狭山さん。大変勝手なお願いですが、今から四時間のあいだ(九時ごろまで)済みませぬが、柏木のお宅へお帰りにならないようにして下さい。そうして私ともう一人の相棒と二人の手でバード・ストーンを取っちめさして下さい。両親の仇(かたき)を討たして下さい。もし途中でお帰りになるような事がありますと、私たち二人の生命(せいめい)ばかりでなく貴方のお生命(いのち)までも危なくなりました上に、肝腎の団長までも取り逃がすような事になるかも知れないと思います。
 時間がありませぬから、これだけの事をきれぎれに申上げてお別れを致します。
 貴方の御親切は私の生命です。再びお眼にかかってお礼申上げる機会がないかも知れませぬ事を悲しく思います。
 お身体(からだ)を大切に願います。

 ――さようなら――[#地付き、地より3字アキ]

 読み終ると私は絵葉書をぽんとたたいた。
 ……これだ。これが彼奴(あいつ)等のトリックなんだ。俺の第六感はこの通り全部的中しているのだ。
 ……よろしい……紫のハンカチはたしかに受取ったぞ。その代りに白い眼かくしを送ってやるぞ。
 ……しかし貴方の御親切が私の生命はよかったな。全くその通りだ。アハハだ。
 ……もう一人の相棒も洒落(しゃれ)てるぞ。情婦と書かないところがしおらしいぞ……ははん……。
 こんな事をつぶやくともなく冷笑した私は、反射鏡(バック・ミラー)越しに運転手をちらりと見て、車内照明(ルーム)を消さした。
 自動車はもう、日比谷公園の中から虎の門を横筋かいに、溜池(ためいけ)の通(とおり)を突き抜けている。何の事件か知らないが豆を撒(ま)いたように街路を狂奔する号外売を、追い散らす間もなくすり抜けすり抜けして赤坂見附の真中に片手を揚げている交通巡査をちらりと見残したまま一気に東宮離宮横の坂を飛び上った。
 その時に私はふと思い出して、腰のポケットを撫でてみたが、そこにはT型七連発のブローニングがちゃんと納まっていた。小型ではあるが新火薬の尖弾で、二百米突(メートル)以上利く凄いものである。
 自動車は一度もストップを喰わずに新宿駅に着いた。
[#改丁]


下巻


 まだ月が出ない。
 暗い掘割りの底の遠く遠くに小さなイルミネーションのような中野駅が見える。
 今乗って来た山の手電車は、蒼白いスパークをレイルに反射させながら、その方向へ一直線に、小さく小さく吸い寄せられて行った。
 暗い掘割りの一町ばかり向うに、黒い木橋(もっきょう)が架かっている。その左手には高い火の見梯子(ばしご)が見える。それと向い合って、木橋の右手の坂下には、私の家の門口にある高さ三丈ばかりのユーカリの樹が梢(こずえ)を傾けているが、その上空には無数の星が明日(あす)の霜を予告するように羅列している。冬のおわりの最も澄み切った、厳粛な夜である。
 私は急に気分が引き締って来るのを感じた。一事、一物も見逃してはならないぞ……後で笑われるような軽卒な事をするまいぞ……死生を超越した八面玲瓏(れいろう)の働きをするのだぞ……そうして徹底的にやっつけるのだぞ……と改めて自分自身に云い聞かすように考えながら、もう一度腰のポケットを撫でてみた。全く、これ程のものを相手にしたのは今度が初めてである。従ってこれ程に精神が緊張したこともまだ曾(かつ)てない。どんな難事件に出会っても、どんな強敵を相手にしても、綽々(しゃくしゃく)として余裕を保っていた私の精神は……身体(からだ)はギリギリと引き締まって、ちょっと触(さわ)っても跳ね上る位になっていた。
 併(しか)し表面は飽くまでも平静を装うていた。今の電車から降りた官吏や、学生や、労働者らしいものが十二三人急いで行くのに混じって、悠々と大胯(おおまた)に踏切を越えた。平生よりももっと当り前の(もしそんな状態があり得るとすれば)歩きぶりで自分の家の門まで来た。
 見ると出がけに確かに閂(かんのき)を入れて南京(ナンキン)錠を卸しておいた筈の青ペンキ塗りの門の扉が左右に開いて、そこから見える玄関の向って左の一間四方ばかりの肘掛(ひじかけ)窓からは、百燭ぐらいの蒼白い電燈が、煌々(こうこう)と輝き出している。
 ……おや……と思って私は立ち止まった。
 その窓には非常に綿密なドローン・ウォークを施した、高価なものらしい白麻の窓掛(カーテン)が懸かって、一面に眩(まぶ)しいハレーションを放射している。私の家は殺風景な青ペンキ塗りの板壁で、あんな贅沢な窓掛とは調和しない。この上に今は二月の末で、白い窓掛は明かに時候外れである。その向う側で、電話にかかっているらしい話声が聞えるが、程遠い上に、硝子(ガラス)窓に遮られているのでよく聞えない。
 私は暫く門の処に石像のように突立っていた。百燭の青電球に照し出された白い窓掛と、その光りを反射して雪のように輝いている庭の茂みを見まわしていた。庭の隅々や、家の向う側に隠れている人の気配が感じられはしまいかと、眼を凝らし、耳を澄ましていた。しかし、そこいら中はひっそりかんとしていて、そんな気配はちっとも感じられなかった。
 私は自分の家ながら、敵の住家を見るような気持ちがした。何かしら想像以上のものが……もしくは私の神経以上の敏感なものが待ち構えているようで、容易に門の中へ這入れなかった。況(ま)して窓の中を覗くのはこの上もない冒険で、白い光りの幕を背景にした私の影法師を、道沿いの電車の音に紛れて狙い撃ちにするのは訳ない事であった。
 電車が二つばかり轟々(ごうごう)と音を立てて私の背後(うしろ)の線路を横切った。ユーカリの枯葉が一二枚、暗(やみ)の空から舞い落ちて微かな音を立てた。
 その音を聞くと、急に私は自分の臆病さに気付いて可笑(おか)しくなった。
 二十何年間の探偵生活に鍛え上げられた自分の神経を思い出しつつ人通りの絶えたのを幸いに抜き足さし足窓の所に近付いた。ちょうど窓の右手の処にこんもりした椿の樹が立っていて、暗(やみ)の中に赤い花を着けている。その蔭に身を寄せて、窓の隅に映っている丸い影法師……それは卓上電話の頭であった……の中央にあるドローン・ウォークの編み目から内部を覗いた。
 すぐに室(へや)の中の様子がすっかり変っているのに気が付いた。つい五六時間前に、少年嬢次と話をした時まで、樅(もみ)の板壁に松天井、古机に破れ椅子というみすぼらしい書斎の面影は跡型(あとかた)もなくなっている。
 四方の壁は印度更紗(インドさらさ)模様を浮かしたチョコレート色の壁紙で貼り詰めてある。天井には雲母刷(うんもず)り極上の模様紙が一等船室のように輝いている。床には毒悪な花模様を織り出した支那産の絨毯が一面に敷き詰めてあるし、窓に近い壁際の大机と室の真中の丸卓子(テーブル)には深緑色のクロス。又、その丸卓子(テーブル)を中にして差し向いに据えられた肘掛椅子と安楽椅子には小紋縮緬(ちりめん)のカヴァーがフックリと掛けられている。
 そのほか窓際の小卓子(テーブル)の上に載っている卓上電話機の左手の大机の上に、得意然と輝いている卓上電燈の切子笠。その横に整然と排列されている新しい卓上書架。その上に並んだ金文字のクロス。凝った木製のペン架け。銅製のインキ壺。それから真中の丸卓子(テーブル)の上に並んでいる舶来最上の骨灰焼(こっぱいや)きらしい赤絵の珈琲(コーヒー)機。銀製の葉巻皿と灰落し。……いずれを見ても成金(なりきん)華族の応接間をそのまま俗悪な品物ばかりである。
 ところでその中にも、この強烈な配合を作っている飾付けの全部を支配して、室(へや)中の気分を一層強く引き締めているものが三つある。その一つは正面の壁に架けてある六号型マホガニーの額縁で、中には油絵の裸体美人が一人突立って、両手を頭の上に組んで向う向きに立って草原の涯(はて)に浮かむ朝の雲を見ている。構図は頗(すこぶ)る平凡であるが、筆者は評判の美人画家青山馨(かおる)氏だけに、頗る婉麗(えんれい)な肉感的なもので、同氏がこの頃急に売り出した理由が一眼でうなずかれる代物である。その次は、これも正面の壁の左上に架かった金色燦爛(さんらん)たる柱時計である。蛇紋石(じゃもんせき)を刻み込んだ黄金の屋根に黄金の柱で希臘(ギリシャ)風の神殿を象(かたど)り、柱の間を分厚いフリント硝子(ガラス)で張り詰めた奥には、七宝細工の文字板と、指針があって、その下の白大理石の床の上には水銀を並々と湛えたデアボロ型の硝子(ガラス)振子が悠々閑々と廻転している。
 それからもう一つは、大机の書架の前に置かれた紫檀(したん)の小机の上に置かれた白い頭蓋骨である。この髑髏(どくろ)は多分標本屋から買って来たものであろうが、前の二品ほどの価格はないにきまっている。けれどもその黒い左右の眼窩(がんか)が、右正面の裸体美人の画像を睨み付けて、室(へや)中に一種悽愴(せいそう)たる気分を漲(みなぎ)らしている魔力に至っては他の二つのものの及ぶところでない。否……彼(か)の裸体美人も黄金の神殿型の時計も、この頭蓋骨の凹んだ眼に白眼(にら)まれて、初めて、これだけの深刻な気分を出し得たものと考うべきであろう。どんな気の強い人間でも、この室(へや)に暫く居たならばきっとこの神秘的なような俗悪なような、変てこな気分に影響されずにはいられないであろうと思われるくらいである。
 しかし生れつき皮肉な私の眼は、こんな風にしてこの室(へや)の変化に驚きながらも、この時既に、凡(すべ)ての飾り付けの中に多くの胡麻化(ごまか)しがある事を発見していた。
 たった今気がついた左右の出入口の、褐色ゴブラン織りの垂れ幕は、青ペンキ塗りの粗末な扉(ドア)を隠すためである。壁際の大机は今まであったものだが、室(へや)の真中の丸卓子(テーブル)も、私が実験室で使っていた顕微鏡台ではないか。
 卓上電燈も笠こそ変っておれ、私が六七年前に古道具屋から提げて来たもので、百燭の青電球も実験室備え付のものに相違ない。本立や書物も同様で、椅子に至ってはただ縮緬の蔽いが……しかも寸法の合わないものが掛かっているだけで、中味は昔のままの剥げちょろけた古物に違いないのである。只そんなものが、色々の贅沢な装飾品で、如何にも巧みに釣合を取られているからちょっと気が付かないので、そのためにこれだけは昔のまま、室(へや)の隅に置いてある火の気のない瓦斯(ガス)ストーブまでも引っ立って、勿体らしいものに見えているに過ぎないのである。
 その室(へや)のまん中の丸卓子(テーブル)の上に唯一つ上を向いた赤絵の珈琲茶碗には、銀の匙(さじ)と角砂糖が添えられて、細い糸のような湯気が仄(ほの)かに立ち昇っている。そのこちら側の肘掛椅子に、最前の女優髷の女が被布を脱いで、小米桜(こごめざくら)を裾模様した華やかな錦紗縮緬(きんしゃちりめん)の振袖と古代更紗(こだいさらさ)の帯とを見せながら向うむきに腰をかけている。どこかの着附屋の手にかかったらしく、腋の下がきりきりと詰まって素敵ないい恰好である。ガーゼと色眼鏡は外しているが電燈の光りを背後(うしろ)にしているために、暗い横顔だけしかわからない。
 その向い側の美人画を背後(うしろ)にした椅子には、最前絵葉書で見たバード・ストーン氏が、写真の通りの服装で腰をかけている。只胸に薔薇(ばら)の花が挿してないばかりである。氏は写真よりも五つ六つ年を取った四十五六に見える男盛りで、顔面の表情は写真よりもずっと厳(いか)めしい。殊にその四角い額の中央に横わった一本の太い皺(しわ)と、高く怒(いか)った鼻と、大きく締った唇と、頑丈にしゃくった顎とは意志の強い、大胆な、どんな事でも後には引かぬという性格をあらわしているようで、その切れ目の長い眼の底には、獅子(しし)でも睨み殺す光りが籠もっているように見える。
 女は十年も前からこの家に居る……という風に落ち着いて、澄まし込んでいるが、ストーン氏の方は困ったという顔付で、両腕を組んで、眼を半眼に開いてへの字口をしている。のみならず氏はたった今この家に来たものらしく、百燭の電燈に真向きに照されたその顔は、急いだためか、真赤になっていて、広い四角い額には湯気の立つ程、汗が浸(し)み出している。
 白い窓掛けの理由がやっと判明(わか)った。女は百燭の電光と、白麻の窓掛けの強烈な反射で、相手の眼を眩(くら)まそうとしているのだ。
 私はこの驚くべき事実に対して眼を瞠(みは)らない訳に行かなかった。
 二人は赤の他人なのだ。他人も他人、全くの初対面で、しかも女は何かしらバード・ストーン氏に対して敵意を持っているのをバード・ストーン氏が感付かずにいるのだ。氏の困った表情と、額の汗が何よりも雄弁に、そうした事実を証拠立てている。そうしてその事実が間違いないという事を、もう一度私の家の中で主人らしく取り澄ましている氏名不詳の女の態度が、しとやかに裏書きしているのだ。私を欺くための芝居では断じてない。
 しかも、そうした事実は更に、紫のハンカチと、J・I・Cとが全然無関係である。否、むしろ讐敵(かたき)同士かも知れない……という驚愕すべき事実を、いとも儼然(げんぜん)と証拠立てている事になるではないか。私の第六感によって推理した事件の真相の中心となるべき事実が、全然一場の無意味な幻覚に過ぎなかった事を、余りにも如実に裏書きしている事になるではないか。
 私はそう気付くと同時に、私の頭の中に築き上げられた推理の空中楼閣が、早くも根柢から土崩瓦解(どほうがかい)し初めたように感じた。折角(せっかく)ここまで押し詰めて来た張り合いが、一時にパンクしてしまって、又もふらふらと前にノメリ倒れそうな気がした。それを窓の框(かまち)に手をかけてやっと我慢しつつ、もう一度背後(うしろ)の闇を見まわした。誰か見ているような気がしたので……。
 ……しかし……最早こうなっては取り返しが付かない。室(へや)の中の二人の素振りと会話の模様によってもう一度、判断を建てかえて行くよりほかに方法はない……と思い返すと又も、室(へや)の中の光景を一心に覗き込んだ。……何という難解な……不思議な事件であろう……と心の奥底で溜息をおののかせながら……。
 ……と……やがてストーン氏は伏せていた眼を見開いた。大きな、青い、ぎょろっとした眼だ。それからハンカチを取り出して額の上の汗を拭き終ると、女の顔に眼を据えた。女はストーン氏の偉大な体格に圧倒されて、いくらか小さくなっているようであったが、硝子(ガラス)窓の外からは聞えぬくらい微かな、弱々しい声で、
「……どうぞ……」
 と珈琲をすすめた。ストーン氏はいくらか遠慮勝ちに、
「……ハーイ……アリガト……ゴダイマス……」
 と怪(あや)し気な日本語で会釈して、巨大(おおき)な手で赤い小さな百合形(ゆりがた)の皿を抱えたが、それでも咽喉(のど)が乾いていたと見えて美味(おいし)そうに啜(すす)り込んだ。
 女は立ってまた一杯注(つ)いで角砂糖を添えた。
 ストーン氏は謹んで会釈した。
 私はちょっとの間(ま)変に可笑(おか)しくなった。この場合に似合わしくない話だけれども事実であった。何だかお伽話にある獅子の王様が、狐に嘲弄(からか)われている芝居を見るような気がしたからである。けれどもまた、すぐに真面目に返って、二人の言葉を一句も聞き洩らすまいと耳を引っ立てた。
 ストーン氏は引き続いて日本語で話し初めた。
貴方(あなた)のお家(うち)は大変わかりませんね。私は一時間、この村を……町を歩きました。この村は……町は大変広い町です」
「折角お出で下さいましたのに生憎(あいにく)留守でございまして……」
 女の声は何となく力がない……響のない声のように思えた。幾分固くなっているせいでもあろうか。けれどもその容色に相応(ふさわ)しい優美な口調ではあった。
「いいえ。どう致しまして、お留守ならば仕方がありませぬ。その代り私はこの室(へや)で休む事が出来ました。今日は大変忙しかったのです。けれども貴女(あなた)には済みませんでしたね」
 ストーン氏の日本語は思ったより巧くなって来た。どこで稽古したものか知らぬが、二年や三年の稽古ではこんなにハッキリした巧い調子に行くものでない。けれどもこれに対する女の返事は、あく迄も優しく弱々しかった。
「どう致しまして……。そして……あの……もし……御用でも……ございますなら……何なら……私が……」
「はーい。ありがとうございます」
 と云いながらストーン氏は一寸(ちょっと)、室(へや)の中を見まわした。室内の一種異様な気分に気が付いたらしい。氏は机の上の骸骨と書物に眼を注いだ。それから背後の美人画と時計を気軽く振り向いた。そうして非常に失望したらしく眼をぎょろりと剥(む)き出して、念を押すように厳重な口調で問うた。
「……それでは……サヤマ先生は……暫くお帰りになりませんね」
 女は何気なく答えた。
「はい、よくこうして出かけますので……長い時は一週間も……短かい時は一日か二日位で帰って参ります。時には夜中に帰って来たり、朝の間(ま)の暗いうちに帰って来たりする事もございますが、その留守はいつも妾(わたくし)が致しております」
 ストーン氏はちょっと妙な眼付をしたが、やがて又、何気なく尋ねた。
「……先生は……大変お忙しいお方ですね」
「はい。いつも外に出歩くか、さもない時には家(うち)に居りましても器械をいじったり、書物を調べたりして、むずかしい顔ばかり致しております。時々そんなような勉強に飽きて来ますと、妾を捕まえまして科学(サイエンス)とか哲学(フィロソフィ)とか英語のまじったむずかしいお話をしかけますけれども妾にはちっともわかりません。そうしておしまいに……わかったか……と申しますから……わかりません……と答えますと、いつでも淋しそうに笑って……お前にはそんな事は解らない方がいい……と申します」
 女はいつとなく滑かに饒舌(しゃべ)り出した。しかもその饒舌(しゃべ)っている事実は、私を題材とした女の創作物語に過ぎなかったが、しかし、何も知らないストーン氏は女の最後の言葉を聞いて笑い出した。
「ハハハハ。先生は大変に学問の好きなお方ですね。そうして大変に真面目なお方でいらっしゃいますね」
「はい。嘘を云う事が一番嫌いでございます。人間は誰でもお金持になれるとは限らない。けれども嘘を云う事と、怠ける事さえしなければ、その人の心だけは、屹度(きっと)幸福に世を送られるものだと、よく私に申しました」
 こう云いながら女は初めて眼をあげてストーン氏を見た。その言葉には処女らしい熱心さが充ち満ちていた。ストーン氏はその美に打たれたように眼を伏せながら、念入りにうなずいて見せた。そうして気を換えるように微笑を含みながら云った。
貴女(あなた)は先生がお留守の時淋しくありませんか」
「いいえ。ちっとも……」
 と女は力を籠(こ)めて云った。
「私がここに居りますのはお城の中に居るよりも安心でございます。この家の主人の眼が、どんなに遠くからでも見張っていてくれるからでございます。その手は今でもこの家を守るために暗の中に動いているのでございます。そうして妾を安心して睡らしてくれるのでございます」
 この言葉は如何にも日本人らしくない云い表わし方だと思ったが、ストーン氏は却ってよくわかったらしく、如何にも感心した体(てい)で肩をゆすり上げた。
「先生は本当に豪(えら)いお方です」
「はい。私は親よりも深く信じて、敬っているのでございます」
 ストーン氏は又一つ深くうなずいた。そう云う女の顔をじっと見詰めて、軽い溜息を洩らした。

 私は又も堪らなく可笑(おか)しくなって来た。
 一生懸命で緊張しているところへ、こんなトンチンカンな芝居を見せられるからであろう。しかもその舞台に現われている役者は両方とも極めて真剣である。すくなくとも男の方は一方ならず感心しているらしい。いつの間にか女の美貌と、その巧妙な話術に引き込まれて、肝腎の用向きも何も忘れた体(てい)である。ストーン氏は又もすこし躊躇しながら、微笑しいしい問うた。
「……失礼……御免下さい。私は先生は本当に一人かと思っておりました」
「え……」
 と女は質問の意味がわからなかったらしく顔を上げた。ストーン氏はいよいよ躊躇した。
「……失礼……おゆるし……なさい。狭山さんは、いつもほんとうに一人でこの家に暮しておいでになる事を、亜米利加(アメリカ)で聞いておりましたが……」
 女はちょっとうなずいた。けれども返事はしなかった。ストーン氏はとうとう真赤になってしまった。
「……大変に……失礼です。先生は……貴方(あなた)のお父さんですか」
 女はやっと莞爾(にっこり)してうなずいた。そうして心持ちSの字になって、うなだれた。
「はい。狭山は妾(わたくし)のたった一人の親身の叔父でございます。妾も亦叔父にとりましてはたった一人の姪(めい)なのでございますが、いつも妾を本当の子供のように可愛がってくれますから、本当に父になってくれるといいと……いつもそんなに思っているのでございます」
 といううちに今度は女の方が耳まで真赤になってしまった。
 この真に迫り過ぎた名優振りには、流石(さすが)の私も舌を巻かざるを得なかった。……これ程のすごい技倆(うで)を持った女優は、西洋にも日本にも滅多に居ないであろう。リスリンの涙を流す銀幕スターなんか糞(くそ)でも喰らえと云いたい位である。現在嘘と知っている私でさえも、まともにこの女の手にかかったら嘘と知りつつパパにされてしまうかも知れない……と気が付くと、思わずぞっとさせられた位であった。まして何も知らないストーン氏が、どうして参らずにおられよう。如何にも尤(もっと)も至極という風に幾度も幾度もうなずかせられたのは、はたから見て滑稽とはいえ、当然過ぎるほど当然な事であった。
「……そうですねえ。ほんとうにそうですねえ。それでは、いつでもお二人でこの家にお出でになるのですねえ」
「いいえ……あの……一緒には居ないのでございます」
 と女はすこし顔を上げた。
「……平生(ふだん)は妾は遠方の下宿に居るのでございますが、叔父が家(うち)を留守にする時には、いつもどこからか速達便や電報で妾を呼び寄せるのでございます」
 ストーン氏はこの言葉を聞くとやっと仔細(わけ)が判然(わか)ったらしく点頭(うなず)いた。けれども、それと同時にいよいよこの女に興味を持ち初めたらしく身体(からだ)をすこし乗り出して来た。
「……はーい……それでは貴女(あなた)の御両親は……」
「わたくしには両親も何もございませぬ。ただ叔父一人を頼りに……致しているのでございます」
 女の言葉は急に沈んで来た。そうして又も悲しそうにうなだれてしまった。
 名優……名優と、私は又しても心の中(うち)で讃嘆せずにはいられなかった。その言葉つき……その態度……その着物のなよやかな襞(ひだ)までも、実にしっくりと情をうつしていて、だしに使われている赤の他人の私までも、他に身より頼りのないこの女と、その叔父さんなる者の淋しい生活を気の毒に思わせられた位である。
 まして御同様に赤の他人の、何も知らないストーン氏が、どうして心を動かさずにいられよう。まったくの初対面の美少女に対して、あまりに詮索がましく尋ね過ぎた事を、心から後悔したらしく、如何にも済まない顔になって、ハンカチで鼻や口のまわりを拭いていたが、やがて内衣嚢(うちかくし)から名刺入れを出して、その中の一枚を自分で来たという証拠(しるし)に折り曲げて、女の前の丸卓子(テーブル)の上に載せた。そうして詫びるような口調で云った。
「……どうぞ……どうぞ失礼御免なさい。私は自分の名前をまだ申しませんでした。そしてお嬢様に大変な失礼な事をお尋ねしました。これは私の名刺です。バード・ストーンと申します。叔父様がお帰りになりました時に見せて下さい。……私は今日大変な用事で伺いました。その用事が急ぎましたから電話をかけないで失礼しました。けれどもお留守で大変残念でした。もしお帰りになりましたら話して下さい。貴女(あなた)から……何卒(どうぞ)……そしてこの手紙を見せて下さい」
 と云ううちに又内ポケットから日本封筒に入れた一通の手紙を出した。それは警視庁専用のもので粗悪な安っぽいものであるが、ストーン氏はそれを如何にも大事そうに名刺の傍に置いて左手の中指でしっかりと押えた。
「これは私の大切な手紙です。私は今、ある一人の子供を探しております。けれども私は上手に探す事が出来ませんから警察……警視庁へ行きました。そこで一番上手な探偵の人に会いました。その人……ミスタ・シメは云いました。……私は警察の力で探すことが出来ます。けれども、そんなに早く探す事は出来ません。只、ミスタ・クローダ・サヤマは直ぐに探す事が出来ましょう。ミスタ・クローダ・サヤマは日本で……世界で一番上手な探偵です。神様のような名人です。その人にお頼みなさい。その人は今留守です。けれども夕方には帰るでしょう。夕方までに横浜を出る船はありませんから、その子供は外国へは逃げられません。それまで安心して曲馬場で待っておいでなさい……と云いました。そうしてこの手紙下さいました。けれども私は横浜に用事がありましたから自動車で行って今帰って来ました。それで貴方、先生に云って下さい。ミスタ・クローダ・サヤマにバード・ストーンが会いたいと申しました。用事は私が自分で会ってお話します。そして……お帰りになったら直ぐに帝国ホテルに電話をかけて下さい。夜でも構いません。一時でも二時でも……帝国ホテルの電話を皆使ってよろしゅうございます。私はいつでも自動車でここへ来るようにしておきます」
 ストーン氏の言葉は次第に事務的な調子に変って来た。その日本語が不完全であればあるだけ、それだけ意味が強く響くような気がした。それからストーン氏はちょっと意味ありげな眼付きでちらりと女の顔を見ると頭をひょいと下げて云った。
「それから済みませんが、ちょっと電話を借して下さいませんでしょうか」
「さあどうぞ」
 と云ううちに女は手ずから受話器を取ってやったらしい。けれども私には見えなかった。私は電話という声を聞くなり、受話器の影法師の蔭からそっと身を退いて、窓の下に跼(しゃが)み込んでしまったから……。
 だから、むろん女もストーン氏も気付かなかったらしく、ストーン氏は腰をかけたまま盛んに帝国ホテルと話し出したが、その言葉は忽ちの中(うち)に下等な亜米利加人特有の粗暴、下劣を極めた方言(スラング)に変って行った。こうした方言(スラング)は亜米利加人でも聞き分け得ない者が多いのだから、ストーン氏は誰にもわからないつもりであったらしい。かくいう私とてもこの一二年の間横浜に行って、下級船員を捕まえて研究していなかったならばチンプンカンプン聞き取り得なかったであろう。
「……もしもし……帝国ホテルですか……ヘロウ。ハドルスキー。どうしたんだ。なに。俺を探していたとこだ。どうしてここに居る事がわかった。志免の野郎に会って話を聞いたあ。うんうん。まだサヤマの野郎帰(け)えらねえよ。そこにゃ誰も居ねえのか。うん手前(てめえ)一人か。カルロ・ナインはどうした。もう寝ている。スタチオは? 二人とも出かけたあ。なにい。本牧にいい賭場を見付けたあ。仕様のねえ奴だな。女郎(めろう)どもはどうした。四五人成金のお客が付いた? はははは。ほかのは散歩している。うむ。寝てるのも居る。うんよしよし。俺あ今日横浜へ行ったんだ。なあに。例の船の用事よ。大連(たいれん)通いの……うんうん……あの一件さ。飛行機(モリスファルマン)が二台無事に通れあ後はいくらでもだ……。ほかに変りはないね。
 ……なにい……狭山に会ったあ。ほー……どこで……なに曲馬場で? 志免の話を聞いて直ぐに俺を尋ねて来たって?……本当か……ふーん。そうか……ちゃんと変装して……ふーん……それじゃお前からジョージの事を何もかも話したんか。うんうんそいつあよかった。今頃あ一生懸命探しているだろうって?……はっはっ何しろ三万円だからな。日本人は金の事にかけると胆ッ玉がちいせえからな。日本の警察だって甘(あめ)えもんじゃねえか。聞いてた程がものはねえや。サヤマだってそうだ。世界一の名探偵が聞いて呆れるよ。なあに矢(や)っ張(ぱ)り三万円が欲しくなったのよ。あの懸賞にサヤマが引っかかれあ大成功だよ。はっはっ……だから俺(おら)あサヤマをぶっ放(ぱな)すのを延期したよ。ここに来て見てそんな気になったんだ。なあに。ジョージを探させるのに便利なばかりじゃねえんだ。サヤマを生かしとくとちょっと美味(うま)い事がありそうに思うんだ。今にわかるよ……うんうん……。
 ……うんうん……それじゃ俺は今夜はもう用はねえな。うん。ジョージがこっちの内幕をばらしせえしなけあ大丈夫なんだが、彼奴(あいつ)の知ってる事は多寡が知れてるからな。ジェイ・ファースト(志村のぶ子のこと)でも居れあ格別だが、居そうにもねえよ。俺(おら)あもうあの女はあきらめたよ。それよりも俺(おら)あすてきな玉を見付けたぞ。ジェイ・ファーストのお代りと云いたいがあれ以上に若くてシャンだ。とても比べものにゃあならねえ。今ここに居るんだ。サヤマの姪なんだ。だから俺ゃサヤマの死刑を延期する気になったんだ。あはは……どうだ。いい加減こたえたか……なにい?……あぶねえ?……大丈夫だよ。しょっちゅう一人で留守番をさせられてるんだそうだ。だからこの家の中には誰も居やしねえ。這入る時にすっかり様子を見といたんだ。
 ……何だって?……感付かれあしねえかって? はっはっはっ。心配するなってこと……そんな頭のいい女じゃねえ。読本(リーダー)に出て来るような初心(うぶ)な娘ッ子だ。きっと物にして見せるよ。俺の歯にかかったらどんなに堅(かて)え胡桃(くるみ)だって一噛みだ。
 ……何だ……お楽しみだあ。あはははは。巫戯化(ふざけ)るな。そう急にあ行かねえよ。第一長(なが)っ尻(ちり)するきっかけがもうなくなっているんだ。もうぽちぽち帰りかけているとこだ。築地の芳月軒に女が待っているからな。スペシアル・ゲイシャ・ガールだ。……なあにケルビン(××大使のこと)が来る筈だったけど、加減がわりいって断って来たから、結局俺一人になった訳よ。よかったら来ねえか。上玉が一人余っているんだからな。ははははは。
 ……ジョージの事あ大丈夫だよ。日本に来てからもう一週間になるけど、こっちの秘密をばらした形跡はねえんだからな。彼奴(あいつ)は何も知ってやしねえよ。ついこの頃這入って来た青二才じゃねえか。何が解るものか。大方女でも出来たんだろうよ……今気が付いたんだが……もうぼつぼつ初める年頃だからな。うちの別嬪連中(あまっちょども)がやいやい云っても逃げまわっているから、まだ雛(ひよ)ッ子だと思っていたんだが……こいつばかりはわかんねえかんな。しかし女に引っかかって逃げたんならいよいよ安心だ。こっちの仕事の邪魔にゃあならねえ。三万円も高価(たけ)え給銀と思えや諦めが付く。彼奴(あいつ)はちっと安過ぎたからな。はっはっ。
 ……俺が一番心配しているのは本国政府の態度だ。日仏秘密協商の成立から来る対日外交の軟化だ。しかしここまで来て煮え湯を呑まされるような事(こた)ああるめえと思うよ。ウオル街の連中は西比利亜(シベリア)の利権に涎(よだれ)を垂らしているし、軍事機密局だって日本の石油の秘密タンクには頭痛鉢巻だかんな。実は今日ケルビンに会ってその後の形勢を聞いてみるつもりだったんだが……万一こっちのからくりが曝(ば)れそうだったら、いつも云う通りカルロ・ナインを締めるだけの事よ。彼女(きゃつ)の身分せえ知れなけあこっちの計画のばれっこはねえ。ジェイ・ファースト(志村のぶ子)を締めた時の手で、芝浦からモーター・ボートでずらかってもいい……お前(めえ)はなかなか色男……あはははは。もう止してくれ?……身ぶるいが出る?……意気地のねえ事を云うな。卵を潰すようなもんじゃねえか。手前(てめえ)の指先にかけたら……うんうん。まあゆっくり芳月軒で話そう。カルロ・ナインも起して連れて来てもいい……ほかはちょんの間に寝かしとけあいい。欲しがっていたオニンギョウでも抱かしてな……うんうん……。
 ……なにい。こっちの女(あま)はどうするって?……はっはっ。いやに気にするじゃねえか。今日はここいらで見切を付けて帰(け)えるんだ。あとでサヤマを欺して、何とか用事をこしらえて上海(シャンハイ)に追いやって、あそこの仲間に一服盛らせる。蠅取紙に蠅を乗せるようなもんだ。ジョージせえ見付かれあ、あとは彼奴(あいつ)に用なんかねえんだからな。……あとには身より頼(た)よりのねえ女(あま)が一人残る。こいつをサヤマの贋手紙で大連(たいれん)あたりへ呼び出させる。……この手紙を書くのは手前(てめえ)の役だぞ……いいか……そうして大連までおびき出せあ、あとは煮て喰おうと焼いて喰おうと……ってえ寸法がちゃんと出来ているんだから、すげえだろう……はっはっ……そんじゃ芳月軒に来てくれるな……よしよし……俺が行ったら電話をかける……うん。……あばよ……」
 私はこの電話がまだ済まないうちに、いつの間にか窓から三尺ばかり離れて突立っていた。私の両腕は憤怒に唸(うな)っていた。両眼はかっと窓の中を睨んでいた。今朝(けさ)からのむしゃくしゃを一時に爆発さして……。
[#ここから1字下げ]
……もう勘弁ならぬ。野郎が室(へや)を出たら承知しない。一(ひと)当てで引っくり返してくれる。それから女を引っくくって二人とも生捕りにしてくれる。曲馬場の時はこっちが夢中になっていたから縮尻(しくじ)ったが、今度は先手を打つのだから間違いはない。それから二人の眼の前で志免に電話をかけて帝国ホテルと芳月軒に手配をさせてくれる。……女はジョージの情婦らしいが、ジョージと突き合わせてたたき上げればわかる事だ。訳はない。……××大使や外務省なんかに物は云わさないぞ。畜生。見やがれ。どうするか……。
[#ここで字下げ終わり]
 と肩で息をしながらじりじり後しざりをしていた。
 しかし窓の中の二人は、無論、気付いていなかった。受話器を元の処に返したストーン氏は何喰わぬ顔をして、ハンカチで口のまわりを拭く間(ま)に、以前の物柔らかな、堂々たる好紳士に立ち帰っていた。
「ありがとうございました。それでは私、失礼します。何卒(どうぞ)……何卒、今の事、よろしくお頼みします。いろいろ御親切にありがとうございました。済みませんでした」
 こう云いきったストーン氏は、女が返事をしないので調子悪そうに立ち上ると、恭(うやうや)しく目礼をした。
「……さようなら……」
「……………」
 女はいつの間にか口を噤(つぐ)んで、石のように固くなっていた。そうしてストーン氏の言葉のきれ目きれ目に微(かす)かにうなずいて見せながらも、眼は恐ろしそうに警視庁用の封筒をじっと見つめていたが、ストーン氏が別れを告げると、謹んで目礼を返した。そうして氏を送り出すべく、躊躇するようにおずおずと立ち上った。
 私はワイシャツが闇の中に眼立たないように、外套の襟釦(えりぼたん)をぴっちりと掛けた。そうしてさあ来いと身構えるには身構えていたが、しかし何だか物足らぬような気がして仕様がなかった。この室内の装飾は、多分何かの目的でストーン氏を欺くためにした事と、私は最初から睨んでいたが、しかし、たったこれだけの事のためにしては余りに念が入り過ぎている。あとで私を欺くためとは無論思えなかった。
 その中(うち)にストーン氏は玄関の入口の垂れ幕を引き退(の)けて、玄関の横の扉(ドア)の把手(ノッブ)に手をかけた。私も急いで椿の蔭を出ようとしたが、ちょうどその途端に、今まで黙っていた女が、何やら口を利き出したので、ストーン氏は振り返った。私も亦(また)、硝子(ガラス)窓に耳を近づけた。

「何ですか」
 とストーン氏は、女の方に半身を向けて眼を※(みは)った
貴方(あなた)はもしやあの丸の内で、曲馬を興行しておいでになるお方ではございませんか」
 女の声は石のように硬ばって、今までの弱々しい調子がすっかりなくなっていた。そうして丸卓子(テーブル)の上の灰色の封筒と、ストーン氏の顔とを恐ろしげに見比べた。
 この様子を見るとストーン氏は急に女の方に向き直って、晴れやかに顔を光らした。
「はーい。そうでございます。私はそのキョク……曲馬団のマネジャー……ダン……団長でございます。そうしてその手紙は少しも悪い手紙ではございません。ミスタ・シメからミスタ・サヤマの紹介状(インツロダクション)です……おわかりになりますか……ショ……ショ……ショウカイ……おわかりになりましたか。貴女(あなた)、御心配なさらぬように、お願いします。私は貴女(あなた)と、貴方の叔父様にパスを上げましょう。今からまだ沢山見られます。時々プログラム……番組がかわります。もっともっと面白い事がはじまります。明日(あす)……今夜持たして上げましょう。どうぞ是非お出で下さい」
 と絵葉書そっくりの顔をして愛想を云った。
 けれども女は身動き一つしなかった。ストーン氏と向い合ってすらりと立ったまま、じっと灰色の封筒を見詰めていたが、やがて何か深い決心をしたらしく、やはり響のない声を出しながらストーン氏を見上げた。
「貴方のお尋ねになっておいでになります方は、もしや、ジョージ・クレイという名前ではございませぬか」
 はっとばかりにストーン氏は固くなった。私も覚悟しながら感電させられたような気持になった。
 今まで晴れやかに微笑んでいたストーン氏の顔は見る間に青くなった。やがて白くなった。そうして又女の顔を穴のあく程見ていたが、やがて以前の通りの莞爾(にこ)やかな表情に帰った。
「ああ。貴方は今日曲馬を見においでになりましたね」
 私は感心した。流石(さすが)に頭がいいと心の中で賞めた。
 けれども女は依然として態度を崩さなかった。そうして低い、静かな、はっきりした口調で云った。
「そのジョージ・クレイという方はもう日本にはおいでになりませぬ」
「えっ……」
 とストーン氏は立ち竦(すく)んだ。青い大きな眼を二三度ぱちぱちさせた。
「……ど……どこに行きましたか」
 女は依然として静かなハッキリした口調で答えた。
「どこへもお出でになりませぬ。お母様と御一緒にもう直きに天国へお出でになるのです」
 私は危(あやう)く声を立てるところであった。最前の手紙の中の文句に……私の生命(いのち)が危(あぶ)ない……今一人の相棒の生命(いのち)も駄目になる……とあったのを思い出したからである。
 ……志村浩太郎氏の最後には志村のぶ子が居た。
 ……嬢次少年の最後にはこの女が居る……。
 ……さてはあの手紙は真実であったのか。
 ……私の第六感は、やはり私の頭の疲れから来た幻覚に過ぎなかったのか。
 ……私はやはりここに来てはいけなかったのか……。
 ……うっかりするとこの女を殺すことになるのか……。
 そんな予感の雷光(いなずま)が、同時に十文字に閃めいて、見る見る私の脳髄を痺(しび)らしてしまった。しかも、それと反対に、室内(なか)の様子を覗(うかが)っている私の眼と耳とは一時に、氷を浴びたように冴えかえった。
 バード・ストーン氏は幕を引き退(の)けた入口の扉(ドア)の前に、偶像のように突立っている。その眼は唇と共に固く閉じて、両の拳(こぶし)を砕くるばかりに握り締めている。血色は稍(やや)青褪めて、男らしい一の字眉はひしと真中に寄ったまま微動だにせぬ。
 女はそれに対してうなだれている。顔色は光を背にしているために暗くて判らないが、鬢(びん)のほつれ毛が二筋三筋にかかって慄(ふる)えているのが見えた。
 やがてストーン氏は静かに両眼を見開いたが、その青い瞳(め)の中には今までと全(まる)で違った容易ならぬ光りが満ちていた。相手が尋常の女でない事を悟ったらしい。氏は又も室(へや)の中をじろりと一度見廻したが、そのまま眼を移して女の髪の下に隠れた顔を見た。そうして低いけれども底力のある、ゆっくりした調子で尋ねた。
貴女(あなた)はどうしてそれがわかりますか」
「……………」
 女は答えなかった。黙って懐中(ふところ)から一通の手紙を取り出してストーン氏の眼の前に差し出した。
 それは桃色の西洋封筒で、表には何かペンで走り書きがしてあって書留になっている。ストーン氏は受け取って、先(ま)ず表書を見たが、ちらと女の方に上眼使いをしながら、裏を返して一応検(あらた)めてから封じ目を吹いた。中からは白いタイプライター用紙に二三十行の横文字を書いた手紙が出て来たが、それを手早く披(ひら)いて読んでいるうちに、その一句一句毎(ごと)にストーン氏の顔が緊張して来るのがありありと見えた。それに連れて読んで行く速度が次第に遅くなって、処々(ところどころ)は意味が通じないらしく二三度読み返した処もあった。
 読み終るとストーン氏は、そのまま封筒と一緒に手紙を右手に握って、又、女の顔をジッと見た。その顔付きは罪人に対する法官のように屹(きっ)となった。静かな圧力の籠(こも)った声で問うた。
「今まで貴女(あなた)が、ジョージ・クレイと話しをする時に、いつも羅馬(ローマ)字で手紙を書きましたか」
 女は黙って首肯(うなず)いた。
「……それから……今日……貴方はこの手紙で……ジョージ・クレイが命令した通りにしましたか」
「ハイ」
 女の返事は今度はハッキリしていた。そうして静かに顔を上げてストーン氏の顔を正視した。
 その顔は、電燈の逆光線を受けて、髪毛や着物と一続きの影絵になっていて、恰(あたか)も大きな紫色の花が、屹(きっ)と空を仰いでいるように見える。それを見下ろしたストーン氏は決然とした態度で、肩を一つ大きく揺すった。そうして鉈(なた)で打(ぶ)ち斬るようにきっぱりと云った。
「……よろしい……私は帰りませぬ。貴女(あなた)にお尋ねをしなければなりませぬ。貴女はジョージと一緒になって、私に大変悪い事をしました。……さ……お掛けなさい」

 女は最初(はじめ)から覚悟していたらしく、静かに元の肘掛椅子に腰を下して、矢張り石のように冷やかな姿でうなだれた。
 ストーン氏も椅子を引き寄せて、女と差向いに腰をかけたが、手紙を丸卓子(テーブル)の上に置いて、左手でしっかりと押えて、屹と女を見詰めた態度は、依然として罪人に対する法官の威厳をそのままであった。一句一句吐き出すその言葉にも、五分(ぶ)の隙もない緊張味と、金鉄動かすべからざる威厳とが含まれていた。
貴女(あなた)のお名前は何と云いますか」
 女はうなだれたまま答えなかった。しかしストーン氏は構わずに続けた。
貴女(あなた)のお名前は何と云いますか」
 女はやっと答えた。
「それは申上げられませぬ。嬢次様のお許可(ゆるし)を受けませねば……」
 ストーン氏は苦々しい顔をした。
「それは何故ですか」
「何故でもでございます。二人の間の秘密でございますから」
 軽い冷笑がストーン氏の唇を歪めた。
「……年はいくつですか」
「……十九でございます」
「ジョージよりも多いですね」
「どうだか存じませぬ」
 ストーン氏の唇から冷笑がスット消えた。同時に眼からちょっと稲光りがさした。余りにフテブテしい女の態度に立腹したものらしい。
「学校を卒業されましたか」
「一昨年女学校を卒業しました」
「学校の名前は……」
「それも申上げられませぬ。妾(わたし)の秘密に仕度(しと)うございます。校長さんに済みませぬから……」
「叔父さんに怖いのでしょう」
「怖くはありませぬ。もう存じておる筈ですから……でなくとも、もう直(じ)きに解りますから……」
「叱られるでしょう」
「叱りませぬ。泣いてくれますでしょう」
「何故ですか」
「あとからお話し致します」
「……フム……それでは……学校を卒業してから何をしておられましたか」
「絵と音楽のお稽古をしておりました」
 ストーン氏は背後(うしろ)の絵を振りかえった。
「……S・AOYAMA……この絵は貴女(あなた)の絵ですか」
「……いいえ……わたくしの先生……」
 と云いさしてハッとハンカチで口を蔽うた。ストーン氏はニヤリとしながら頤(あご)で首肯(うなず)いた。
「……フム……それで……貴女(あなた)はいつ、初めてジョージ・クレイに会いましたか」
「今から一週間前の朝でございました」
「どこで……どうして友達になりましたか」
「それも申上げる訳に参りませぬ」
 ストーン氏は又も不愉快な顔をした。又か……という風に……。
「フム……それではその時にジョージは一人でしたか」
「ハイ……ですけどもその時にジョージ様は云われました。私は曲馬団の中で一人の露西亜(ロシア)人と、伊太利(イタリー)人の兄弟との三人に疑われているから、あまり長く会ってはいられない……」
「フム……貴女(あなた)はジョージを見たのはその時に初めてでしたか」
「ハイ、いいえ。新聞の広告や何かで、お名前だけは、よく存じておりましたけど……」
「……それでは貴女(あなた)が初めて会った時にジョージの名前を聞いたのですね」
「……………」
 女は返事しなかった。ただ頭を左右に振っただけであった。[#底本では句点なし]
「フーム……それでは……貴女(あなた)は名前を知らないでジョージと会ったのですね」
「……………」
 女は微かにうなずいた。
「そうして仲よくなったのですね」
「……………」
「わかりました。そうして初めて会ってからどこへ行きましたか」
「それも申上げる訳に参りませぬ」
「それから後(のち)会った処も……」
「ハイ……」
「……フム……それでは後から尋ねます。……それからジョージは貴女(あなた)の叔父様……ミスタ・サヤマの事知っておりましたか」
「初めは御存じなかったようです。ですけど私が叔父の名前を申しましたら吃驚(びっくり)なさいました」
「その時ジョージは何と云いました」
「嬢次様は大層喜んで、狭山の名前は亜米利加に居るうちからよく知っている。その中(うち)に是非会いたいと云われました」
「……違いますねえ……ジョージは初めからその事をよく知っておりました。貴女(あなた)の叔父様に会いたいために貴女のお友達になったのです。貴女はそのことわかりませぬか」
妾(わたし)が狭山の姪という事がどうして判りましょう。私が嬢次様にお眼にかかったのは、日本にお着きになってから二日目ではございませぬか」
「……ジョージは狐のような知慧を持っております。ジョージは貴女(あなた)を知っていたに違いありませぬ」
「どちらでも妾(わたし)は構いませぬ」
「……フム……フム……フム……それで……それでジョージに会うのに、それから貴女(あなた)はどうして会いましたか」
「ハイ。嬢次様はいつもお手紙で時間と、場所を知らせて下さいましたが、大方朝の間が多うございました」
貴女(あなた)のお住居(すまい)は……」
「申し上げられませぬ」
「何故、叔父様と一緒に居ないのですか」
「日本の習慣に背くからでございます」
「……フム……フム……」
 とストーン氏は、いくらか云い籠められた形になって躊躇した。しかし儼然(げんぜん)たる態度は依然として崩さないまま、ジョージの手紙を拡げて女の顔と見較べた。
「……よろしい……それで……この手紙に書いてある事いろいろあります。午後三時までに曲馬を見に来ていて下さい。ジョージ・クレイを虐(いじ)めた曲馬団に仇討ちをする仕事を手伝って下さい。そのテハ……手始めに、私の大切なものを入れた黒い鞄(かばん)が曲馬場の中に隠してあるのを取り返して、二人でどこかへ隠れるつもりですから、その用意をして来て下さい。……このこと……私たちの手始めの仕事が都合よく済んだら、叔父様にお話しして、二人の事をお許し願うつもりだから、それまでは叔父様に知らせてはいけませぬ……私たちの仕事がうまく行かないか、又は、叔父様や警察に睨まれて、私たちの仕事を邪魔されるような心配が出来たら、私たち二人で、今夜のうちにも死ななければならぬと思います。その用意もして来て下さい……その外にも、また色々沢山書いてあります。……それで貴女(あなた)は今日のジョージの仕事皆手伝いましたか」
「……いいえ……別に手伝うという程でも御座いませんけど……そのお手紙が私の処に参りましたのは今日のお正午(ひる)過ぎ二時近くでございました。ちょうど叔父の狭山から留守を頼んで来た手紙と一緒に参りましたから、私は狭山の頼みの方をやめまして、三越に参りまして、四五日前に頼んでおきましたこの着物と着換えまして、曲馬場に参りました。ちょうどコサック馬の演技の最中でございました」
「それでは今日ジョージが、私たちの大切な馬に、毒を飲ませたこと……暴れ出させたこと……貴女(あなた)は知りませんね」
「存じております。妾(わたし)は最初からそれを見ておりました」
「えッ。見ておりました?」
「嬢次様は私と一緒に見物に来ておられたのでございます」
 ストーン氏は自分の耳を疑うように眼を丸くした。
「……どこに……どんな着物……」
「……大学の制服を召して、小さな鬚(ひげ)を生やして、角帽を冠って、私が居りました席の直ぐ前隣りに坐って、そこに居た老人の紳士と馬の話をしておられました。そうして米国の国歌が済むと立ち上って表に出られましたから、私もあとから立って追い付きますと、嬢次様はグルリと曲馬場を廻って、厩(うまや)の処へ行って、亜鉛(トタン)の壁を飛び越して中に這入って、馬の顔を撫でながら錠剤にした薬をお遣りになりました。そうして今から二十分ばかりすると馬が暴れ出すから、それまで楽屋の入口に近い土間に行って見ていようと仰有(おっしゃ)って、もう一度二人分のお金を払って曲馬場に這入られました。その時が三時十分きっかりでございました」
「貴女はそれが人を殺すためであった事を知っておりましたか」
「いいえ。嬢次様は御自分を殺しても、決して人を殺さないと云われました」
「その証拠がありません」
「ございます。立派にございます。その証拠には、大馬と小犬のお芝居が済みます少し前になりますと、嬢次様は心配そうな顔をなすって、妾(わたし)にちょっと待っているように仰有って出て行かれましたが間もなく帰って来られまして……これで安心だ。この次の馬の舞踏に使う女の衣裳や靴を、楽屋のうしろから這入って、ちょっと人に解らぬ処に隠しておいたから、それを探しているうちには時が経ってしまうだろう……しかし何故こんなに早く演技を済ましたのだろう。自分が居ない事は最早(もはや)わかっている筈だから、その埋め合わせに二十分で済む芸当は三十分にも五十分にも延ばす筈だのに、この塩梅(あんばい)では大馬と小犬の芝居は二十分かからないかも知れない……と云っておられました。人を殺すおつもりならばそんな事を云ったりしたりなさる筈でございませぬ」
「いいえ。貴女(あなた)は違います。ジョージは馬の舞踏会で馬を暴れ出させて、大勢の女を殺して、私を非道(ひど)い眼に会わせようとしたのです」
「……まあ……何故嬢次様は貴方にそんな非道(ひど)い事をなさるのでしょう。貴方はそのように嬢次様ばかりをお疑いになるのでしょう。貴方はそんなにまで嬢次様に怨まれるような事をなすったのですか」
 ストーン氏は答えなかった。いつの間にか、立ち場が反対になって、自分が審問される事になったのが腹立たしいらしく、口を固く閉じて、大きな眼でじっと女を睨み付けた。
 しかし女はひるまなかった。今までの通りに静かな、落ち着いた口調で言葉を続けた。
「……貴方も多分御存じでございましょう。大馬と小犬の芝居が済んで、楽屋へ這入りますと、あのハドルスキーとかいう怖い方が、道化役者の支那人を大層叱っておられました。……御存じでございましょう」
 ストーン氏は依然として女を睨み付けたまま、知っているとも、知っていないとも答えなかった。
「……御存じでなければお話致しましょう……。嬢次様のお話に依りますと、初め道化役者が幕を出て行きます前に、演技の時間は何分ぐらいにしたら宜しいのですかと云ってハドルスキーさんに聞きましたら、ハドルスキーさんはフィフティ(五十分)と云って指を五本出されました。それを道化役者の支那人はフィフティン(十五分)と勘違いをして、一生懸命に時間を急いで済ましたのだそうです。支那人もハドルスキーさんも大変怒って、支那語と露西亜語で云い合っているのだと云って嬢次様が笑っておられました。こんな間違いが、どうして初めから嬢次様にわかりましょう。嬢次様は馬が厩の中に繋がれたまま暴れ出すように仕組んでおられましたので、決して人を殺すためではございませぬ」
「しかし、それは泥棒をするためでした」
 とストーン氏はぶっすり云った。
「いいえ。嬢次様は御自分のものを受取りにおいでになったのです。嬢次様が曲馬団を逃げ出されないように、嬢次様の一番大切なものを隠しておかれた貴方のなされ方が悪いのです。何故だかわかりませぬけれども嬢次様の自由を縛っておかれた、貴方がたの方がお悪いのです」
 ストーン氏の顔は又険しくなった。しかし、こんな事で争うのは大人気ないといった風に、軽く肩をゆすって手紙の方に眼を移した。
「それから貴女はジョージが楽屋へ這入るのを見ましたか」
「はい。見ておりました。ちょうどその時に貴方は楽屋の外から這入って来られまして、ハドルスキーさんに後の事を頼んで、カルロ・ナイン嬢に挨拶の言葉を教えて……自分はこれから警視庁に行くから嬢次の写真を四五枚持って来い。今まで帰らなければ仕方がない……と云われました。それでハドルスキーさんは直ぐに探しに行かれましたが間もなく出て来て……駄目だ錠前が三つも掛かっている上に、その機械が三つとも壊れている……と云われました。それで今度は貴方が御自分でお出でになりましたけれども、やはり錠前が開きませんで、写真がお手に入りませんでしたので、そのまま警視庁へお出かけになりました」
「あの錠前はジョージが壊したのです」
「それは、お言葉の通りでございます。嬢次様は曲馬団を出がけに、持って行く隙がおありになりませんでしたので、ただ、あなた方の合鍵で明けられないように、錠前だけ壊して行かれたのです」
 ストーン氏はちょっと唇を噛んだ。
「……ジョージはいつ楽屋へ這入りましたか」
「カルロ・ナイン嬢が挨拶を済ましますと直ぐに、正面の特等席で、恐ろしい叫び声が聞えて、一人の紳士が曲馬場の中央(まんなか)に駈け出して来ましたが、どうした訳か狂人(きちがい)のようになっておりました。それを楽屋から見付けたハドルスキーさんが駈け出して行って抱き止めますと間もなく又、曲馬場の外で、馬の嘶(いなな)き声と板を蹴る音が聞えましたから、楽屋の人は皆駈けつけました。女の人も皆、楽屋から出て来て見ておりましたが、その中(うち)に一匹の黒い馬が厩から飛び出して、跳ね狂いながら楽屋の方へ来ましたから、女の人たちは驚いて、泣き叫びながら曲馬場の方へ逃げて参りました。それと一緒に見物の人達が大勢、見物席から駈け出して参りましたので、その騒ぎに紛れて嬢次様は、楽屋に這入って行かれました」
「鞄の錠前は壊れていたでしょう」
「壊れた錠前を開ける位のことは嬢次様にとって何でもないのでございましょう」
「どうしてわかりますか」
「でも直ぐに黒い鞄を取って来られましたもの……」
貴女(あなた)はその中のもの知っておりますか」
「はい。存じております。中には絵葉書が一杯入っておりました。嬢次様はそれを妾(わたし)にお見せになりまして……この絵葉書は、亜米利加(アメリカ)の市俄古(シカゴ)で見物に売った残りだ。私はこれを座長のバード・ストーンさんに貰ったのだ。これさえ隠しておけば、ほかに私の写真は一枚もないのだから、警察へ頼んでも私を探すことは出来ない……と云われました」
「……悪魔(サタン)……」
 とストーン氏は突然に調子の違った声で云い放って舌打ちをした。恋のために盲目になった女が如何に手に負えぬものであるかをしみじみと悟ったらしい……と同時にストーン氏の態度から、今までの紳士的な物ごしが消え失せて一種の野蛮的な、無作法な態度に変って来た。それは恰(あたか)も馬に乗って野獣を狩り、紅印度(レッドインデヤン)と戦い、丸木の小舎に旋条銃(ライフル)を抱いて寝る南部亜米利加(アメリカ)人をそのままに、椅子に腰をかけたまま両脚を踏み伸ばし、両腕を高く組んで、忌々(いまいま)しそうに唇を噛みしめつつ、机の上の髑髏(どくろ)に眼を外(そ)らして白眼(にら)み付けた。その兇猛な、慓悍(ひょうかん)な姿は、もし知らぬ人間が見たら一眼で顫え上がってしまうであろう。
 けれども女は眉一つ動かさなかった。その淑(しと)やかに落ち着いた振袖姿は、ストーン氏とまるで正反対の対照を作っていた。ストーン氏は、そうした女の態度を見かえると、吐き出すような口調で問うた。
「ジョージはどうしましたか……それから……」
「はい。二人で曲馬場を出ますと嬢次様は、表に立って絵看板を見ていた夕刊売りから夕刊を二三枚買って、一面の政治欄を見ておられましたが……」
「政治欄……政治の事が書いてあるのですね」
「そうでございます」
「どんな記事を読んでおりましたか」
「……さあ……それは妾(わたし)には、よくわかりませんでしたけど……どの夕刊の一面にも……日仏協商行き悩み……と大きな活字で出ておりまして、英吉利(イギリス)と亜米利加(アメリカ)が邪魔をするために日本と仏蘭西(フランス)の秘密条約が出来なくなったらしいと書いてありました」
「……ジョージはそこを読んでおりましたね」
「……それからその中の一枚に……極東露西亜(ロシア)帝国……セミヨノフとホルワットが露西亜の皇族を戴いて……という記事と……張作霖(ちょうさくりん)が排日を計画……という記事がありましたのを嬢次様は一生懸命に読んでおられました」
「曲馬団の前で?」
「いいえ。ずっと離れた馬場先の柳の木の蔭で読まれました」
「……フ――ム……それからどうしました」
「嬢次様は、そんな記事を見てしまわれますと、深い溜息を一つされました。そうして……これはなかなか骨が折れるぞ……と云われましたが、その時にふっと曲馬場の入口の方を見られますと、急いで妾の手を取って、近くに置いてあった屋台店の蔭に隠れられました」
「それは何故ですか」
「ちょうどその時、はるか向うの曲馬団の改札口から出て来た一人の紳士がありました。その紳士は四十ばかりに見える髪の黒い、鬚のない、灰色の外套を着て、カンガルーのエナメル靴を穿いた方で、最前キチガイのように騒いで、ハドルスキーさんに抱き止められた人でしたが、嬢次様はその人を指さして、あの紳士が叔父様の狭山九郎太氏と教えられました」
「えっ」
 とストーン氏は思わず身を乗り出した。丸卓子(テーブル)の上に両手を突いて、眼を剥き出して女の顔を見た。
 珈琲の匙(さじ)がからりと床の上に落ちた。
「……叔父様……ミスタ・サヤマ……どうして来ておりましたか」
「はい。私も初めは吃驚(びっくり)致しました。あんまり変りようが非道(ひど)うございましたから……ですけど嬢次様は初めから、そうらしいと気が付かれましたので、わざと怪しまれないように近い処に坐っておられたのだそうでございますが、そのうちに叔父が叫び声をあげて席を飛び出しましたので、いよいよそうに違いない事が、嬢次様にお解りになったそうでございます」
「どうして……」
「叔父は、妾(わたし)共のする事をいつの間にか残らず察しておりまして、次の馬の舞踏会の最中に騒ぎが初まりそうなのを心配して、あんなに狼狽(うろたえ)たのに違いございませぬ。……でも叔父でなければどうしてそんな事まで看破(みやぶ)りましょう。……叔父がいつもこうして妾を見張っていてくれる事がわかりますと、妾は有り難いやら、恐ろしいやら致しました」
「ジョージは叔父様に会おうとしませんでしたか」
「いいえ。その時に嬢次様は云われました。……最早(もう)仕方がない。叔父様は何もかも知っておられる。そうして叔父様は自分が曲馬団を非道い眼に会わせようとしたものだと思っておられるに違いない。けれどもその云い訳をする隙(ひま)がもうないのだ。自分は誰に疑われてもちっとも怖いとは思わない。ただ狭山さんに白眼(にら)まれたら手も足も出ないようにされてしまう。こうなったからには最後の手段を執るよりほかに仕方がない……と……」
「最後の手段とは……」
「死ぬのを覚悟して仕事をする意味でございます」
「その仕事は何ですか」
「これから申します」
「お話しなさい」
「嬢次様は鞄(かばん)の中から、貴方と、カルロ・ナイン嬢と、御自分と三人一緒に撮った写真の絵葉書を五枚ほど出して、羅馬(ローマ)字でお手紙を書かれました」
「その手紙は貴女見ましたか」
「はい。叔父に四時間ばかり……九時頃までこの家(うち)に帰って来ないように頼んでありました」
「叔父様は、そんな事を本当にすると思いますか」
「はい。叔父は頭がどうかならない限り嬢次様のお言葉を本当にしてくれるだろうと思います」
「……どうしてそんな事わかりますか」
「今日曲馬場で、嬢次様の行方を探すために懸賞の広告が出ました。あれは貴方(あなた)がお出させになったのでございましょう」
「そうです。わたくしです」
「その中に嬢次様のお写真の事は一つも書いてございませんでした」
「その代りに、表の絵看板を見るように描(か)いておきました」
「本当の嬢次様が、あの絵看板の長い顔に肖(に)ておられると、誰が思いましょう。貴方は嬢次様の写真を一枚もお持ちにならなかったと思うよりほかに仕方がございますまい。実際嬢次様は、曲馬団をお逃げになる前から、御自分の写真を一枚も残らず集めて、あの絵葉書と一緒に黒い鞄の中に人知れず隠して、アムステルダムの秘密錠をかけておかれました。貴方は、それをお察しになりまして、嬢次様が逃げ出す準備をしておらるる事をお覚(さと)りになりましたから、とりあえず鞄ごと、曲馬場の荷物の中に取り隠しておいでになったのです。ですから今となってはあの絵葉書の一枚は貴方にとって千円にも万円にも代えられない大切なものでございましょう。警察にお渡しになる嬢次様の人相書のたった一つの材料でございましょう。嬢次様をお捕えになるたった一つの手がかりでございましょう。貴方が警視庁で志免様にお会いになりました時にも、志免様から写真のお話が出て、大層お困りになった事でございましょう」
「……………」
「そのような詳しい事は存じませずとも、叔父は嬢次様のお写真が、貴方のお手に一枚もない事を最早(もう)とっくに察している筈でございます。その大切な絵葉書を五枚も叔父の手に渡すという事は嬢次様にとっては生命(いのち)を渡すのと同様でございます。それ位の事がわからなくて、どうして警視庁の捜査課長が勤まりましょう。又、これ程までにして頼まれました事を否(いや)と云うような無慈悲な叔父でない事は妾もよく存じておるのでございます」
 ストーン氏は心持ち肩をすぼめたまま、そう云う女の顔を凝視していた。いつとなく雄弁になって来る女の鋭い理詰めと、その理詰めを通じて判明(わか)って来る女の頭のよさに呆れ返っているらしい。しかし間もなく咳払いを一つして、七時三十五分を指している背後の時計を振り返ると、元の通りの寛(くつろ)いだ態度に返ったのは……高(たか)の知れた女一匹……という気になったものであろうか。それとも私がまだ暫くは帰って来ないという女の言葉を信じて、安心をしたせいでもあろうか。
「それからその手紙を、どうしてミスタ・クロダ・サヤマに渡しましたか」
「叔父はそれから曲馬場をまわって、東京駅ホテルの前に行って、二階の窓の一つを見ながら突立っておりました」
「……それは何故ですか」
「何故だか解りませぬ」
「何分位居りましたか」
「五分ばかり」
「そしてどこへ行きましたか」
「それから駅前の自動車の間をゆっくりゆっくり歩いて、高架線のガードの横を東京府庁の前に出まして、鍛冶橋を渡って、電車の線路伝いに弥左衛門町に這入って、カフェー・ユートピアの前に立って、赤い煉瓦の敷石を長いこと見つめておりました」
「それは何故ですか」
「何故でございましたか……何だかふらふら致しておるようでございましたが、そのうちに二階に上って行きましたから、妾(わたし)共二人もあとから上って参りました」
「えっ……二人で……」
「はい……」
「見付かりませんでしたか」
「いいえ。叔父は西側の窓に近い卓子(テーブル)の前に坐って何かしら眼を閉じて考え込んでいるようでしたから、妾たちはその隣の室(へや)の衝立(ついた)ての蔭に坐って様子を見ておりますと叔父も何かしら二皿か三皿誂(あつら)えて、妾たちの居ります室(へや)のストーブのマントルピースの上をじっと凝視(みつめ)ておりました」
「その時にも見付けられませんでしたか」
「何か考え事に夢中になっている様子で、室(へや)の中に誰が居るか気が付かぬ風付(ふうつ)きでございました。そうしてぼんやりとした当てなし眼をしながらぶつぶつ独言(ひとりごと)を云っておりました」
「どんな事を……」
「どんな事だか聞き取れませんでした。けれども間もなく大きな声で……ジョージ・クレイ待てっ……と申しましたので吃驚(びっくり)致しまして、二人とも衝立の蔭に小さくなりましたが、そのうちに気が付いて衝立の彫刻の穴からそっと覗いて見ますと、叔父はいつの間にか食事を済まして、うとうと居ねむりをしておりました。そうして間もなく……聖書……燐寸(マッチ)燐寸……ムニャムニャムニャ……と云って首をコックリと前に垂らしました。見ていたボーイが皆笑いました」
「その時に新聞を渡しましたか」
「いいえ。わたくし達は叔父が睡りこけたのを見澄まして表へ出ますと、ちょうど通り蒐(かか)った相乗俥(あいのりぐるま)がありましたからそれに乗って幌をすっかり下して、その中から二階のボーイさんを呼び出してもらって、今から十分ほど経ったら二階の窓際に睡っているこんな姿の紳士に渡して下さいと頼みました」
「それからこちらへ帰って来たのですね」
「いいえ。それから色々と買物を致しました」
「お話しなさい」
「それから、わたくし達の相乗俥がほんの一二間ばかり新橋の方へ駈け出しますと、間もなく左側に貸自動車屋を見付けましたので、大喜びで俥を降りて車夫に一円遣りまして、そこの新しいフォードに乗りかえて日本橋の尾張屋という壁紙屋へ行って壁紙と糊を買いまして、三越へ行って絨毯や、電燈の笠や、椅子のカヴァーや時計を求めて食事を致しました。それから伝馬町の岩代屋という医療器械屋へ行って標本の骸骨を買いますと、そのまま真直ぐに自動車でこの家まで参りましたが、道が入り組んでおります上に狭いので大層時間がかかりました。それでも大急ぎで仕事を致しましたので、一時間半ばかりのうちに、やっとこの室(へや)を飾り付けてしまいました」
「えっ……この室(へや)を……」
「……はい……」
 女は何気ない答えをしつつ、今日曲馬場で私を見上げた時とそっくりの無邪気な表情をしてストーン氏を見上げた。
 ストーン氏は真青になってしまった。……高の知れた女一匹……と思って調子をおろしていた相手から、思いもかけぬ不意打ちを喰ったのですっかり面喰(めんくら)ってしまったらしい。恰(あたか)も呉井嬢次が壁の向う側に立っているかのように、又は室(へや)中の道具が一つ一つに自分を取り巻く敵であるかのように、油断なく身を構えながら……時計……油絵……骸骨、電燈……と順々に見まわして行ったが、それにしてもまだ、腑に落ちない事が余りに多いので、半信半疑の心理状態に陥ったものであろう。次第に血色を回復しながらも不安そうに女を見下した。威嚇するように重々しく口を啓(ひら)いた。
「……それでは……この家はミスタ・サヤマの家(うち)ではないのですか」
「……いいえ。叔父の家(うち)に間違いございませぬ」
「……ふむ。それでは……」
 とストーン氏はもう一度ぐるりと室(へや)の中を見まわした。
「ジョージ・クレイはどこに居るのですか」
「今しがたお答え致しました」
「え……何と云いました」
「お忘れになりましたか。嬢次はお母様と一緒に天国に……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッハッ……」
 とストーン氏は女の言葉を半分聞かぬうちに、突然、取って付けたように高らかに笑い出した。しかもそれは今の女の言葉に依って、何事か或る重大な疑問が解けたために、今までの不安と、緊張から一時に解放された事を証拠立てるところの、どん底までも朗かな、痛快な、ヤンキー式の感覚を投げ出した笑いであった。椅子に反(そ)り返って、両脚を投げ出して、ハンカチで顔を拭いて自分の前に坐っている女と、窓の外に立っている私を茫然たらしむべく、室(へや)中をゆすり動かして笑う笑い声であった。
「アッハッハッハッハッ……天国…………天国……天国へ行きました……アッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ」
 そう笑い続けているうちに気を取り直して、旧(もと)の通りの紳士に立ち帰ろうとして、眼の前の女の姿を見ると、又もたまらなさそうに笑いを押え付けるストーン氏であった。
「ええへ。ええへ。ああは。はは。ほほ。ふむ。ふむ。……御免なさい……ああはは。ほうほ。ふむ。ふむ。えっへ。御免なさい……私は……わ……わらい……ました。失礼しました。済みませんでした。私は貴女(あなた)が本当に欺されておいでになるから……笑いました。お気の毒でした。どうぞ……どうぞお許し下さい」
 やっと笑いを納めたストーン氏はハンカチでもう一度顔を拭きながら女を見た。しかし女は依然として淑(しと)やかな態度を保っていた。笑われれば笑わるるほど落ち着く性質の女であるかのように見えた。そうしてこの上もなく無邪気な眼付きでストーン氏のピカピカ光る顔を見まもった。
「わたくし……欺されているのでございましょうか」
「ハ――イ」
 と云いさしてストーン氏は又も笑いを押えるべくハンカチで口を拭いた。女は二三度大きく瞬(まばたき)をした。
「……どうして欺されているのでございましょうか」
 こう尋ねられるとストーン氏は流石(さすが)に気の毒に堪えぬという態度になった。両脚を引っこめて、丸卓子(テーブル)に身体(からだ)を凭(もた)せて、小学校の教員が児童を諭(さと)すような憐れみ深い、親切に充ち満ちた顔になった。
「あなたは、欺されていること、わかりませんか」
「はい……」
 女は又も二三度瞬(まばたき)をした。微笑がストーン氏の頬を横切って消え失せた。
「あなたはジョージのお母さんの名前を知っておりますか」
「はい。嬢次様から承わりました。志村のぶ子様とおっしゃるのでしょう」
「は――い。その志村のぶ子の所に行くとジョージは云いましたか」
「はい。そう仰言って貴方がお出でになる二十分ばかり前に、此家(ここ)をお出かけになりました」
 微笑がもう一度ちらりとストーン氏の唇を掠め去った。
「ジョージはシムラ・ノブコの処へ行く事は出来ませぬ」
「何故でございましょう」
 ストーン氏は一寸(ちょっと)躊躇(ちゅうちょ)した。しかし思い切った口調で云い放った。
「シムラ・ノブコは二年前に天国に行っております」
「そのようなこと……どうして御存じなのですか」
 ストーン氏は又一寸考えた。けれども今度はすぐに言葉を続けた。
「二年前の日本の新聞に出ております。運転手に欺されて、海に連れて行かれたと書いてあります」
「けれども、お亡くなりになったとは書いてございますまい」
「……ははは……あなたその新聞見ましたか」
「はい……」
「けれども貴女(あなた)は今……クレイ・ジョージが志村のぶ子と一緒に天国へ行くと……」
「はい……。これから行かれるのでございます」
「それではシムラ・ノブコは生きているのですね」
「はい」[#底本では受けのカギカッコの前に句点あり]
「どこに……」
「あなたの曲馬団の中に……」
「ヒホ――オオ……」
「私は嬢次様に紹介して頂きました」
「……フホ――オオ……」
 とストーン氏はいよいよ眼を丸くした。いかにも相手を子供扱いしているかのように、ニコニコ笑い出しながら……。
「……ホオオオ……それは……ミセス・シムラは何という名前になっておりますか」
「……アスタ・セガンチニ……一番初めのプログラムに出ておいでになります。地図を読む馬の先生……」
「アッハッハッハッハッハッハッハッ……ワッハッハッハッハッハッハッ」
 ストーン氏は又も堪らなく噴き出した。今度こそはとてもたまらないという風に、大きな腹を両手で押えて、文字通りに腹を抱えながら右に左に傾き笑った。
「ワハハハハハハハハハハ……お伽話(フェヤリー・ストーリース)[#「お伽話」のルビ]だ……地底の蜃気楼(ミラージ・イン・ザ・アース)[#「地底の蜃気楼」のルビ]……アッハッハッフッフッフッ……アスタ・セガンチニ……あの近眼婆さん……オースタリ人の志村のぶ子……アハハハハ。馬の先生……ウハハハ……」
 けれども今度の笑いはそう長く続かなかった。ストーン氏はそうやって笑っているうちに、女の欺され方があんまり非道(ひど)いのに気付いたらしく、急に顔を撫でまわして、真面目な態度に立ち帰りながら問うた。ともすれば又も擽(くす)ぐられそうになる気持ちを肩で呼吸(いき)をして押え付けながら……。
「……ホ――オ……しかし……お嬢さん……。あのシムラ・ノブコは髪の毛が赤くて縮れていたでしょ。ははは……」
「あれは嬢次様がお母さまにお教えになったのでございます。日本人の髪は毎日オキシフルで洗っておりますとあのように赤黄色くなるそうでございます。眉毛も睫毛(まつげ)も……」
「ははは……。しかしあんなに高い鼻があったでしょう」
「隆鼻術をされたのでございます。よく似合っておられます」
「……なるほど……それでもあの頬の骨の形は日本人と違いますでしょ」
「口の内側からお削りになったのだそうです」
「……あはははあ……痛かったでしょう。……それではあんなに色が白いのは牛乳のように……」
仏蘭西(フランス)の砒素(ひそ)鉄剤を召していらっしゃるのです」
「ヒソテツ?」
「色の白くなるお薬です」
「あはは……あのお洒落(しゃれ)婆さん……あはは……あなたは本当に欺されていらっしゃいます」
「欺されてはおりません」
「……あはは……欺されておられるのです」
「嬢次様は人を欺すような方ではございません」
「OH……NO・NO・NO……貴女(あなた)よくお聞きなさい……ジョージは貴女を棄てて行ったのです。ほかに女の人が居るのです」
 女は一寸唇を噛んで鼻白んだ。しかし間もなくニッコリと笑った。ストーン氏のひょうきんな微苦笑とコントラストを作る淋しい、悲しい笑いであった。
「そうでございません。嬢次様も、お母様も、今日になって急に自殺されなければならぬような大変な事が出来たのです。それで後の事を私にお頼みになって、死に場所を探しにお出でになったのです」
「その大変な事どんな事です」
「志村ノブ子様は日本に居られました時に、叔父に捕まえられなければならぬような悪い事を、知らないでなすったそうでございます。その云い訳が出来なくなりましたので米国へ逃げてお帰りになったのです……ですから今でも叔父に見付かったら大変な眼にお会いになるのです」
「ミスタ・サヤマが正しいのです」
「それから嬢次様も、あなたの曲馬団に悪い事をされたのでございますから叔父に捕まえられてはいけないのです。それから、わたくしも叔父に隠し事をしているのでございますから、私たちが死んで申訳を致しませぬ限り叔父は決して許しますまい」
「ミスタ・サヤマはいつも正しいのです」
「それに叔父が今日曲馬団に来ておりまして、あのように妾(わたし)たちの仕事を察して、粗相(そそう)のないように保護しているのを見ますと、叔父はもう、とっくに何もかも見破って、わたくし達三人を一緒に捕まえようとしているのに違いないのでございます」
「ミスタ・サヤマはもう二人を捕まえているでしょう」
「……そうかも知れませぬ。けれどもその前にお二人は自殺していられるでしょう」
「何故ですか」
「叔父の狭山が二人を捕まえましたならば、とりあえず貴方の手に引渡すでしょう」
「……それが正しいのです」
「そうしたらお二人は、貴方のトランクの中に在る、鉛の球(たま)を繋いだ皮革(かわ)の鞭で打ち殺されてしまわれるでしょう」
「……そ……そんな……あははは……それはみんな嬢次の作り事です。貴女(あなた)を欺して、ここに棄てて行くために嘘を云ったのです」
「……………」
 女は涙ぐんだらしくうなだれた。ストーン氏は得たりとばかり身を乗り出した。
「……ははは……わかりましたか。欺されている事……」
「……………」
「ジョージはマダム・セガンチニと夫婦になるために逃げたのです。……あははは……帰って調べて見ればわかります。それに違いありませぬ」
「……………」
「……あははは……何もかもノンセンスです。……わかりますか……ノンセンス……欺されている事……」
 女はうなだれたまま唇をわななかした。蚊(か)の泣くような細い声で云った。
「……欺されても構いませぬ。嬢次様のおためなら……」
「……そ……そんな……ノンセンス……」
 とストーン氏は急に真剣になって片手をあげた。
「……貴女(あなた)は大変な損をします……貴女はたった一人ここに居りますか……たった一人約束守って……」
「……守ります……死ぬまで守ります」
 と云ううちに長い袖をかい探って顔に当てた。
 ストーン氏は憮然として椅子に反(そ)りかえりつつ長大息した。
 窓の外で私も人知れず長大息させられた。

 この女は最前からかなりの嘘言(うそ)を吐いている。けれどもその嘘言(うそ)は皆、真実を材料(たね)にしたもので、ただ私がこの女の叔父であるという事と、馬に毒を嘗(な)めさせたのを少年の所為(せい)にしている事と、この二つのために全部が嘘に聞えているので、実は皆ありのままを述べているとしか考えられないのである。「真実ばかりの嘘」というものがもしあるとすれば、この女の今まで云った言葉は正にそれで、特に最後の思い詰まった哀傷の涙に至っては正に「真実中の真実」であろう。
 怪少年呉井嬢次の怪手腕が、これ程に凄いものがあろうとは流石(さすが)の私も今の今まで知らなかった。愈々(いよいよ)出でていよいよ奇怪とは真にこの事である。察するところ、彼は私に施したと同様の手段……その美貌……その明智……その真実らしい態度で、どこの者とも知れぬこの女を説き付けて、その仕事の手助けに使ったものと見える。彼の辣腕は一方にこの老骨狭山九郎太を手玉に取りながら、一方には花のような無垢(むく)の美少女を、傀儡(あやつり)のように自由自在に操っている。何という大胆さであろう。何という狡猾さであろう。あの大学生が……曲馬場で老人と馬の話をしてジョージ・クレイの技術を賞め千切(ちぎ)っていた……あれが本物のジョージ・クレイであったか。鼻を低くし、頬を痩せさせ、年齢を増して、声や背丈までも別人のように高くし得る変装術がこの世にあろうとは思われぬ。あの大学生が呉井嬢次ならば、今までの彼の身体(からだ)は消滅して、心だけがあの大学生に乗り移ったものと思うより他に考えようはないであろう。私は唖然たらざるを得なかった。

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