……今もそのつもりでいる。
……だから教育家になったのだ。今の教育法に一大革命を起すべく……児童のアタマに隠れている数理的な天才を、社会に活かして働かすべく……。
……しかし今の教育法では駄目だ。全く駄目なんだ。今の教育法は、すべての人間の特徴を殺してしまう教育法なんだ。数学だけ甲でいる事を許さない教育法なんだ。
……だから今までにドレ程の数学家が、自分の天才を発見し得ずに、闇から闇に葬られ去ったことであろう。
……俺は今日まで黙々として、そうした教育法と戦って来た。そうして幾多の数学家の卵を地上に孵化させて来た。
……太郎もその卵の一つであった。
……温柔しい、無口な優良児であった太郎は、俺が教えてやるまにまに、彼独特の数理的な天才をスクスクと伸ばして行った。もう代数や幾何の初等程度を理解していたばかりでなく、自分で LOG を作る事さえ出来た。……彼が自分で貯めたバットの銀紙で球を作りながら、時々その重量と直径とを比較して行くうちに、直径の三乗と重量とが正比例して増加して行く事を、方眼紙にドットして行った点の軌跡の曲線から発見し得た時の喜びようは、今でもこの眼に縋り付いている。眼を細くして、頬ペタを真赤にして、低い鼻をピクピクさせて、偉大なオデコを光らしているその横顔……。
……けれども俺は太郎に命じて、そうした数理的才能を決して他人の前で発表させなかった。学校の教員仲間にも知らせないようにしていた。「又余計な事をする」と云って視学官連中が膨れ面をするにきまっていたから……。
……視学官ぐらいに何がわかるものか。彼奴等は教育家じゃない。タダの事務員に過ぎないのだ。
……ネエ。太郎、そうじゃないか。
……彼奴の数学は、生徒職員の数と、夏冬の休暇に支給される鉄道割引券の請求歩合と、自分の月給の勘定ぐらいにしか役に立たないのだ。ハハハ……。
……ネエ。太郎……。
……お父さんはチャント知っているんだよ。お前が空前の数学家になり得る素質を持っていることを……アインスタインにも敗けない位スゴイ頭を持っていることを……。
……しかし、お前自身はソンナ事を夢にも知らなかった。お父さんが云って聞かせなかったから……だから残念とも何とも思わなかったであろう。お父さんの事ばかり思って死んだのであろう……。
……だけども……だけども……。
ここまで考えて来ると彼はハタと立ち停まった。
……だけども……だけども……。
というところまで考えて来ると、それっきり、どうしてもその先が考えられなかった彼は、枕木の上に両足を揃えてしまったのであった。ピッタリと運転を休止した脳髄の空虚を眼球のうしろ側でジイッと凝視しながら……。
それは彼の疲れ切って働けなくなった脳髄が、頭蓋骨の空洞の中に作り出している、無限の時間と空間とを抱擁した、薄暗い静寂であった。どうにも動きの取れなくなった自我意識の、底知れぬ休止であった。どう考えようとしても考えることの出来ない……。
彼は地底の暗黒の中に封じ込められているような気持になって、両眼を大きく大きく見開いて行った。しまいには瞼がチクチクするくらい、まん丸く眼の球を剥き出して行ったが、そのうちにその瞳の上の方から、ウッスリと白い光線がさし込んで来ると、それに連れて眼の前がだんだん明るくなって来た。
彼の眼の前には見覚えのある線路の継目と、節穴の在る枕木と、その下から噴き出す白い土に塗れた砂利の群れが並んでいた。
そこは太郎が轢かれた場所に違い無いのであった。
彼は徐ろに眼をあげて、彼の横に突立っているシグナルの白い柱を仰いだ。黒線の這入った白い横木が、四十五度近く傾いている上に、ピカピカと張り詰められている鋼鉄色の青空を仰いだ。そうして今一度、吾児の血を吸い込んだであろう足の下の、砂利の間の薄暗がりを、一つ一つに覗き込みつつ凝視した。その砂利の間の薄暗がりから、頭だけ出している小さな犬蓼の、血よりも紅い茎の折れ曲りを一心に見下していた。
……だけども……だけども……。
という言葉によって行き詰まらせられた脳髄の運転の休止が、又も無限の時空を抱擁しつつ、彼の頭の上に圧しかかって来るのを、ジリジリと我慢しながら……どこか遠い処で、ケタタマシク吹立てていた非常汽笛が、次第次第に背後に迫って来るのを、夢うつつのように意識しながら……。
……だけども……だけども……。
と考えながら彼は自分の額を、右手でシッカリと押え付けてみた。
……だけども……だけども……。
……今まで俺が考えて来た事は、みんな夢じゃないか知らん。……キセ子が死んだのも、忰が轢き殺されたのも……それからタッタ今まで考え続けて来た色々な事も、みんな頭を悪るくしている俺の幻覚に過ぎないのじゃないか知らん。神経衰弱から湧き出した、一種のあられもないイリュージョンじゃないかしらん……。
……イヤ……そうなんだそうなんだ……イリュージョンだイリュージョンだ……。
……俺は一種の自己催眠にかかってコンナ下らない事を考え続けて来たのだ。俺の神経衰弱がこの頃だんだん非道くなって来たために、自己暗示の力が無暗に高まって来たお蔭でコンナみじめな事ばかり妄想するようになって来たのだ。
……ナアーンダ。……何でもないじゃないか……。
……妻のキセ子も、子供の太郎も、まだチャンと生きているのだ。太郎はモウ、とっくの昔に学校に行き着いているし、キセ子は又キセ子で、今頃は俺の机の上にハタキでも掛けているのじゃないか。あの大切な「小学算術」の草案の上に……。
……アハハハハハハ……。
……イケナイイケナイ。こんな下らない妄想に囚われていると俺はキチガイになるかも知れないぞ……。
……アハ……アハ……アハ……。
彼はそう思い思い、スッカリ軽い気持になって微笑しいしい、又も上半身を傾けて、線路の上を歩き出そうとした。するとその途端に、思いがけない背後から、突然非常な力で……グワーン……とドヤシ付けられたように感じた。そうしてタッタ今、凝視していた砂利の上に、何の苦もなく突き倒されたように思ったが、その瞬間に彼は真黒な車輪の音も無い廻転と、その間に重なり合って閃めき飛ぶ赤い光明のダンダラ縞を認めた。……と思ううちに後頭部がチクチク痛み初めて、眼の前がグングン暗くなって来たので、二三度大きく瞬をしてみた。
……お父さんお父さんお父さんお父さんお父さん……。
と呼ぶ太郎のハッキリした呼び声が、だんだんと近付いて来た。そうして彼の耳の傍まで来て鼓膜の底の底まで泌み渡ったと思うと、そのままフッツリと消えてしまったが、しかし彼はその声を聞くと、スッカリ安心したかのように眼を閉じて、投げ出した両手の間の砂利の中にガックリと顔を埋めた。そうしてその顔を、すこしばかり横に向けながらニッコリと白い歯を見せた。
「……ナアーンダ。お前だったのか……アハ……アハ……アハ……」
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