彼はその夢うつつの何日目かに、眼の色を変えて駈け付けて来た同僚の橋本訓導の顔付を記憶していた。その後から駈け付けて来た巡査や、医者や、村長さんや、区長さんや、近い界隈の百姓たちの只事ならぬ緊張した表情を不思議なほどハッキリ記憶していた。のみならずそれが太郎の死を知らせに来た人々で……。
「コンナ大層な病人に、屍体を見せてええか悪いか」
「知らせたら病気に障りはせんか」
といったような事を、土間の暗い処でヒソヒソと相談している事実や何かまでも、慥かに察しているにはいた。けれども彼は別に驚きも悲しみもしなかった。おおかたそれは彼の意識が高熱のために朦朧状態に陥っていたせいであろう。ただ夢のように……。
……そうかなあ……太郎は死んだのかなあ……俺も一所にあの世へ行くのかなあ……。
と思いつつ、別に悲しいという気もしないまま、生ぬるい涙をあとからあとから流しているばかりであった。
それからもう一つその翌る日のこと……かどうかよくわからないが、ウッスリ眼を醒ました彼は囁やくような声で話し合っている女の声をツイ枕元の近くで聞いた。ちょうどラムプの芯が極度に小さくして在ったので、そこが自分の家であったかどうかすら判然しなかったが、多分介抱のために付添っていた、近くの部落のお神さん達か何かであったろう。
「……ホンニまあ。坊ちゃんは、ちょうどあの堀割のまん中の信号の下でなあ……」
「……マアなあ……お父さんの病気が気にかかったかしてなあ……先生に隠れて鉄道づたいに近道さっしやったもんじゃろうて皆云い御座るげなが……」
「……まあ。可愛そうになあ……。あの雨風の中になあ……」
「それでなあ。とうとう坊ちゃんの顔はお父さんに見せずに火葬してしまうたて、なあ……」
「……何という、むごい事かいなあ……」
「そんでなあ……先生が寝付かっしゃってから、このかた毎日坊ちゃんに御飯をば喰べさせよった学校の小使いの婆さんがなあ。代られるもんなら代ろうがて云うてなあ。自分の孫が死んだばしのごと歎いてなあ……」
あとはスッスッという啜り泣きの声が聞こえるばかりであったが、彼はそれでも別段に気に止めなかった。そうした言葉の意味を考える力も無いままに又もうとうとしかけたのであった。
「橋本先生も云うて御座ったけんどなあ。お父さんもモウこのまま死んで終わっしゃった方が幸福かも知れんち云うてなあ……」
といったようなボソボソ話を聞くともなく耳に止めながら……自分が死んだ報せを聞いて、口をアングリと開いたまま、眼をパチパチさせている人々の顔と、向い合って微笑しながら……。
けれどもそのうちに、さしもの大熱が奇蹟的に引いてしまうと、彼は一時、放神状態に陥ってしまった。和尚さんがお経を読みに来ても知らん顔をして縁側に腰をかけていたり、妻の生家から見舞いのために配達させていた豆乳を一本も飲まなかったりしていたが、それでも学校に出る事だけは忘れなかったと見えて、体力が出て来ると間もなく、何の予告もしないまま、黒い鞄を抱え込んでコツコツと登校し初めたのであった。
教員室の連中は皆驚いた。見違えるほど窶れ果てた顔に、著しく白髪の殖えた無精髯を蓬々と生やした彼の相好を振り返りつつ、互いに眼と眼を見交した。その中にも同僚の橋本訓導は、真先に椅子から離れて駈け寄って来て、彼の肩に両手をかけながら声を潤ませた。
「……ど……どうしたんだ君は。……シシ……シッカリしてくれ給え……」
眼をしばたたきながら、椅子から立ち上った校長も、その横合いから彼に近付いて来た。
「……どうか充分に休んでくれ給え。吾々や父兄は勿論のこと、学務課でも皆、非常に同情しているのだから……」
と赤ん坊を諭すように背中を撫でまわしたのであったが、しかし、そんな親切や同情が彼には、ちっとも通じないらしかった。ただ分厚い近眼鏡の下から、白い眼でジロリと教室の内部を見廻わしただけで、そのまま自分の椅子に腰を卸すと、彼の補欠をしていた末席の教員を招き寄せて学科の引継を受けた。そうして乞食のように見窄らしくなった先生の姿に驚いている生徒たちに向って、ポツポツと講義を初めたのであった。
それから午後になって教員室の連中から、
「無理もない」
というような眼付きで見送られながら校門を出るとそのまま右に曲って、生徒たちが見送っているのも構わずにサッサと線路を伝い初めたのであった。……又も以前の通りの思出を繰返しつつ、……自分の帰りを待っているであろう妻子の姿を、木の間隠れの一軒屋の中に描き出しつつ……。
彼はそれから後、来る日も来る日もそうした昔の習慣を判で捺したように繰返し初めたのであったが、しかしその中にはタッタ一つ以前と違っている事があった。それは学校を出てから間もない堀割の中程に立っている白いシグナルの下まで来ると、おきまりのようにチョット立止まって見る事であった。
彼はそうしてそこいらをジロジロと見廻しながら、吾児の轢かれた遺跡らしいものを探し出そうとするつもりらしかったが、既に幾度も幾度も雨風に洗い流された後なので、そんな形跡はどこにも発見される筈が無かった。
しかし、それでも彼は毎日毎日、そんな事を繰り返す器械か何ぞのように、おんなじ処に立ち佇まって、くり返しくり返しおんなじ処を見まわしたので、そこいらに横たわっている数本の枕木の木目や節穴、砂利の一粒一粒の重なり合い、又はその近まわりに生えている芝草や、野茨の枝ぶりまでも、家に帰って寝る時に、夜具の中でアリアリと思い出し得るほど明確に記憶してしまった。そうして彼はドンナニ外の考えで夢中になっている時でも、シグナルの下のそのあたりへ来ると、殆んど無意識に立佇まって、そこいらを一渡り見まわした後でなければ、一歩も先へ進めないようにスッカリ癖づけられてしまったのであった……何故そこに立佇まっているのか、自分自身でも解らないままに、暗い暗い、淋しい淋しい気持ちになって、狃染みの深い石ころの形や、枕木の切口の恰好や、軌条の継目の間隔を、一つ一つにジーッと見守らなければ気が済まないのであった……………………。
「お父さん」
というハッキリした声が聞こえたのは、ちょうど彼がそうしている時であった。
彼はその声を聞くや否や、電気に打たれたようにハッと首を縮めた。無意識のうちに眼をシッカリと閉じながら、肩をすぼめて固くなったが、やがて又、静かに眼を見開いて、オズオズと左手の高い処を見上げた。寂しい霜枯れの草に蔽われた赤土の斜面と、その上に立っている小さな、黒い人影を予想しながら……。
ところが現在、彼の眼の前に展開している堀割の内側は、そんな予想と丸で違った光景をあらわしていた。見渡す限り草も木も、燃え立つような若緑に蔽われていて、色とりどりの春の花が、巨大な左右の土の斜面の上を、涯てしもなく群がり輝やき、流れ漾い、乱れ咲いていた。線路の向うの自分の家を包む山の斜面の中程には、散り残った山桜が白々と重なり合っていた。朗らかに晴れ静まった青空には、洋紅色の幻覚をほのめかす白い雲がほのぼのとゆらめき渡って、遠く近くに呼びかわす雲雀の声や、頬白の声さえも和やかであった。
……その中のどこにも吾児らしい声は聞こえない……どこの物蔭にも太郎らしい姿は発見されない……全く意外千万な眩ぶしさと、華やかさに満ち満ちた世界のまん中に、昔のまんまの見窄らしい彼自身の姿を、タッタ一つポツネンと発見した彼……。
……彼がその時に、どんなに奇妙な声を立てて泣き出したか……それから、どんなに正体もなく泣き濡れつつ線路の上をよろめいて、山の中の一軒屋へ帰って行ったか……そうして自分の家に帰り着くや否や、箪笥の上に飾ってある妻子の位牌の前に這いずりまわり、転がりまわりつつ、どんなに大きな声をあげて泣き崩れたか……心ゆくまで泣いては詫び、あやまっては慟哭したか……。そうして暫くしてからヤット正気付いた彼が、見る人も、聞く人も無い一軒屋の中で、そうしている自分の恰好の見っともなさを、気付き過ぎる程気付きながらも、ちっとも恥かしいと思わなかったばかりでなく、もっともっと自分を恥かしめ、苛なみ苦しめてくれ……というように、白木の位牌を二つながら抱き締めて、どんなに頬ずりをして、接吻しつつ、あこがれ歎いたことか……。
「……おお……キセ子……キセ子……俺が悪かった。重々悪かった。堪忍……堪忍してくれ……おおっ。太郎……太郎太郎。お父さんが……お父さんが悪かった。モウ……もう決して、お父さんは線路を通りません……通りません。……カ……堪忍して……堪忍して下さアアア――イ……」
と声の涸れるほど繰返し繰返し叫び続けたことか……。
彼は依然として枯木林の間の霜の線路を渡りつづけながら、その時の自分の姿をマザマザと眼の前に凝視した。その瞼の内側が自ずと熱くなって、何ともいえない息苦しい塊まりが、咽喉の奥から、鼻の穴の奥の方へギクギクとコミ上げて来るのを自覚しながら……。
「……アッハッハ……」
と不意に足の下で笑う声がしたので、彼は飛び上らむばかりに驚いた。思わず二三歩走り出しながらギックリと立ち佇まって、汗ばんだ額を撫で上げつつ線路の前後を大急ぎで見まわしたが、勿論、そこいらに人間が寝ている筈は無かった。薄霜を帯びた枕木と濡れたレールの連続が、やはり白い霜を冠った礫の大群の上に重なり合っているばかりであった。
彼の左右には相も変らぬ枯木林が、奥もわからぬ程立ち並んで、黄色く光る曇り日の下に灰色の梢を煙らせていた。そうしてその間をモウすこし行くと、見晴らしのいい高い線路に出る白い標識柱の前にピッタリと立佇まっている彼自身を発見したのであった。
「……シマッタ……」
と彼はその時口の中でつぶやいた。……あれだけ位牌の前で誓ったのに……済まない事をした……と心の中で思っても見た。けれども最早取返しの付かない処まで来ている事に気が付くと、シッカリと奥歯を噛み締めて眼を閉じた。
それから彼は又も、片手をソッと額に当てながら今一度、背後を振り返ってみた。ここまで伝って来た線路の光景と、今まで考え続けて来た事柄を、逆にさかのぼって考え出そうと努力した。あれだけ真剣に誓い固めた約束を、それから一年近くも過ぎ去った今朝に限って、こんなに訳もなく破ってしまったそのそもそもの発端の動機を思い出そうと焦燥ったが、しかし、それはモウ十年も昔の事のように彼の記憶から遠ざかっていて、どこをドンナ風に歩いて来たか……いつの間に帽子を後ろ向きに冠り換えたか……鞄を右手に持ち直したかという事すら考え出すことが出来なかった。ただズット以前の習慣通りに、鞄を持ち換え持ち換え線路を伝って、ここまで来たに違い無い事が推測されるだけであった。…………しかしその代りに、たった今ダシヌケに足の下で笑ったものの正体が彼自身にわかりかけたように思ったので、自分の背後の枕木の一つ一つを念を入れて踏み付けながら引返し初めた。すると間もなく彼の立佇まっていた処から四五本目の、古い枕木の一方が、彼の体重を支えかねてグイグイと砂利の中へ傾き込んだ。その拍子に他の一端が持ち上って軌条の下縁とスレ合いながら……ガガガ……と音を立てたのであった。
彼はその音を聞くと同時に、タッタ今の笑い声の正体がわかったので、ホッと安心して溜息を吐いた。それにつれて気が弛んだらしく、頭の毛が一本一本ザワザワザワとして、身体中にゾヨゾヨと鳥肌が出来かかったが、彼はそれを打消すように肩を強くゆすり上げた。黒い鞄を二三度左右に持ち換えて、切れるように冷めたくなった耳朶をコスリまわした。それから鼻息の露に濡れた胡麻塩髯を撫でまわして、歪みかけた釣鐘マントの襟をゆすり直すと、又も、スタスタと学校の方へ線路を伝い初めた。いつも踏切の近くで出会う下りの石炭列車が、モウ来る時分だと思い思い、何度も何度も背後を振り返りながら……。
彼は、それから間もなく、今までの悲しい思出からキレイに切り離されて、好きな数学の事ばかりを考えながら歩いていた。彼自身にとって最も幸福な、数学ずくめの冥想の中へグングンと深入りして行った。
彼の眼には、彼の足の下に後から後から現われて来る線路の枕木の間ごとに変化して行く礫石の群れの特徴が、ずっと前に研究しかけたまま忘れかけている函数論や、プロバビリチーの証明そのもののように見えて来た。彼は又、枕木と軌条が擦れ合った振動が、人間の笑い声に聞こえて来るまでの錯覚作用を、数理的に説明すべく、しきりに考え廻わしてみた。それは何の不思議もない簡単な出来事で、考えるさえ馬鹿馬鹿しい事実であったが、しかしその簡単な枕木の振動の音波が人間の鼓膜に伝わって、脳髄に反射されて、全身の神経に伝わって、肌を粟立たせるまでの経路を考えて来ると、最早、数理的な頭ではカイモク見当の付けようの無い神秘作用みたようなものになって行くのが、重ね重ね腹が立って仕様がなかった。人間が機関車に正面すると、ちょうど蛇に魅入られた蛙のように動けなくなって、そのまま、轢き殺されてしまうのも、やはり脳髄の神秘作用に違い無いのだが……。一体脳髄の反射作用と、意識作用との間にはドンナ数理的な機構の区別が在るのだろう……。
……突然……彼の眼の前を白いものがスーッと横切ったので、彼は何の気もなく眼をあげてみた。……今頃白い蝶が居るか知らんと不思議に思いながら……けれどもそこいらには蝶々らしいものは愚か、白いものすら見えなかった。
彼はその時に高い、見晴らしのいい線路の上に来ていた。
彼の視線のはるか向うには、線路と一直線に並行して横たわっている国道と、その上に重なり合って並んでいる部落の家々が見えた。それは彼が昔から見慣れている風景に違い無いのであったが、今朝はどうした事かその風景がソックリそのまんまに、数学の思索の中に浮き出て来る異常なフラッシュバックの感じに変化しているように思われた。その景色の中の家や、立木や、畠や、電柱が、数学の中に使われる文字や符号……[#ここから横組み]√,=,0,∞,KLM,XYZ,αβγ,θω,π[#ここで横組み終わり]……なんどに変化して、三角函数が展開されたように……高次方程式の根が求められた時の複雑な分数式のように……薄黄色い雲の下に神秘的なハレーションを起しつつ、涯てしもなく輝やき並んでいた。形に表わす事の出来ないイマジナリー・ナンバーや、無理数や、循環少数なぞを数限りなく含んで……。
彼は、彼を取巻く野山のすべてが、あらゆる不合理と矛盾とを含んだ公式と方程式にみちみちている事を直覚した。そうして、それ等のすべてが彼を無言のうちに嘲り、脅やかしているかのような圧迫感に打たれつつ、又もガックリとうなだれて歩き出した。そうしてそのような非数理的な環境に対して反抗するかのように彼は、ソロソロと考え初めたのであった。
……俺は小さい時から数学の天才であった。
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