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白菊(しらぎく)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-11-9 9:28:18  点击:  切换到繁體中文



 しかし、そのうちに彼はヤットの思いで立ち上った。手も力もなく蹌踉よろめきながら、はだかった胸を掻き合わせて、露深い草の上に落ちたマキリを探し当てて、懐中ふところさやに納めながら、花壇の方向へスタスタと立ち去ろうとした……が……又もピッタリと立佇たちどまって振り返った。石柱の下に静まり返っている白菊の鉢を見返りながら腕を組んで考え込んだ。混乱した頭をしずめよう鎮めようと努力した。
 ……俺はここへ何をしに来たんだ。……そうして……このまま帰ったら俺は一体どうなるんか……。
 やがて彼は闇の中でガックリとうなずいた。
 忽ちツカツカと石柱の根元に歩み寄って、盛り上った白菊の鉢に両手をかけた。
「……エエくそ……このまま帰ったら俺あ型なしになるんだぞ……畜生。どうするか見よれ」
 とイキミ声を出しながらジワジワと鉢を持ち上げかけた。
「俺が来た証拠だ……畜生……」
 それは疲れ切った、空腹の彼にとっては、実に容易ならぬ大事業であった。大の男が二人がかりでもどうかと思われる巨大な白菊の満開の鉢を、ヤットの思いで胸の上まで抱え上げるうちに、彼の全身は、新しい汗で水を浴びたようになった。その夜露と泥とですべり易くなった鉢の底を、生命いのちカラガラ肩の上に押し上げて、よろめく足を踏み締めながら、外廊下のマットの上を一歩一歩と階段に近づいて行った時に彼は、幾度も幾度も今度こそ……今度こそ気が遠くなって、引っくり返るのじゃないかと危ぶんだ。
 彼はそれから一歩一歩と、無限の地獄にち込むような怖ろしい思いを繰り返しながら、石の階段を登って行った。それから開け放されたままのの中へ、中腰のままジリジリと歩み入って、向うの窓際まで一歩一歩と近づいて来ると、両足を力一パイ踏み締めて立ちどまった。
 彼は肩の上に喰い込んでいる菊の鉢を、そのまま、眠っている少女の頭部あたまめがけて投げ付けたい衝動を、ジット我慢しながらモウ一度、寝台の中を白眼にらみ付けた。
 ……畜生……ブチ殺した方が面黒おもくれえかも知れねえんだが……それじゃ俺の意地が通らねえ。タタキ付けて逃げ出したと思われちゃ詰まらねえかんな……畜生……。
 と唇を噛み締めながら考えた。
 彼は、それから更に、今までの苦しみに何層倍した、新しい苦しみに直面させられた。彼が、四十年の生涯のうちに一度も体験した事のない……髪の毛が一本一本に白髪しらがになってしまいそうな、危険極まる刹那刹那を、刻一刻に新しく新しく感じながら、死ぬ程重たい花と土のかたまりを、肩から胸へ……胸から床の上へソーッと抱え下した。アザヤカな淡紅色を帯びて、せかえるほど深刻に匂う白い花ビラの大群を、静かに少女の枕元に置き直すと、ポキンポキンと音を立てる腰骨を一生懸命に伸ばしながら、長い長いふるえた溜め息をいた。そのまま、暫くの間、眼を閉じ、唇を噛んで、荒い鼻息を落ち付けていたが、そのうちに彼は思い出したように眼を見開いて、泥塗どろまみれになった両掌りょうてを、腰の荒縄の上にコスリ付けた。そのてのひらで、ひげだらけの顔を撫で上げて汗を拭こうとした。
 しかし彼はモウ汗も出ないほど青褪あおざめ切っていた。
 その薄黒い、落ち窪んだ両眼は、老人のように白々と弱り込んで、唇が紙のように干乾ひからびていた。その額と頬は、僅かの間に生命いのちを削り取られたかのように蒼白く骨張って、力ない皺の波が、彫刻のようにコビリ付いていた。……が……そうした死人じみた片頬に、弱々しい、泣き笑いじみた表情をビクビクさせると、彼は仁王立におうだちに突立ったまま、鼻の先の空間に眼を据えた。
 咽喉のどの奥をゼイゼイと鳴らした。
「……オレは……オレは……ちっとも怖くないんだぞ……畜生。コレ位の事は平気なんだぞ……エヘ……エヘ……」
 そう云ううちに彼は力が尽きたらしくガックリと低頭うなだれた。タッタ今、自分が成し遂げた最大、最高の仕事を、振り返り振り返り、懐中ふところのマキリを押えながら、ヒョロヒョロと出て行った。
 彼の背後うしろから静かに静かに閉まって行った重たいとびらが、忽ち、轟然ごうぜんたる大音響を立てて、深夜の大邸宅にどよめき渡りつつ消え失せた。

 ……あくる朝……。
 晴れ渡った晩秋の旭光きょっこうがウラウラと山懐やまぶところの大邸宅を照し出すと、黄色い支柱を並べた外廊下に、白い人影が二つほど歩みあらわれた。
 それは白絹のパジャマを着流した、若い、洋髪の日本婦人と、やはり純白のタオル寝巻をまとうた四ツか五ツ位の、お合羽かっぱさんの女のが並んで、むつまじそうに手を引き合った姿であった。
 若い洋髪の女性は、片手で寝乱れた髪を撫で上げながらも、こうした大邸宅にふさわしい気品のうちにユックリユックリと白羅紗らしゃのスリッパを運んで来たが、やがて棕櫚しゅろのマットの中央まで来ると、すこし寒くなったらしく、襟元えりもとを引き合わせて立ち止まった。
 すると、その時に、お合羽さんの女の児が、つながり合った手を無邪気に引離しながらチョコチョコ走りに廊下を伝わって、真綿まわたの白靴をひるがえしひるがえし石の段々を一つ一つに登って行った。そうしてサモサモ嬉しそうにドア把手ノッブを押しながら、内側へ消え込んで行ったが、やがて間もなく、眼をマン丸にして重たいを引き開くと、一散に階段を馳け降りて来た。
 若い女性は、それを見迎えながら微笑した。
「……まあ……あぶない……ゆっくりオンリしていらっしゃい」
 しかし女の児は聴かなかった。
 可愛いお合羽さんを左右に振りながら、若い女性のパジャマのすそすがり付いた。
「……いいえ……お母チャマ大変よ……アノネ……アノネ……アタチ……アノお人形のおひいチャマのおめざを、いただきに行ったのよ……ソウチタラネ……」
 と云いさして女の児は息を切らした。
「ホホホ……チュウチュが引いていたのですか」
 女の児は一層眼を丸くして頭を振った。
「……イイエ。お母チャマ……ソウチタラネ……お部屋の中が泥ダラケなのよ……」
「……エ……」
 若い女性は顔の色をなくした。女の児の顔をシゲシゲと見下した。
「……ソウチタラネ……アノお人形のおひいチャマのお枕元に、大きい、ちろい菊の花が置いてあったのよ」
「……まあ……」
 といううちに若い女性は唇の色までなくしてしまった。その唇の近くで白い指先をわななかしながらすぐ傍の芝生の上に残っている輪形の鉢の痕跡あとを見まわしていたが、やがてオドオドしたおびえたような眼付きで、階段の上を見上げた。
「……マア……昨夜ゆうべまで……ここに在ったのに……誰がまあ……」
「イーエ……お母チャマ……アタチ知っててよ。ゆうべね。アタチ達が帰ってからね。アノお人形のおひいチャマが、菊の花を見たいって仰言おっしゃったのよ」
 女性はすこしばかり血色を取り返した。
「……まあ……オホホ……」
「それでね……アノ御家来の熊さんが、持って行って上げたのよ……キット……」
「……ネ……ソウデチョ……お母チャマ……」
「……………」





底本:「夢野久作全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年8月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:kazuishi
2000年10月25日公開
2006年3月9日修正
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