そうして慌てて扉を閉じて、内側から鍵をしっかりとかけて、ほっと一息安心すると、そのまま気が遠くなって、床の上に倒れてしまいました。けれども家中は今、上を下へと混雑しているところでしたから、気の付く者は一人もありませんでした。
ところが似せ紅矢の美留藻も青眼先生の顔を見ると、同じように慄え上る程驚きました。そうしていよいよあの夢が嘘でない事が解かりましたが、それと一所に青眼先生の眼付が如何にも鋭くて、もしやあの夢の中であの銀杏の葉を容れた袋の底を鋏で切り破った女が自分だという事が繃帯の上からわかりはしまいかと心の中で恐れた位でした。けれども又よく考えて見ると、青眼先生がもしあの美紅姫を一眼でも見ていれば、妾より先に姫を疑う筈なのに平気でこの家に遣って来るところを見ると、青眼先生はこの家に初めて来たので、まだ美紅姫の顔を見た事がないのかもしれぬ。それとも初めからあの夢を見ないのであろうか。イヤイヤそんな筈はない。美紅姫があの夢を見たように、この青眼先生も、それからあの白髪の乞食小僧も屹度あの夢を見たに違いない。それでなければ理屈が合わなくなる。そしていよいよ見たか見ないかは、そのうちに美紅姫とこの青眼先生と出会わして見ればわかる事だ。とにかく今のところではこの青眼先生はまだ一度も美紅姫と顔を合わせず、又自分が似せ紅矢という事も気が付かずにいるに違いないと、ほっと安心をして気を落ち付けました。
けれども青眼先生の方はそんな事は露程も気が付きませぬ。徐に進み寄って美留藻の似せ紅矢に敬礼をしまして、それから先ず脈を見ましたが何ともないので、これならば死ぬような事はあるまいと安心をしました。ところがその次に顔の繃帯を取ろうとしますと、似せ紅矢は無暗に痛い痛いと金切声をふり絞って、どうしても繃帯に触らせませぬ。青眼先生は仕方なしに、薬籠の中から油薬を出して、繃帯一面に浸ませて、こうやっておけば直に痛くないように繃帯が取れるであろう。それからこの薬は一滴程嘗めておくと一週間眠り続ける事が出来る薬だ。その間には大抵痛みも取れるであろうから、あとであまり痛みが烈しいならば、飲ましておくがよいと云って、小さな瓶を一ツ病人の枕元に置いて行きました。
青眼先生が帰ってから暫くの間、美留藻は痛みが取れたように見せかけてスヤスヤと眠っておりました。ところがやがて正午頃になって、看病のために残っていた女中が一寸の間居なくなりますと、美留藻は急にむっくりはね起きて、枕元の眠り薬の瓶を取るが早いか、又室の窓から飛び出して、裏手の廏へ来て馬丁を呼んで「瞬」を引き出させました。そうして怪我が急に痛くなったから青眼先生の処へ行くのだと云い捨てて、ヒラリと鞍に飛び乗るが早いか、裏門から一目散に逃げ出しました。
十六 金剛石
美留藻は紅矢の家を逃げ出しますと、先ず一番に仕立屋に行って着物を受け取りまして、賃には一粒の大きな金剛石を投り出して来ました。
その次には帽子屋、その次には靴屋、その次には剣屋と、それぞれ尋ねてまわって、品物を受け取って、代金には皆宝石を一粒宛、髪毛の中から摘み出して与えましたが、それから都の大通りを驀然に南に走りますと、暫くして向うから美留藻の脱け殻のお婆さんの着物を着て、喘ぎ喘ぎ走って来る紅矢に出会いました。すると美留藻は乱暴にも、突然馬を紅矢に乗りかけて、逃げる間もなく踏み蹂り蹴散らして、大怪我をさせてしまいました。そうして全く呼吸が絶えて、うつ伏せに倒れたのを見澄まして引き返して来て、助けて行く風をして馬の上に抱え乗せて、只或る森の中へ這入りました。
そこで美留藻は自分の顔の繃帯を取って、紅矢の血まみれの顔をすっかり包んでしまいまして、それから今まで借りていた紅矢の着物を返して旧の通りに着せて、自分は新しい男の着物を着込んで、お婆さんの着物は打っ捨ってしまいました。
こうしておいて、美留藻はグタリとなった紅矢を、又もや「瞬」の上に抱え乗せて、再び都へ一散に駈け上りましたが、今度は王城の西の大銀杏の樹を目標に、青眼先生の門の前に来まして、紅矢を馬の上から突き落し、自分はキャッと叫びながら馬から飛び降りると、そのまま素早くどこかへ逃げて行ってしまいました。
あとに残された名馬の「瞬」は畜生の事ですから何事も知っていよう筈がありませぬ。けれども今自分の背中から落っこちたものを見ますと、自分の主人の紅矢ですから、畜生ながら気にかかると見えまして、しきりに紅矢の身体を嗅ぎながら、ぐるぐる歩きまわっていましたが、やがて首を擡げて高く悲し気に嘶きました。
最前から青眼先生の家へは、紅矢の家から引っ切りなしに使いが来て、紅矢はまだ来ぬかまだ来ぬかと尋ねていました。そのお使いから詳しい様子を聞いて、青眼先生はどうしたことであろうと立っても居てもおられず心配をしているところへ、不意に表の門の前で馬の嘶き声が聞こえましたから、もしやと思って駈け出して見ますと、こは如何に、紅矢は銀杏の樹の根元に血まぶれになって倒れていて、傍には「瞬」が心配そうにうろうろしています。
青眼はこの有様を見て、腰を抜かさんばかりに驚きましたが、兎も角も紅矢の家から使いに来たものに頼んで、二人で紅矢を自分の寝台に運び入れて、すっかり裸体にして血を拭い清めて、傷口を調べて見ますと、案外に傷は浅くて、ここ一週間も経ったら癒りそうです。只胸と頭を非道く打ったと見えまして、全く気絶して呼吸も通わず、脈も打たず、身体は氷のように冷たくなって、唇は紫色になっていました。けれどもお使いの者が「瞬」に乗って帰って、取るものも取り敢えず紅矢の両親を連れて来ました時には、紅矢は青眼先生の上手な介抱と、良い薬の利き目とで呼吸を吹き返して、スヤスヤと静かに眠っていました。
これを見ると両親は、又もや一人小供が生れたように喜んで、嬉し泣きに泣きました。そうして今更に青眼先生の介抱の上手なのに感心をしまして、紅矢のみならず私共の生命の親と云って深く深く御礼を申しました。
十七 銅の壺
紅矢はその夜家の者に担がれて、自分の家に連れて行かれましたが、大層熱が高くて平生の自分の寝床に寝かされても、まだ夢中でうんうん唸っておりました。そうしてその夜は夜通し囈言ばかり云っていましたが、時々眼を開いて両親や妹共の顔を見るかと思うと、忽ち狂気のように騒ぎ出しまして――
「この室へ這入っちゃいけない……お父様も……お母様も妹共も……家来共も皆いけない。聞け……聞け……私は悪魔に咀われている。悪魔の果物。悪魔の美紅。そうして悪魔の『瞬』……七ツの果物は悪魔の数であった。……私は七ツの数に咀われた。悪魔の美紅に欺された。悪魔の『瞬』に踏み蹂られた。吁恐ろしい。……嗚呼苦しい。お父様……お母様……妹共……危い危い。私の傍に居ると危い。悪魔は娘の美紅に化けている。そうしてあの悪魔の乗り移った『瞬』に乗って今にもこの窓から駈け込んで来たら……危い危い。出て行って下さい。妹共、出て行け。一人も私の傍へ居ちゃいけない。早く早く」
と叫ぶかと思うと、又ガックリと枕に頭をのせて、うとうと睡ってしまいました。こんな事が夜通しに二三度もありましたが、傍に居る人々は何の事やら訳が解からずに、唯驚き慌てるばかりでした。そうして何は兎もあれ用心のために、お母様や妹共をこの室から遠ざけまして、お父さんとその他にも一人、気の強い、力も強い家来の黒牛という者と二人で枕元に居る事にしまして、一方は、廏屋の馬丁に申しつけて、『瞬』を厳重に柱に縛り付けて動かぬようにして、その上に番人を二人までもつけておきました。
翌る朝になりますとまだ薄暗いうちに、青眼先生が見舞いに来ました。紅矢の両親や家の人々はもう昨夜から心配に心配を重ねて、夜通しまんじりともせずに先生が来るのを待ちかねていたところでしたから、先生の顔を見るとまるで神様がお出でになったように前後から取り付きまして、昨夜からの事をすっかり話しました。すると青眼先生はどうした訳か、見る見るうちに顔色が変って、唇がぶるぶると震えて来ましたが、やがて思わず――
「七ツの悪魔。七ツの悪魔。そんな筈はない。そんな筈はない」
と口走りました。けれども皆から、どうかしてこの紅矢の不思議な病気を助ける工夫はないかと責め立てられますと、いよいよ何だか恐ろしくて堪らなくなった様子で、歯を喰い締め眼を見張ったまま天井を睨んで立っていました。併しやがて先生はほっと一息深いため息をしながら皆の顔を見まわして申しました――
「はい、承知致しました。もし悪魔が、私の知っている悪魔で御座いましたならば、屹度退治して差上げまする。けれども私の考えではこれは悪魔の仕業ではないと思います。私は悪魔の居所をよく存じておりますから」
「そしてその悪魔とはどんな悪魔ですか」
と紅木大臣は言葉せわしく尋ねました。青眼先生はこの問いを受けると又ハッと驚いた様子でしたが、やがて又何喰わぬ顔をして答えました――
「ハイ。その悪魔は世にも恐ろしい悪魔で、誰でもその悪魔の名前だけでも聞くと直ぐに悪魔に乗り移られて、自分が悪魔になってしまうので御座います。ですからその名前は申し上げられませぬ」
「では貴方はその名をどうして御存じですか」
紅木公爵夫人がこう尋ねますと、青眼先生はグッと行き詰まりました。そうしてさも苦しそうに返事をしました――
「それは私だけはその名前を聞きましても、又その姿を見ましても何ともないので御座います」
「まあ。不思議ですね。何か悪魔に乗り移られないいい工夫でも御座いますのですか」
「ハイ。それはあります。けれどもそれは私の家の先祖代々の秘密で、今申し上げる事は出来ませぬ。私の家は代々この秘密を守って、そして彼の昔からの掟――人の姿を盗む者。人の声を盗むもの。人の生血を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち殺せ。打ち壊せ――という言葉を国中に広く伝えるのが役目で御座います」
「そうだそうだ。皆そんな掟が在ったという事を聞いた。それで思い出した。今美紅の姿を盗んでいる奴は悪魔に違いない。何卒青眼先生、是非その悪魔を退治て下さい。貴方は病気の事ばかりでなく悪魔の事までも詳しく御存じだ。何卒何卒御頼みします」
と紅木大臣は青眼先生の手を握って涙をこぼしながら頼みましたが、これを聞いていた他の者は皆真青になりまして、扨はいよいよ本当の悪魔が、紅矢様を狙っているのかと恐れ戦いておりました。
青眼先生は承知したという印に胸に手を当て、敬礼をしました。そうして静かに紅矢の室に這入って、病人の様子を見ましたが、すっかり見てしまいますと、青眼先生は、ほっと安心した様子で皆に向って――
「皆様、御安心下さいまし。紅矢様の御病気は矢張り私の思い通り普通の怪我で、決して悪魔が狙っているのでは御座いませぬ。その御怪我も、只今は余程よくなっておいでになって、遠からず起きてお歩きになれる事と思います。けれどもなお用心のために、皆様は今までの通り、充分御気を附け遊ばして、御介抱なさるが宜しゅう御座いましょう」
と申しました。そうして皆に挨拶をして悠々と家に帰って行きました。
けれども青眼先生は紅木大臣の家の門を出ると直ぐに、腕を組んで頭をうな垂れて、何かしきりに考えながら歩き出しました。そうして口の中で絶えず――
「悪魔。悪魔」
と繰り返して行きました。やがて自分の家の門の前に来ますと、青眼先生は立ち止まって、矢張り腕を組んだままじっと門の前の銀杏の樹を見上げました。
銀杏の樹は最早すっかり葉が落ちてしまって、晴れ渡った大空に雲のように高く枝を拡げておりました。青眼先生は暫くその梢を見上げていましたが、やがて又眼を落してその根元を見ました。根元には黄色い葉がまだ腐らずに重なり合っています。そこをじっと見ていた青眼先生は、何か決心したらしく、独りで大きくうなずいて四方をグルリと見まわしましたが、人間は愚か猫一匹も通らない様子で、只前を流るる川の水音ばかりがサラサラと聞こえていました。この様子を見定めると青眼先生は又何かうなずいて、急いで門の中に這入って行きましたが、やがて又出て来たのを見ると、肩に一梃の鍬を荷えておりました。
何を為るのかと思うと先生は、又一度あたりの様子を見渡して、誰も通らないのを見澄まして銀杏の根方に立ち寄って、積った葉を掻き除けると、切々そこを掘り初めました。そして四五尺も掘ったと思うと、一枚の鉄の板が出て来ました。
青眼先生がその板の端を鍬の先でやっと引き起こしますと、その下は石の箱になっていて、中には余程大切な秘密のものでも入れてあるらしい、真鍮の帯で厳重に封をした、銅の壺が一ツ置いてありました。けれどもその周囲には、太い頑固な銀杏の根っ子が、幾重にも厳重に取り巻いていて、中々鍬の一梃や二梃持って来ても掘り出す事は出来そうに見えませんでした。まるで銀杏の樹がこれは俺のものだ。誰にも渡す事は出来ないといって、確り掴んでいるようです。青眼先生はこれを暫く見つめていましたが、やがてほっと一息安心をした様子で、
「先ず大丈夫。この塩梅ならば残りの四ツの悪魔はまだ、あの壺の中から逃れ出していない。今のところではあの鏡と鸚鵡と、それからまだ現われて来ない宝蛇の三ツだけは退治ればよいのだ。それにしても宝蛇はどこに隠れているのであろう。そしてどこから現われて来るのであろう。心配な事ではある。もしや事に依ったらば紅矢様を狙っているものは宝蛇ではあるまいか。もしそうならばいよいよ油断がならないぞ」
と独り言を云いながら、じっと王宮の方を睨んでおりましたが、やがて又気が付いて、急いで壺の上に土を被せて、銀杏の葉を撒き散らして、あとをわからないようにしておきました。
十八 氷と鉄
その日も無事に過ぎて翌る朝になりますと、紅矢の家から又もや急な使いが来て、青眼先生に大急ぎで来てくれとの事でした。先生は取るものも取りあえず直ぐに駈け付けて見ますと、昨夜夜通し寝ず番をした紅矢のお父さんと黒牛とが、玄関に出迎えていまして、両方から手を引いて、紅矢の寝床へ案内をしました。そうしてそこの椅子に腰かけさせまして、暫く黙って紅矢の様子を見ていてくれと頼みました。青眼先生は愈々不審に思って、一体これはどうした事と怪しみながら、頼まれた通りにじっと紅矢の寝顔を見つめていますと、やがて紅矢は頬の色を真青にして、火のように血走った両方の眼をパッチリと開きました。そうして天井を睨みながら身もだえをして、
「昨夜来た、悪魔が来た。美紅姫にそっくりの悪魔が男子の着物……紫の髪毛……銀の剣……金剛石の鈕……窓から白い手を出して……手には美しい宝石の紐を持って……その紐を投げ付けた。
お父さんも眠っていた。黒牛も眠っていた。
私だけ知っている。悪魔だ。悪魔だ。この間の悪魔だ。おのれ悪魔。もう一度来い。今後は逃がさぬぞ。この繃帯を解いてくれ。この蒲団を取ってくれ。早く。早く」
と叫びましたが、やがて又疲れたと見えてグタリと横になって、ウトウトと眠り初めました。
この様子を見た青眼先生は又もや腰を抜かさんばかりに驚いたらしく思わず――
「ム――ム。悪魔……」
と叫びましたが、有り合う椅子にドッカと腰を下して、眼を閉じ口を一文字に結んでさも口惜しそうに――
「宝蛇だ。宝蛇だ。扨は自分の思い通りであったか」
と独り言を云いました。
傍に居た人々は両親を初め皆、いよいよ不思議な青眼先生の言葉や行いに驚いて、一体これはどうした訳であろうと怪しみました。そうして黙って考え込んでいる青眼先生の、物凄い顔付きを穴の明く程見つめていました。すると青眼先生は間もなく考が付いたと見えまして、眼をパッと開いて――
「よし。覚悟した。私はどうしてもその悪魔の正体を見届けずにはおかぬ」
と申しました。
それから青眼先生は紅木大臣夫婦に、今夜からは自分一人で夜伽をして、悪魔の正体を見届けたいから、何卒自分に任せて下さるようにと熱心に願いました。両親はこの頼もしい青眼先生の言葉を聞きますと、何で否やを申しましょう。直ぐに承知を致しまして、青眼先生を只一人この室に残して引き取りましたが、なお念のため家の周囲には、力の強い勇気のある家来を大勢配って、油断なく見張らせるようにしました。
青眼先生は、室の中に一人も居なくなりますと、やおら立ち上ってそこらを見まわしましたが、この室は扉を締めておきさえすれば、あとは只窓一ツしか無く、他に出入りする処はありませんから、悪魔は屹度あの窓から這入って来たに違いないと思いました。青眼先生はこれを見定めて、なおもその窓の外をよく見ようと思って、不図窓の縁に手をかけますと、その隅の処に妙なものを見つけました。それは三粒の美しい紅玉でした。
青眼先生はこの世の中にありとあらゆるもので知らぬものは無く、殊に宝石の事は詳しく知っていましたから、この三粒の紅玉を一目見ると、直ぐに、これは世にも稀な上等飛び切りの紅玉で、当り前の者が持っているものではないと思いましたが、扨誰が何のためにこんな処に置いているかという事は全くわかりませんでした。只もしかすると、これは悪魔が何かのためにした悪戯かも知れぬ。それならばなるべくいじらぬ方がよいと思って、そっくりそのままにしておきました。
その中に夜はだんだん更けて来ましたから、青眼先生は眠られぬ薬を飲みまして、只一人紅矢の枕元に椅子を引き寄せて座りました。そうしてその懐中には、悪魔を見たらば直ぐにも注ぎかけるために、別に一ツの薬瓶を用意して、その夜夜通しまんじりとも為ずに過ごしました。その薬は一寸でも身体にかかると、直ぐに身体中の血が氷になってしまうという恐ろしい毒薬でした。けれどもその夜は何事も無くて済みました。その次の夜も次の夜も無事に明けました。いよいよ明日は宮中でお目見得の式があるという晩になると、その間家中は濃紅姫の身支度で大変な騒ぎで御座いましたが、すっかり支度が済みますと、姫はこの家の一番の奥の石の神様を祭ってある大広間の真中に、寝台を置いてその上に寝かされて、その周囲には四人の家来が代り番に寝ずの番をしておりました。これは姫の身体に万一の事が無い用心です。
両親はこの様子を見て安心をして自分の室に引き取りました。美紅姫もその枕元に来て――
「お姉様、お寝み遊ばしまし」
と云って、あとを見返り見返り出て行きましたが、その顔は云うに云われぬ悲しさに満ち満ちていました。これを見ると濃紅姫は――
「ああ、美紅姫と一所にこの家で眠るのもこれがおしまいになるかもしれぬ。美紅はそれで泣いているのであろう。何という悲しい事であろう」
と思いながら美事な香木で作った格天井を見ていましたが、熱い熱い涙が自ずと眼の中に溢れて、左右にわかれて流れ落ちました。その時にこの広い宮中はひっそりと静まり返って、針の落ちる音までも聞こえる位でした。
この時青眼先生は只一人紅矢の枕元に座って、毒薬の瓶を懐に入れたまま、最早悪魔が来るか来るかと待っていました。けれども夜中過ぎまでは何事も無く、只紅矢の苦しい呼吸の音が、夜の更けると一所に静まって行くばかりでした。ところが真夜中が過ぎて、やがて夜が明けようかと思わるる頃になりますと、庭のどこからか歌を唄う女の美しい声が聞こえて来ました。
「紅矢は顔を見た。
悪魔の顔を見た。
悪魔の顔を見たものは
殺されるのが当り前。
妾は悪魔。妾は悪魔。
屹度紅矢を殺すぞよ」
その声は、青眼先生がどこかで一度聞いた事のある声のように思いましたが、この時はどうしても思い出せませんでした。この声を聞き付けますと、紅矢は忽ち眼を見開き、頭を擡げて――
「あの声。あの声。悪魔のこえ。妹の美紅の声」
と叫びました。
青眼先生は直ぐに窓から飛び出して、声のする方に駈け出しました。そうして片手を罎の栓へかけて、出会い頭に毒薬をふりかけてくれようと、血眼で駈けまわりましたが、不思議や悪魔はどこへ行ったか影も形も無く、只霜風が身を切るように冷たくて、大空には星の光りが降るように輝いているばかりでした。
青眼先生は何だか狐に抓まれたような気がして、呆然と立っていました。けれどもその中に又不図これは悪魔の計略だなと気が付いて、急いで紅矢の室に帰って見ますと、こは如何に。紅矢は何を為たのか、布団の中から身体を半分脱け出しまして、呼吸をぜいぜい切らして、眼を怒らして、歯を喰い締めて、窓の外を睨んでいます。そうして左の手には何か固いものを一ツ、しっかりと握り込んでいる様子です。青眼先生はハッとしまして、扨は悪魔は自分を誘い出しておいて、又もや紅矢を苦しめに来たのだなと気が付いて、急いで紅矢の傍へ寄って――
「紅矢様。若様。どう遊ばしたので御座います。悪魔がここへ参りましたか。そうしてどちらへ逃げて行きましたか」
と尋ねました。けれども紅矢はそれには返事を為ずに――
「悪魔。悪魔奴。美紅の悪魔奴、取り逃がしたか」
と叫びました。そうして又がっくりとうしろに倒れますと、どうでしょう。この間から窓の処に置いてある紅玉と同じ位に美しい、同じ位の大きさの紅玉が一掴み程、バラバラと寝台から転がり落ちて、床の上で血のような光りを放って散らばっているではありませぬか。この様子で見るとこの紅玉は、紅矢の妹共が忘れて行ったものでも何でもなく、全く悪魔が何かのために置いて行ったものに違いないと思われました。青眼先生は一寸の猶予も無く両親を呼んで紅矢の番を為せました。そうして自分は有り合う提灯に火を灯して、窓の外へ出まして、そこらをよく検めて見ますと、石畳のあすこここに、一粒か二粒宛紅玉が落ちています。青眼先生は占めたと思いまして、なおも提灯を地面にさし付けて、紅玉を探しながら、だんだんと跡を付けて行きますと、その跡は一間置いて隣りの室の窓の下に来て止まっています。そうしてその窓掛けの間からは薄い黄色い光りが洩れていました。
青眼先生はこの室が美紅の室という事をかねてから聞いておりました。けれども中を覗いた事は一度もありませんでした。ですから直ぐに提灯の火を吹き消して、その窓からそっと中を覗いて見ました。
窓の中の有様を一眼見るや否や青眼先生は思わず棒のように立ち竦んでしまいました。窓の直ぐ傍の寝台の上には一人の美しい少女が寝ております。その顔。その姿。それから寝台の左右に垂れた髪毛の色から縮れ工合まで、あの夢の中で、自分の背中の銀杏の葉の袋を切り破った女の子に一分一厘違いないではありませぬか。
青眼先生は暫くの間は、あまりの不思議に呆気に取られて、茫然と少女の寝顔に見とれておりましたが、やがてほっと大きな溜息をつきますと、何やらぐっとうなずきまして、震える手で窓をそっと押して見ますと、訳もなくスーッと左右に開きました。そこからそろそろと音を立てぬように中に這い込んだ青眼先生は、床の上に下りると直ぐに、毒薬の瓶の口を切って右手に持って身構えをして、丸硝子の行燈の薄黄色い光りに照された少女の寝顔を又じっと見入りました。
見れば見る程美しい少女の姿。夕雲のように紫色に渦巻いた長い髪毛。長い眉と長い睫毛。花のような唇。その眼や口を静かに閉じて、鼻息も聞こえぬ位静かに眠っている姿。見ているうちにあまり美しく艶やかで、何だかこの世の人間とは思われぬようになりました。けれどもなおよくあたりを見まわすと、その髪毛の中や枕のまわりに一粒か二粒宛、紅矢の枕元に在ったのと同じ位の大きさの紅玉が散らばっているではありませんか。
青眼先生はこれを見ると思わず声を立てて――
「悪魔」
と呼びました。
この声を聞くや否やその少女は直ぐにむっくりはね起きて、青眼先生の顔を一眼チラリと見ましたが、忽ち物凄い形相になって――
「あれッ。青眼先生……妾は美紅です。この家の娘です。悪魔ではありません」
と叫びながら紫の髪毛をふり乱し、紅玉を雨のようにふり散らして、物をも云わず窓から逃げ出そうとしましたが、最早遅う御座いました。青眼先生が注ぎかけた薬が身体のどこかへ触ると直ぐに、身体中の血が氷になって、寝台の上にドタリと落ちて、見る見る内にシャチコばってしまいました。
青眼先生はこれを見ると、ほっと一呼吸胸を撫で下しましたが、なおじっと気を落ち付けて動悸を鎮めて、それから死骸の傍へ寄ってよく周囲を検めて見ました。そうしていよいよ死んだという事をたしかめてから、薬瓶の仕末をして懐に入れて、又こっそりと窓から出て行きましたが、もしや今の叫び声が聞こえはしなかったかと思いながら、急いで紅矢の室に帰って見るとこは如何に! 紅矢の容態は一寸居ない間に急に悪くなって、今にも呼吸を引き取る様子です。そうして固く握り詰めた左手の拳を千切れるばかりにふりまわしながら、囈言のように切れ切れに――
「口惜しい。口惜しい。悪魔。美紅」
と云っています。
その枕元に集まって泣きながらどうなる事かと心配をしていた紅矢の両親は、青眼先生が帰って来たのを見ると一時に走り寄って――
「助けて下さい。助けて下さい。紅矢を助けて下さい」
と口々に叫びながらその袖に縋りました。
流石の病人に慣れた青眼先生も、これには驚き慌てまして、紅矢の左の手に飛び付いて、一生懸命こじ明けようとしましたが、どうして梃でも動かばこそ、かえってだんだん強く握り締めるために、拳固が紫色から黒い色に変って行きます。青眼先生はいよいよ驚き慌てまして――
「失策った、失策った」
と叫びながら、懐から鋭い小刀を出して、その腕を黒くなった処から切り落そうとしました。これを見た両親はいきなり青眼先生の腕を捕えて引き離しながら――
「ナ、何をするのです。何をするのです」
と叫びました。
「エエ。お放し下さい。今切らなければ鉄になりますぞ。紅矢様は鉄になってしまいますぞ。ハ……放して下さい」
「エエッ。鉄になる……」
と両親は肝を潰して、青眼先生を放しました。
先生は直ぐに紅矢の腕に取り付いて、二の腕の処に小刀を突き立てて、ギリギリと引きまわしましたが、何の役にも立ちませんでした。骨でも肉でも豆腐のように切れる鋭い小刀も、まるで鉛か銀のように和らかく曲がり折れて、疵痕さえ付ける事が出来ません。その間に見る見る紅矢の身体は腕から肩へ、肩から腕へと紫色が鈍染み渡って、やがて眼を怒らし、歯を喰い締めて虚空を掴んだまま、身体中真黒な鉄の塊となってしまいました。
この恐ろしい不思議な死に態を見た紅矢の両親は、足の裏が床板に粘り付いたように身動き一つ出来ず、涙さえ一滴も落ちませんでした。
青眼先生も最早手の附けようもなく、紅矢の死骸を見詰めたまま、呆然と突立っていました。そうして独り言のように――
「身体が鉄になる
身体が鉄になる。
見た事もない。
聞いた事もない。
悪魔の為業か。
鬼の悪戯か。
不思議。不思議。驚いた驚いた」
と云っておりました。
その中に東の空はほのぼのと明け渡って、向うの庭の枯れ木立の間から眩しい旭の光りが、この室の中へ一パイに映し込みました。そうして大理石のように血の気が無くなったまま立ち竦んでいる三人の顔をサッと照しました。けれども三人は瞬一つ為ず、身動き一つ出来ず、只黒光りする鉄の死骸の、虚空を掴んだ恐ろしい姿を、穴の明く程見つめて立っていました。
するとはるか向うの丘の上に在る王宮の中から、美しい音楽の響が、身を切るような霜風に連れて吹き込んで来ました。それは今日宮中でこの国から選り抜いた、美しい賢い少女のお目見得をするという、世にも珍らしい儀式が初まるその前知らせでした。
その時、二人の女中が来て室の入口で叮嚀に頭を下げました。その一人は静かな低い声で――
「濃紅姫のお支度が済みました。只今食堂で御待ちかねで御座います」
と申しました。ところが今一人はこれと反対に歯の根も合わぬような震え声で――
「美……美紅姫……が……お平常着のままで……寝台の中で……コ、コ、氷のように……冷たくなって……」
と云う内に床の上に座り込んでワッとばかりに泣き崩れました。
[#改ページ]
第三篇 宝蛇
十九 黄薔薇の籠
濃紅姫は昨夜夜通し、少しも眠る事が出来ませんでした。この頃自分のまわりに起ったいろいろの不思議な事や、恐ろしい事を考えながら、夜を明かしましたが、併しずっと奥の部屋に寝ていたのですから、その夜の中にどんな事が兄様や妹の身の上に起こったかという事は、まるで知りませんでした。そうしていよいよ夜が明けますと、お附の者に扶けられて湯に這入って、すっかり身体を浄めてお化粧をしました。先ず髪毛には香雲木という木に咲いた花の油を注ぎ、白百合の露で顔を洗いました。身には袖の広い裾の長い白絹の着物を着て、上に黒狐の皮の外套を重ね、頭に碼瑙の冠を戴いて、手に黄薔薇の籠を持ちました。そうして足に鹿の鞣皮の細い靴を穿いて、いよいよ支度が出来上りまして、これから食堂で皆とお別れの食事を喰べて、それからお伴の女中と一所に馬車に乗って、宮中に行くばかりとなりました。
するとこの時不意に化粧部屋の扉を開いて中に駈け込んで、驚く間もなく濃紅姫を抱き締めて――
「お前はどこにも遣らない。どこにも遣らない。死ぬまでこうやって抱いている」
と叫んだ人がありました。それは濃紅姫のお母様でした。
お母様は今朝二人の小供が、世にも恐ろしい不思議な死に方をしたのを眼の前に見て、狂気のようになってしまったのでした。そうしてたった一人あとに残った濃紅姫を、どこにも遣るまいと思って、こうして抱き締めたので御座います。けれども濃紅姫はそんな事は知りませんから吃驚しまして――
「アレ。お母様、どう遊ばしたので御座います」
と叫ぼうとしましたが、この時遅く彼の時早く、直ぐにあとから今度はお父様が駈け込んでお出でになりました。そうしてものをも云わずお母様から濃紅姫を無理に引き取って、その手をぐんぐん引きながら表へ出まして、用意の出来ている白馬三頭立ての花で飾った馬車へ乗せると、直ぐに馭者に向って――
「さ。一時も早く王宮へ行け。濃紅。驚く事はない。訳はあとでわかる。それより早く王宮へ行け。お前は紅木公爵の娘だ。決して意久地のない顔をするな。悲しい顔をするな」
と叫びました。
馭者は心得て鞭を挙げて敬礼をしながら、手綱を取ってしゃくりますと、馬車は忽ち王宮の方へと走り出しました。
その時狂気のようになったお母様が駈け付けまして――
「あれ、濃紅姫。行ってはいけない」
と追い縋ろうとしました。馬車の窓からも濃紅姫が顔を出して――
「お父様。お母様」
と叫びましたが、お母様の方を紅木大臣が抱き留める……濃紅姫の方は三匹の白馬に引かれて見る見るうちに遠く遠く小さくなって、間もなく馬車のあとから湧き上る砂煙のために隠されてしまいました。
紅木大臣はいつの間にか気絶している公爵夫人をあとから駈け付けた女中に介抱させて、夫人の室に連れて行かせましたが、自身は只一人紅矢の室に這入って行きました。そこには青眼先生が鉄になった紅矢の死骸と氷になった美紅姫の死骸とを二つ並べてじっと睨み詰めたまま、枯れ木のように突立っていました。
紅木大臣は静にその傍に歩み寄って、じっと二つの浅ましい死骸の姿を見ておりましたが、やがて今まで堪えに堪えていた涙が一時に眼に溢れて、両方の頬を流れては落ち、流れては落ちました――
「紅矢、美紅……お前達はどうしてそんな姿になったのだ。どんな罪を犯してそんな罰を受けたのだ。お父様は今朝濃紅姫が家を出る時、たった一目お前等二人に会わせてやりたかった。けれどももし濃紅姫がお前達の姿を見たらば、どんなにか驚くであろうと思って、無理矢理に我慢をした。けれどもこの胸は張り裂けるようであったぞ。許してくれ、濃紅姫。噫、妻よ。お前も辛かったであろう。お前の云うのは尤もだ。紅矢は鉄になった。美紅は氷になった。残るは濃紅只一人。どこへも遣りたくないのは尤もだ。遣りたくない遣りたくない。けれども遣らねばならぬ。遣るならば両親が附き添うて、腰元に供させて、華やかに喜び勇んで遣りたかった。けれどもそれも出来なかった。身内の者が死ねば、その血筋の者はその日一日と一夜の間、宮中へ出られないのがこの国の掟だ。だから紅矢や美紅はまだ生きている事にして、お前を宮中に出そうと思ったが、そのために又却って驚かして、悲しまして、涙と一所に送り出した。
噫、兄は鉄になった。妹は氷になった。あとに残ったたった一人は、花で飾った馬車に乗って女王になるために泣きながら王宮に行った。女王になるのが何の嬉しかろう。王宮が何で楽しかろう。ああ。ああ。俺は気違いになりそうだ」
その声は次第に高まってしどろもどろに乱れて来ました。とうとう立っていられなくなって、両手を顔に当てたまま床の上に泣き倒れましたが、間もなくよろよろと立ち上って、
「石神に祈ろう。石神に祈ろう。濃紅姫の無事を祈ろう」
と云いながら室をよろめき出て行きました。
あとに残った青眼先生は、矢張り二ツの死骸を見つめたまま立っていました。けれども紅木大臣がこの室を出ると間もなく、有り合う椅子にドッカと腰を下して、腕を組み眼を閉じてじっと考え込みました。そうしてさも悲しそうに独り言を云いました。――
「噫。やっとわかった。悪魔の逃げ途がやっとわかった。悪魔はあの銀杏の樹から逃げ出したのだ。この間の夢は正夢であった。美紅姫はたしかにあの夢を見たに違いない。そして王様も御覧になったに違いない。
そうだ。王様は美紅姫と一所に悪魔に魅入られておいでになるのだ。否。事に依るとあとの四つの悪魔が……王様の御姿を盗んで……」
青眼先生はここまで云って来ますと、忽ちブルブルと身ぶるいをして屹と王宮の方を眺めました。その顔は見る見る青褪めて、眉を釣り上げ唇を噛み締めました。
けれどもやがて何かに心付いた事でもあるのか、ホッと深いため息を吐いて、頭を低れて両方の拳を固く握り締めて申しました――
「そうだ。自分はどうしても王様の正体を探り出さねばおかぬ。恐れ多い事ながら、もし今の藍丸王様が本当の藍丸王様でなかったならば……自分は是非本当の藍丸王様を探し出して、それを守り立て、今の藍丸王様を退けねばならぬ。悪魔を退治てしまわなければならぬ。美紅姫のようにしてしまわずにはおかぬ。それにしても宝蛇……この家を咀った宝蛇はどこへ行ったであろう。差し当り先ずこれから探り出さねばなるまい。
気の毒なのはこの家の人々だ。家中すっかり美紅姫に魅入った悪魔のために咀われてしまった。そして私はそれを助ける事が出来なかった。私の力が及ばぬとはいいながら二人までも死人を出してしまった。この家の人々は嘸私を怨んでおいでになるであろう。嘸頼み甲斐の無い奴と思っておいでになるであろう。
けれども仕方がない。その申訳をすればこの国の秘密をすっかり話して終わなければならないのだから。噫、この秘密……誰にも話す事の出来ないこの秘密。焼いて灰にしてあの銅の壺に入れた秘密。そしてそれを番するという、世にも六ケしい私の秘密の役目。国中の人間を皆殺しても、守らねばならぬ秘密の役目。何という不思議な六ケしい役目であろう。噫、私は何故青い眼に生れたろう。青い髪毛と青い髯を持った男に生れたろう。最早他に青い毛を生やした青い眼玉の男は一人も居ないかしらん。居たら直ぐに、私はこの大切な秘密の役目を譲ってしまいたい。
そうして私は毒でも飲んで死んでしまいたい。
噫。藍丸の国の秘密は灰になった。美紅姫の心の秘密は氷になった。紅矢の拳固の秘密は鉄になった。私の役目の秘密は何になるであろうか。石か。木か。水か。土か。何でもよい。早く青い眼、青い髪の男に出会って、この秘密を譲って、この恐ろしい役目を忘れたい」
青眼先生の独り言の中には次第に不思議な言葉が、いくつもいくつも出て来ました。けれどもここまで云って来ました時、青眼先生は唇を閉じてじっと窓の外の遠い処を見ました。そこには絵のように美しい藍丸王の宮殿が見えて、そこから又もや最前よりもずっと賑やかな音楽の響が聞こえて来ました。これはいよいよお目見得の式がはじまるという前兆らせでした。
二十 海の女王
この日御目見得に来た女は都合六人ありました。その内四人は、東西南北の四ツの国から、一人宛選り抜かれて集まった女で、皆各自の国の自慢の冬の風俗をしておりました。北の国の女は、美事な獺の皮の外套を着ておりました。南の国の女は、水鳥の毛で織った上衣を着ておりました。東の国の女は、空色の絹の裾を長く引いておりました。そうして西の国の女は、夕陽のように輝やく緋色の肩掛けを床まで波打たせておりました。この四人は皆四つの国々の中で、一等利口な一等美しいお姫様でしたが、併し他の二人の美しさに比べますと、まるでお月様と亀如程違っておりました。
他の二人は濃紅姫と美留藻でした。
濃紅姫は、最前家を出た時の通り白い着物の上に黒狐の外套を重ねて黄薔薇の花籠を手に持っていましたが、その何となく悲し気な気高い優しい姿は、他の四人の女達と一所に置くのも勿体ない位に思われました。けれども今一人はこれと違って、大きな金剛石の鈕を着けた紫色の男の服に華奢な銀作りの剣を吊るして、頭に冠った紫色の帽子には白鳥の羽根を只一本挿していました。そうしてどうした訳か、その上衣の上から第一番目の鈕は他の金剛石と違って一輪の大きな白薔薇を付けていましたが、それが又誠によく似合って、眩しい位凜々しく華やかに見えました。
この珍らしいお目見得の式を見に来ていた国々の貴い人々は、皆二人の美しいのに驚いて、神様か人間かと怪しみまして、一体どこにこんな美しい姫君が居たのであろうと怪しみました。けれども又その中に、皆が怪しみ驚いたよりもずっと驚いて、世の中にこんな不思議な事が又とあろうかと、吾れと吾が眼を疑っていた人がありました。それは他でもない濃紅姫でした。
濃紅姫はこの時までまるで夢中でいたのでした。お母様に抱き締められ、お父様に引き離されて王宮に来て、何が何やら解からず、泣く事も出来ずぼんやり立っていたのでしたが、この男姿の少女を一目見ると、ハッとばかりに驚いて、思わず声を立てるところでした。そうしてこれは本当に夢ではあるまいか。美紅はどうしてここへ来ているのであろう。あの姿はどうしたのであろう。もしや妾の眼の迷いではあるまいかと思いましたが、併し眼の迷いでも何でもありませんでした。顔色は常よりも紅をさして、姿も男の着物こそ着ておれ、あの紫に渦巻いた髪の毛。あの屹と王様を見詰めている眼付。キリリと結んだ口もと。どうしても美紅にそっくり……これはどうした事であろう。他人の空似にしてはあまりよく似過ぎていると、呆れて穴の明く程その横顔を見ておりました。すると、この時その少女が、六人の中からズカズカと前に進み出て、王様の前に恐れ気もなく近寄りました。そうして帽子を取って最敬礼をしますと、やがて銀の鈴を振るような声で挨拶を致しました。
「王様。妾はこの国の南の海の底にある海の国の女王で御座います。この度の王様の御布告を家来の蟹奴から承りまして、御恥かしながら海の底から、はるばると御目見得に参ったもので御座います。妾はこれまで参りますのに、誰も従いて来る者が御座いませぬから、旅を致すのに都合のよいように、こんな男子の姿を致して参りました。こんな勝手な風采を致しまして、陸の大王様に御目見得に参りました失礼の程は、何卒御許し下さいまし。そうして御目見得の印に持って参りました、この宝石の少しばかりを御受け収め下されましたならば、妾はもとより海の底の国人も皆、王様の広い御心に対して、はるかに御礼を申し上げる事で御座いましょう」
と云いながら、懐中から海の藻の一掴みを出して高く捧げましたが、その中から大きな紫色の金剛石の光りが虹のように輝き出て、さしもに広い大広間中に照り渡りました。
集まっていた人たち皆、この有様に眼も心も奪われて、酔うたようになってしまいました。そしてその場でその少女はお后に定まりましたが、又濃紅姫の閑雅な美しさも藍丸王の御眼に留まって、王様のお付の中で一番位の高い宮女として宮中に置く事に定まり、又他の四人の女も王様のお側付となって、直ぐにその日から御殿に留まる事になりました。
けれども濃紅姫は自分がどんな役目をうけているか、自分の事を人々がどんなに評判をしているか、そんな事は少しも気にかける間がありませんでした。只一心に海の女王と名乗る少女の姿に見とれて、呆れに呆れておりました。ところがその中に不図濃紅姫は、恐ろしい事を思い出して、思わず身ぶるいをしました。「この少女はもしやあの、悪魔とかいうものではあるまいか。紅矢兄様は御病気の時、悪魔が美紅に化けていると仰しゃった。あの悪魔がこの女王ではあるまいか。それでなくてもし美紅ならば、妾の前に来てあんなに平気でいられる筈はない。そしてもし美紅でもなく又悪魔でもないとすれば、あのように、姿から声から髪毛の縮れ工合まで、美紅に似ている筈はない。悪魔。悪魔。悪魔に違いない。美紅に化けて兄様に大怪我をさせて、今度は海の女王に化けてこの国の女王になりに来たのか。事に依るとこの妾を咀うて、妾が女王になるのを邪魔しに来たのかも知れぬ。それに違いない。それに違いない。吁。妾の家はどうしてこんなに悪魔と縁が深いのであろう。何という執念深い悪魔であろう」
こう思うと濃紅姫は、今まで美しい妹そっくりの少女であった男姿の海の女王が、角を生やして口が耳まで裂けた悪魔の姿に見えて来て、恐ろしさの余り気が遠くなりそうになりました。そうしてその海の女王が、王様の傍近く進み寄って、女王の冠を戴いているのを見ると、さしもの大広間が大勢の人々と共にぐるぐるとまわるように思われました。そしてやがて皆の者が、一時に手を挙げ足を踏み鳴らして――
「陸の大王様万歳!」
「海の女王様万歳!」
と割れるように叫びますと、濃紅姫は思わず声を挙げて――
「海の女王は悪魔です」
と叫びましたが、可愛そうにその声は大勢の声に打ち消されてしまいまして、それと一所に濃紅姫は、あまりの恐ろしさに気絶して、床の上にたおれてしまいました。
二十一 死の夢
それから何日経ったか、何時間経ったか知りませぬが、濃紅姫は不図気がついて眼を開いて見ますと、自分はいつの間にか、今まで見た事もない美しい室の真中に寝台を置いて、その上に白い布団に包まって寝かされております。そうして頭の上に灯った絹張りの雪洞から出る蒼白い光りで見ると、自分の左右には、御目見得の時に居た四人の女が宮女の姿をして、自分の介抱をしながら寝台の縁によりかかって、四人共いぎたなく睡っている様子です。
濃紅姫はまだ夢を見ている気で、又眼を閉じてスヤスヤと眠りました。するとこの時に寝台の蔭から一匹の蛇が宝石の鱗を光らせながらぬらぬらと這い上りました。そうしてスヤスヤと眠りに落ちている姫の懐に這い込んで、玉のようにふくらんだ乳房の下を静かに吸い初めました。そうして間もなく腹一パイに血を吸いますと、口からポタポタと吐き出しましたが、その血は皆燃え立つような紅玉になって、サラサラと濃紅姫の胸から寝床や床の上に転がり落ちました。こうして吸っては吐いて、何度も繰り返す内に、濃紅姫の身体は、まるで宝石に埋まったようになってしまいました。
この時濃紅姫はスヤスヤと眠りながら不思議な夢を見ておりました。
その夢はいつか知らず濃紅姫が睡っている時に、どこか遠い遠い処で歌を謳う声が聞こえて来ました。その声は如何にも清く美しくて、自分の妹の美紅姫の声によく似ておりましたから、濃紅姫は不思議に思いまして、どこで謳っているのであろうと、耳を聳てて聞いておりますと、その声はだんだん近くなってつい直ぐ隣りの室で謳っているようで、しかもその歌は美紅姫が謳っているのでなく、この間紅矢兄様が王宮に差し上げた、あの赤い鳥の為業だという事がわかりました。その歌はこうでした。
「扨もあわれや濃紅姫。
扨も悲しや濃紅姫。
親兄弟に生きわかれ、
又死にわかれ泣きわかれ。
花の冠戴いて、
花の束をば手に持って、
花で飾って馬車の中、
身は生きながら葬いの、
姿となった濃紅姫。
藍丸国の王様を、
慕う心の一すじに、
今日のお目見得来て見れば、
藍丸王のお后は、
自分でなくて妹の、
美紅か悪魔か海の魔か。
今王宮の奥深く、
ひとり静かに眠る時、
熱い涙が眼に湧いて、
右と左にハラハラと、
流れ落ちるは夢ながら、
夢ではないという証拠。
夢の中なる夢を見て、
夢とは知らぬ現にも、
つらい悲しいこの思い。
われから迷う身の行衛、
知っているのは世の中に、
赤い鸚鵡の他にない。
世に美しい柔順なしい、
女の中の女とも、
見ゆる濃紅が何故に、
王の后になれないか。
美紅か悪鬼か王様の、
后になったは何者か。
知ってる者は他にない。
黒い海には波が立つ、
青い空には雲が湧く、
昔ながらの世の不思議、
今眼の前に現われた、
赤い鸚鵡の他にない」
濃紅姫はこの歌を聞きながらソロソロと起き上って、隣りの室の戸口に来て、なおも耳を澄ましていますと、たった今まできこえていた鸚鵡の歌はピタリと止みまして、室の中に人の居る気はいも為ませぬ。
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