前篇
「草川の旦那さん。大変です。起きて下さい。モシモシ。起きて下さい。私は深良一知です」
暑い暑い七月の末の或る早朝であった。山奥の谷郷村駐在所の国道に面したホコリだらけの硝子戸をケタタマシク揺ぶりながら、一人の青年が叫んだ。
それは見るからにここいらの貧乏百姓の児と感じの違った、インテリじみた色の白い鼻筋のスッキリとした美しい青年であった。青々と乱れた頭髪が、白い額の汗に粘り付いていたが、神経の激動のために、その濃い眉がピクピクと波打って、赤い小さな、理智的な唇がワナワナとわななきながらも、その睫毛の長い黒い瞳は、いい知れぬ恐怖のためであろう。半面を蔽うた髪毛の蔭から白いホコリの溜った硝子戸の割れ目を凝視したまま、奇妙にヒッソリと澄んでいた。慌てて走って来たものと見えて、手拭浴衣の寝巻に帯も締めない素跣足が、灰色の土埃にまみれている。
……と……駐在所の入口になっている硝子戸が内側からガタガタと開いて、色の黒い、人相の悪い顔に、無精鬚を蓬々と生した、越中褌一つの逞ましい小男が半身を現わした。
「どうしたんか」
「アッ。草川の旦那さん」
草川巡査は睡そうな眼をコスリコスリ青年の顔を見直した。
「何だ。一知じゃないかお前は……」
「はい。あの……あの……両親が殺されておりますので……」
「何……殺されている? お前の両親が……」
「はい。今朝、眼が醒めましたら、台所の入口と私の枕元に在る奥の間の中仕切が開け放しになっておりましたから、ビックリして奥の間の様子を見に行ってみますと、お父さんと、お母さんが殺されております。蚊帳が釣ってありますので、よくわかりませんが、枕元の畳と床の間のあいだが一面、血の海になっております」
「いつ頃殺されたんか。今朝か……」
「……わかりません。昨夜……多分……殺された……らしう御座います」
「泣くな――。たしかに死んでいるのだな」
「……ハイ……ツイ、今しがた、神林医師を起して、見に行ってもらいましたが……まだ行き着いて御座らぬでしょう」
「うむ。一寸待て……顔を洗って来るから」
草川巡査は、裸体のまま直ぐに裏口へ出て、冷たい筧の水で顔を洗った。それから大急ぎで蚊帳と寝床を丸めて押入に投込んで、机の上に散らばっていた高等文官試験準備用の参考書や、問題集を二三冊、手早く重ねて片付けると今一度、駐在所の表口へ顔を出した。
「一知……」
「ハイ」
「こっちへ這入れ、足は洗わんでもええから……」
二人は駐在所の板の間に突立ったまま向い合った。草川巡査の小さな茶色の瞳は、モウ神経質にギロギロと輝き出していた。
「何時頃殺されたんか。わかっとるか」
一知は潤んだ大きな眼をパチパチさせた。
「……わかりません。昨夜十二時頃寝ましたが、今朝起きてみますと、モウ殺されておりましたので……蚊帳越しですからよくわかりませんが、二人とも寝床の中からノタクリ出して、頭が血だらけになっております……」
「それを見ると直に走って来たのだな」
「ハ……ハイ……」
暗い駐在所の板の間に立った一知は涙ながらも恐ろしそうに身震いした。そうして突然に大きな嚏を一つしたが、それは汗が乾きかけたせいであったろう。
草川巡査は無言のまま点頭いた。傍の警察専用の電話に取付いて烈しくベルを廻転させると、静かな落付いた声で、五里ばかり離れている×市の本署へ、聞いた通りの事実を報告した。……と……向うから何か云っているらしい……。
「……ハ……ハイ。まだ、それ以上の事実はわかりませんので……ハイ。報告して参りました者は深良一知と申しまして村の模範青年です……ハイ。被害者の養子です。ハイ。元来、この村の区長の次男であったのですが、今年の二月に深良家……被害者の処へ養子に行った者です。まだ籍は入れていないようですが、ナア一知……お前はまだ籍を入れておらんじゃろ……ウン……そうじゃろ、ハイハイ……何ですか……ハイハイ……その深良家と申しますのは村からチョット離れた小高い丘の上に在ります一軒家で、村の者は皆、深良屋敷深良屋敷と云っております。村でも一番の大地主で、この辺でも指折の富豪です。殺されたというのは、その老夫婦ですが……イヤイヤこの頃この国道にはソンナ浮浪人は通らないようです。以前はよくルンペンらしい者の姿を見かけましたが。ハ……ハイ。承知しました。私はこれから直ぐに現場へ参ります。ハ……お待ちしております」
草川巡査は手早く帽子を冠って、官服のズボンに両脚を突込んで上衣を引っかけた。編上靴をシッカリと搦み付けて、勝手口から佩剣を釣り釣り出て来ると、国道とは正反対の裏山に通ずる小径伝いにサッサと行きかけたので、表通りで待っていた一知青年は、慌てて追っかけて来た。
「アッ。こんな方へ行くのですか。山道はまだ濡れておりますよ。草川さん……」
草川巡査も何やらハッとしたらしく、そういう一知の何かしら狼狽した、オドオドした眼付きを振返ると、ちょっと立止まって、その顔を穴のあく程凝視したので、一知は見る見る真青になって、唇をワナワナと震わした。しかしその時にフッと気を変えた草川巡査は、
「ウン。人目に付くと五月蠅からね」
と何気なく云い棄てて露っぽい小径の笹の間を蹴分け蹴分け急いで行った。
元来この谷郷村は、こうした山奥に在り勝ちな、一村挙って一家といったような、極めて平和な村だったので、高文の試験準備をしている草川巡査は最初、大喜びで赴任したものであったが、そのうちに彼の竹を割ったような性格がだんだんと理解されて来るにつれて、村の者から無上の信用と尊敬を受けるようになった。それに連れて村の納税や、衛生の成績がグングン良くなるばかりでなく、以前は山向うの隣県へ逃込もうとして、よくこの村を通過していた前科者などが、今では草川巡査の眼が光っているためにチットモ通らなくなった……という噂まで立つようになっていた。そこへ起った今度の事件なので、草川巡査は最初からチョット一つタタキノメされたような感じで、一種異様な興奮――緊張味を感じているのであった。
しかも草川巡査を興奮させ緊張させた原因は、単にそれだけではなかった。モットモット大きい、恐ろしく深刻な事件の予感が、美青年、深良一知の声を聞いた一刹那から黒い嵐雲のように草川巡査の全神経に圧しかかって来たのであった。
深良屋敷の老夫婦が、非業な死に方をするに違いないという事は、ズット以前から村中の人々が一人残らず心の片隅で予感していたところであった。……今に見ろ。ロクな死に方をしないから……といって深良屋敷を呪咀わない村の人間は恐らく今までに一人も居なかったであろうと思われるくらい深良屋敷は、村中の怨恨の焦点になっていたもので、その意味からいうと、この村の人々は一人残らず今度の事件の嫌疑者か共犯者と考えてもいい……といったような極端に神秘的な因縁が、今度の事件に絡まっているのであった。それがこうして突然に実現されたのだから万一、村の人々にこの事が知れ渡ったら、皆、今更のようにハッと顔を見合わせて、お互い同志を疑い合うであろう。それと同時に草川巡査にとっては、想像も及ばない探査の困難な殺人事件……村民全部が嫌疑者……といったような極度の神秘的な深みを持った迷宮事件を押付けられたようなもので、ちょうど横綱と顔を合わせた褌担ぎみたような自分の力の微弱さを、今更のように思い知らずにはいられないのであった。
……これが俺の失敗のタネになりはしないか……永い間の高文の試験準備で、疲れ切っている俺のアタマは、こうした現実の出来事に向かないくらい弱々しく、過敏になっているのではないか……。
……とにも角にも、どこまでも慎重に……慎重に取りかからねばならぬ……あくまでもヘマをやってはならぬ……。
といったような、武者振いがまだ具体的に現われて来ない前のような神秘的な戦慄に、草川巡査は襲われて仕様がないのであった。そうしてそのドキドキした予感を中心にして、深良屋敷の惨劇を裏書きしているらしい色々な過去の前兆が、眩しいくらい明るい、又はジメジメと薄暗い木立の中を押分けて行く草川巡査の、勉強に疲れた記憶力の中に、今更のようにマザマザと浮み上って来るのであった。
深良屋敷というのは村外れの国道から二三町北へ曲り込んだ、小高い丘の上の雑木林に囲まれた小さな一軒家であった。もっともズット以前の明治三十年頃までは、深良家の先祖代々が住んでいた巨大な母家が、雑木林の下の段の平地に残っていたが、それが現在の牛九郎爺さんの代になると、極端な労働嫌いの算盤信心で、経費が掛るといって、その一段上の雑木の中に在るタッタ三室しかない現在の離家に移り住むようになった。同時に牛九郎爺さんはその巨大な母家をアトカタもなく取片付けて隣村の大工に売払い、数多い雇人をタタキ放し同様にして追出してしまい、有る限りの田畑をソレゾレ有利な条件で小作に附け、納まりの悪い小作人の所有の田畑は容赦なく法律にかけて、自分の名前に書換えて行った。それに又、配偶のオナリという女が亭主に負けない口達者のガッチリ者で、村の女房達が第一の楽しみにしている御大師様や、妙法様の信心ごとの交際なぞには決して出て来ない。のみならず臍繰金を高利に廻して、養蚕や米の収穫後になると透かさずに自分で出かけて、ピシピシと取立てたりするようになったので、深良屋敷の老夫婦に対する村中の気受がイヤでも悪くなって来るばかりであった。
「今に見ておれ。あの夫婦は碌な死にようはせぬから……信心をせぬような犬畜生にはキット天道様の罰が当る」
とか何とか蔭口を云う者が方々に出て来るようになったが、勿論それ位の事に驚くような牛九郎夫婦ではなかった。殊に住んでいる場所が場所だけに、村の人々の気持と全然かけ離れた別人種扱いにされながらも、平気で我利我利亡者に甘んじて、極めてヒッソリと暮しているのであった。
しかし、それでも、その丘の上一帯の森の木立は、流石に昔の大きな深良屋敷の構えの面影を止めていた。夜になるとさながらに巨大な城砦か、神秘的な島影のように真黒々と星空に浮出して、昔ながらに貧弱な村の風景を威儼していたので、小さな住居に不似合な深良屋敷の名称も、自然、昔のまんまに残っているのであった。
その深良屋敷の老夫婦の間にはマユミという娘がタッタ一人あった。しかも、それが非常な美人だったので「深良小町」の名が近郷近在に鳴り響いているのであったが、可哀相な事にそのマユミは学問上で早発性痴呆という半分生れ付みたような薄白痴であった。大まかな百姓仕事や、飯爨や、副食物の世話ぐらいは、どうにかこうにか人間並に出来るには出来たが、その外の読み書き算盤はもとより、縫針なんか一つも出来なかった。妙齢になっても畑の仕事の隙さえあれば、蝶々を追っかけたり、草花を摘んだりしてニコニコしている有様なので、世話の焼ける事、一通りでなかったが、それを母親のオナリ婆さんが、眼の中に入れても痛くない位可愛がって、振袖を着せたり、洟汁をんでやったりしているのであった。
しかし何をいうにも、そんな状態なので、誰一人婿に来る者が無いのには両親とも弱り切っていた。のみならず所謂、白痴美というのであろう。その底無しの無邪気な、神々しいほどの美しさが、誰の目にもたまらない魅力を感じさせたので、さもなくとも悪戯好きな村の若い者は皆申合わせたように「マユミ狩」と称して、夜となく昼となく深良屋敷の周囲をウロ附いたものであった。マユミの白痴をいい事にして入れ代り立代り、間がな隙がな引っぱり出しに来るので、そのために両親の老夫婦は又、夜の眼も寝ない位に苦労をして追払わなければならなかった。
しかしその中にタッタ一人、このマユミにチョッカイを出しに来ない青年が居た。それはこの谷郷村の区長、乙束仙六という五十男の次男坊であった。村では珍らしく中学校まで卒業した、一知という男で、村の青年は皆、学者学者と綽名を呼んで別扱いにしている今年二十三歳の変り者であった。
ちょうどその頃、一知の父親の乙束仙六は、養蚕の失敗に引続く信用組合の公金拐帯の尻を引受けて四苦八苦の状態に陥り、東京で近衛の中尉を勤めている長男の仙七の血の出るような貯金までも使い込んでいる有様で、心労の結果ヒドイ腎臓病と神経衰弱に陥って寝てばかりいる状態は、他所の見る目も気の毒な位であったが、しかし次男坊の一知は、そんな事を夢にも気付かないらしく、自分勝手の呑気な道楽仕事にばかり熱中していた。
その道楽仕事というのは、中学時代から凝っていたラジオで、幾個も幾個も受信機を作っては毀し作っては毀しするので、彼の勉強部屋になっている区長の家の納屋の二階は、誰にもわからない器械器具の類で一パイになっていた。村の人々は、
「聴かぬためのラジオなら、作らん方が好え。学者馬鹿たあ、よう云うたる」
と嘲笑し、両親も持て余して、好きにさせているという、一種の変り者で、いわばこの村の名物みたようになっているのが、この一知青年であった。
だからその一知が、牛九郎老夫婦の眼に止まって婿養子に所望されると、両親の乙束区長夫婦は一議にも及ばず承知した。一知もラジオ弄りさえ許してもらえれば……という条件附で承知したもので、その纏まり方の電光石火式スピードというものは、万事に手緩い村の人々をアッと云わせたものであったが、それから又間もなく一知は、この村の習慣になっている物々しい婿入りの儀式を恥しがったものか、それともその式の当夜の乱暴な水祝を忌避がったものか、双方の両親が大騒ぎをして準備を整えている二月の末の或る夜の事、自分の着物や、書物や、色々な器械屑なんぞを、こっそりとリヤカーに積んで、深良屋敷へ運び込み、そのまま何と云われても出て行かないで頑張り通し、双方の両親たちを面喰わせ、村中を又もアッと云わせたものであった。
そうしてそれから後、小高い深良屋敷を囲む木立の間から眩しい窓明りと共に、朗らかなラジオの金属音が、国道添いの村の方へ流れ落ち初めたのであった。
「イッチのラジオが、やっとスウィッチを入れたバイ」
と青年達は甘酸っぱい顔をして笑った。
しかし谷郷村の人々の驚きは、まだまだ、それ位の事では足りなかった。
深良屋敷の若い夫婦は、新婚匆々から、猛烈な勢いで働き出したのであった。今まで肥柄杓一つ持った事のない一知が、女のように首の附根まで手拭で包んだ、手甲脚絆の甲斐甲斐しい姿で、下手糞ながら一生懸命に牛の尻を追い、鍬を振廻して行く後から、薄白痴のマユミが一心不乱に土の上を這いまわって行くのを、村の人々は一つの大きな驚異として見ない訳に行かなかった。
一知は間もなく両親に無断で、小作人と直接談判をして、麦を蒔いた畠を一町歩近くも引上げて、ドシドシ肥料を遣り始めた。村の人々はその無鉄砲に驚いていたが、その丹精が一知夫婦だけで立派に届いて、見事に実った麦が丘の下一面に黄色くなって来ると、最後まで冷笑していた牛九郎老夫婦も、流石に吃驚したらしい。養子夫婦の親孝行のことを今更のように村中に吹聴してまわり始めた。一知の掌が僅かの間に石のように固くなっている事や、娘のマユミが一知と二人ならば疲れる事を知らずに働く事なぞを繰返し繰返し喋舌って廻るので村の人々は相当に悩まされた。
ところが不思議な事に、そんな序に話がラジオの事に移ると、何故かわからないが牛九郎夫婦は、あまり嬉しくない顔色を見せた。殊にそのラジオ嫌いの程度はオナリ婆さんの方が非道いらしかった。
「まあ結構じゃ御座んせんか。毎晩毎晩何十円もする器械で面白いラジオを聞いて……」
なぞと挨拶にでも云う者が居るとオナリ婆さんは、きまり切って乱杙歯を剥出してイヤな笑い方をした。片足を敷居の外に出しながら、すこし勢込んで振返った。
「ヘヘヘ。あれがアンタ玉に疵ですたい。承知で貰うた婿じゃけに、今更、苦情は云われんけんど、タッタ三室しかない家の中が、ガンガン云うて八釜しうてなあ……それにあのラジオの鳴りよる間が、養子殿の極楽でなあ。夫婦で台所に固まり合うて、何をして御座るやら解らんでナ。ヘヘヘヘ……」
あとを見送った人々は取々に云った。
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