しかしお作はそれでも余程嬉しかったらしい。その足で飯場から酒を二升ばかり提げて来て、取りあえず冷のまま茶碗を添えて皆の前に出した。すると又、それに連れて済まないというので、手に手に五合なり一升なり提げて来る者が出て来る。自宅の惣菜や、乾物の残りを持込んで、七輪を起す女連も居るという訳で、何や彼や片付いた十一時過になると福太郎の狭い納屋の中が、時ならぬ酒宴の場面に変って行った。
「小頭どん一つお祝いに……」
「オイ。福ちゃん。あやかるで」
「生命の方もじゃが、ま一つの方もなあ。アハハハ……」
といったような賑やかな挨拶がみるみる室の中を明るくした。それに連れて後から後から福太郎に盃を持って来る者が多かったが、その中でも最前から何くれとなく世話を焼いていた仕繰夫の源次が、特別に執拗く盃を差し付けたので、元来がイケナイ性質の福太郎は逃げるのに困ってしまった。
「おらあ酒は飲み切らん飲み切らん」
の一点張りで押し除けても、
「今日ばっかりは別ですばい」
と源次が妙に改まってナカナカ後に退きそうにない。そこへお作が横合いから割込んで、
「福さんはなあ。親譲りの癖でなあ。酒が這入ると気が荒うなるけん、一口も飲む事はならんチウテ遺言されて御座るげなけになあ。どうぞ源次さん悪う思わんでなあ」
と散々にあやまったのでヤット源次だけは盃を引いたが、他の者は、その源次へ面当か何ぞのように、無理やりにお作を押し除けてしまった。
「いかんいかん。源公が承知しても俺が承知せん。酒を飲んで気の違う人間は福太郎ばっかりじゃなかろう。親代りの俺が付いとるけに心配すんな」
とか何とか喚き立てながら、口を割るようにして、日陽臭いなおし酒を含ませたので、福太郎は見る見る顔が破裂しそうになるくらい真赤になってしまった。平生から無口なのがイヨイヨ意気地が無くなって盃を逃げ逃げ後退りをして行くうちに、部屋の隅の押入の半分開いた襖の前に横倒しになって、涙ぐんだ眼をマジリマジリと開いたり閉じたりしながら、手を合わせて盃を拝むようになった。
すると集まった連中は、これで御本尊が酔い倒れたものと思って満足したらしい。盃を押しつけに来る者がヤット無くなって、後は各自勝手に差しつ差されつする。その中にお作がタッタ一人の人気者になって、手取り足取りまん中に引っぱり出されて、八方から盃を差されたり、お酌をさせられたりしていたが、そのうちにいつの間にかお作自身が酔っ払ってしまったらしい。白い脂切った腕を肩までマクリ上げると、黄色い声で相手構わず愛嬌を振り撒きはじめた。
「サア持って来なさい。茶碗でも丼でも何でもよか」
「アハハハ。お作どんが景気付いたぞい」
「今啼いた鴉がモウ笑ろた。ハハハハ」
「ええこの口腐れ。一杯差しなさらんか」
「ようし。そんならこのコップで行こうで」
「まア……イヤラッサナア……冷たい盃や受けんチウタラ」
「ヨウヨウ。久し振りのお作どんじゃい。若い亭主持ってもなかなか衰弱んなあ」
「メゲルものかえ。五人や十人……若かりゃ若いほどよか」
「アハハハハ。なんち云うて赤いゆもじは誰がためかい」
「知りまっせん。大方伜と娘のためだっしょ」
「ウワア。こらあ堪らん。福太郎はどこさ行たかい」
「押入の前で死んだごとなって寝とる」
「アハハ。成る程。死んどる死んどる。ウデ蛸の如なって死んどる。酒で死ぬ奴あ鰌ばっかりションガイナと来た」
「トロッコの下で死ぬよりよかろ」
「お作どんの下ならなおよかろ」
「ワハハハハ」
「おい。みんな手を借せ手を借せ。はやせはやせ」
と云ううちに皆は、コップを抱えたお作の周囲をドヤドヤと取巻いた。そうして嘗て、ウドン屋でお作を囃した時の通りに、手拍子を拍って納屋節を唄い出した。
「白い湯もじを島田に結わせエ
赤いゆもじを買わせた奴はア
どこのドンジョの何奴かア
ドンヤツドンヤツどんやつかア
ウワア――アアア――」
「ようし……」
とお作は唄が終るか終らぬかに、コップの冷酒をグイと飲み干して立ち上った。
「そんげに妾ば冷やかしなさるなら、妾もイッチョ若うなりまっしょ」
と云ううちに、そこに落ちていた誰かの手拭を拾って姉さん冠りにした。それから手早く前褄を取って、問題の赤ゆもじを高々とマクリ出したので、皆一斉に鯨波を上げて喝采した。
「……道行き道行き……」
と叫んだ者が二三人あったが、その連中を睨みまわしながらお作は、白い腕を伸ばしてラムプの芯を煤の出るほど大きくした。
「源次さん。仕繰りの源次さん……アラ……源次さんはどこい行きなさったとかいな」
その声が終るか終らないかにモウ一度、割れむばかりの喝采が納屋を揺がしたが、今度は忽ち打切ったようにピッタリと静まり返った。
皆はこの時お作が、饂飩屋時代に得意にしていた道行踊りを踊ろうとしている事を、アラカタ察しているにはいた。併し真逆に問題の黒星になっている源次を相手にして踊ろうとは思わなかったのであった。皮肉といおうか大胆といおうか。一度は思わず喝采をしたものの、流石の荒くれ男共もこうしたお作のズバリとした思付きに、スッカリ荒胆を奪られてしまって、その次の瞬間には、水を打ったようにシンとして終ったのであった。今にも血の雨が降りそうなハッとした予感に打たれて……。
しかしお作は平気の平左であった。その中央に突立って、アカアカとした洋燈の光りの中にトロンとした瞳を据えながら、ウソウソと隅の方の暗い所を覗きまわった。
「……源次さん。出て来なさらんか。マンザラ妾と他人じゃなかろうが」
皆はイヨイヨ固唾を飲んで鎮まりかえった。その中で誰か一人、クスリと笑った者があったが、それが却って室の中の静けさを一層モノスゴク冴え返らせた。
「……嫌らッサなあ。タッタ今、そこに御座ったとじゃが。小便に行かっしゃったとじゃろか」
と呟やきながらお作はチョイト表の方の暗がりを振り返った。すると皆も釣り込まれたように、お作と一緒の方向を振り返ったが、外の方には源次らしい咳払いすら聞こえなかった。
仕繰夫の源次は、そうした皆の視線とは正反対の方向に、小さくなって隠れていたのであった。室の奥の押入の前に立てた、新聞貼の屏風の蔭に、コッソリと跼まり込みながら、眼の前で、苦しそうに肩で呼吸している福太郎の顔を、一心に見守っていた。ツイ今先刻まで、真赤になっていたその顔が、次第次第に青褪めて、眼を見開いた行き倒れのように、気味の悪い、ゲッソリとした表情に変って行くのを、驚き怪しみながら見とれているのであった。
下
福太郎は最前から、押入の前に横たおしになったまま、割れるような頭を、両手でシッカリと抱えていた。思わず飲まされ過ぎた直し酒に、スッカリ参ってしまって、暫くの間は呼吸が出来ないくらい胸が苦しくなっていた。耳の附け根を通る太い血管の鳴る音が、ゾッキリゾッキリと剃刀で削るように聞こえて、眠ろうにも眠られず、起きようにも起きられない苦しさのうちに、ツイゾ今まで思い出した事もない、子供の時分の記憶の断片が、思いがけない野原となったり、眩しい夕焼けの空となったり、又はなつかしい父親の横顔になったり、母親の背面姿になったりして、切れ切れのままハッキリと、入れ代り立ち代り浮かみあらわれて来るのを、瞼の内側にシッカリと閉じ込めながら、凝然と我慢していたのであった。
ところがその悪酔いが次第に醒めかかって、呼吸が楽になって来るに連れて福太郎は、自分の眼の球の奥底に在る脳髄の中心が、カラカラに干乾びて行くような痛みを感じ初めた。それに連れて何となく、瞼が重たくなったような……背筋がゾクゾクするような気持になって来たので、吾ともなくウスウスと眼を開いてみると、その眼の球の五寸ばかり前に坐っている、誰かの背中の薄暗がりを透して、今までとは丸で違った、何とも形容の出来ない気味の悪い幻影が、アリアリと見えはじめているのに気が付いたのであった。そうしてその幻影が、福太郎にとって全く、意外千万な、深刻、悽愴を極めた光景を描きあらわしつつ、西洋物のフィルムのようにヒッソリと、音もなく移りかわって行くのを、福太郎はさながら催眠術にかけられた人間のような奇妙な気持ちで、ピッタリと凝視させられているのであった。
……その幻影の最初に見え出したのは、赤茶気た安全燈の光りに照し出された岩壁の一部分であった。
それは最前、斜坑の入口で、福太郎が遭難するチョット前に、立止って見ていた通りの物凄い岩壁の凸凹を、半分麻痺した福太郎の脳髄が今一度アリアリと描き現わしたところの、深刻な記憶の再現に外ならなかった。さながらに痩せこけた源次の死面のように、ジッと眼を閉じて、歯を喰い締めたまま永遠に凝固している無念の形相であった……が……しかしその一文字に結んでいる唇の間から洩れ出す、黒い血のような水滴のシタタリ落ちる速度は、現実世界のソレとは全く違っていた。
それはやはり、福太郎の麻痺した脳髄の作用に支配されているらしく、高速度活動写真機で撮った銃弾の動きと同様にユックリユックリした、何ともいえない、モノスゴイ滴たり方であった。
最初その黒い水滴が、横一文字の岩の唇の片隅からムックリとふくれ上ると、その膨れた表面が直ぐに、福太郎の手に提げている安全燈の光りをとらえて、キラキラと黄金色に反射した。そうして虫の這うよりもモット、ユックリと……殆んど止まっているか、動いているかわからない位の速度で、唇の下の方へ匍い降りて行く。そうして唇の下縁の深い、痛々しい陰影の前まで来ると、そこでちょっと停滞して、次第次第にまん円い水滴の形にふくれ上って行くと同時に、仄暗い安全燈の光りを白々と、小さく、鋭く反射し初める。そうして完全なマン円い水滴の形になると、さながら、空中に浮いた満月のように、ゆるやかに廻転しながら、垂直の空間をしずかに、しずかに、下へ下へと降り初める。その速度が次第に早くなって、やがて坑道の左右に掘った浅い溝の陰影の中に、一際強い七色光を放ちながら、依然として満月のように廻転しつつ、ゆっくりゆっくりと沈み込んで行く……と思うとそのあとから追っかけるように、またも一粒の真黒い、マン円い水滴が岩の唇を離れて、しずかに輝やきながら空間に懸かっている。
……そのモノスゴサ……気味わるさ……。
福太郎の両眼は、いつの間にか真白になるほど剥き出されていた。その唇はダラリと垂れ開いて、その奥にグルリと捲き上った舌の尖端には、腸の底から湧き上って来る不可思議な戦慄が微かに戦きふるえていた。
その時にお作がアノヨの吉と一緒に踊り出した。道行を喝采するドヨメキが納屋の中一パイに爆発した。
それを聞くと源次は、思わずハッとしたように、屏風の蔭から部屋の中をさし覗いたが、そのまま又も引付けられるように福太郎の顔を振り向いて半身を傾けた。赤黄色いラムプの片明りの中に刻一刻と蒼白く、痛々しく引攣れて行く福太郎の顔面表情を、息を殺して、胸をドキドキさせながら凝視していた。
「……此奴はホントウに死によるのじゃないか知らん、……頭の疵が案外深いのを、医者が見損のうとるのじゃないか知らん……死んでくれるとええが……」
と思い続けながら……。
しかし福太郎はむろん、源次のそうした思惑に気付く筈はなかった。否、そんな気持ちで緊張し切っている源次の顔が、ツイ鼻の先にノシかかっている事すら知らないまま、なおも自分の脳髄が作る眼の前の暗黒の核心を凝視しつつ、底知れぬ戦慄を我慢しいしい、全身を固ばらせているのであった。
その福太郎の眼の前には、稍暫くの間、おなじ暗黒の光景が連続していた。しかしその暗黒の中に時々、安全燈の網目を洩れる金茶色の光りがゆるやかに映したり、又静かに消え失せたりするところをみると、それは福太郎が斜坑の上り口から三十度の斜面へ歩み出した時の記憶の一片が再現したものに違いなかった。その仄かな光線に照し出された岩の角々は皆、福太郎の見慣れたものばかりであったから……。
けれども、やがてその金茶色の光りが全く消え失せて、又、もとの暗黒に変ったと思うと間もなく、その暗黒のはるかはるか向うに、赤い光りがチラリと見えた。
それは福太郎が、炭車と落盤の間に挟まれる前にチラリと見た赤い光りの印象が再現したものであった。しかもその時は坑口に沈む夕日の光りではないかと思っただけに、ホントウは何の光りか解らないまま忘れてしまっていたのであったが、現在眼の前に、その刹那の印象が繰返して現われて来たのを見ると、その光りの正体が判然り過ぎる位アリアリとわかったのであった。
それは連絡を失った四函の炭車の車輪が、一台八百斤宛の重量と、千五百尺の長距離と、三十度近くの急傾斜に駈り立てられて逆行しつつ、三十哩内外の急速度で軌条を摩擦して来る火花の光りに外ならなかった。しかもその車輪の廻転して来る速度は、依然として福太郎の半分麻痺した脳髄の作用に影響されていて、高速度映画と同様にノロノロした、虫の這うような緩やかな速度に変化していたために、それを凝視している福太郎に対して、何ともいえないモノスゴイ恐怖感と、圧迫感とを与えつつ接近して来るのであった。
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